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第15話 王家地下書庫と『呪い』の起源

 夜会の翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。

 薄く開いたまぶたの先には、辺境の自室とは違う、王都の別邸の豪奢な天蓋が見える。

 見慣れない部屋、見慣れない天井のはずなのに、不思議と心は深く落ち着いていた。たぶん、それは私の背中から腰にかけて、しっかりと回された太く温かい腕のせいだ。いや、たぶんではない。完全にそのせいだ。


「……旦那様」


 小さく呟くと、すぐ後ろから、寝起きとは思えないほどはっきりとした低い声が返ってくる。


「起きたか」


「起きていらしたのですか?」


「今だ」


 どうやら、私が微かに声を出したのとほぼ同時に目を開けたらしい。

 けれど、その反応の速さと、私を抱き込む腕の力強さからすると、本当に先ほどまで眠っていたのか少し怪しい。

 私は彼の腕の中で、ゆっくりと身じろぎした。

 すると、当然のように腰へ回された腕の力がさらに強まり、私を彼の硬い胸板へと引き寄せる。


「旦那様」


「なんだ」


「朝です」


「知っている」


「起きなければいけません」


「まだいい」


「よくありません。昨日も、王城の夜会からお戻りになってから随分遅くまで……その」


「お前がちゃんと、悪夢を見ずに眠るのを確認する方が先だ」


 まただ。

 この人は、何でもないことのように、呼吸をするのと同じくらい自然にこういうことを言う。

 昨夜、王城のきらびやかな夜会からこの別邸へ戻ってきたあとも、私はしばらく緊張の糸が抜けずにいた。

 夜会で向けられた無数の視線、悪意を含んだ囁き、残酷な値踏み。ギルベルト様がそのすべてを氷の刃のような威圧で斬り捨ててくれたおかげで、私が直接的に大きく傷つくことはなかったけれど、それでも慣れない社交の場で、心は無意識のうちに少しだけ疲弊していたのだろう。

 そんな強張った私を見て、彼は当然のように私を寝台へ引きずり込み、いつも以上に近く、逃げ場がないほどきつく抱き寄せた。結果、私はその温かく大きな腕の中で、魔法にかけられたように安心して深く眠り、および今に至る。


