第14話 夜会の洗礼と、絶対防壁のワルツ
王城の夜は、暴力的なほどに眩しかった。
別邸を出て王城へ向かう馬車の中、私は防風の硝子窓の外を流れていく王都の灯りを見つめながら、膝の上でそっと両手の指を組み合わせ、きつく握りしめていた。
昼間に見た活気あふれる王都とは、またまったく違う顔をしている。綺麗に舗装された石畳の通りには、等間隔に配置された魔導灯が柔らかな黄金色の光を落とし、軒先の大きなガラス窓には夜のきらびやかな灯りが幾重にも映り込んでいる。行き交う人々の豪奢な衣装や、髪を飾る宝飾が、遠目にもきらきらと星のように輝いていた。
華やかで、洗練されていて、そしてどうしようもなく遠い世界。
こんな絢爛な場所に、冷たい物置で育った自分が足を踏み入れていいのだろうか。
そんな根源的な問いが、何度も胸の内で暗い泥のように頭をもたげる。
「また、ろくでもないことを考え込んでいるな」
地を這うような低い声が、すぐ隣から落ちてきた。
私ははっとして顔を上げる。
向かい合う席など、この巨大な馬車には初めから存在しないかのように意味がない。領地からの出発の時ほどではないにせよ、結局私はギルベルト様のすぐ隣、ドレスの布越しに彼の硬い太腿の感触が伝わり、ほとんど肩が触れ合う距離に座らされていた。いや、座らされているというか、彼の長い腕と分厚い身体によって、半ば囲い込まれていると言った方が正しいかもしれない。
月光を織り上げたような青銀のドレスを纏った私に対し、ギルベルト様は夜会用の最上級の正装を身に着けている。
無駄のない漆黒の礼装に、冷たい輝きを放つ銀の刺繍。広げた胸元には、辺境の覇者たるヴォルガード侯爵家の重厚な徽章が留められている。もともと血が通っていないかのように近寄りがたい美貌なのに、こうして完璧に正装するとそれがさらに鋭く研ぎ澄まされ、氷を削り出して作られた冷酷な王のような、圧倒的な威圧感を放っていた。
ただし、その氷の王は、私に向けてだけは、朝からずっと信じられないほど機嫌が悪い。
正確には、私に対して怒っているのではなく、大切に囲い込んでおきたい私を、わざわざ悪意と好奇に満ちた王都の社交界へ引っ張り出さねばならないという状況そのものに、心底腹を立て、不機嫌を極めているのだろうけれど。
「考え込んでは、いません」
「嘘だ」
「う……」
「お前は不安になると、無意識に指先をそうやって重ねて、白くなるまで強く握る」
「そ、そんな癖が……私に?」
「ある」
そんな些細な手元の動きまで、いつの間に見られていたのだろうか。
私は羞恥で頬を熱くし、思わず、きつく組んでいた指をほどこうとした。するとギルベルト様は、私のその手を逃さず大きな手で取り、分厚い革手袋に包まれた自分の掌の中へ、すっぽりと包み込んだ。
「旦那様」
「何だ」
「このままでは、また私の手が震えていると、旦那様に気づかれてしまいます」
「俺に気づかれて困るのか」
「……少しだけ」
「なら、そのままでいい」
「え?」
彼は私の冷たい指先を、親指の腹で安心させるように軽く撫でながら、淡々とした声で言った。
「お前が震えているなら、俺がその震えを止める。俺に対して隠す必要など、どこにもない」
「堂々と夜会という華やかな場では、堂々としていなければ……」
「夜会だろうが何だろうが同じだ」
「……」
言葉が続かなくなる。
本当にこの人は、私に対して「侯爵夫人らしく強く見せろ」とか「毅然と振る舞え」とは一度も言わない。
むしろ、お前は弱くても怯えていてもいい、その代わり、すべての悪意からお前を守るのは俺の役目だ、と呼吸をするように当然の顔で言う。
その不器用で重たい庇護が、今の私にはどんな甘い慰めの言葉よりも心強かった。
王城へ近づくにつれ、外の通りを走る馬車の数は劇的に増えていった。
扉に豪奢な家紋が刻まれた艶やかな車体。御者台を飾る色とりどりの派手な羽飾り。随伴する大勢の使用人や、武装した護衛の列。夜の宴へ集まる貴族たちの浮き立つような熱と華やぎが、分厚い窓硝子越しにも肌を刺すように伝わってくる。
やがて、王城の巨大な正門が視界に現れた。
夜空に向かって高くそびえる、堅牢な白い石壁。
大階段の両脇で、夜の闇を焦がすようにごうごうと燃え盛る篝火。
吹き抜ける冷たい夜風にバサバサと翻る、黄金の獅子を描いた王家の旗。
そして、次々と馬車が車寄せに到着し、着飾った高位貴族たちが、まるで舞台役者のように降り立っていく光景。
私はごくりと、乾いた喉を鳴らした。
「旦那様」
