第17話:誘拐未遂と、爆発する独占欲
その夜、私は広い寝台の中で何度も浅い眠りから目を覚ました。
王都の別邸の主寝室に設えられた天蓋付きの寝台は、辺境の本邸に勝るとも劣らぬほど、最高級の羽毛と絹で作られ寝心地がいい。
肌に触れるシーツも、魔術で完璧に保たれた室温も、邸を包む深い静けさも申し分ない。
それなのに私の眠りがひどく浅かったのは、たぶん、胸の奥の暗がりに重く沈んだままの、確かな不安のせいだった。
隣国の王太子、レオンハルト。
あのサファイアのような碧眼。
毒のように甘い声。
そして、最後に回廊で残した『またお会いしましょう』という、微かな笑みを伴った言葉。
あれは、貴族が別れ際に交わすただの社交辞令ではなかった。
獲物を逃がさない捕食者の宣言だと、はっきりと本能で分かってしまったからだ。
「……エルサ」
暗闇の中、すぐ耳元で低い声がして、私ははっとして息を呑んだ。
いつの間にか、私は夢の続きを恐れるように、無意識に身を強張らせていたらしい。私の背中から腰へ回されていた太い腕が、確かめるようにそっと、私を彼の広い胸板へと抱き寄せる。
「起こしてしまいましたか」
「俺は最初から起きている」
「またですか……」
静寂の中で、ギルベルト様が微かに、ひどく重たい息を吐いた気配がした。
「お前が俺の腕の中で、眠りの中でも何かに追われるように怯えた顔をしているのに、俺がぐっすり寝ていられると思うか」
「……」
「思うなら、今すぐその認識を改めろ」
「む、無茶を仰らないでください」
私が小声でかすれるように返すと、彼の手が私の銀色の髪を、根本からすくうようにゆっくりと撫でた。
何度も、何度も。
まるで、そうして私の熱を確かめないと、彼自身が落ち着かないと言うみたいに、同じところを繰り返し優しく梳いていく。
「旦那様」
「なんだ」
「私、大丈夫です」
「お前はまったく大丈夫じゃない」
「……そう言われると思いました」
「なら、何も考えずに黙って俺に抱かれていろ」
「その言い方は、少し誤解を招きます」
「誰の誤解も招かない。この寝室には俺とお前しかいないし、俺にしか分からない状況だ」
真面目な顔で、声のトーンも変えずに返されてしまい、私は困ってしまう。
でも、こんなふうに圧倒的な熱量で不器用な言葉をぶつけられると、不安で張り詰めていた心がほどけ、逆らう気が少しずつ削がれていくのだから、この人は本当にずるい。
「本当に」
私は暗闇の中、彼の規則正しい心音が聞こえる胸元へ、そっと自分の額をすり寄せた。
「少し、昼間のことを思い出して、不安になっただけです」
「少しではない。身体が冷え切っている」
「はい……」
「俺が何のために、今日から別邸の護衛を倍に増やしたと思っている」
「旦那様が、普通の方より少し嫉妬深いからです」
「それもある」
「否定なさらないのですね」
「する必要がない」
即答だった。
「だが、それ以上に」
彼の声が、地鳴りのように少しだけ低くなる。
「ひどく嫌な気配がする」
「気配、ですか」
「お前のことになると、俺の嫌な予感だけは、虫唾が走るほどよく当たる」
その重い言葉に、私の胸がひやりと冷たくなった。
「……怖がらせるつもりはなかった」
私が息を詰めたのを察し、すぐにそう言い添えるあたり、やはり私の顔色が変わったのだろう。
「ただ、念には念を入れる。今夜は絶対に一人で動くな。部屋を出る時は、必ず俺か、信頼できる侍女か護衛をつけろ」
「はい」
「不用意に窓辺にも近づきすぎるな。外から死角になる」
「はい」
「知らない声で呼ばれても、絶対に返事をするな。術式の起点にされる」
「そこまでですか」
「そこまでだ」
私は彼の胸の中で、小さく頷いた。
その時の私は、たぶん半分ほどしか、彼のその切迫した言葉を本気で受け止めていなかったのだと思う。
旦那様は、私のことになるといつでも常軌を逸して過保護だ。
だから、今回もきっと、彼特有の少し大袈裟な心配なのだろうと、どこか心の片隅で思ってしまっていたのだ。
翌朝、侯爵家の別邸は朝からただならぬ慌ただしさに包まれていた。
王城から、王妃殿下主催の小規模なお茶会への、私宛の打診が入ったのだ。
夜会ほど政治的な大きな場ではないが、王家と縁の深い高位の夫人たち数名だけを集めた、極めて非公式で親密な集まりらしい。
「断る」
美しい飾り文字で書かれた案内状を見た瞬間、ギルベルト様は一秒の迷いもなく即答した。
「ですが旦那様」
控えていたセバスチャンが、予想通りという顔で静かに口を挟む。
「王妃殿下ご本人からの、強いご意向とのことです。無下にお断りするのは」
「なおさら断る。理由をつけて追い返せ」
「そこを何とか、穏便に」
「何とかしない。俺の妻はどこにもやらん」
「……」
私はその堂々巡りのやり取りを横で聞きながら、少し困っていた。