「……でも、昨日は」


「昨日?」


「皆さまの前で、国王陛下の前で、その……」


「その?」


「いろいろと、言いすぎです……」


 思い出しただけで、耳の先から首すじまでが一気にカッと熱くなる。

 一国の国王陛下の前で、堂々と「この世で最も美しい俺の妻」だなんて、どうしてあんなにも平然と言い放てるのだろう。

 しかもまるで、王への世辞および社交辞令ではなく、心の底から純粋にそう思っている真顔で。

 すると、私の後ろからふっと小さな、満足そうな息が落ちた。


「何度でも言う」


「何度も言われては困ります」


「困らない」


「私が困ります」


「なぜだ」


「恥ずかしいからです……!」


 私がようやく耐えきれずに言い切ると、ギルベルト様は私の銀糸の髪へすっぽりと顔を埋めるようにして、少しだけ黙った。

 それから、背筋が粟立つほど低い声で、ぽつりと呟く。


「昨夜は、まだ足りなかった」


「……はい?」


「王都の有象無象の連中に、まだお前の本当の価値および、俺のものだという事実が伝わりきっていない」


「伝えなくていいです。もう十分すぎます」


「よくない」


「よくあります」


 朝の寝台から、すでにこんな調子だ。

 けれど、昨夜までの私なら、王都の貴族たちにどう見られたかということばかりを気にして、こんなふうに彼に言い返す余裕などなかったかもしれない。

 たぶん私は、この人の過剰な愛に守られて、少しずつ、本当に変わってきている。


「でも……」


 私は天蓋の細かな刺繍を見上げたまま、小さく息をついた。


「怖かったです」


「……」


「皆さま、扇で口元を隠して上品に笑ってお話しなさっているのに、その目の奥で何を考えているのか、私をどう値踏みしているのか分からなくて」


「知る必要はない。あんな連中の腹の中など、探るだけ無駄だ」


「はい」


「お前は、俺の傍で笑っていればそれでいい。他の奴らの顔色など一切窺うな」


 やはり、迷いのない即答だった。

 私は苦笑して、私の腰を抱き込んでいる彼の太い腕へ、そっと自分の指を添える。

 すると、その傷だらけの大きな手が、私の小さな手をすっぽりと包み込んだ。


「旦那様」


「なんだ」


「昨日、私を庇ってくださって……ありがとうございました」


「俺に礼はいらん」


「でも」


「俺の妻を守るなど、当然のことをしたまでだ」


 その“当然”が、私にとってどれほど深い救いになるか。

 言葉にしかけたその時、寝室の重い扉の外から、控えめだが規則正しいノックの音が響いた。


「旦那様、奥様。朝のくつろぎのところ失礼いたします」


 執事のセバスチャンの声だった。

 ギルベルト様は露骨に舌打ちをしそうな不機嫌な顔をしたが、さすがに優秀な執事の用件を無視はできないらしい。


「何だ。手短に言え」


「王城より、早馬で使者が参りました。国王陛下が、本日お二人へ私的なお目通りを望んでおられます」


 その一言で、寝台の上の甘く弛緩していた空気が、ぴんっと張り詰めたものへと少し変わった。


「私的、に……?」


「はい、奥様。昨日の夜会における件に関して、とのことでございます」


「夜会に……」


 私は思わず不安になり、起き上がろうと身を起こしかけたが、その瞬間、ギルベルト様の腕が私を元の位置へ、彼の腕の中へと引き戻した。


「旦那様?」


「急がなくていい」


「でも、王城からの、それも陛下からの呼び出しです」


「呼ばれたからといって、慌てて飛び起きる必要はない。俺たちは罪人ではない」


 起きる必要は大いにあると思う。相手は国王なのだから。

 けれど、彼は本気でそう考えているらしい。


「セバスチャン、返事はどうした」


「すでに、正午前には登城し、伺うとお伝えしております」


「勝手に時間を決めたな」


「これ以上遅らせますと、奥様の身支度および朝食に差し障りますので。旦那様はお着替えだけで済みますが、奥様はそうはまいりません」


「……ちっ」


 珍しく、ギルベルト様がはっきりと舌打ちをした。

 私は慌てて彼の胸元を振り返る。


「旦那様、陛下に対してそのような不敬な態度を」


「陛下にしていない。気が利きすぎるセバスチャンにだ」


「それもよくありません。セバスチャンは私のために言ってくれているのに」


「お前が今すぐ起きるというなら許す」


「それは、最初からそのつもりで起きようとしていました……」


 私がそう言うと、ギルベルト様はひどく不満そうな、俺から妻を引き剥がす気かと言わんばかりの顔をしながらも、ようやく私の腰から腕を離し、解放してくれた。


   


 朝食を済ませ、王城へ上がるための昼の礼装に支度を整えたあと、私たちは侯爵家の馬車で再び王城へ向かった。

 昨夜のきらびやかで喧騒に満ちた大広間とは違い、近衛騎士に案内されて通されたのは、王城のさらに奥まった場所にある、静寂に包まれた謁見室だった。

 高いアーチ状の窓から冬の淡い陽光が差し込み、壁一面の重厚な書棚および、足音が消えるほど深い真紅の絨毯に囲まれたその部屋は、公的な謁見の間というより、王の私室に近い親密な空気を持っている。

 国王陛下は、昨夜の威圧的な夜会の正装ではなく、比較的簡素だが質の良い昼の礼装姿で、上座の椅子に深く腰掛けて待っていた。

 それでも、部屋の空気を一瞬で支配する王者の威厳は変わらない。


「よく来た、ヴォルガード侯爵、および侯爵夫人」


「急なお召しに与り、恐悦に存じます」


 ギルベルト様が簡潔に、しかし隙のない礼を取り、私もそれに倣って深くドレスの裾を摘んで頭を下げる。

 国王は私たちを見比べ、それからふっと、口元に少しだけ苦笑を浮かべた。


「昨夜は、余の城で不快な思いをさせたな、侯爵夫人」


「陛下……」


「王都の暇な貴族どもは、久しく面白い見世物に飢えておるのだ。あの辺境の覇者たる侯爵家が、噂の夫人を伴って初めて夜会へ現れたと知れば、下世話な好奇が集まることは余も分かっていた。だが、その悪意を完全に抑えきれなかったのは、この城の主である余の落ち度だ」


 私は驚きで目を丸くした。

 まさか、一国の王たる人物が、一介の貴族の妻にすぎない私に向かって、謝罪にも似た言葉を口にするとは思っていなかったからだ。


「も、もったいないお言葉です。陛下にそのようなお気遣いをいただくなど……」


「いや、よい。それに、侯爵家には古くから王家が大きな借りを作っている。殊に、ヴォルガードの名に代々付き纏う、あの忌まわしい“呪い”についてはな」


 その一言が落ちた瞬間、室内の空気が、急激に冷たく静かに沈んだ。

 ギルベルト様の端整な表情は一切変わらない。

 だが、その漆黒の目がわずかに細まり、警戒の色を帯びたのを私は見逃さなかった。


「何をお考えです、陛下」


「単刀直入に言おう」


 国王は椅子の肘掛けへ組んだ指を置き、まっすぐ、射抜くような目で私たちを見た。


「余は昨夜、侯爵夫人、そなたから常ならぬ気配を感じた」


「……」


「ヴォルガード侯爵、お前が常に纏っている魔力の荒れおよび呪いの淀みが、この夫人の傍にいる時だけ、奇妙なほど穏やかに鎮まっているのも見て取れた」


 私はごくりと息を呑んだ。

 やはり、昨夜のあの短い挨拶の間に、気づかれていたのだ。

 ギルベルト様を蝕む呪いが、私の傍では嘘のように鎮まること。

 そのことは、侯爵邸の内々ではもはや隠しきれない事実となっていたけれど、王城の、それも一国の王に見抜かれるというのは、まるで別の恐ろしい重みがある。


「昨夜の件に対する詫びおよび、もうひとつ。お前たちを呼んだ理由だ」


 国王は言葉を切り、壁際に控えていた侍従へ視線を送った。

 すると侍従が一礼し、一通の封蝋がされた許可証らしき羊皮紙を銀盆に載せ、私たちの前へ恭しく運んでくる。


「王家地下書庫への立ち入りを、特別に許す」


「地下書庫……?」


「王城の最下層にある、王家のみが管理する秘蔵の文書庫だ。建国期の真実の記録、禁書に近い危険な古文書、および――聖女および呪いに関する記録も、一部そこに保管されている」


「……陛下」


 ギルベルト様の声が、地を這うようにわずかに低くなった。

 それは、思いがけない提案に対する驚きおよび、王家の真意を探る警戒が半分ずつ混じった、極めて危険な音だった。


「なぜ、それを今になって」


「お前が当主となってから、ずっと長く求めていたものだからだ、ヴォルガード侯爵」


「……」


「余は、お前の一族にかけられたものを『ただの忌むべき呪い』と片付けて血を流させることに、長く疑問を抱いていた。だが、王家の地下書庫に眠る古文書は、容易く外へ出せる類のものではない。王家の根幹を揺るがす事実も含まれている」