「なんだ」
「やっぱり、私、少しだけ怖いです」
「少しじゃないだろう。手が氷のように冷たい」
「……はい」
「分かっている」
ギルベルト様は低くそう言うと、馬車が車寄せで完全に止まる前に、私の腰へがっしりと腕を回した。
「扉が開いて降りる時は、俺だけを見ていろ」
「え?」
「長い階段も、周囲の景色も、群がる他の連中の顔も、一切見る必要はない」
「でも、社交の礼儀として、ご挨拶くらいは」
「俺が傍にいる。それで足りる」
「旦那様」
「十分すぎる。俺以外の有象無象に愛想を振りまく必要はない」
理屈がめちゃくちゃで乱暴だった。
けれど、その強引な乱暴さが、竦みそうになる私の足には今はひどくありがたい。
馬車が静かに止まり、扉の外で待機していた護衛の騎士が、到着の合図を送る。
次の瞬間、ギルベルト様は流れるような動作で当然のように立ち上がり、私の手を力強く引いた。
重い扉が外から開かれる。
夜の冷たい空気と、王城の眩しすぎる光と、そして息を潜めて待ち構えていた無数の視線が一気に車内へ流れ込んできた。
王城の広い正面階段には、これから入場しようとする、あるいは意図的に待ち構えていた多くの貴族たちがすでに集まっていた。
彼らは到着したのが辺境の覇者であるヴォルガード侯爵家の巨大な馬車だと認めた瞬間、扇の陰で露骨にざわめきを広げる。
『ヴォルガード侯爵だ。本当に王都の夜会に来たぞ』
『先触れは本物だったのか』
『おい、妻も一緒だぞ』
『あれが……あの呪われた侯爵に捧げられた生贄か?』
そのひそひそとした囁きは、耳を塞ぎたくなるほどあからさまで、悪意と好奇心に満ちていた。
けれど私は、馬車の中で言われた通り、ただ目の前に立つ人だけを見る。
闇夜のような黒い礼装。
冷たい月光を弾く白銀の髪。
彫刻のように冷たく整った、近寄りがたい横顔。
ギルベルト様は先に馬車を降りると、振り返って私へ片手を差し出した。
その手つきは、彼が戦場で剣を振るう姿からは想像もつかないほど驚くほどゆっくりで、丁寧で、まるで夜露に濡れて散ってしまいそうな花弁に触れるようだった。
「おいで」
周囲の喧騒を切り裂くような、静かで短い一言。
その低い声に導かれるように、私は小さく息を吸い、一歩を踏み出す。
青銀のドレスの長い裾を控えていた侍女が素早く整え、私は彼の手をしっかりと取って、王城の石の階段へ降り立った。
――その瞬間、周囲のざわめきが、明らかに異質なものへと変わった。
私の纏う青銀のドレスは、王城の燃えるような篝火と魔導灯の光を受け、本物の月光のようにやわらかく、そして神秘的に輝いた。
高く端正に整えられた首元の立ち襟、肌を一切見せないよう腕を覆う長袖、歩くたびに流れるような曲線を描く銀糸の刺繍、胸元に散らされた希少な白珠。王都の流行である過度な露出は、どこにもない。
けれど、その極端なまでの慎ましさと禁欲的な美しさが、かえって私の細い輪郭を静かに、および圧倒的な気品を持って引き立てていた。
「……」
「……あれが、あの侯爵夫人?」
「思っていたより、ずっと……」
「いや、思っていたのとは全然違う」
彼らの囁きは今度、下世話な好奇心だけでなく、明らかな戸惑いと、美しさに息を呑む気配を色濃く孕んでいた。
哀れな生贄。壊れかけた薄幸の娘。田舎者の壁の花。そうした彼らの勝手な想像と期待が、現実の私の姿とまったく噛み合わず、彼らの頭の中で音を立てて崩れ去っていくのが、肌で感じるほどよく分かるようだった。
ただし、それは決して私自身の力ではない。
この計算し尽くされたドレスを選び、職人に無茶な要求をして仕立てさせ、私をこの場へ立たせ、および何より、隣で堂々と私の手を取り、周囲を威圧してくれている人がいるからだ。
「前を向け」
低い、けれど絶対的な安心感を持つ声が耳元に落ちる。
「はい」
「俯くな。お前がこの場で恥じる必要など、何一つない」
「……はい」
私はもう一度小さく息を吸い込み、言われた通り、背筋を伸ばしてまっすぐに前を向いた。
大階段の上では、王城の洗練された侍従や、銀鎧を着た近衛騎士たちが、侯爵家の到着に合わせて緊張の面持ちで控えている。
彼らのような王城の人間でさえ、氷のようなギルベルト様と、その隣にピタリと寄り添う私を見る目に、隠しきれない驚愕とわずかな緊張を浮かべていた。
私たちが侍従の先導で大広間へ案内されると、その目に飛び込んできた途方もない豪奢さに、私は再び息を呑んだ。