王妃様は昨日の接見の際、休憩室でとても優しく私に接してくださった。正直、あの穏やかな方がいる場なら、周囲の目ばかりの夜会よりは、ずっと気が楽な気がする。
けれど、ギルベルト様の他国に対する警戒心と不機嫌は筋金入りで、今にもその良い香りのする案内状ごと、執務室の暖炉の炎へ投げ込みそうな勢いだった。
「旦那様」
「なんだ」
「王妃様のお茶会なら、昨日のような王太子殿下がいらっしゃるようなことにはならないのでは」
「なる」
「まだ分かりません」
「俺には分かる」
「どうしてですか」
「お前が俺の庇護下から離れ、外へ出るからだ」
論理的な理屈になっていないようでいて、この人の中ではそれが揺るぎない完全な理屈なのだろう。
私は苦笑しながら、もう一度だけ、彼の袖を引いて言った。
「でも、王妃様には昨日、とてもお世話になりましたし……」
「……」
「私、侯爵夫人として、失礼のないようにしたいです」
「……」
「ちゃんと、旦那様の目の届く範囲から離れませんから」
最後の一言が、彼の防壁に効いたのだろうか。
ギルベルト様は深く長い沈黙の後、ひどく不本意そうに眉を寄せたまま、奥歯を噛み締めるように低く言った。
「絶対の条件がある」
「はい」
「お茶会の会場は王城内ではなく、この別邸の客間を貸し出す形に変更させる」
「えっ」
「王妃がその条件を呑んでこちらへ来るなら、開催を許可する」
「旦那様、それはいくら何でも王家に対して」
「嫌なら行かない。以上だ」
「……」
ものすごく強引で、無茶苦茶な条件だと思う。
けれどセバスチャンは、まるで最初からこの展開を予想していたかのように、淡々と頷いた。
「すでに、その線で王城側と交渉しております」
「え」
「王妃殿下は、“あの侯爵がそこまで過保護に仰るなら、逆に面白そうね”と、半ばお楽しみのようでした」
「……楽しみなのですか」
「たぶん」
セバスチャンが、珍しく人間味のある曖昧な物言いをした。
結局、その日の午後。
王妃様は本当に、私たちの滞在する別邸へ、極めて限られた側近の夫人たちだけを伴って来訪することになった。
一国の王妃を自分たちの仮住まいに呼びつけるなんて、本当にやってしまうのだ、と私は少し呆れ、同時に彼の権力の大きさに恐れおののいた。
でも、そのくらい自分の縄張りに引き込まないと、ギルベルト様は私が他の人間と接触することに納得しなかったのだろう。
お茶会の準備は、別邸の中でも最も日当たりが良く、外の通りから物理的に距離のある、南向きの小客間で整えられた。
明るい大きな窓、飾られた淡い色の花々、厨房から漂う焼き菓子の甘い香り、および――異様なほどの警備。
そう、警備である。
客間の外の廊下には、武装した侯爵家の精鋭騎士がずらり。
廊下の曲がり角にも騎士。
庭への出入り口にも騎士。
窓から見える庭木の向こうの木陰にまで、弓を持った気配がある。
王妃様は部屋へ入るなり、その物々しい空気に扇の陰で小さく笑った。
「ずいぶん、戦場のように厳重なのね」
「当然です」
間髪入れず答えたのは、ギルベルト様だった。
そこに、王族に対する遠慮の二文字は微塵も存在しない。
王妃様は苦笑し、それから私へ優しく目を向ける。
「エルサ、気にしないで。あなたの不器用な夫が相変わらずのようで、むしろ私は安心したわ」
「……そう言っていただけると、私の気も少しだけ楽になります」
「ふふ。昨日の夜会で怯えていた時より、ずっと良い顔をしているもの」
王妃様と、王妃付きの気品ある夫人が二人。
それに私。
一応、建前としてギルベルト様も同席していたが、彼はお茶やお菓子には一切手をつけず、窓際の一番死角のない位置に陣取り、客間の優雅な空気に溶け込む気など最初からないという、鋭い猛禽類のような顔で座っていた。
しかも、その位置は私の椅子のすぐ真横である。
「旦那様」
「なんだ」
「少し、近すぎませんか」
「近くない」
「私が紅茶を飲もうとすると、旦那様の腕に肘が当たります」
「なら、そのまま飲めばいい」
「……」
私はもう、彼の独占欲に逆らうことを諦めるしかなかった。
お茶会そのものは、驚くほど和やかに、穏やかに進んだ。
王妃様は王都で最近流行している花の話をしてくださり、辺境の厳しい気候や、私が実家での経験を活かして温室の管理を手伝っていることに、深い興味を示された。
私は緊張しつつも、温かい紅茶を飲みながら、少しずつ自分の言葉を返せるようになっていた。昨日の夜会の頃なら、視線に怯えて俯いてしまったような話題にも、ちゃんと相手の目を見て答えられている。
「まあ、あの辺境の屋敷で温室を」
王妃様が、感心したように目を細める。
「では、あなたは土に触れ、花を育てるのがお好きなのね」
「はい。上手、とまではとても胸を張っては言えませんが……冷たい土に触れて、命が育つのを見ていると、少し心が落ち着くんです」
「分かる気がするわ。声を持たない生き物に向ける手は、その人の心の本当の形をよく表すものだから」