「それを今、このタイミングで許可なさるのですね」


「侯爵夫人が、お前の隣に現れたからだ」


 国王の鋭い視線が、再び私へと向いた。

 それは罪を責めるでもなく、利用価値を値踏みするでもない。ただ、長年の謎に対する答えを確かめるような、真剣な眼差しだった。


「余は見たいのだ。ヴォルガード家に長く絡みついた、血塗られた謎の先に、本当は何があるのかを」


「……分かりました」


 返事をしたのは、私ではなく、ギルベルト様だった。

 私はその硬い横顔を見上げる。

 彼は微塵も迷っていないように見えた。

 それどころか、胸の内で長年探し求めていた重い扉がようやく開く、その直前の静かな昂りすら、彼から感じられる。


「ただし」


 ギルベルト様が、国王に向かって一歩も引かない低い声で続ける。


「妻に心身の負担がかかるような内容であれば、その場ですぐに中断し、引き上げます」


「構わぬ。必要であれば、最高位の宮廷魔術師も待機させよう」


「不要です。俺が守ります」


「そう申すと思うたぞ」


 国王は短く苦笑し、それからごく静かに、重みのある言葉を落とした。


「侯爵夫人」


「は、はい」


「もし地下書庫で、そなたの出自および呪いに関して、何かを見ることになっても、決して恐めるな。真実は、時に人を深く傷つけることもあるが、知らぬまま人を縛り続ける重い鎖でもある」


「……はい」


 私は小さく、けれどしっかりと頷いた。

 胸の奥で、緊張で鼓動が少しずつ速くなるのを感じる。

 王家地下書庫。

 そこに、旦那様を長年苦しめてきた『呪い』の正体が眠っているかもしれない。

 そう思うと、どんな残酷な真実が待っているのかと怖かった。

 けれど同時に、どうしても知りたいとも思った。

 この強く優しい人を、内側から蝕んできたものが何なのか。何の力もないはずの私が、この人の傍で起こしている不思議な現象が何なのか。もしそれを知れたなら、私はもっと確かな形で、彼を支える妻として隣に立てるのではないかと、そう思ったのだ。


   


 王家の地下書庫は、文字通り王城のさらに地中深く、忘れられたような場所にあった。


 王の腹心の侍従に案内され、私たちは王城の裏手に近い人気のない回廊を抜け、一般の貴族および文官は決して通らぬ、苔むした石造りの螺旋階段を延々と降りていく。

 階段は深く、底が見えないほど長い。

 上から差していた自然の陽光はすぐに届かなくなり、代わりに冷たい石壁に等間隔で据えられた魔導灯が、青白い無機質な光で足元を照らしていた。

 下へ行くほど、肌を刺すように空気が冷える。

 けれど、それは単なる冬の気候の冷たさとは少し違う。

 長く閉ざされた石の匂いおよび、膨大な紙の匂い、および厳重な魔術の気配が複雑に混ざり合った、静かで重苦しい冷気だ。


「寒くないか」


 横を歩くギルベルト様が、私の肩を抱くようにして低く問う。

 私は首を振った。


「大丈夫です。ドレスの下も暖かいですから」


「無理はするな。痩せ我慢はすぐに見抜くぞ」


「はい」


「少しでも空気が合わず気分が悪くなったら、すぐに言え」


「はい」


「足元が暗い。階段で躓くなよ」


「躓きません」


「……ならいい」


 こんな王城の地下深くに向かう時でさえ、いつも通りの過保護な確認の連続だった。

 そのはずなのに、こういう重苦しい場所に来ると、その少し呆れるような低い声が、いつも以上に私の心を支えるように心強く聞こえるから不思議だ。

 やがて果てしない最後の階段を下りると、行く手を阻むように巨大な鉄扉が現れた。


 扉には王家の紋章が大きく刻まれ、その周囲には、素人目にも分かるほど複雑な古い術式文字が、幾重にも重なるように刻まれている。その扉の前には、ランプを手にした白髪の老書庫番が一人、幽霊のように静かに立ち、深い礼とともに待っていた。