見上げるほど高い天井からは、数え切れないほどのクリスタルガラスを連ねた巨大なシャンデリアが幾つも下がり、昼間のように広間を照らしている。金と白を基調とした壁面には、建国からの歴代の王や、伝説の聖女の姿が色鮮やかなフレスコ画で描かれている。塵ひとつなく磨き上げられた大理石の床には、貴族たちのドレスや光が水面のように映り込み、バルコニーに控える楽団が奏でる優雅な音楽が、広間全体をやわらかく、満ち潮のように満たしていた。
広間の壁際や端のテーブルには、見たこともないような豪華な料理と、琥珀色の酒が入ったグラスが並び、中央には、扇を揺らして談笑する貴族たちの輪が幾つもできている。
一見すると、誰もが笑顔を浮かべる、まばゆいばかりの平和な祝祭だった。
けれど、その実、ここは残酷なまでの観察と値踏みの場でもある。
誰が今夜の中心人物と話し、誰がどの位置に立ち、誰がどれだけ周囲の注目を集めているか。誰のドレスが流行遅れで、誰の宝石が偽物か。そんなものを瞬時に読み取って優劣をつけ、見えない刃で切りつけ合う、貴族たちの静かで血なまぐさい戦場。
そして今、この大広間にある数百の視線の大半が、明らかに、異物である私たち――辺境の『化け物当主』とその妻へと向けられていた。
「……っ」
その刺すような視線の豪雨に、胸がぎゅっと強張る。
その瞬間、ギルベルト様の太い腕が、私の腰へガッチリと回され、自分の身体へと引き寄せた。
「俺から離れるな」
「はい」
「俺の許可なく、誰の手も取るな。挨拶の口づけも許さん」
「はい」
「誰に名乗られても、お前から必要以上に笑いかけるな」
「え?」
「愛想笑いなどするな」
「そ、そこまで制限されるのですか」
「そこまでだ。俺以外の奴に笑顔を見せる必要はない」
あまりの独占欲に、私は恐怖よりも呆れが勝って、思わずほんの少しだけ、ふふっと笑ってしまった。
するとギルベルト様は、不機嫌そうに一瞬だけ目を細める。
「今のはいい」
「何がでしょう」
「その笑みは、俺に向けたものだからだ」
「……旦那様は、本当に」
「何だ」
「過保護で、強引すぎます」
「自覚はある。直す気もない」
堂々と開き直られて、私のガチガチに固まっていた緊張が少しだけほぐれる。
けれどその時、私たちの隙を突くように、敵の第一陣は早くも笑顔という仮面を被ってやってきた。
「これはこれは、ヴォルガード侯爵。ご無沙汰しておりますわ」
ねっとりとした、香水の匂いがきつい甘い声。
振り向けば、孔雀のように色鮮やかな装いをした中年の伯爵夫人と、その娘らしい流行のドレスを着た若い令嬢、および金魚の糞のように付き従う数人の取り巻きが、開いた扇の陰からこちらをねっとりと値踏みするように見ていた。
「このたびはようこそ王都へ。まさか、あの侯爵様が本当に奥方様を夜会へお連れになるとは思いませんでしたわ」
「……」
ギルベルト様は、挨拶を返すどころか、視線すら合わせず完全に無視した。
だが、王都の社交界で鍛えられた彼女たちが、その程度の冷遇で引くはずもなく、伯爵夫人は扇を口元へ寄せたまま、楽しげに言葉を続ける。
「失礼ながら、王都のサロンでは色々と不穏な噂が流れておりましたの。奥方様が、あの恐ろしい辺境のお屋敷へ入られた後のお姿が、まったく王都へ伝わってこないものですから、皆さま、それはそれは心配しておりましたのよ」
「……心配、ですか?」
私が思わず、その白々しい言葉を繰り返して呟くと、伯爵夫人は「ええ、ええ」とことさらに大袈裟な、同情に満ちた優しい顔を作った。
「だって、あの冷酷で名高いヴォルガード侯爵のお傍でしょう? いたいけな奥方様が、毎夜どれほどおつらく、恐ろしい思いをなさっているかと……ねえ?」
「お母様ったら」
母親の言葉を受け、隣に立つ若い令嬢が、私を小馬鹿にするようにくすりと笑う。
「でも、こうして実物を拝見すると、五体満足で、お元気そうで安心いたしましたわ。私たちが思っていたより、ずっと」
その「思っていたより」の後ろに、どれほどの侮蔑と優越感が含まれているかくらい、社交界に不慣れな私にも痛いほど分かった。
ずっとみすぼらしく、痩せこけていると思っていたのだろう。もっと怯えきって、侯爵の影でガタガタと縮こまっている哀れな姿を期待していたのだろう。
胸の奥が、冷たい針でちくりと刺されたように痛む。
だが、その痛みが私の心に広がるよりも早く。
隣から、絶対零度の吹雪のような、ひどく冷たい声が落ちた。
「言いたいことがあるなら、言葉を濁さず、最後まで口にしたらどうだ」
広間の一角の空気が、一瞬で凍りついた。
