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第16話:隣国の美しき使者と、当主の不機嫌

 隣国アスファリアの王太子が、予定外の使節として王都へ入ったという報せは、その日の別邸の空気を露骨に変えた。

 夕暮れ時の、静かな応接室。

 磨き上げられたテーブルの上に運ばれてきたばかりの紅茶は、まだふわりと温かい湯気を立てている。それなのに、執事のセバスチャンから落とされたたった一言の報告だけで、室温が急に数度下がったように感じられた。


「隣国の王太子ご本人が……外交使節として、ですか?」


 私が驚きで目を見開き、恐る恐る問い返すと、セバスチャンは表情を変えずに静かに一礼した。


「はい、奥様。名目上は、春季に向けた交易の条件見直しと、国境沿いで多発している魔獣被害に関する共同協議とのことですが」


「名目上、とは」


「本命の目的が、まったく別にある可能性が極めて高い、という意味でございます」


 そう言って、彼がほんの一瞬だけ、憂いを帯びた視線を私へ向けたことで、政治に疎い私にも察しがついてしまった。


 昨夜のきらびやかな夜会で、一気に広がった噂。

 王家地下書庫で初めて知った『聖女の光』と『調律』という言葉。

 そして、王都の貴族たちの間で、すでに尾鰭をつけて流れ始めている“呪いを鎮める光のような侯爵夫人”の話。

 これらが重なった直後に、他国の王太子が突然やってくるなど、偶然で済ませるには、あまりにもタイミングができすぎている。


「……奥様がご自身を責めたり、気に病む必要は一切ございません」


 セバスチャンは私の不安を察してそう言ったが、そこで言葉を濁して黙っているような甘い人ではなかった。


「ただし、今後しばらくは、王城からのいかなる招きや夜会にも、これまで以上に慎重になるべきかと存じます。他国の目がある場では、何が起こるか分かりません」


「必要ない」


 地を這うように低く落ちたのは、ギルベルト様の声だった。

 私は弾かれたように隣を見る。

 彼は長椅子の豪奢な肘掛けへ片腕を置いたまま、いつになく深く、不機嫌そうに眉を寄せている。いや、ただの不機謙というより、水面下で静かに、激しく怒り狂っていると言った方が近いかもしれない。


「王城からの招きなど、すべて断る」


「旦那様、さすがにすべてというのは」


「王都の暇な連中が、昨夜の俺の警告だけで完全に懲りたとも思えん。そこへさらに、他国から余計な虫まで増えた」


「虫……」


「隣国の王太子だろうが、その辺の羽虫だろうが同じだ。不快なものは不快だ」


 本当に、一国の次期国王に対する容赦というものがない。

 私は思わず呆れて苦笑しそうになったが、すぐに事の重大さに気づいて胸がきゅっと縮んだ。

 虫、で済まない相手なのだ。王太子ともなれば、強大な隣国の次期王。こちらがいくら辺境を統べる強大な侯爵家であっても、そう簡単に無視して追い返せる立場ではない。


「でも、旦那様。もし正式な外交の場で、妻である私も同席する必要があると命じられたら」


「ない」


「まだ最後まで言っておりません」


「最後まで聞く必要がどこにある。俺がないと言ったら、ない」


「……」


 あまりにも身も蓋もない即答すぎる。

 セバスチャンは主人のこの理不尽な態度にも慣れたものらしく、わずかに咳払いをして、冷静に話を繋いだ。


「実際のところ、旦那様がどう思われようと、国王陛下がどうお考えになるか次第でございます。隣国の王太子がすでに“光”の噂を耳にして探りを入れてきているなら、我が国の王家としても、夫人を完全に隠して把握せぬふりを突き通すのは、外交上難しいかと」


「……陛下が直接お召しなら、俺は行く」


 ギルベルト様が、ひどく苦いものを飲み込むように低く言う。


「だが、その時はエルサを、俺の手の届かない場所へ一歩もやらない。絶対にだ」


「一歩も、ですか」


「当然だ」


「相手は他国の王族で、外交の場ですよ?」


「外交の場という、嘘と騙し合いに満ちた危険な場所だからだ」


 私が「それは少し大袈裟では」と何かを言う前に、彼の背後で、ふわり、と黒い靄のようなものが揺れた気がした。

 最初、暖炉の煙の影が揺れた見間違いかと思った。

 けれど違う。あれは、私がこの屋敷に来てから何度か見てきた、彼の内から漏れ出す呪いの色だ。痛みや苛立ち、強い感情が限界まで高まる時、この人の背後に滲み出る、濃密で冷たい黒い魔力。