「お待ちしておりました、ヴォルガード侯爵閣下。陛下より、特別の立ち入り許可を承っております」


「ご苦労」


 ギルベルト様が短く答える。

 老書庫番は私へも恭しく一礼すると、扉の術式の中心へ、首から下げていた古めかしい鍵を差し込んだ。

 ガチャン、という腹の底に響くような重たい金属音とともに幾重もの封印が解かれ、鉄扉が軋みを上げながらゆっくりと開いていく。

 その向こうには、想像を絶する暗く深い世界が広がっていた。


 果てが見えないほど奥まで続く、黒檀の書架。

 高いアーチ状の天井まで、隙間なく積み上げられた古書および巻物の山。

 古代文字の刻まれた石板、厳重に魔術で封印された木箱、色褪せた古地図、呪歌の譜面、複雑な魔法陣の写本。

 王家地下書庫は、ただの図書館などではなく、まるでこの国の歴史の暗部をすべて封じ込めた墓所のような場所だった。


「すごい……」


 思わず、ため息のような声が漏れる。

 その一言しか出てこない。

 空気は完全に静まり返っているのに、ここには無数の人間の時間が、生きたまま沈殿しているような恐ろしい気配があった。


「侯爵夫人および閣下が閲覧を希望される分野につきましては、すでにある程度、こちらで関連資料を選別しております」


 老書庫番が、ランプで足元を照らしながら案内して言う。


「建国期の聖女に関する伝承、ヴォルガード家初代当主に関する王家の公式記録、呪詛の発生および研究史、および――失われたとされる光系統魔術に関する禁書群です」


「ありがとうございます。助かります」


「ただし、文献の一部、特に核心に迫るものは、もはや使われていない古代語で記されております。必要であれば、王属の学者が記した簡易の訳注本をご用意いたしますが」


「不要だ」


 即座に答えたのは、ギルベルト様だった。


「原本を直接見る」


「かしこまりました。では、こちらへ」


 私は少しだけ驚いて隣を見上げた。

 旦那様が当主として高い教養を持ち、古代語にある程度通じていることは知っていたけれど、ここまで迷いなく即答するとは思わなかったからだ。


「旦那様、あの古い文字が読めるのですか」


「一通りはな。暗号解読の訓練の延長だ」


「すごい……」


「お前が目を丸くして感心するようなことではない」


「でも、本当にすごいです。私なんて、ちんぷんかんぷんで」


「この地下書庫にいつか入る機会があるなら、自力で読めなければ、王家に都合よく改ざんされた訳本を読まされて困るだろう」


「もしかして、ずっとここへ来る前提で勉強を?」


「王家には、俺の家への借りがあるからな」


 さらりと恐ろしいことを言われたが、普通の人は、その王家への借りを盾にして地下書庫へ入ろうなどと執念を燃やしたりはしないと思う。

 書庫番が案内してくれたのは、書架の迷路を抜けた先にある、奥まった円形の閲覧室だった。

 中央に広大な石机があり、その周囲に、傷みやすい古い本を広げるための斜めの補助台がある。四方には目的別に分類された資料の棚が並び、無数の魔導灯の青白い光が、用意された紙面を静かに照らしていた。


「閲覧中は、こちらには誰も入りません。何か必要があれば、その呼び鈴を鳴らしてください」


 書庫番が深く一礼し、鉄扉の外へ下がる。

 どうやら国王は、私たちにある程度の自由な時間および空間を与えるつもりらしい。


「……始めるぞ」


 ギルベルト様が、埃を払うようにして最初の古い公式記録を開いた。

 そこからの時間は、息をするのも忘れるほど不思議なほど濃密だった。

 建国期の血生臭い王国史。

 初代ヴォルガード侯の、人間離れした凄まじい軍功記録。

 国境防衛戦の最中に起きた、大規模な魔力暴走および異常災害の報告書。

 “呪い”と呼ばれる現象が、初めて観測された最古の目撃例。

 代々のヴォルガード当主が残した、発狂および早世に至る生々しい体調記録。

 および、それらの惨劇の記録のところどころに、暗号のように出てくる、不穏で不可解な言葉たち。

 

 “光を帯びた巫女”

 “浄めの伴侶”

 “調律”


 私は旦那様の隣にぴったりと寄り添い、自分が読める共通語の部分を必死に追い、難しい古代語の箇所は彼に簡単に訳してもらいながら、バラバラになった歴史の断片を繋いでいった。


「……『初代当主アルヴェインは、北方の巨大な瘴気溜まりをその身に封じし後より、夜ごと身を灼く黒炎の痛みに苦しみ』……」


「そこだ。続きはどうなっている」


「『その強大なる力、器に余りて己の肉を蝕み、傍らに侍る者すらをも熱で枯らす』……これが、あの呪いの始まり……?」


「少なくとも、この最初の記録が書かれた時点では、王家はこれを呪いとは呼んでいない。ただの力の代償だ」


 ギルベルト様は慎重に次の頁をめくり、長い指先で古代語の記されたある一節を示した。


「『対となる光の器を得るまで、その内なる力は決して鎮まらず、荒ぶる』」


「対となる、光の器……」


 ぞくり、と背筋を冷たい手が撫でた気がした。

 その言葉が、妙に私の胸の奥へ深く引っかかる。

 まるで、他人事ではなく、自分自身のルーツに関わる決定的なことを読んでいるような、落ち着かない感覚だった。

 さらに、埃を被った記録を追う。

 すると、木箱に収められていた、もっと古い羊皮紙に辿り着いた。

 それは劣化が激しく、ところどころ虫食いで判読不能だったが、辛うじて読める一節があった。


『ヴォルガードの類稀なる力は、災厄を己の内に呑むための力なり。されど強大すぎるがゆえ、ひとたび均衡を失えば己の精神および周囲の命を蝕む。ゆえに王は、聖女の系譜より最も濃き光の娘を選びて娶らせ、闇および光をもって永遠の調律を成した』


 私は、その文面を見て息を忘れた。


「調律……」


「……」


 ギルベルト様の深い沈黙が、逆にその言葉の逃れられない重さを伝えていた。


「旦那様、これって……つまり」


「まだ、たった一枚の紙切れで断定はできない」


「でも」


「次を読め」


 彼の声は低く、および感情を抑え込むように静かだった。

 けれど、その声の奥には、私と同じだけの、あるいは私以上の激しい緊張および昂りがあるように感じた。

 さらに別の、紐で縛られた文書を開く。

 今度は、建国から少し後の時代に編纂された、王家の詳細な系譜録の一部だった。

 そこには、初代ヴォルガード侯に嫁ぎ、彼を救ったとされる“聖光の巫女エレナ”の名および、その血筋が後に政治的混乱および権力闘争の中で王都から追放され、地方の小貴族家へといくつも枝分かれしていったことが記されている。