伯爵夫人の貼り付けたような笑みが、ピシッと音を立てて引きつる。
若い令嬢も、信じられないものを見たように目を見開いた。
ギルベルト様は私の腰を抱いたまま、表情筋を一切動かさず、ただ彼女たちへ漆黒の視線だけを向ける。
たったそれだけなのに、放たれる圧が次元が違った。
先ほどまで扇を揺らして上品に笑っていた夫人たちの顔色が、血の気を失い、目に見えて青白く悪くなっていく。
「俺の妻を、見世物小屋の獣のように値踏みするために近づいたのか」
「そ、そんなつもりでは、決して」
「なら、今の無遠慮な物言いは何だ」
「侯爵、誤解でございます! わたくしたちはただ、奥方様を心配して――」
「王都では、それを“無礼”と呼ばないのか?」
声量は決して大きくない。
声を荒らげて怒鳴ってもいない。
けれど、大理石の床の温度が急激に下がったように錯覚するほどの、濃密な魔力を含んだ冷気が、その一帯を完全に包み込んだ。
私は隣にいながら、あまりの威圧感に息を詰めた。
これが、辺境で強大な魔物や、領地を脅かす敵対者へ向けるギルベルト様の「氷の刃」なのだろう。
けれど今、その鋭い矛先は、魔物ではなく、ドレスを着飾った王都の貴族たちへまっすぐ、容赦なく向いている。
伯爵夫人は扇を持つ指をガタガタと震わせながら、どうにか貴族としての体面を保とうと微笑みを取り繕う。
「も、申し訳ございませんわ。奥方様があまりにも、その……お美しくて、つい、言葉の選び方を間違えてしまいましたの」
「その程度の見え透いた言い訳しか思いつかないなら、今すぐ口を閉じて消えろ。二度と俺の視界に入るな」
「……っ」
不可視の平手打ちを食らったかのように、ぴしゃり、と音がしたような気さえした。
周囲で聞き耳を立てていた貴族たちは、一斉に談笑を止めて震え上がり、こちらを見ている。
華やかなざわめきは波が引くように消え、代わりに、針が落ちる音すら聞こえそうな張り詰めた沈黙が広がる。
私はただ、彼を見上げて呆然とした。
怖い、というより、その圧倒的な存在感にただただ言葉を失う。
ギルベルト様は、私が相手の言葉に傷つき、怯えるよりも早く、悪意の芽を根こそぎ凍らせて、完全に叩き潰してしまうのだ。
「二度と、俺の妻へその程度の下らん好奇と侮蔑を向けるな。次は言葉だけでは済まさん」
「……し、失礼いたしました……!」
伯爵夫人と令嬢、および取り巻きたちは青ざめたままドレスの裾を翻し、ほとんど悲鳴を上げるようにして逃げるようにその場から離れていった。
その惨めな背を見送る間にも、周囲の貴族たちはあからさまに目を逸らし、自分も同じ目に遭うまいと、こちらへ近づくのを恐れて遠巻きにしている。
「だ、旦那様……」
「なんだ」
「少し、いえ、かなり言いすぎでは……あの夫人も、お立場が」
「足りないくらいだ。あんなものは貴族の風上にも置けん」
「……」
「お前の顔が、あんな奴らの言葉で曇るのを見る方が、俺にとってはよほど不快だ」
あまりにも真っ直ぐで、一片の迷いもない言葉だった。
私は、もう何も言い返せなくなる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなって、代わりに視界が少しだけ、涙で滲みそうになった。
その微細な変化に気づいたのか、ギルベルト様の美しい眉がわずかに寄る。
「泣くな」
「な、泣いていません。少し、目が潤んだだけです」
「ならいい。お前の涙は、こんな場所で流す価値はない」
「……ありがとうございます」
「俺に礼はいらん」
「でも」
「お前を守るのは、俺にとって当然のことをしただけだ」
その“当然”が、私にとってどれほど奇跡のようで、ありがたいことか。
私はもう、言葉の代わりに、彼の黒い袖をきゅっと握り返すことしかできなかった。
ほどなくして、広間の奥の扉が開き、国王一家の入場を告げる高らかなラッパの音が鳴り響いた。
広間全体の空気が、私的な歓談から公的な儀式へと一瞬で変わる。
貴族たちは一斉に壁際へ寄って整列し、ざわめきは完全に消え、楽団の音楽もいったん静かに止んだ。
広間奥の赤い絨毯が敷かれた大階段から、国王陛下と王妃、王太子をはじめとする王族が、威風堂々と姿を見せる。
国王は豊かな髭を蓄えた壮年の威厳ある人物で、隣を歩く王妃は、歳を重ねてもなお上品な美しさを湛えていた。彼らが一歩歩み出るだけで、広間全体がひとつの大きな生き物のように呼吸を合わせ、深く頭を垂れて静まる。