「旦那様」


 私は反射的に手を伸ばし、長椅子の上の彼の手、その袖口へそっと触れた。

 途端に、背後で揺れていた黒い靄は、霧散するように少しだけ薄まる。

 ギルベルト様は不機嫌な顔のまま私を見下ろし、ほんのわずかに目を細めた。


「……気にするな」


「でも、今」


「大したことはない」


「大したことがあります。背中から、黒いものが漏れておりました」


「漏れていたか」


「ご自覚はおありなのですね……どうして」


「お前の口から、俺以外の余計な男の名が混じったからだ」


「……っ」


 あまりにも率直で、隠す気もない重たい嫉妬の言葉に、私は顔を熱くして返す言葉を失った。

 そんな私たちのやり取りを見て、セバスチャンはすべてを察したように深く一礼する。


「奥様。本日のところは、王城からの正式な召喚状が届くまでは、この別邸の奥でゆっくりとお休みになった方がよろしいでしょう。外の空気は、今は少し毒が強すぎます」


「はい、そうさせていただきます」


「それと」


 セバスチャンは、まるで明日の朝食のメニューでも告げるように、さらりと言った。


「旦那様にはすでにご報告済みですが、隣国使節一行の王都での宿泊先、随行する騎士と文官の正確な人数、王太子の過去の他国との婚姻交渉履歴、公の愛人の有無、宗教政策の傾向、および護衛たちの練度と弱点に至るまで、裏からすでに徹底的な調査を始めさせていただいております」


「待て」


 私は驚愕して、思わず口を挟んだ。


「一国の王太子相手に、そこまで調べる必要が本当にあるのでしょうか」


「必要だ」


 即座に答えたのは、やはりギルベルト様だった。


「むしろ、まだ足りないくらいだ」


「足りないのですか。婚姻履歴まで調べているのに」


「どうせ、あの金髪の小童はろくでもない目的でこの国へ来たに決まっている。徹底的に洗い出せ」


「まだ、そうと決まったわけでは」


「俺の中では決まっている」


 ああ、駄目だ。

 今日のこの人は、完全に冷静な外交の理性より、私に対する過剰な独占欲と警戒心が勝っている。

 何を言っても無駄だと思い、私はそっとため息をついた。


   


 その不吉な予感は、翌朝には早くも現実のものとなった。

 王城からの使者が別邸を訪れたのは、私たちが朝食を終えた直後だった。

 国王陛下が、その日の午後、隣国使節との私的な歓迎の接見に、ヴォルガード侯爵『夫妻』の同席を求めているという、正式な召喚状。

 知らせを聞いた私は、手にしていた食後のティーカップを危うく取り落としかけた。

 ギルベルト様の方は、さすがにカップを取り落としこそしなかったが、手にしていた厚い銀のスプーンが、ミリ、と音を立てて無惨に曲がっていた。


「……旦那様?」


「気にするな」


「明らかに、気にするべき異常事態が起きております」


「何も問題ない」


「スプーンが、完全に折れ曲がっています」


「代えればいいだけだ」


「そういう問題ではありません」


 私が困惑していると、セバスチャンは無表情のまま、淀みない動作で新しい銀のスプーンを銀盆に乗せて差し出した。

 どうやらこの侯爵家では、当主の魔力と握力による食器の破壊は、比較的“よくある日常の光景”らしい。

 午後、王城へ向かう馬車の中でも、ギルベルト様は終始、恐ろしいほど無口だった。

 いや、無口というより、うかつに口を開けば呪いの魔力が暴走して危険だから、必死に喋らないでいるように見えた。

 私はその張り詰めた隣で、膝の上に重ねた自分の手をじっと見つめる。

 昨日、あの暗い王家地下書庫で『聖女』の残酷な記録を見てからというもの、自分の持つ特異な存在意義が、以前よりも外の世界へ漏れやすくなったような、そんな妙な落ち着かなさと不安があった。