「……」
「昨日も、あなたが毅然と答えた時、そう思ったの。あなたは、とても優しくて、温かい手をしていると」
その言葉に、私は少しだけ胸の奥がじんわりと熱くなった。
記憶の底にある母にも昔、似たようなことを言われた気がしたからだ。
けれど、その穏やかな午後の時間は、長くは続かなかった。
王妃付きの侍女が、新しい茶葉の缶を取りに、一度だけ客間の外へ席を外した。
その、ほんの短い、数秒の空白の間だった。
廊下の向こうで、硬い硝子か何かが激しく割れるような音がした。
次の瞬間、警備にあたっていた騎士たちの怒声と、金属がぶつかる音、および侍女の短い悲鳴。
優雅だった客間の空気が、一瞬で極限の緊張へと反転する。
「……っ!」
私は何事かと、反射的に椅子から立ち上がりかけた。
だが、その時にはもう、ギルベルト様が私の肩を強く抱き、自分の背後へ庇うように引き寄せていた。
「動くな」
「旦那様、外で何か」
「分かっている」
彼から地を這うような低い声が落ちた直後、客間の重い木扉が、内側へ向かって凄まじい衝撃音とともに弾け飛んだ。
「きゃああっ!」
と悲鳴を上げたのは、王妃付きの夫人の一人だった。
粉々になった扉の向こう、砂埃の舞う廊下には、侯爵家の警備騎士ではない、見慣れぬ黒衣の男たちが数人、禍々しい光を放つ魔法具らしきものを手に立っている。顔は黒い覆面で完全に隠されていたが、一切の無駄がないその動きは、明らかに高度に訓練された暗殺者か私兵のものだった。
「王妃殿下、こちらへ!」
室内に残っていた王家の護衛騎士が、剣を抜き放ち、王妃様を守るよう前へ出る。
同時に、黒衣の男の一人が、何かを狙うようにこちらへ向けて、手のひらサイズの小さな金属球を無造作に放り投げた。
「伏せろ!」
ギルベルト様の鋭い怒声とほぼ同時に、その金属球は私たちの上空で眩く弾けた。
爆発の炎の赤や白ではない。空間が歪むような、不吉な青白い光。
世界そのものを一瞬だけねじ曲げるような、吐き気を催す不快な魔力の奔流。
「きゃ……っ!」
私は強烈な光に思わず目を閉じた。
身体が、ふわりと持ち上がるような恐ろしい感覚。
足元の絨毯の床が消える。
肺から空気が抜けて、息ができない。
次に足が硬い地面についた時、目を開けた私の視界に広がっていたのは、もうあの明るい客間ではなかった。
「……え?」
平衡感覚を失い、視界がぐらつく。
肌を刺す冷たい外気。荒削りの石造りの床。窓から差し込む、埃っぽい薄暗い午後の光。
私は、別邸の庭のずっと奥、裏庭に面してひっそりと建っていた、使われていない古い離れの前に、一人で立っていた。
どうやら、あの青白い光の魔法具で、私だけが強制的にこの場所へ空間転移させられたらしい。
「お見事。少し手荒な移動になりましたが」
背後から、鼓膜を撫でるような聞き覚えのある、甘い声がした。
振り向けば、そこには王都の冬の光を浴びた、レオンハルト王太子がいた。
昼間の接見の時とまったく同じ、優雅で整った笑みを浮かべているのに、その碧眼だけが、獲物を仕留めた蛇のように異様に冴えている。
彼の背後には、先ほど扉を吹き飛ばしたのと同じ装いの黒衣の男たち――彼の私兵だろうか――が、音もなく数名控えていた。
「王太子、殿下……?」
「ええ。あなたをお迎えに上がりました、美しい侯爵夫人」
あまりにも自然で、狂気を孕んだ物言いに、私の背筋がぞくりと凍る。
私はドレスの裾を握りしめ、一歩、後ずさった。
「何を、なさって……こんな真似」
「言葉での交渉では、あの恐ろしい旦那様には通じず、足りないようでしたから」
「こ、こんなこと、許されるはずが」
「ええ、暴力的ですね。私もこういう野蛮な手段は好みではありません」
王太子は、さも困ったように大裟に肩をすくめた。
「ですが、あなたの夫はあまりにも異常なほど独占的だ。私があなたと、まともに話す時間すらくれない。これでは、あなたの真の意思を確認できませんからね」
「それで、誘拐を……?」
「誘拐とは、人聞きが悪い」
「悪いに決まっております! これは明らかな犯罪です!」
恐怖を押し殺し、思わず声を荒げて叫ぶと、王太子は怒るどころか、愉悦に目を細めた。
まるで、私のその反抗的な反応すら、珍しい小鳥の囀りか何かのように興味深いものを見るように。
「素晴らしい。やはりあなたは、見た目の儚さに反して、思った以上に芯が強い」
「お戻しください。今すぐ、旦那様のところへ」
「嫌です」
「……っ」
笑みを浮かべたままきっぱりと言われ、私は息を呑んだ。
王太子は、革靴の音を響かせて私へ一歩近づく。
そのたびに、私は怯えて一歩下がる。
けれど背後にはすぐに離れの冷たい石壁があり、私の逃げ場はあっという間になくなった。
「そう怖がらないでください」
「無理です。近づかないで」
「あなたに危害を加えるつもりは、毛頭ありません。むしろ、我が国で誰よりも大切に、宝石のように扱いたい」