私とギルベルト様も、他の貴族たちと同じく、最敬礼の姿勢を取った。
やがて一通りの国王からの歓迎の挨拶が終わると、侍従の案内で、有力な高位貴族から順に、玉座の前に立つ国王へ直接挨拶へ進む流れになる。
当然のように、建国からの歴史を持つ辺境の盾、ヴォルガード侯爵家は、公爵家に次ぐかなり早い順番だった。
「……旦那様」
「何だ」
「緊張で、心臓が口から飛び出しそうです」
「飛び出したら、俺が拾って戻してやる」
「そういう物理的な意味ではありません」
「分かっている。深呼吸しろ」
そんなピントのずれたやり取りをしているうちに、すぐに私たちの番が来る。
玉座の前に進み出た瞬間、国王のすべてを見透かすような鋭い視線が、まずギルベルト様を捉え、次いで、その隣にいる私へと向いた。
私は震える膝をどうにか保ち、深く、優雅な礼を取る。
「辺境の守護者、ヴォルガード侯爵、および侯爵夫人。今宵の夜会には、よくぞ参った」
「陛下のお招きに与り、恐悦に存じます」
ギルベルト様が、隙のない低い声で応じる。
私はそれに続き、どうにか声を震わせずに「お目にかかれて光栄に存じます」と挨拶を返した。
国王は私をじっと見つめ、ふと面白そうに目を細めた。
「王都では、そなたらについて実に様々な噂を聞いておったが……なるほど、噂ほど当てにならぬものもないようだな」
「陛下」
「侯爵。そなたがこの妻を、誰の目にも触れさせず、城に隠してここまで大切に扱う理由も、実物を見れば少しは分かる気がするぞ」
その王からの直接的な一言に、私はどきりとして息を呑んだ。
けれどギルベルト様は、一国の王の前だというのに一切ひるまず、顔色ひとつ変えなかった。
「少し、では困ります」
「ほう?」
「陛下には、正しく理解していただきたい。俺の妻は、この世で最も美しい女です」
「……っ」
私はあまりのことに息を止め、心臓が止まるかと思った。
広間の空気が、ピキリと音を立てて固まる。
玉座の近くに控えていた侍従が信じられないものを見るように目を見開き、周囲で聞き耳を立てていた貴族たちも、一斉に息を呑む気配がした。
国王の前で、大勢の貴族が聞いている公の場で、何を恥ずかしげもなく断言しているのだこの人は。
「だ、旦那様……!」
「事実だ」
「そういう問題では」
「俺にとっては何も問題ない」
ギルベルト様は、恐ろしいほどの真顔だった。
冗談で場を和ませようとしているのでも、王への社交辞令でもない。心の底から、本気でそう思っている男の顔だ。
国王は一瞬、呆気に取られたように沈黙したのち、やがて堪えきれないようにふっと口元を緩め、大きな声で笑い出した。
「……ははは! なるほど。これは確かに、王都の噂以上だな!」
「俺の妻の価値は、有象無象の噂などに収まるものではありません」
「ははは、違いない。辺境の氷の侯爵をここまで熱くさせるとはな」
国王は心底面白そうに笑い、隣の王妃も扇の陰で、ふふっと上品に微笑んだ。
私は羞恥心で今すぐこの美しい大理石の床に穴を掘って消えてしまいたかったけれど、同時に、どんな場でも私を肯定してくれる彼の存在に、胸の奥が熱くてどうしようもなかった。
「侯爵夫人」
国王が、笑いを収めて私へ視線を向ける。
「辺境から出てきて、腹黒い王都の空気にはまだ不慣れであろう。何か不都合があれば、遠慮なく余に申し出よ」
「……もったいないお心遣い、ありがとうございます」
「うむ。もしこの場に、そなたの美しい顔を曇らせるような不届き者がいたなら、侯爵が剣を抜くより先に、余が直々に叱ってやろう」
その王からの異例の庇護の言葉に、私は思わず目を丸くした。
すると国王は、わずかに苦笑するようにギルベルト様を見た。
「さもなくば、侯爵の怒りで、この王城ごと氷漬けにされそうだからな」
「陛下」
「違うか?」
「否定はしません。妻を害する者がいれば、迷わずそうします」
否定しないのか、と私は心の中で天を仰いだ。
国王への冷や汗をかくような挨拶を終え、私たちが一歩下がると、それを合図に楽団が次の優雅な曲を奏ではじめた。
夜会はいよいよ、本格的な歓談および舞踏の時間へと移る。
および、ここからが私にとっての本当の本番だった。
王都の貴族たちは、先ほど伯爵夫人たちが容赦なく一蹴され、および国王陛下直々の庇護の言葉があったことで、あからさまな嫌味や嘲笑を直接ぶつけてくることは控えるようになった。
だがその代わり、遠巻きのねっとりとした観察および、笑顔の裏に隠された探りが格段に増える。
扇で口元を隠し、笑顔の裏に計算を隠した氷のような視線。