「枝分かれした先の、家名は……」


 私は暗い青白い光の中で紙面を追い、目を凝らして眉を寄せた。

 古い崩し字はひどく読みづらい。

 けれど、そこに並んでいた幾つかの没落した家名の中に、見覚えのある、決して見間違えようのない綴りがあった。


「……ルーメリア、アストレ、ベルグラント……それから……バル、ト……?」


「見せろ」


 ギルベルト様が私の横へ身を寄せ、私の肩越しに紙面を覗き込む。

 彼の吐息がかかるほど近い。けれど今は、そんないつもの距離感に動揺する余裕すら私にはなかった。


「……バルトレイン。いや、時代が下れば、発音および綴りが変わるな」


「バルト……」


「バルトフェルトに、極めて近い」


 その決定的な一言が落ちた瞬間、私の頭の中で、何かがガシャンと大きな音を立てて崩れ落ちた。

 バルトフェルト。

 私を冷たい物置に閉じ込め、最後は生贄として差し出した、あの実家の家名。


「まさか……」


「可能性は高い。偶然にしてはできすぎている」


 ギルベルト様の声が、いっそう低く、地を這うように響く。

 私は古い紙面を見つめたまま、身体の芯が急速に冷たくなるのを感じた。

 では、私の実家は。

 私を無能だと蔑んだあの伯爵家は。

 伝説の聖女の末裔の血を、彼ら自身が知らずにか、あるいは長い歴史の中で忘れたまま、ただの貴族の血として継いでいたのだろうか。


 ふと、幼い頃に死別した母の顔が脳裏に浮かぶ。

 優しかった、お母様。

 白く細い指先。泣いている私の髪を、何度も撫でてくれた温かな手。

 私がまだ幼い頃、庭の隅で具合を崩して動けなくなった小鳥を抱えて泣いていた時、母はその鳥をそっと受け取り、両手で包み込んで「大丈夫よ、エルサ」と優しく微笑んでいた。翌朝には、死にかけていたはずのその鳥が、嘘のように元気を取り戻して空へ飛び立っていったことを、私は今、薄布を剥がすようにぼんやりと思い出す。