「その言葉を、今の状況で信じろと?」
「信じるかどうかは、これからあなたが、ご自身の目で見て決めればいい」
彼の声は変わらず、甘く優しい。
けれど、もうその甘さの奥にある、醜い執着が見えてしまっている。
これは弱者を救う優しさではない。
ただ自分が欲しいと思った価値あるものを、どんな手段を使ってでも手に入れる時だけ見せる、冷酷な支配者の顔だ。
「我が国へ来ませんか、エルサ」
「……っ」
初めて、彼に直接名前で呼ばれた。
そのことに、肌を粟立たせるようなぞわりとした嫌悪が全身を走る。
「あなたの持つその奇跡の光は、あんな氷のような辺境侯爵の私室に、一生閉じ込めておくにはあまりにも惜しい」
「私は、行きません」
「まだ、自分の可能性が分からないのでしょう」
「分かっています」
「彼の、あの恐ろしい男の何がそんなにいいのです?」
問う声音は、ひどくやわらかい。
けれど、その底には、私を“甘言で簡単に説得できる無知な女”と見下している響きが確かにあった。
「彼は恐ろしく、異常なほど嫉妬深く、あなたを自分のためだけに囲うことしか考えていない、血に塗れた男ですよ」
「……」
「ここから出れば、もっと広くて、美しい世界がある」
「……」
「あなたを聖なる存在として万人が敬い、国中が必要とし、その力に相応しい正しい玉座の隣へ置く国がある。私が、それを約束しよう」
「違います」
気づけば、私は彼を真っ直ぐに睨みつけ、はっきりと言い返していた。
「私が必要とされるから、チヤホヤされるから、そこへ行くのではありません」
「ほう」
「ギルベルト様がどういう方かは、他の誰でもない、私が決めます」
「……」
「あなたのような方に、旦那様の心を勝手に測られたくありません」
私の強い言葉に、王太子の完璧な笑みが、ほんの少しだけピキリと薄くなる。
「本当に、あの冷酷な男に洗脳されるほど夢中なんですね」
「……はい。愛しておりますから」
「それでも、私はあなたを諦める気がありません」
「え?」
「あなたはまだ、自分の持つ圧倒的な価値と、力の影響力を分かっていない」
そう言うなり、彼が冷たい目で片手を上げた。
背後に控えていた黒衣の私兵たちが、じり、と音もなく私を捕らえようと前へ出る。
「とりあえず、この別邸の結界の外へ出ましょう」
「やめてください!」
「安心を。国境へ向かう極秘の馬車はすでに用意しています。あなたに指一本、傷はつけない」
「来ないで……!」
私は冷たい石壁に背を押し付け、身を縮めた。
逃げたいのに、恐怖で足が鉛のように重くて動かない。
悲鳴を上げようにも、喉が熱く張り付き、息が浅い。
彼らの手が、私の腕を掴おうと伸びてきた、けれど、その瞬間。
胸の奥深くで、あの温かい、不思議な感覚がふわりと灯った。
温室で、枯れかけた薄桃色の薔薇にそっと触れた時。
地下書庫で、古い羊皮紙の文書を読んだ時。
および何より、ギルベルト様の大きな手に触れ、あの人に抱きしめられた時にいつも感じる、穏やかで優しい光の温度。
「……っ」
まったくの無意識だった。
私は両手を胸の前で祈るように強く組み、そのまま、見えないものを拒絶するように強く目を閉じた。
来ないで。
怖い。
でも、逃げたくない。
このまま、あの人を置いて、見知らぬ場所へ連れて行かれたくない。
その私の強烈な願いが、見えない魔力の形になったのかもしれない。
次の瞬間、ぱあっ、と私の足元から、淡い光が波紋のように広がった。
「な……」
王太子が、驚愕に目を見開く。
私を中心にして、透明な半球のドームのような光の膜が、瞬時に立ち上がっていた。
決して目を灼くような眩しい光ではない。やわらかく、温かな、薄金色の光。
それは春の風のように微かに揺らめきながら、私という存在を絶対的に包み込んでいる。
「物理結界……? いや、これは」
私兵の一人が、信じられないものを見たように驚愕して呟く。
一人が試しに、光の膜を破ろうと剣の柄でその表面へ触れた。
瞬間、ばちり、と空気が弾けるような小さな音がして、その屈強な男の身体が、見えない巨大な壁に殴られたように、数メートルも後ろへ吹き飛ばされた。
「きゃ……!」
自分で生み出したはずなのに、その威力に私自身が一番驚いた。
でも、不思議と怖くはない。
この光は、旦那様の体温のように温かく、私を外部の悪意から守ろうとしているのが本能で分かる。
「……素晴らしい」
吹き飛んだ部下を一瞥もせず、王太子が、まるで至高の芸術品を見たように、うっとりとするような声で呟いた。
「噂通り……いや、それ以上だ。やはりあなたは本物だ」
「近づかないでください!」
「そんなふうに拒絶されると、ますます私の手元に置いておきたくなる」
「……!」
狂気を孕んだ目で、彼が光の結界へ向けてもう一歩踏み出しかけた、その時だった。
ドゴォォォンッ!!