 もし、隣国の王太子が、本当にその聖女の噂を聞きつけて、私を狙って王都へ来たのだとしたら。


「……旦那様」


「なんだ」


「私は、やはり別邸に残って行かない方が、面倒事にならずに済むのでは」


「駄目だ」


「まだ最後まで」


「言わなくていい。聞く耳は持たん」


「……」


「お前を、俺の目の届かない別邸に一人で置いておく方が、よほど危険だ。俺が気が気じゃない」


 その理屈は、暗殺や誘拐のリスクを考えれば、たぶん間違ってはいない。

 けれど同時に、この人はもう完全に『俺の視界の外へは、絶対に一歩も出したくない』という、重たい思考になっている。


「では……」


 私はそっと、彼の黒い外套の袖を握り、声を絞った。


「今日も、どうか私から離れないでいてください」


「最初から、そのつもりだ。俺から離れようとしても許さん」


 迷いのない、力強い即答だった。

 王城で案内されたのは、昨夜のような数百人が集まるきらびやかな大広間ではなく、限られた者だけが入る小規模で豪奢な接見室だった。

 白と金を基調とした格調高い部屋で、大きなガラス窓の外には、冬枯れの美しい王家専用の庭園が見える。


 室内には、上座に座る国王陛下および数名の側近、王妃、最高位の宮廷魔術師、それに私たち夫婦だけ。正式な外交会談にしては人数が極端に少なく、しかし、ただの軽い歓迎の談笑の場にしては、配置された近衛騎士の数など警戒が異様に濃い。

 そこへ、重い扉が開かれ、隣国の王太子が入ってきた。


 ――美しい、と直感的に思った。

 悔しいけれど、そうとしか表現する言葉が見つからない。

 陽光を溶かしたような、あるいは上質な金糸のような、淡い蜂蜜色の髪。

 丁寧に磨き上げられた、宝石のサファイアのような深い碧眼。

 唇には柔らかく人好きのする完璧な微笑みをたたえながら、その瞳の奥には、決して人に読ませない冷酷な計算や別の思惑を隠しているような、完璧すぎる端整な顔立ち。

 年の頃はギルベルト様と同じか少し若いくらいのはずなのに、全身から纏う空気は、見事なまでに正反対だった。

 ギルベルト様が、すべてを拒絶する冷たく鋭い黒曜石なら、この王太子は、誰をも魅了して近づかせる、陽光を受けた細工硝子だ。眩しく美しく、けれど触れれば手を切るような、どこか薄刃のように危険で鋭い気配。


「アスファリア王国王太子、レオンハルト・アスファリアにございます」


 彼は流れるように優雅に一礼し、まず一国の主である国王陛下へ完璧な礼を尽くした。

 物腰は信じられないほど柔らかい。声も耳に心地よく通る。一国の王太子として、および外交官として、非の打ち所がない振る舞いだ。

 だが、そのサファイアのような碧眼が、挨拶を終えてすっと私へ向いた瞬間、私はなぜか、蛇に睨まれたような悪寒で背筋がざわついた。


「……そして、こちらが我が国の辺境を統べるヴォルガード侯爵夫妻だ」


 国王陛下が、静かに、しかし牽制を含んだ声で紹介する。


「侯爵夫人には、先の夜会で初めて顔を見せてもらったばかりだ」


 王太子レオンハルトは、私を見て、さらに甘く微笑んだ。

 それはとても美しく、計算され尽くした笑みだったけれど、私は咄嗟の恐怖に、ギルベルト様の硬い腕の袖を指先できつくつまんでいた。


「お初にお目にかかります、美しき侯爵夫人」


 彼はそう言って、私の前でわずかに首を傾け、胸に手を当てた。


「昨夜の夜会の噂は聞いておりましたが、王都で囁かれている以上ですね。まるで、本物の月の光が、そのまま人の形を取って舞い降りたようだ」


「……っ」


 私は息を呑み、言葉に詰まった。

 あまりにも、まっすぐで、舞台の台詞のように甘やかな褒め方だったからだ。王都の貴族たちのような嫌味な棘も、あからさまな値踏みの視線もない。だからこそ逆に、どう返せばいいのか分からず、困惑する。


 その時だった。

 私の背後から、ぞわり、と肌を刺すような冷たい気配が広がった。

 振り返って見るまでもない。

 ギルベルト様だ。

 先ほど馬車の中まで必死に抑え込まれていたはずの黒い魔力が、今は隠しきれずに、怒りとともに背後から明確に滲み出ている。大理石の床の上を這う、濃霧のような、冷たく重い感情の色。