 あれは、ただの幸運な偶然ではなかったのだろうか。


「……お母様、も?」


 知らず唇から零れたその震える声に、ギルベルト様が視線を向ける。


「分からない。だが、お前に流れているその不思議な力が、没落した母方の血筋から色濃く発現して受け継がれた可能性は十分にある」


「そう、ですか……」


 胸の奥がぎゅっと、引き絞られるように痛んだ。

 悲しいのか、恐ろしいのか、それとも嬉しいのか、自分でも感情の正体が分からない。

 ただ、早くに亡くなった母が残してくれた見えないものが、私の中にまだ確かに生きていたのだと思うと、たまらず涙が滲みそうになる。


 だが、残酷な歴史の記録は、私の感傷など待たずに続く。

 さらに奥の書架に厳重に収められていた、封印箱の中の古い写本。

 それは古代の神殿文書を王家が密かに写し取ったものらしく、黄ばんだ紙面の中央に、威圧的な大きな文字でこう記されていた。


『聖女とは、万人のために奇跡を振るう都合の良き者にあらず。

強大なるがゆえに暴走せし力を宥め、呪われし魂の歪みを調え、災厄を自らの内で鎮める、ただ一人のための光の依代なり』


 および、そのすぐ後に続く一文。


『対なる闇を持つ者は、その光に触れて初めて、真の安寧を知る』


 私はゆっくりと、震える指先でその古代の文字をなぞった。


「……旦那様の、一族を蝕む呪いは」


「誰かにかけられた、ただの悪意ある呪詛ではない、ということになる」


「強すぎる代償の力が、己を制御できず、対となる光の存在を求めて、ずっと暴走していた……」


「歴史書通りに読めば、そうなる」


「だから、私が傍にいると」


「俺の痛みが鎮まる」


 私に代わって答えたのは、ギルベルト様だった。

 けれど、その声にはいつもの絶対的な断定の強さが、少しだけ欠けていた。

 まるで、自分の口でその真実を言うことが、ほんの少しだけ恐ろしいかのように。

 私は羊皮紙からゆっくりと顔を上げる。

 ギルベルト様も、息を詰めたようにこちらを見ていた。

 この人が抱えてきた痛み。

 幼い頃からの終わりのない苦しみ。

 傍にいるだけで大切な人を蝕むという、理不尽で絶望的な孤独。

 それがもし、ただの呪いではなく、生まれつき背負わされた防衛者の“役目”の歪みだったのだとしたら。

 あまりにも、残酷すぎる。


「旦那様……」


 私は思わず、彼の冷たくなった手へ触れた。

 すると彼は一瞬だけ痛みを堪えるように目を伏せ、それから私の細い指を、折れるほど強く握り返す。


「まだ、ここにある紙切れで全部の謎が分かったわけじゃない」


「はい」


「だが、少なくとも、お前がなぜ俺の痛みを消せるのか、なぜここにいるのか、その理由はこれで説明がつく」


「……」


 その言葉は、私を安心させるための、とても静かな響きだった。

 彼の不器用な優しさから出たものだったのかもしれない。

 でも、私はその瞬間、胸の奥に、先ほどの母への感傷とはまったく別の、冷たい鋭い痛みが生まれるのを感じた。


 “理由がつく”。


 それは、つまり。

 私がこの屋敷に、彼の隣に必要とされた理由が、エルサという私自身ではなく、私の中に流れる“聖女の光”という機能にあるということではないのだろうか。

 その卑屈な考えが、一度頭へ浮かんだ途端、呪いのようにこびりついて消えてくれなかった。

 これまでだって、私は一人になると何度も不安になってきた。

 私はただ、彼の呪いを鎮めるための便利な道具なのではないか。

 旦那様はこんなにも私に優しいけれど、それは私が彼に安寧をもたらす『薬』として役に立つからではないのか。

 昨夜の夜会を経て、彼が私を守ってくれたことで、少しだけその不安は薄れたと思っていたのに。

 なのに今、こうして王家の古文書の形で、決定的な“理由”が示されてしまうと、まるで言い逃れのできない現実を突きつけられたようで、逃げ道がなくなる。


「……そう、ですよね」


 自分でも驚くほど、ひどくかすれた、惨めな声が出た。

 私の声の異変に、ギルベルト様の眉が、ぴくりと動く。


「エルサ?」


「私が、聖女の血を引いているから」


 言葉が止まらなかった。

 止めたかったのに。


「だから……旦那様は、私にこんなにも優しくしてくださるのですね」


 沈黙が落ちた。

 地下書庫の空気はもともと氷室のように冷たいはずなのに、その瞬間だけ、逆に息が詰まるほど重い熱を帯びた気がした。

 しまった、と思った時にはもう遅い。

 ギルベルト様の漆黒の目が、すっと細くなる。

 その刺すような視線に、私はたまらず一歩だけ後ずさった。

 けれど背中にはすぐ、冷たい石壁があった。閲覧室の机から少し離れた、奥の書架および壁の間の狭い空間。いつの間にか私は、逃げ場のない暗がりへ追い込まれていた。


「……今、何と言った」


 声が低い。

 激しく怒っている時の声だ。

 けれど、その怒りの向かう先が私自身なのか、私が口にした言葉そのものなのか分からなくて、余計に怖い。


「わ、私は……」


「もう一度言え」


「旦那様、あの、怒らないで」


「言え」


 逃げられなかった。

 私は恐怖で唇を震わせながら、どうにか肺に息を吸う。


「……私が、聖女だから」


「その先だ」


 黒曜石のような深い瞳が、私の目を決して逃がさない。


「だから、私に優しいのかと……」


「違う」


 即答だった。

 一分の迷いもない、刃のような否定だった。

 けれど私は、あふれ出した感情の波に飲まれ、そこで止まれなかった。

 止まりたかったのに、実家で長年虐げられ、心の底に黒い澱のように溜まっていた「自分は無価値だ」という劣等感が、勝手に言葉になって溢れてくる。


「でも、王家の文書にもはっきりと書いてありました……! 対となる光が必要だって。たまたま私がいたから、旦那様の長年の痛みが消えて、呪いが鎮まって……だから大事にしてくださっているんでしょう!?」


「エルサ」


「私じゃなくても、もし私より美しくて、同じ力を持つ聖女の方がいれば、旦那様は」


「黙れ」


 次の瞬間だった。

 ドン、と鈍い音がして、ギルベルト様の大きな手が私の肩の脇、石壁へ強く叩きつけられた。

 私はその腕の中に閉じ込められ、石壁へ軽く押しつけられる。

 逃げ道を完全に塞ぐように、彼の熱を持った身体が近づく。

 圧倒的な体格差および、彼から放たれる気迫に、息が止まる。


「旦那様……!」


「お前は本当に、自分の価値のことになると、どこまでも救いようがなく鈍いな」


 その声音は確かに怒っている。

 けれど、その奥にあるのは私への軽蔑でも呆れでもない。

 ひどく傷ついたような、切迫した、焦るような熱だった。


「俺が、いつお前を“呪いを鎮めるのに便利だから”抱いた」


「……っ」


「いつ、お前が道具として役に立つからといって、お前に笑いかけた」


「でも、最初から」


「いつ、俺が夜中にお前の無防備な寝顔を見て、それだけで胸が安堵した理由が“お前が聖女だから”だったと、俺が言った」


「……」


「答えろ」


 答えられなかった。

 そんなこと、一度も言われたことはない。

 分かっている。頭では。

 この人の私へ向ける熱を帯びた視線が、壊れ物に触れるような触れ方が、不器用な言葉の数々が、そんな打算および機能への対価だけでできていないことくらい、本当はとっくの昔に知っている。

 なのに怖いのだ。

 無条件で誰かに愛されるということを知らず、何か理由および価値がなければすぐに捨てられると思い込んで生きてきた年月が、彼の愛を信じることを許してくれない。

 その私の根深い迷いおよび怯えを見抜いたのだろう。

 ギルベルト様の目が、ますます暗い熱を帯びる。


「言葉で分からないなら、教えてやる」


 そう言った次の瞬間、私の震える唇が、彼の唇によって強引に塞がれた。


「――っ」


 激しい、とっさにそう思った。

 けれど、決して私を傷つけるような乱暴さではない。

 絶対に逃がさない、俺のものだという強烈な意志だけが、痛いほど真っ直ぐに伝わってくる、熱を帯びた口づけだった。

 背中に当たる地下の石壁がひどく冷たい。

 それなのに、彼に触れられている場所はすべて火傷しそうに熱い。

 私の肩を囲み、逃げ場を塞ぐ腕も、驚いた顔を固定するように頬へ添えられた指も、私の息を根こそぎ奪うその唇の感触も。

 頭の中が、思考を放棄して真っ白になる。

 抗うどころか、彼にすがる以外、何も考えられない。

 やがて、深く長い口づけの末に、ようやく唇が離れた時、私は荒い息を乱しながら、立っていられずに壁へ寄りかかるしかなかった。

 涙で視界が揺れる。

 ギルベルト様の端整で、今はひどく切実な顔が、すぐ目の前にある。


「旦那様……」


「よく聞け」


 彼の額が、私の額へこつんと触れるほど近い。

 地を這うような低い声が、私の胸の奥、心臓のど真ん中へ直接落ちてくる。


「お前が伝説の聖女だろうが、何の力もないただの女だろうが、俺には関係ない」


「……」


「俺の魂は、最初からお前という人間だけを求めていた」


 息が、止まる。


「お前が俺の屋敷に来て、あの恐ろしい呪いの気配の中で、怯えながらも逃げなかった時からだ」


「旦那様……」


「小鳥のように震えながら、それでも俺の前に立ち、帰れないと言った時からだ」


「……」


「お前が来て、俺の痛みが消えたのは事実だ。呪いが鎮まるのも事実だ。だが、俺はだからお前を欲したんじゃない」


 彼の大きな指が、私の濡れた頬をそっと、愛おしげになぞる。

 触れ方はどこまでも優しいのに、言葉は私の逃げ道を塞ぐように容赦がない。


「お前だったからだ」


「……っ」


「俺を恐れながらも見つめ返す、お前の目だった。俺を呼ぶ、お前の声だった。自分を何一つ大事にできないくせに、俺の痛みにはためらわずに手を伸ばす、その愚かなほど優しくて不器用なところだった」