世間話を装って、私の実家の没落を突くような、探るような質問。
私が辺境でどの程度の教養を身につけ、どれほど侯爵夫人として洗練されているかを見定めるための、真綿で首を絞めるようなさりげない会話の刃。
しかし、そのすべてを、私の隣に立つ氷の城壁が弾き返した。
野心を持った若い侯爵令息が、遠くから恭しく一礼して近づいてこようとしたかと思えば、ギルベルト様が殺気を孕んだ視線ひとつで彼をその場に縫い止め、追い払う。
社交界の重鎮である年配の公爵夫人が、「辺境のお話を、ぜひ夫人同士で」と巧妙に近づこうとすれば、彼は私の腰へ腕を回したまま、「妻は長旅で疲れている」と一歩も譲らず、鉄壁の防御を敷く。
楽団が奏でる曲の合間に、どこかの身の程知らずの伯爵が「次の曲、よろしければお相手を」と私の手を取ろうと申し出ようとした瞬間には、その男の口が開く前に、見下すような冷たい一瞥だけで完全に沈黙させ、後退させた。
「……旦那様」
「なんだ」
「少しは、皆さまと愛想よくお話しした方が良いのでは」
「不要だ」
「でも、夜会などの社交の場では、人脈を広げることが」
「不要だと言っている」
「また、身も蓋もない即答ですね」
「俺たちは、必要な相手とだけ話せばいい」
「旦那様にとっての必要な相手、とは誰ですか」
「俺と、先ほどの陛下。それだけで足りる」
それはもう、貴族としての社交そのものを完全に放棄しているに等しい暴論だった。
けれど王都の誰も、彼のその態度の悪さを咎めようとはしない。いや、咎められないのだ。ギルベルト様が全身から放つ「妻に触れるな」という絶対的な威圧感が、他者の干渉を一切許さないのだから。
および、ついにその夜会の華である、舞踏の時間が来る。
広間中央の床が広く空けられ、楽団がゆるやかで甘美なワルツの前奏を奏で始める。
周囲の貴族たちはそれぞれ、意中の相手および伴侶の手を取って、中央のダンスフロアへと進み出る。
私はその光景を見て、無意識に息を詰めた。
夜会での華やかな舞踏。
王都で育った令嬢たちにとっては、息をするように当たり前の嗜みでも、私にはまるでおとぎ話のような、遠い世界の話だった。
実家では、ダンスの教師などまともにつけられたこともない。数少ない練習の機会だって、義妹が美しく踊るための引き立て役として、ただ立たされるためのものにすぎなかったのだから。
「……私、ダンスは」
「分かっている」
ギルベルト様が、私の自己卑下の言葉を遮るように、低く優しい声で言った。
「うまく踊れるかどうか、皆の前で恥をかかないか、心配しているんだろう」
「はい……足を踏んでしまうかもしれませんし」
「問題ない」
「でも」
「お前は、周りなど見なくていい。俺だけを見ていればいい」
そうして彼は、私の前へ優雅に一歩進み出ると、恭しく片手を差し出した。
「踊るぞ」
「旦那様」
「他の誰にも、お前の手は取らせない」
その声音はひどく静かで、けれど絶対に拒絶を許さない、有無を言わせぬ響きがあった。
私は迷いを捨て、そっと、自分の白い手袋に包まれた手を、彼の手のひらへ重ねる。
ひんやりとした革手袋の感触が触れた瞬間、私の小さな手は、ぎゅっと力強く包み込まれた。
「怖いか」
「少しだけ」
「なら、なおさら俺から離れるな」
「……はい」
彼にエスコートされ導かれて、私は広間の中央へと進み出る。
途端に、数百という無数の視線が、一斉に私たちに注がれるのを感じた。
王都の貴族たち、壇上の王族、壁際の侍従、楽団の奏者までもが、今夜最大の注目の的である、辺境の氷の侯爵およびその見目麗しい妻の最初の一曲を、固唾を呑んで見守っているのが分かる。
けれど、不思議と先ほど大階段を登る前ほどは、足が震えなかった。
ギルベルト様の大きく温かい手が、私の腰をしっかりと、落ちないように支えている。
もう片方の手は、私の手を絶対に離さないと誓うように、しっかりと取っている。
その距離は胸が触れ合うほど近く、しかし決して乱暴ではない。むしろ、私がこの広間で一番美しく見える位置および角度を知っているかのように、完璧に計算され整えられていた。
(どうして……)
この人は、剣の腕だけでなく、舞踏までこんなにも上手いのだろう。
いや、高位の侯爵として当然身につけているべき必要な教養なのだろうが、それにしても動きに一切の無駄および隙がない。
音楽がふわりと高まり、私たちは最初の一歩を踏み出した。
驚くほど、自然だった。