「レオンハルト王太子」


 ギルベルト様の声は、怒鳴るよりも恐ろしいほど、ひどく静かだった。


「俺の妻への、その軽薄な挨拶は、それで終わりか」


「おや」


 王太子は、ギルベルト様の放つ異常な殺気および魔力に少しも怯まず、むしろ面白い玩具を見つけたように、興味深そうに目を細めた。


「これは失礼、侯爵。あまりにも夫人が美しく、目を奪われる方だったので、つい王太子としての外交辞令を超えて、一個人としての本音が出てしまいました」


「その本音に何を隠している」


「はは、手厳しい」


「俺の妻に気安く声をかけるな。当然だ」


 場の空気が、張り詰めた糸のようにぴんと張る。

 上座の国王陛下がわずかに眉を動かしてため息をつき、王妃が扇の陰で「まあ」と小さく息をついた。

 私はこれ以上場がこじれるのを恐れ、慌てて口を開く。


「よ、よろしくお願いいたします、王太子殿下」


「ええ、こちらこそ。そのお声を耳にでき、光栄です」


 王太子レオンハルトは、ギルベルト様の威嚇を無視し、私から視線を外さないまま、にこやかに答えた。


「あなたのような方がいらしてくださって嬉しい。王都のサロンでは昨夜から、あなたの噂でもちきりですよ」


「……私の、ですか」


「ええ。誰も近づけない冷たい辺境侯爵の隣に立つ、奇跡のような月光の夫人。しかも、ただ美しいだけでなく、恐ろしい呪いすら退ける不思議な力をお持ちだとか」


 最後の一言が落ちた瞬間、壁際に控えていた宮廷魔術師の表情が、驚愕にぴくりと動いた。

 国王陛下も、黙ったまま静かに王太子を見ている。

 この人は、ただの世間知らずではない。完全に分かっていて、私たちの最大の秘密の領域に土足で踏み込んでいる。

 ただの世間話ではない。明確な、外交の探りだ。


「王太子殿下」


 これ以上は危険と判断したのか、今度は国王陛下が重い口を開いた。


「本日の接見の主題は、春季の交易条件および、国境沿いの魔獣への対応の件のはずだが」


「もちろん存じております、陛下」


 王太子はあっさりと、無害な青年のような顔で微笑む。


「ですが、国中が噂に聞いた『光』の方が、実際に目の前にいらっしゃるのです。隣国として、今後の友好のためにも、多少の興味を持つのはご容赦いただきたい」


「ただの興味で済むなら、余も何も言わぬのだがな」


 国王陛下の返しは、やわらかいが鋭い警告を含んでいた。

 それでも王太子は、完璧な笑顔を微塵も崩さない。

 彼は侍従に席に着くよう促されると、あくまで優雅で上品な所作で、私たちの向かいの椅子へ腰を下ろした。


 接見は表向き、確かに王太子が持ち込んだ外交の話から始まった。

 国境沿いの複雑な関税の引き下げ。

 互いの領地を荒らす魔獣被害への情報共有。

 雪解けを待つ春の穀物輸送路の安全確保。

 王太子は事前に実務をよく勉強していて、国王および側近の厳しい質問への受け答えも極めて巧みだった。話の運び方に一切のそつがなく、相手の言葉を決して遮らず、それでいて、いつの間にか自分の欲しい条件のところへ自然に会話を導いていく。優秀な次期国王だ。

 けれど、私は席に座りながら、ある異常に気づいてしまった。

 そのレオンハルトという人は、どれだけ真剣な顔で外交の小難しい話をしていても、ふとした瞬間に、何度も何度も私の方へ、まるで美しい絵画を鑑賞するように視線を戻すのだ。