「私、は……」


「聖女だとか、調律の光だとか、そんな王家の書庫にあるような御大層なものは、俺が惚れた後から勝手についてきた、ただの理由にすぎない」


 私はあまりの独白に、涙が、勝手にぼろぼろとこぼれ落ちた。


「でも、もし私にその力がなかったら」


「それでも、俺はお前を妻にする」


「もし、私の光で呪いが鎮まらなかったら」


「それでも、絶対に離さない」


「もし、私が旦那様を助けられなかったら」


「お前が俺の傍で息をしているだけで十分だと、何度言わせる」


 私は泣き声を漏らさないよう、強く唇を噛んだ。

 泣きたくないのに、彼に愛されているという安堵および喜びで、涙が止まらない。

 ギルベルト様は、そんな子供のように泣きじゃくる私を見て、自分が泣かせたというのに苛立ったように眉を寄せる。

 けれど次の瞬間には、私の頬を包み込み、その涙を親指の腹で何度も何度も拭った。


「お前はいつも、俺に愛されるための理由を探す」


「……」


「そんなものは、俺とお前の間にはいらない」


「でも、私は、何も持っていなくて……」


「お前がいるだけでいいと、俺が言っている。俺のすべてはお前のものだ」


「……」


「これ以上、俺の言葉を疑うな」


 その強い一言は、絶対者の命令のようでいて、どこか私にすがるような懇願にも似ていた。

 私はその響きに、ようやく、本当に気づくる。

 この人もまた、怖いのだ。

 私がいつまでも、自分の向けた愛を信じてくれないことが。

 呪いおよび聖女の力といった都合のいい機能のせいにして、自分の必死な想いそのものを、軽く扱われ、突き放されることが。


「……ごめんなさい」


 喉の奥から絞り出すようにそう言うと、ギルベルト様の漆黒の目がわずかに揺れた。


「謝るな」


「でも、私は旦那様の本当の気持ちを、勝手に」


「そうだ。俺の想いを、勝手に値引くな」


 その不満げな言い方が少しだけ彼らしくて、私は泣きながら、ほんの少しだけ声を出して笑ってしまった。

 するとギルベルト様は、憑き物が落ちたように深く、長い息を吐く。


「やっと、まともな顔をしたな」


「ひどい顔で泣いていますけれど……」


「理由を探して絶望している顔より、俺の腕の中で泣いているお前の方がずっとましだ」


 そのまま彼は私をぐっと引き寄せ、自分の分厚い胸へ深く抱き込んだ。

 先ほどの無理矢理に唇を塞ぐ激しい口づけとは違う、私という存在のすべてを包み込むような、温かい抱擁だった。

 私はその広い胸へ額を押しつける。

 硬い胸板越しに、彼の鼓動が聞こえる。

 ドクン、ドクンと、とても速い。

 冷静な彼らしくなく、少しだけ乱れている。


「旦那様も、私の言葉で動揺なさるのですね」


「全部お前のせいだ」


「すみません……」


「だから、謝るなと言った」


「はい……」


 その他愛のないやり取りが、ひどく安心した。

 あんなに歴史の重みに押し潰されそうだったのに、いつもの私たちだ、とようやく思えたからだ。

 しばらくその温もりに浸っていると、離れた入り口の場所から、ごほん、とわざとらしい咳払いが聞こえた。


「……失礼。お取り込み中のところ、誠に恐縮ですが」


 案内してくれた老書庫番だった。

 私は弾かれたように飛び上がり、ギルベルト様の胸から離れ、顔を火が出るほど真っ赤にする。

 いつからそこにいたのだろう。いや、たぶん私が泣き出した結構前からいただろう。もう思い出したくもない。

 書庫番は、私たちの乱れた気配に気づかないふりをして、あくまで老練な無表情を保ったまま、一冊の特に古い装丁本をこちらへ差し出した。


「追加で、国王陛下より直接、閲覧許可が下りた資料が見つかりました」


「……今でなければならないのか」


 ギルベルト様が、邪魔された怒りで人を殺しそうな低い声を出す。

 しかし書庫番は、辺境の覇者の殺気にまったく怯まずに答えた。


「はい。今でございます」


 強い。


 王家地下書庫の番人は、少なくとも王都の有象無象の貴族たちより、よほど肝が据わっていた。

 私たちは激しい気まずさを抱えたまま、書庫番から差し出された本を受け取る。

 だが、その羊皮紙に記された内容は、先ほどまでの感情の余韻を吹き飛ばすほど、極めて重要および危険なものだった。


 そこには、歴代のヴォルガード当主の苦しみの記録に加えて、“光の調律者”たる聖女が失われた後の、王国の惨状が詳しく記されていた。

 抑えきれなくなった呪いの悪化。

 発狂および自害する当主たちの短命。

 彼らの傍に近づいた近侍および、名乗りを上げた花嫁候補たちの原因不明の体調不良および死。

 および、王家が長年、その原因を「一族固有の呪い」としか扱えず、真相へ届かなかった政治的な経緯。

 さらに末尾には、予言のような文体でこう記されていた。

『再び光の系譜が現れし時、ヴォルガードの力は本来の守護の形へ還るであろう。

されど、その光を政争の具とし、権力闘争および個人の利用の具とすれば、国はまた大きな均衡を失う』

 私はその一節を見て、背筋がぞくりとした。


「政争の具、利用の具……」


「つまり、王家も含めて、誰かがお前の持つ“聖女の光”を道具として扱おうとすれば、国がまた歪むということだ」


 ギルベルト様が、記録を睨みつけながら低く言う。


「だからこそ、王家はこの記録を長年、地下書庫の奥深くに閉ざして隠していたのかもしれませんね」


「……あり得る」


 私はゆっくりと、重い古書の頁を閉じた。

 侯爵家の呪いの真相は見えた。私の存在理由も。

 けれどそれは、安堵と同時に、王都での新しい強烈な緊張も連れてくるものだった。

 もし私が本当に“聖女の末裔”であり、侯爵の力を制御できる鍵だと知れ渡れば、その噂は王都の社交界だけに留まらないだろう。


 聖女の力を求める者、私を政治的に利用しようとする者、あるいはヴォルガード家を陥れるために私を排除しようとする者。様々な悪意および思惑が、甘い顔をして寄ってくるかもしれない。