という、落雷のような凄まじい轟音とともに、離れへと続く庭門が、石の柱ごと木端微塵に吹き飛んだ。
もうもうと舞い上がる土煙の中を、黒い影が、すべてを薙ぎ払う嵐のような速度で踏み込んでくる。
その圧倒的な殺気の圧だけで周囲の空気がビリビリと震え、王太子の私兵たちが反射的に武器を構える。
「旦那様……!」
私が叫んだ時にはもう、ギルベルト様はそこにいた。
漆黒の礼装のまま、いつもは整められている銀髪を振り乱し、全身から視界を黒く染め上げるほどのドス黒い魔力を立ち昇らせている。
あまりにも濃密で純粋な怒気のせいで、彼が歩みを進めるたび、その周囲の空間だけが光を失い、色が抜け落ちたように見えた。
「エルサ」
地響きのような低い声が、私の名前を呼ぶ。
それだけで、恐怖で縮こまっていた私の胸が、安心感でいっぱいになった。
「ご、ご無事ですか」
「その台詞は、俺がお前に言う言葉だ」
一歩、彼が確実にこちらへ前へ進む。
私兵たちが一斉に殺気を放つ。
けれど次の瞬間、ふっと彼の足が止まった。
私を球状に包み込んでいる、薄金色の光の結界に、彼も気づいたのだ。
「……そうか」
黒曜石の瞳が、少しだけ見開かれ、結界越しに私を見る。
その目に宿ったのは、私の力に対する驚きより、私が無事であったことへの安堵および確信だった。
「お前が、自力で張ったのか」
「た、たぶん……無我夢中で」
「よくやった」
その短い一言に、張り詰めていた胸が熱くなる。
王太子は、背後に控える私兵たちに守られながら、そんな私たちを見ながらなお余裕ぶって笑っていた。
だがその笑みには、さすがに隠しきれない硬さと緊張が混じっている。
「さすがは辺境の戦鬼、ヴォルガード侯爵。転移の痕跡を辿って追いつくのが早い」
「俺の妻に、その汚い手で触れた時点で、お前の命は終わっていると思え」
「おや、誤解です。私はまだ、彼女に指一本触れてすらいませんよ」
「お前のその腐った視界に、俺の妻が入った」
低く、静かな声だった。
それなのに、戦い慣れているはずの私兵たちが、一斉に恐怖で身震いする。
「あなたも、愛ゆえに大概ですね、侯爵」
「黙れ。死霊の餌になれ」
その言葉が合図だった。
瞬間、ギルベルト様の背後から黒い魔力が爆発的に迸った。
だが、不思議なことに、普段彼が痛みに耐えている時のような、無差別に周囲を破壊する暴走の気配はない。
むしろその魔力は、鋭い刃のように、極めて正確で、完全に研ぎ澄まされている。
私ははっとした。
私が今、光の結界の内側にいるからだ。
私の生み出した温かい光の中に、彼の放つ黒い魔力が呼応するように届いている。
それで、彼の内にあるあの呪いの痛みが完全に調律され、制御されているのかもしれない。
ギルベルト様は、王太子たちへ向かう前に、私の結界の外縁へ、躊躇なく手を触れた。
先ほど私兵を吹き飛ばした光。私がびくりと身を強張らせた瞬間、その光は、彼のことだけを一切拒まなかった。
するり、と水面に手を入れるように、黒い手袋の指先が光の膜を通り抜ける。
「旦那様……」
「大丈夫だ。お前は何も心配しなくていい」
彼は短く言い、私の冷えた頬へ、一瞬だけ熱を分けるように触れた。
「ここにいろ。この中から出るな」
「でも」
「一歩も動くな」
「……はい」
私の震える返事を聞くと同時に、彼は漆黒の外套を翻し、身を翻した。
ここから先は、瞬きをする暇もないほど、本当に一瞬の出来事だった。
私兵の一人が、声もなくギルベルト様の死角から斬りかかる。
ギルベルト様は身を沈めて避けることすらせず、素手でその剣の腹を弾き、男の太い手首を掴み、あり得ない方向へへし折るように捻った。
ゴキリという骨の音と、くぐもった鈍い悲鳴。
次の瞬間には、間合いを詰めてきたもう一人の腹へ、内臓を砕くほどの重い膝蹴りが入り、三人目が構えようとした強力な魔法具が、彼の手によって鉄くずのように握り潰される。
彼から放たれる黒い魔力は、ただ闇雲に広がるのではない。
見えない刃のように鋭く敵の急所を切り裂き、鞭のようにしなって男たちの足を払い、次々と硬い石の地面へ叩きつけていく。
普段なら呪いの痛みに飲まれ、全力を出せば己もただでは済まないはずのその強大な力を、今のギルベルト様は、私の光の加護を受けて、寸分違わず完全に支配していた。
「なっ……! 馬鹿な!」
王太子の私兵たちが、次々と無力化されていく仲間の姿に激しく動揺する。
「これほどの魔力行使をして、なぜ呪いの暴走が起きない!?」
「結界の内側からの干渉で、完全に制御されているのか……!」
「だから、最初に言ったはずだ」
ギルベルト様の死神のような声が、庭園に冷たく響く。
「俺の妻に、手を出すなと」
一人、また一人と、精鋭であるはずの私兵が血を吐いて沈む。
剣は飴細工のように折れ、高価な魔法具は粉々に砕け、彼らの抵抗は、抵抗らしい時間稼ぎにすらならない。
あまりにも圧倒的だった。
怒りのままに暴れ狂う獣ではない。
明確な殺意を持ち、狙いを定めた猛獣が、相手に一歩の逃げ場も与えずに狩り尽くす、その冷徹な正確さ。
ついに己を守る盾をすべて失い、王太子レオンハルトも、さすがに焦りの色を見せて数歩退いた。