 そのたびに、私の隣から、殺気を孕んだ黒い圧がズン、と一段階増す。


「……旦那様」


 私は扇で口元を隠し、極力小さな声で囁いた。


「お願いですから、落ち着いてください。床が凍りそうです」


「俺は極めて落ち着いている」


「落ち着いていません。背中から、黒いものがはっきりと見えております」


「見なければいい」


「そういう無茶を仰らないでください。気になります」


 私が小声で抗議した瞬間、ふと顔を上げると、向かいの席の王太子とバッチリ目が合ってしまった。

 彼は、話の途中で私を見て、とても優しげに、にこりと笑った。

 ただそれだけなのに、ギルベルト様の背後で渦巻いていた黒い魔力が、ぶわりと、視界を遮るほど一段濃く、大きく膨れ上がった。


「旦那様!」


「……」


「今のは事故です! 不可抗力です!」


「事故でも、あいつを見るな」


「理不尽です」


 さすがに理不尽すぎて、そう言い返してしまう。

 すると、私たちのその緊迫した小声のやり取りを見て、王太子がくすりと、楽しそうに笑った。


「ヴォルガード侯爵。ずいぶんと、奥様と仲がおよろしいようで」


「当然だ。夫婦だからな」


 ギルベルト様が、相手を威圧するように即座に返す。


「羨ましい限りです。私も、いつかそのような美しい愛を手に入れたいものです」


「なら、他人の妻を見るな. 自分の国で探せ」


「それは難しい相談ですね」


 甘やかな笑みを微塵も崩さないまま、王太子は恐ろしいことを言った。


「美しいもの、価値のあるものは、誰しも本能で目で追ってしまうものですから. それが他人のものであっても」


 次の瞬間、ピキッ、と鋭い音が響いた。

 室内のテーブルに飾られていた、見事な生花を生けた花器。その中の水面が、一瞬にして凍りついたのだ。

 私はぎょっとしてそちらを見る。

 誰が見ても、冬の寒さによる自然現象ではない。接見室の空気が一瞬で氷点下のように冷え込み、控えていた側近の一人がたまらず息を呑む。

 けれど当の王太子だけは、その異常な魔力現象すら、珍しい手品でも見るように面白がるように目を細めた。


「……ヴォルガード侯爵」


 国王陛下が、ついに堪えきれずに低く釘を刺す。


「余の城を、交渉の途中で凍らせるなと言ったはずだが」


「まだ、完全に凍ってはいません」


 ギルベルト様は、花器を見もせずに平然と答えた。


「まだ、では困るのだがな. それ以上魔力を漏らすな」


「努力します」


 努力、というその言葉に、申し訳なさや反省の実感がまるでなかった。

 接見の後半、国王陛下の計らいで、重い外交交渉を打ち切り、一度だけ軽い茶会の形式が取られた。

 表向きは緊張した場を和ませるためだろうが、実際には、茶会の自由な会話の中で、王太子の真の腹を探る意図もあるのだと思う。

 私は緊張を解くためか、国王陛下の正面の席ではなく、少し離れた王妃のやや近くの席へと案内されて通された。

 その王家の配慮に少しだけほっとしたのも束の間。


「侯爵夫人」


 私が紅茶に口をつけようとした瞬間、王太子レオンハルトが、立ち上がって向かいの席から穏やかに話しかけてきた。


「昨夜の夜会では、あなたの踊りが、まるで妖精のように見事だったと方々から聞きましたよ」


「……もったいないお言葉、ありがとうございます」


「侯爵が、あまりの独占欲から誰にも相手をさせず、一曲しか踊らなかったとも」


「当然だ。他の男に触れさせる理由がない」


 私の返事を待たず、横に座るギルベルト様から即答が飛ぶ。

 王太子は肩をすくめて笑った。


「そこまで過剰に独占なさると、夫人も鳥籠の中で息が詰まるのでは?」


「詰まりません」


 気づけば、私はギルベルト様を庇うように、反射的にそう答えていた。

 一瞬、茶会の場が静まる。

 自分でも、その即答に驚いた。けれど、口にしてから分かったのだ。私は強がりでも何でもなく、本当に心の底からそう思っている。

 王太子は一拍だけ、珍しく真顔で私をじっと見つめ、それから再び柔らかく微笑んだ。


「これは失礼. あなたがあまりにも美しい鳥籠の中で、大事に大事に囲われているように見えたものですから」


「囲っている」


 ギルベルト様が、隠す気も恥らう気もゼロの堂々とした態度で言った。


「ははは、隠しもしないのですね」


「事実を隠す理由がない」


 王妃が扇の陰で、また「ふふっ」と小さく笑っている。

 国王陛下は、額に手を当てて、どこか諦めたような顔だ。

 だが、王太子はそこで引き下がるような柔な男ではなかった。


「ですが、美しい夫人」


 サファイアの碧眼が、ギルベルト様越しにまっすぐ私を射抜くる。


「もし、あなたがその鳥籠の生活を少しでも窮屈に感じ、望むのなら. 我が国は、あなたのためにもっと広く、自由な居場所を用意できますよ」


 私の手が、カップを持ったまま膝の上でピタリと止まった。


「自由、ですか……?」


「ええ. 呪いを鎮める聖なる力を持つ特別な方は、辺境の屋敷で恐れられ、隠されるべきではなく、もっと広い世界で万人に敬われるべきだ」


「……」


「あなたほどの価値のある方が、ただ一人の恐ろしい男の腕の中に閉じ込められ、その一生を終えるのは、あまりにも惜しい. 世界の損失です」


 その声は、甘い毒のように鼓膜を撫でる。

 決して責める響きはない。むしろ、不遇な環境にいる可哀想なものを、無条件で優しく救い上げるような、甘美な口調だ。

 だからこそ、私はぞわりとした。

 この人は、一目見ただけで、私の心のどこが一番弱いかを瞬時に見抜いて、そこへちょうどよい、心を揺さぶる言葉を的確に流し込んでくるのだ。


 “閉じ込められている”

 “惜しい、価値がある”

 “自由な居場所”