 その暗い考えが、不安として顔に出たのだろう。

 ギルベルト様が、すぐに私を見て顎を引いた。


「また、余計なことを考えているな」


「……少しだけ」


「言え. 一人で抱え込むな」


「もし、この私が聖女の血を引いているということが広まったら」


「広めさせない」


「でも、噂は完全には防げません」


「なら、お前に近づくものを、文字通りその命も、社会的にも全部潰す」


「物騒すぎます」


「俺は本気だ」


 やはり、微塵も冗談を含まない真顔だった。

 けれど、先ほどの口づけの前とは違う。

 今の私は、その極端な言葉をただ恐ろしいとは思わない。

 そこにあるのが、どんな手段を使ってでも私を守り抜こうとする、彼の焦りおよび覚悟だと、痛いほど分かるから。


「……お願いします。旦那様」


「当然だ. 俺の後ろに隠れていろ」


 そう返す声は、静かで、山のように力強かった。


   


 結局、私たちは地下書庫で予定よりもはるかに長い時間を過ごした。

 王家の機密であるため、必要な文書の写しを自分たちで取ることは許されなかったが、要点は王家認可のもとで、後日公式な控えを作成してもらえることになった。

 私たちが書庫を出て、地上への階段を上りきる頃には、すでに外の光は夕方へと傾きかけていた。

 帰りの薄暗い石階段を上りながら、私は何度も、後ろを振り返りたくなった。

 あの深く冷たい地下の書架の中に、彼を苦しめてきた過去のすべてが眠っている気がしたからだ。

 けれど同時に、あの場所に置いていけるものもあった気がする。

 少なくともひとつ。


 “旦那様は、私が呪いを鎮めるために役に立つから優しいのではないか”という恐れの、いちばん冷たく深い部分は、あの場所に置いてきた。


 完全に消えたわけではない。

 実家で長年染みついた「私は愛されない」という自己否定は、そう簡単には剥がれない。

 それでも、あの暗がりでぶつけられた彼の言葉は、確かに私の胸の奥に、消えない火として残った。

 

――お前が聖女だろうが、ただの女だろうが関係ない。

――俺の魂は、最初からお前だけを求めていた。


 王城を出て、別邸へ戻る広々とした馬車の中、私は彼の肩に寄りかかりながら、そっと窓の外を見た。

 冬の王都は薄い茜色の夕陽に染まり、家路を急ぐ人々の往来もどこか慌ただしい。

 あの王都の喧騒の中に、これからどんな私たちの噂が広がっていくのか、今はまだ分からない。

 でも、ひとつだけはっきりと自覚していることがある。

 私は、ただ一方的に守られているだけの、か弱い小鳥ではない。

 この人の長年の苦しみを鎮める、たったひとつの光でもあり、および何より、この不器用な人が選び取った、たった一人の妻でもあるのだ。

 その事実が、胸の奥で静かに、けれど強く灯っていた。

 別邸へ戻ると、玄関で待っていたセバスチャンが、彼にしては珍しく、わずかに険しい顔で私たちを出迎えた。


「旦那様、奥様. お帰りなさいませ」


「何かあったか」


「はい. 隣国より、予定外の急な外交使節が、本日午後、王都へ入ったとの報せが先ほど届きました」


「……隣国?」


「はい. しかも先触れによれば、使節団の先頭に立つのは、隣国の王太子殿下ご本人とのことです」


 私は驚いて、思わず玄関ホールで足を止めた。

 一国の王太子が、予定もなく自ら使節としてやってくる?

 それは明らかに、ただの形式的な友好訪問ではない。

 ギルベルト様の目が、すっと細くなり、氷のような光を宿した。


「目的は分かっているのか」


「公式にはまだ不明にございます. ただ」


 セバスチャンは一瞬だけ、懸念するように私へ視線を向け、慎重に言葉を選んだ。


「王都ではすでに、昨夜の夜会における“呪いを鎮める光のような侯爵夫人”の噂が、尾鰭をつけて広まりつつあるようでして. 隣国の密偵が、それに食いついた可能性も否定できません」


 その言葉に、地下書庫で読んだあの一文が、不吉な予感となって頭をよぎる。


 ――その光を政争の具とし、利用の具とすれば。


 私は無意識に、隣に立つギルベルト様の袖をきつく掴んだ。

 すると彼はすぐに私のその震える手を握り返し、私だけに向ける低い声で告げた。


「心配するな」


「……はい」


「誰が来ようと、相手が王族だろうと同じだ」


「旦那様」


「俺の妻に手を出そうとするなら、国ごと燃やして容赦はしない」


 その声音は、恐ろしいほど静かだった。

 だが静かだからこそ、彼の底知れない覚悟および狂気が伝わってくる。

 こうして、王家地下書庫で呪いの真実の一端へ触れたその日の夕暮れ。

 私たちが真実を知ったのと同じタイミングで、私たちの前には、新しい波が確かに近づきつつあった。

 聖女の光を求めて。

 あるいは、私という利用価値を奪うために。

 王都へやってくる、美しい隣国の使者という名の、新たな厄介事が。

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