私が足の運びを間違えそうになっても、ギルベルト様が先回りするように私の腰を支え、歩幅を巧みに合わせ、私の身体を正しい方向へ導いてくれる。
私はただ、彼の広い胸元および、時折見下ろすように向けられる漆黒の視線だけを追えば、まるで羽が生えたように踊ることができた。
「旦那様……すごいです」
「何がだ」
「私、今、ちゃんと音楽に合わせて踊れています」
「お前が踊っているのではない。俺が、お前を踊らせているんだ」
「それはそうかもしれませんけれど、少しは褒めてください」
「なら、そのままでいい。綺麗だ」
彼は不意打ちのように、まっすぐ私を見つめて言った。
広間中の誰よりも、何百という視線がある中で、この人だけが私を見ている。そんなロマンチックな錯覚ではない、確かな事実がそこにあった。
「周りの連中など気にするな」
「はい」
「俺はお前を誰の目にも触れさせたくないし、お前の美しさを見せびらかすつもりは毛頭ないが」
「はい?」
「今この一曲の間だけは、特別に許してやる」
「な、何を許すのでしょう」
「俺の妻がどれほど完璧で綺麗か、王都の有象無象の連中に思い知らせて、絶望させることをだ」
私はあまりの傲慢な台詞に、危うく足をもつれさせそうになった。
だがギルベルト様は、そんな私の動揺すらも織り込み済みのように、ぐっと腰を引き寄せて私を支え、その失敗すらも、流れるように優雅な旋回へと変えてしまう。
「だ、旦那様……!」
「どうした」
「そのような心臓に悪いことを、公の場で急に仰らないでください」
「俺はいつだって、本当のことしか言わない」
「もう……」
「顔が赤いぞ」
「旦那様がからかうせいです」
「それも悪くない。俺の言葉で染まっているならな」
この人は、本当に公の場でも一切の遠慮というものをしない。
けれどその呆れるほどの甘い言葉のせいで、いつの間にか私の中にあった「笑われるかもしれない」という怯えは、完全に薄れていた。
視界の端を流れていく王都の貴族たちは、もはや恐ろしい観察者でも、私を断罪する裁判官でもない。ただ遠くから、私たちの踊りを見ている背景の人々にすぎない。
私にとって今、この世界で大事なのは、目の前で手を取ってくれている、この不器用な人だけだ。
曲が中盤へ差しかかる頃、広間のざわめきは、嘲笑から完全な驚嘆へと変質していた。
『すごい……』
『あの侯爵夫人、見事に踊れるではないか』
『いや、あれは侯爵のリードが完璧すぎるんだ』
『それにしても、なんだあの侯爵の視線は』
『周りなど、まるで何も見えていないぞ、あの冷酷な男が』
『ええ……妻しか見ていないわ……』
そう。
ギルベルト様は、本当に私しか見ていなかった。
それは文学的な誇張でも何でもない。
広間の中央で、王族も、かつて私を見下していた貴族たちも注視する中、この人の視線一瞬たりとも私から逸れない。まるでここが数百人のいる夜会ではなく、辺境の屋敷の、二人きりの静かな部屋であるかのように。
その熱を帯びた眼差しにすっぽりと包まれていると、胸の奥から少しずつ、怯えとはまったく別の感情が湧き上がってきた。
怖さではない。
温かくて、くすぐったくて、どうしようもなく甘くて、泣きたくなるような感情。
「旦那様」
「なんだ」
「私、今」
「うん?」
「少しだけ、楽しいです。旦那様と踊るのが」
「……そうか」
彼の漆黒の目が、わずかにやわらぐ。
ほんの一瞬だけ、彼を覆っていた氷のような輪郭が、春の陽射しに溶けるように。
「なら、こんな面倒な場所へ来た意味は、少しはあった」
「旦那様にとっては、この夜会は不本意では?」
「心底不本意だ」
「そこは相変わらず即答なのですね」
「だが」
彼は私をぐっと引き寄せる最後の旋回の中で、耳元で低く囁いた。
「お前がそうやって楽しそうに笑っているなら、それだけで、俺には十分だ」
胸がいっぱいになって、もう言葉が出ない。
その間にも曲は終盤へ進み、私たちは最も華やかな、最後の旋回へ入っていく。
月光のような青銀のドレスの裾が、ふわりと円を描いて広がる。
それを包み込むように、影のように黒い礼装がぴったりと寄り添う。
まるで、夜空に浮かぶ孤独な月および、その周囲を誰からも守るように包む深い闇みたいだと、私は回りながらふと思った。
やがて音楽が静かに終わる。
最後の一音が空気に溶けて消えるまで、ギルベルト様の手は微動だにせず、私を完璧な姿勢で支え続けた。
曲が閉じた瞬間。
広間には、魔法にかけられたような一拍の深い静寂が落ちた後、割れんばかりの大きなどよめきおよび歓声が広がった。