その美しい碧眼に初めて、明確な死への警戒および恐怖が宿る。
「……本当に、噂以上の化け物だ」
「褒めるな」
「褒めてはいませんよ、忌まわしい」
「なら、今すぐここで死ね」
外交の場とは思えない、物騒極まりない応酬だった。
ギルベルト様が、血に濡れた手袋のまま、ついに王太子本人の首を刎ねようと一歩踏み出しかけた、その瞬間。
私は、無意識の反射で叫んでいた。
「旦那様、駄目です!」
彼の振り上げようとした腕が、ピタリと空中で止まる。
周囲の黒い魔力が、主の葛藤を示すように、ビリリ、と激しく震えた。
一国の王太子をここで傷つけ、あるいは殺してしまえば、ギルベルト様がどれほど正当防衛を主張しても、本当に国同士の全面戦争という問題になる。彼が咎人になってしまう。
それが分かっていたからだ。
分かっていてもなお、こちらに背を向けたギルベルト様の背中からは、今すぐこの場で王太子ごと地面を抉り取ってしまいたいほどの、凄まじい殺意と怒りが噴き出していた。
「エルサ」
「お願いです……! 剣を収めてください」
「……」
長い、長い、永遠のような数秒。
やがて、ギルベルト様はひどく悔しそうに、低く舌打ちをした。
「お前がそこにいなければ、今すぐこいつの首を落としている」
「存じております」
私は涙目で、必死に頷く。
「でも、今は……私と一緒に、帰ってください」
「……ちっ」
不機嫌極まりない、舌打ちの音とともに、彼はようやく王太子から殺意に満ちた視線を外した。
それだけで、王太子の背後で気絶しかけていた最後の私兵が、命拾いをしたとばかりにほっと息をついたのが分かる。
だが、ギルベルト様は完全に容赦したわけではなかった。
足元に倒れていた男の襟を掴み上げると、片手で再び地面へ力任せに叩き伏せる。
「次はない」
王太子へ向けるその声音は、極北の氷より冷たかった。
「俺の妻の名を、その口で二度と呼ぶな。視界に入るな。気配を向けるな」
「……」
「それでも懲りずに近づくというなら、次はお前の国ごと、地図から完全に消し去ってやる。俺にはそれができる」
王太子は、肩で息をしながらしばらく何も言わなかった。
やがて、己の敗北を悟りながらも、ゆっくりと口角を上げる。
「……ますます、彼女が惜しくなりました」
「黙れ。舌を抜くぞ」
「ですが本当に、あなたの妻は素晴らしい。あの奇跡の光は、一国の宝になり得る」
「お前が、俺の妻を語るな」
「……今日は、おとなしく引きましょう」
それだけ言うと、王太子は倒れた私兵たちへ撤退の合図をし、離れの奥手、木々の陰へと素早く身を引いた。
ここへ来る前から、最悪の事態を想定して退路は用意していたらしい。次の瞬間には、彼の手の中で残っていた空間転移の魔法具が強烈な光を放って弾け、彼と私兵たちの姿は、歪んだ光の中へ吸い込まれるように消えていく。
「待て」
ギルベルト様が、逃がすまいと踏み出しかける。
けれど、その時。
私を包んでいた光の結界が、限界を迎えたように、ふっと力なく揺らいだ。
「あ……」
極度の緊張が、一気に切れたのだろう。
膝からカクン、と力が抜け、身体が傾く。
私を守っていた結界も、光の粉になって薄れ始める。
ギルベルト様は逃げる王太子を追うのを即座にやめ、踵を返し、次の瞬間には倒れ込む私の前にいた。
「エルサ!」
「だ、旦那様……」
「もういい。よくやった。頑張ったな」
彼が消えゆく結界へ触れると、今度はその光が、彼に役割を譲るようにやわらかくほどけて完全に消えた。
私はそのまま前のめりに倒れそうになり、彼の力強い両腕に、ぎゅっと強く抱き留められる。
「……っ」
骨が軋むほど、息ができないほど苦しくて強い抱擁だった。
でも、ちっとも怖くはない。
むしろ、その熱い腕の中へようやく帰ってこられたという安堵で、私は一気に全身の力が抜けた。
「無事か」
「はい……」
「怪我はしていないか」
「ありません」
「どこか、あいつらに触られたか」
「いいえ、光が守ってくれました」
「本当にか。隠していないな」
「本当に、です」
「……」
ギルベルト様は私を抱きしめたまま、何度も何度も、私の頬や肩、髪、腕を確かめるように触れた。
まるで、ほんの少しでも私に傷があれば、自分が発狂して壊れてしまうとでも言うように。
その手つきの激しさと、微かな震えに、私はようやく張り詰めていたものが決壊し、泣きそうになる。
「旦那様」
「なんだ」
「来てくださって、本当によかった……」
「当たり前だ」
返事は即座だった。
けれど、その声はひどくかすれ、水気を帯びていた。
「お前が客間にいないと気づいた時、俺の心臓が止まるかと思った」
「……」
「客間の術式を破られ、転移の痕跡だと分かった瞬間、王都の人間を全部殺して回るところだった」
「でも、ちゃんと私を見つけて、来てくださいました」
「来るに決まっている。地の果てまででも追う」
「はい……」
「何度でも言う。俺は、お前を取り戻すためなら、国を滅ぼそうが何でもする」
その重すぎる言葉に、とうとう私の目から涙が零れ落ちた。
ギルベルト様は、泣き出した私を見て、さらに抱く力を強める。
本当に、息が詰まりそうなくらいきつく。
でも、私は絶対に離してほしくなかった。