 もし、実家の薄暗い物置で泣いていた頃の私なら。

 もし、ギルベルト様の本当の不器用な優しさに触れ、愛を知る前の私なら。

 たぶん、この甘い救いの声に、すがりついて泣いていたかもしれない。


「私、は……」


 私が毅然と断ろうと、口を開きかけたその時だった。

 ガシャン、と鋭い音がした。

 ギルベルト様の大きな手の中で、繊細なティーカップの持ち手が、粉々に砕け散ったのだ。

 抑え込まれていた黒い魔力が、今度は隠しきれずに、明確な殺意となって室内に滲み出る。

 王妃の後ろに控えていた付きの侍女が恐怖で青ざめ、宮廷魔術師が咄嗟の事態に備えて一歩前へ出かける。

 けれど、誰より先に動いたのは、カップを破壊したギルベルト様だった。

 彼は私の座る椅子ごと、ガタッと乱暴な音を立てて自分の方へ寄せるように引き寄せ、そのまま王太子を正面から、猛禽類のような目で睨みつけた。


「レオンハルト王太子」


 声は低い. だが、怒鳴る必要がないほど、背筋が凍るほど冷たい。


「俺の妻に、俺の前で、一ミリでも余計な言葉を吹き込めば」


「吹き込む?」


 王太子が、冷や汗ひとつかかずに笑みを崩さず問い返す。


「私はただの、隣国からの親切心ですよ」


「親切だと?」


「ええ. あまりにも儚げで美しい方だ. あなたのような恐ろしい男のそばで怯えて暮らすより、私の国のような、もっと穏やかで華やかな場所の方が――」


「国ごと地図から消すぞ」


 広間の空気が、完全に止まった。

 冗談ではない。

 外交上の脅しのための、単なる誇張でもない。

 辺境で無数の魔物を屠ってきたギルベルト様は、本気で、隣国を滅ぼすと言っている声だった。

 さすがにその殺気に当てられ、王太子の完璧な笑みが、ほんの一瞬だけ引きつって止まる。

 国王陛下が頭痛を堪えるように眉間を押さえ、王妃が扇の陰で「まあ、大変」とごく小さく呟いた。

 だが、次に動いたのは、守られている私だった。


「旦那様」


 私はそっと、彼の怒りで強張った袖を両手で掴む。

 すると、室内に吹き荒れそうだった黒い魔力が、私に触れられたことで少しだけ揺らぎ、収まった。


「……エルサ」


「私は、大丈夫です. 何もされていません」


「だから、お願いです. ここ王城では、どうか剣を収めてください」


「……お前は、毎回そうやって一番いいところで俺を止めるな」


「私が止めなければ、本当に王城の壁が吹き飛びそうです」


「吹き飛ばして、あいつを塵にする気だった」


「そんな物騒なことを、真顔でやめてください」


 私が必死に彼を宥めようとすると、王太子がその様子を見て、小さく笑った。


「本当に、面白い方ですね、侯爵夫人」


「お前にとってはな. 俺には少しも面白くない」


 ギルベルト様が、私を背後に庇ったまま即答する。


「あなたにとっては、最高の宝でしょう」


「当然だ」


 王太子は、そこでようやく諦めたように、優雅に一礼した。

 しかしその唇の端の笑みは、最後まで消えなかった。


「本日は、これくらいで引きましょう、侯爵. あなたの愛の深さはよく分かりました」


「最初から近寄るな」


「ですが、あなたの妻は本当に得難い. 光の力も、その心根も」


「口を閉じろ. 殺すぞ」


「あなたのその余裕のない執着ぶりを見るほど、私は余計に、彼女が欲しくなりますよ」


 挑発するようなその一言で、ギルベルト様の背後の黒が、再び爆発的に濃くなる。

 私は慌てて、彼の両袖をきつく掴んだ。


「旦那様!」


「……っ」


「お願いです、こらえてください」


「……お前が背中にいなければ、今すぐこいつの首を刎ねている」


「存じております. だから私がいます」


「知っていて、なぜそんな顔をする」


「どの顔でしょう」


「どうにか俺を止めようと、必死で困っている顔だ」


「心底、困っております」


 私たちがそんなやり取りをしている間に、王太子はもう、悠然とした足取りで半歩退いていた。

 および立ち去る最後に、私へ向かって、ひどく美しく、および残酷な微笑みを残す。


「侯爵夫人. また、必ずお会いしましょう」


「……」


「次は、このような無粋な男のいない、もう少し穏やかな場所で」


 そう言い残し、彼は足音もなく回廊の奥へと去っていった。

 私はしばらく、その場で乱れた息を整えることしかできなかった。

 ギルベルト様の恐ろしい怒気も、まだ完全には収まっていない. むしろ、彼は私を強く抱き寄せたまま、それ以上王太子を追って殺そうとはしなかった。


   


 別邸へ戻る夕暮れの馬車の中は、行きの時よりもずっと、息が詰まるほど静かだった。

 私は、隣に座るギルベルト様をちらりと見る。

 今まで見たことがないほど、不機嫌だ。

 いや、ただの不機嫌を通り越して、他国に対する嫉妬および、私を奪われるかもしれない怒りおよび不安が腹の底で煮えたぎっているのに、辛うじて私への配慮という理性だけで蓋をしている、そんな恐ろしい顔。