拍手は一歩遅れて、しかし広間を揺るがすほど確かに起こった。
それが貴族の義務的な形式的なものではなく、本当に圧倒的な美しさに息を呑んだ末の、純粋な賞賛の反応だと分かる程度には。
私は長い夢から覚めたような気持ちで、彼の腕の中で小さく息を整える。
けれどギルベルト様は、周囲の万雷の拍手などまったく意に介さず、ただ私だけを見つめ、私の熱を持った頬へ、親指で一度だけそっと触れた。
「よくできた」
「……旦那様が、転ばないよう全部導いてくださったからです」
「それでもだ。お前は美しかった」
「ありがとうございます」
「だから、俺に礼はいらないと言っている」
その二人だけの世界のような親密なやり取りを見ていた周囲の空気が、また別の意味でざわつく。
もう隠す気がない。
この人は本当に、私を誰の目にも触れさせたくないのか、それとも世界中に自分のものだと見せつけたいのか、どちらなのか分からない。
――いや、違う。
見せたいのではないのだ。
ただ、周囲に誰の目があろうと、どんな常識があろうと、自分が「妻を愛でたい、守りたい」と思うことを、一瞬たりともためらわないだけなのだろう。
それが結果として、この夜会の誰よりも強烈で、傲慢な「独占の宣言」に見えているだけで。
ワルツを終えたあと、私たちは注目を集めすぎる広間の中央から離れ、少し静かな壁際へと移動した。
けれど、それで夜会の試練が終わりというわけではなかった。
先ほどまで、扇の陰から値踏みおよび意地悪な探りを向けていた貴族たちは、もはや誰一人として、あからさまに私へ近づこうとはしない。
ギルベルト様の威圧的な冷気および、誰も入り込めないあの完璧なワルツおよび、国王の前での堂々たるのろけの宣言が、王都の貴族たちにまとめて「あの夫人は、侯爵の逆鱗だ。絶対に触れてはいけないものだ」という共通認識を、骨の髄まで植え付けてしまったのだろう。
「……なんだか」
「何だ」
「周りの方が、先ほどよりもさらに遠巻きに、距離を取っておられる気がします」
「当然だ」
「当然でしょうか。少し、避けられているような」
「お前に気安く近づけば、俺が極めて不快になり、一族もろとも潰されると分かったからだ。賢明な判断だ」
「つまり、皆さん私が怖いのではなく、旦那様が怖いのですね。旦那様のせいでは」
「そうだが、それが何か問題か?」
「どうか開き直らないでください」
小言を言いながらも、私の声は明るく、少し笑っていた。
その私の柔らかな表情を見て、ギルベルト様はやっと、王都に来てから本日初めて、ほんの少しだけ満足そうな顔をした。
「ならいい」
「何がでしょう」
「お前がもう、さっき馬車を降りた時ほど、この場所に怯えていない」
「……はい。旦那様のおかげです」
「それで十分だ」
広間の高いガラス窓の外には、王城の美しく手入れされた庭園および、星の瞬く夜空が見える。
華やかな魔導灯の光の中で、私はシャンパンの入ったグラスを片手に、そっと安堵の息を吐いた。
王都の夜会は、やはり私の思っていた通り、怖い場所だった。
私のような立場の弱い人間に対する、侮りおよび好奇および、底意地の悪い計算も、そこには確かにあった。
けれど、私は今夜、骨の髄まで思い知ったのだ。
この私の隣に立つ人は、公の場でも、相手が誰であろうと一切容赦しないということを。
私が悪意の言葉に傷つく前に、その視線だけで悪意の芽を凍らせて砕く。
一国の国王の前でさえ微塵も臆せず、「俺の妻が最も美しい」と真顔で断言してのける。
および、他の誰の男にも手を取らせず、広間の真ん中で、ただ私だけを見つめて踊り抜く。
こんなにも分かりやすく、こんなにも強引で、こんなにも堂々と守られ、愛されたのは、私のこれまでの人生で初めてのことだった。
その夜、王都の貴族たちはきっと、明日のサロンで語るための新たな、および衝撃的な噂を手に入れただろう。
辺境の『化け物当主』は、やはり怒らせれば国を滅ぼしかねないほど恐ろしい男だ。
けれどそれ以上に、あの冷酷な男は、妻に対してだけは理性を完全に捨てるほどの、激重で異常な溺愛ぶりを、隠そうともしないのだ、と。
および私はまだ知らない。
この夜会で、ギルベルト様の庇護のもと美しく踊った私が、国王の目に奇妙な形で留まったことが、やがて私たちを、王城のさらに奥深く――
決して立ち入ってはならない王家の地下書庫および、ヴォルガード家を代々縛り付ける『呪い』の本当の起源へと導く、数奇な運命の引き金になるのだということを。