やがて、騒ぎを聞きつけた王城と別邸の騎士たちが、遅れて裏庭へ駆け込んできた。
離れの周囲は完全に制圧され、逃げ遅れたり倒れたりしていた私兵たちは直ちに捕縛・拘束される。
別邸内に残っていた王妃様の無事も、すぐに知らされた。
だが、その一連の事後処理および報告を確認する間も、ギルベルト様は私を強く抱いたまま、誰一人として私に近づけようとしなかった。
「旦那様、少しだけ……胸が、苦しいです」
「我慢しろ」
「理不尽です」
「お前が、あわや攫われかけたんだぞ」
「結果的に、攫われてはおりません」
「攫われかけた、と言っている」
「……はい」
そこは、何度訂正しても無駄らしい。
別邸の主棟へ戻る短い道中、私は結局、一歩も自分の足で歩かせてもらえなかった。
離れから馬車、および玄関までの距離ですら、ギルベルト様は当然のように私の膝裏に腕を回し、横抱きにした。
「旦那様、もう安全ですから、自分で歩けます」
「駄目だ」
「足は無事ですし、怪我もしていません」
「無事でも駄目だ。土を踏ませない」
「皆さまが、騎士の方々が見ております。恥ずかしいです」
「見せてやればいい」
「何をですか」
「お前が、誰にも手出しできない俺のものだということをだ」
周囲を固めていた騎士たちが、あまりの熱てあてぶりに一斉に視線を明後日の方向へ逸らした。
絶対に聞こえているのだ。ものすごく恥ずかしい。
主棟へ戻り、部屋へ入りソファへ降ろされるかと思いきや、私はそこでも降ろしてもらえなかった。
彼がソファに腰掛け、私はその膝の上に横向きに抱き上げられたまま、腰へ回された腕は少しも緩む気配すらない。
「旦那様」
「なんだ」
「本当に、私が重くありませんか」
「今さら何を馬鹿なことを言っている」
「その、ずっとこの体勢で抱えたままだと、腕が」
「一生抱えたままでも構わん」
「……」
それは、日常生活を送る上でさすがに困る。
けれど、私の背中に回されている彼の腕が、未だに微かに震え続けていることに気づいてしまい、私はそれ以上は言えなかった。
彼は、不機嫌で怒っているのではない。
怖かったのだ。
無力な私を、他国の男に奪われ、永遠に失うかもしれないと、本気で。
私はそっと、彼の熱い胸へ手を置く。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも、私が油断して隙を見せたから」
「お前は何も悪くない」
「……」
「悪いのは、あのふざけた男と、あの転移魔法具の持ち込みを許した警備の全員だ」
その口調は、切り裂くように厳しい。
けれど次の瞬間、彼は私の顔を引き寄せ、私の額へ、祈るように深く唇を押し当てた。
一度、二度、三度、何度も。
夢ではないと確かめるように、奪い返した宝物が本当に自分の手の中にここにあるか、その温度を確認するように。
別邸の屋敷の中は、事件の事後処理でさらに騒然としていた。
王妃様はすでに厳重な護衛のもと無事に王城へ戻られ、国王陛下からは、我が国への重大な主権侵害として正式な謝罪の使者と、直ちに隣国使節団への犯人の追及を行うという通達が急ぎ入っているらしい。
だが、そんな国家間の政治的な話に、今のギルベルト様はほとんど耳を貸さなかった。
「セバスチャン」
「はい、旦那様」
「今日から、エルサの私室は一切使用しない」
「かしこまりました」
「は?」
あまりに唐突な決定に、思わず私が間抜けな声を漏らす。
ギルベルト様は、私の顔を見て平然と言った。
「今夜から、お前は俺の私室から一歩も出るな」
「だ、旦那様?」
「食事も、休憩も、入浴も、読書も、これからの時間は全部そこだ」
「それは、さすがに極端すぎます」
「俺の中では当然だ」
「当然とは思えません」
「俺以外の、誰にもお前を会わせない」
「お世話をしてくれる侍女の方にもですか?」
「必要最低限の人間だけだ」
「それだと、実家で閉じ込められていた時や、領地の温室のような厳重管理になっております」
「温室の方がまだ警備が甘いくらいだ」
ひどい。
しかも本人は、微塵の冗談もなく本気で言っている。
「旦那様」
私はなんとか冷静に、彼を説得しようと呼びかける。
「それでは、私を大切にしてくださっているとはいえ、ほとんど軟禁です」
「極めて甘い軟禁だ」
「自分が私を軟禁すると、認めるのですね」
「認める。文句があるか」
「……」
開き直りが、極限まで極まっていた。
セバスチャンはというと、「では、直ちにそのように生活の動線の手配を」とだけ一礼して言い、主人の暴走をまるで反対して止める気がない。
遠くで控えているマリーたち侍女も「奥様、今日は大変怖い思いをされてお疲れでしょうから」と、どこか生温かく、同情的な眼差しで私たちを見守っている。
この屋敷に、私の味方がいない。
その日の夕方、私は本当に、宣言通りギルベルト様の広い私室へ連れて行かれた。
しかも“連れて行かれた”という表現がまったく大袈裟ではない。
途中の廊下で足を止めて「私はもう落ち着きましたから、自分の足で歩けます」と訴えても、彼は「駄目だ」の冷たい一言で押し切り、そのまま私を横抱きにしたまま、目的地まで一切降ろさなかったのだ。