「……旦那様」


「なんだ」


「怒っておられますか」


「激しく怒っている」


「はい」


「顔を見れば分かるだろう. 分かりきったことを聞くな」


「ですが、その怒りは、私に対しても向いているのでしょうか?」


「違う」


「……」


 一切の迷いのないその即答に、少しだけ胸の奥が軽くなる。

 ギルベルト様は、苛立たしげに窓の外を一瞥し、それから喉の奥から絞り出すように低く続けた。


「お前が、あの回廊で、あいつを見た」


「見ましたが、あれは殿下が目の前に立っていたので、見ないわけには」


「俺以外の男を見た」


「はい……」


「言葉を交わして、話した」


「はい」


「あいつの名前を呼んだ」


「王太子殿下ですから、礼儀として」


「二度と呼ぶな」


「それは、無茶です」


「俺にとっては無茶ではない」


「相手は王族で、外交の場でした」


「だから何だ. 俺には関係ない」


「何もかも、旦那様の強引な理屈で押し切らないでください」


 つい、実の夫に向かって小言のようにそう言ってしまう。

 するとギルベルト様は、ようやく窓から視線を外し、こちらを見た。


「……俺は今、これでも必死に理屈で保っているんだ」


「え?」


 ひどく低く、かすれた声だった。

 けれど、その声の奥に滲む、隠しきれない焦燥感に、私は息を呑む。


「本当は、あの回廊で、あいつの目を潰して、二度とお前の視界へ入らないようにしてやりたかった」


「旦那様」


「お前が、俺以外の男と目を合わせただけで、胸の中が焼け焦げるように腹立たしくて、吐き気がした」


「……」


「俺以外の男に甘い声で名を呼ばれて、お前はあいつの方を見たただろう」


「それは、声をかけられれば、反応しないわけにも」


「頭では分かっている」


 ギルベルト様は、膝の上で大きな拳を握りしめる。

 分厚い革手袋の下の関節が、白くなるほど強い力で。


「頭では分かっているが、本能が気に入らないと叫んでいる」


「……」


「俺の妻に、あんな汚らわしい欲望の目を向けること自体が、許せない」


 その血を吐くような言葉に、私は胸がきゅっと締め付けられた。

 嫉妬。

 誰の目にも分かりやすいほどの、激しく、剥き出しの嫉妬だ。

 重くて、独占的で、普通の女性なら少し怖いくらいの、常軌を逸したそれ。

 なのに、どうしてだろう. 私は、少しも嫌ではなかった。


「旦那様」


「なんだ」


「私は、どこへも行きません」


「……」


「たとえレオンハルト王太子殿下がどれほど甘い言葉を仰っても、どこの国がどんな条件で誘ってきても」


「……」


「私が自分の意思でいたいのは、旦那様の隣だけです」


 馬車の車内が、水を打ったように静まり返る。

 ギルベルト様はしばらく、何も言わなかった。

 ただ、信じられないものを見るように、じっと私の顔を見ている。

 やがて、その大きな手が恐る恐る私の頬へ伸び、壊れ物に触れるように、そっと触れた。


「……そういうことを、俺の前で簡単に言うな」


「簡単ではありません. 本心です」


「お前にそう言われて、俺がどれだけ嬉しいと思う」


「嬉しい、のですか」


「当たり前だ. 狂いそうなほどに」


 そのまま彼は私をぐっと引き寄せ、自分の硬い肩へ抱き寄せた。

 外では夕暮れの王都の喧騒が流れているのに、馬車の中だけは妙に静かで、彼の体温で熱い。