私室の重い扉が閉まる。
ガチャリ、と、外からでは開かない重い鍵をかける音がして、私はハッとして振り返った。
「……鍵まで、かけたのですか」
「当然だ」
「当然ではありません。ここは侯爵家の別邸の中です」
「今日は、この扉の外の人間は誰も信用しない。俺だけだ」
「旦那様」
「お前を攫おうとする他国の男が、白昼堂々、現実にいたんだ」
「はい……」
「なら、二度とあんな真似ができないよう、俺がこの手で完全に囲う」
その言葉はひどく重く、強く、および私には一切の逃げ道がなかった。
けれど同時に、そこにあるのが彼のエゴイスティックな単なる支配欲ではなく、私を永遠に失いかけた恐怖の反動だと、その震える声から痛いほど分かってしまうから、私はこれ以上強く拒むことができない。
彼は私を、広い寝台の柔らかい端へそっと下ろすと、自分もすぐ隣に片膝をついた。
および、そのまま私の両手を、自分の大きな手で包み込むように取る。
「エルサ」
「はい」
「しばらくは、絶対に俺の傍から離れるな」
「……はい」
「お前が窮屈で嫌だと言ってもだ」
「そこまで強引に言われると、少しだけ反発したくなります」
「反発するな。頼む」
「無茶な要求です」
「無茶でもいい」
私を見上げる、彼の黒曜石の瞳が、切実なほどひどく真剣だった。
「他の男の視界の端に、お前が入るのすら、もう許したくない」
「……」
「お前のその美しい名を呼ばれるのも、その姿を見られるのも、心底気に入らない。狂いそうだ」
「旦那様」
「お前が、俺を庇って、自分の意思で俺の隣にいるとあいつに言ったのは、死ぬほど嬉しかった」
低い声が、感情の昂りで少しだけ掠れる。
「だが、お前のその言葉だけで満足して余裕ぶっていられるほど、俺は出来た男じゃない」
「……」
「本当は、王都へ来た最初から、お前をこの部屋に全部隠しておきたかった」
「そんなことをしたら、私がただの人形になってしまいます」
「分かっている。だから、まだ俺にはお前を尊重する理性がある」
まだ、という言い方に、彼の執着の底なし沼を覗き見たようで、少しだけぞくりとする。
でも、そのギリギリの理性を繋ぎ止めているのもまた、他でもない私なのだろう。
私はゆっくりと、彼に包まれていた手を返し、彼の手を握り返した。
「旦那様」
「なんだ」
「今日は、ここにいます。ずっと」
「……」
「どこにも行きません。あなたの隣から」
「……」
「だから、少しだけ力を抜いて、息をしてください」
その私の言葉に、ギルベルト様は、自分が呼吸を止めていたことに初めて気づいたように、深く、重い息を吐き出した。
本当に、私の姿を見つけてから今の今まで、極度の緊張で息を詰めていたのかもしれない。
やがて彼は、私の手の甲へすがるように唇を落とし、そのまま私の膝へ深く額を寄せる。
「……今夜は、抱いて寝る」
「それは、ここ数日、もういつもでは」
「いつも以上だ」
「いつも以上とは、どのようにでしょう」
「一晩中、一秒たりとも腕から離さない」
「それはたぶん、普段と同じ意味では」
「違う」
違うらしい。
私は、彼のその子供のような執着に、少しだけ声を出して笑ってしまう。
すると彼は、私のその柔らかな笑みを見て、ようやく、ほんのわずかだけ、険しかった表情を緩めた。
本当に、微かに、ほんの少しだけ。
「やっと、お前が笑ったな」
「旦那様が、あまりにも世界を滅ぼしそうな怖い顔をなさるからです」
「俺が、怖いか」
「少しだけ」
「そうか」
「でも」
私は、膝の上にあった彼の手を、自分の胸の前へと引き寄せた。
「嫌ではありません」
「……」
「こんなふうに、なりふり構わず、必死で私を求めて、取り戻してくださったのが。とても、嬉しいです」
その真っ直ぐな一言に、ギルベルト様の漆黒の目が、大きく揺れた。
「お前は時々、本当に」
「何でしょう」
「残酷なほど、俺を甘やかす」
言われた言葉の意味はよく分からなかったけれど、その低く甘い声音は、どこか心地よい諦めと、私への深い愛しさが混じり合っていた。
窓の外は、もうすっかり暗い夜になっている。
王都の冷たい空の下、侯爵家別邸の警備はこれまでの数倍以上に厳重になり、もはや誰も、虫一匹すらこの部屋へ不用意に近づくことはできない。
私はその夜、鍵をかけられた密室で、旦那様の熱い腕の中に閉じ込められながら、昨日までとは違う意味の、甘い緊張を覚えていた。
守られている。
囲われている。
完全に、彼に独占されている。
それなのに不思議と、鳥籠の息苦しさよりも、私の胸を満たす温かい幸福感の方がずっと大きかった。
けれど、これはまだすべての終わりではない。
レオンハルト王太子は、今日はいったん退いた。
だが、あの執着の瞳を見る限り、決して私を完全に諦めたわけではないだろう。
およびギルベルト様の中でも、私を失いかけた今日の強烈な恐怖と怒りは、まだ鎮まりきっていない。
この先、私たちはきっと、他国の思惑を巻き込みながら、その不安と愛情のもっと、ずっと深いところへ踏み込んでいくことになる。
――お互いを失うかもしれないという恐怖と、
――それでも、絶対に手放せないという激しい想いの、その先の未来へ。