「今夜から、別邸の護衛の数を増やす」


「まだ増えるのですか. 十分多いですが」


「足りない. 倍にする」


「倍」


「別邸の出入りする業者の確認も、すべて見直す」


「はい」


「お前の部屋の窓にも、追加の結界を張る」


「はい」


「お前は、屋敷の中でも絶対に一人で動くな. 必ず俺か侍女を伴え」


「はい」


「……いくら何でも、返事が素直すぎて逆に怖いんだが」


「今回はさすがに、隣国の動きが不気味ですから、私も旦那様と同意見です」


「ならいい」


 少しだけ、ギルベルト様の張り詰めていた声から、鋭い刺が抜ける。

 けれど、彼の抱える根本的な警戒心は、完全には消えない。

 それはきっと、私も彼も、もう気づいてしまったからだ。

 隣国の王太子レオンハルトは、ただ一度軽く声をかけて断られたくらいで、すんなり諦めるような真っ当な相手ではないということに。


   


 その夜、侯爵家の別邸の外周には、予告通り、いつも以上の屈強な騎士が隙間なく配置された。

 屋敷内の廊下の巡回も倍に増え、私の部屋の窓には魔術師による追加の強固な術式が走り、食事を運ぶ侍女たちの出入りすら、厳重な身元確認がされるようになる。

 私は寝台へ入ってからも、緊張でしばらく眠れなかった。

 あのサファイアの碧眼。

 毒のように甘い声。

 “自由”という、私を試すような言葉。

 および、最後に回廊で残した、あの残酷な微笑み。

 嫌な予感が、胸の奥の暗がりで静かに澱んでいる。

 まるで、大嵐が来る前の、不気味に静まり返った水面みたいに。

 その一方で、私の隣の寝台では、ギルベルト様がほとんど眠らずに目を開けていた。

 私を抱き寄せる太い腕はいつもより強く、私が息苦しくて少しでも身じろぐたびに、すぐさま気配が動き、私を確かめるように抱きしめ直す。


「旦那様」


「なんだ」


「起きておられるのですか」


「俺のことは気にせず寝ろ」


「旦那様が先に寝てください. 疲れておいででしょう」


「お前が完全に寝たら考える」


「……」


「今夜だけは、お前を腕から離す気がまったくしない」


「……はい」


 私はそっと、彼の温かい胸元へ自分の額を寄せた。

 王太子の不気味な影への不安は、まだ消えない。

 けれど、この強く熱い腕の中にいる限り、自分は決して一人ではないと思える。

 ただ――。

 

 同じ夜。

 王都の高級街にある別の壮麗な館の一室では、金の髪の王太子が、手元のワイングラスを揺らし、薄く笑いながら窓の外の月を見ていた。


「やはり、まともな言葉の交渉では、あの堅物は首を縦に振らないか」


 彼の手元には、先ほどの接見で使った書類とは別の、小さな古代の魔法具がひとつ置かれている。

 光を歪め、空間の認識を一瞬だけねじ曲げる、極めて希少で危険な品。


「あの聖女の光は、どうしても我が国に必要だ. なら、少し強引に、あの美しい小鳥を籠から迎えに行くしかないね」


 甘やかな声音でそう一人呟くその横顔は、絵画のように美しかった。

 および同時に、毒蛇のように、とても危険だった。

 王都の冷たい夜は、静かに更けていく。

 けれど、その静けさの下ではもう、次の致命的な厄介事が、私たちの知らぬ間に確実に動き始めていた。



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