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第13話 辺境領主、王都へ降り立つ

 王都へ発つ朝は、驚くほど静かに、そして厳かに始まった。

 まだ日が高くなる前の、冷たく澄んだ薄青い空の下。侯爵邸の広大な正面玄関には、すでに出発の準備を完璧に終えた黒づくめの騎士たちが、彫像のように整列している。徹底的に磨き上げられた鎧の金具や剣の柄が、斜めに差し込む朝光を受けて鋭く光り、彼らが吐く息は一様に白い霧となって空気に溶けていく。

 騎乗する馬たちは、幾度もの魔物討伐を潜り抜けてきたよく訓練された軍馬らしく、これだけの人員と物資を積んだ荷車が動いているというのに、一頭として嘶くことも、落ち着きを失って足踏みすることすらなかった。

 その物々しい静寂の中で、ひときわ異様な存在感を放っていたのが、私とギルベルト様がこれから王都まで乗る馬車だった。


「……大きい」


 目の前にそびえ立つそれを見上げ、私は思わず、そんなありきたりな感想しか口に出せなかった。

 黒曜石のような深い艶を帯びた車体には、品の良い銀の縁取りが施されている。扉の部分に侯爵家の紋章が控えめに刻まれているだけで、王都の貴族が好むような過剰な金細工の装飾は一切ない。

 けれど、その重厚な控えめさが、かえって周囲の空気を圧迫するような威厳を生み出している。

 普通の貴族が乗る馬車より一回り、いや、下手をすれば二回りは大きいのではないだろうか。それほど巨大でありながら野暮ったさは微塵もなく、まるで侯爵邸の上質な客間をそのまま切り取って、移動する一つの部屋にしたようだった。

 しかも、その巨大な馬車の前後左右には、当然のように抜かりなく護衛の騎士が配置されている。

 前衛、側衛、後衛。

 さらに、私たちの衣装や長期滞在用の生活用品を積んだ荷物用の別車両までが後ろに長く続いており、その光景はもはや、貴族の「旅」というより、国境へ向かう「軍の移動」に近かった。


「旦那様……」


「なんだ」


「これが、私たちが王都まで乗る馬車でしょうか」


「そうだ」


「……少し、いえ、かなり大袈裟ではありませんか?」


「どこがだ」


 間髪入れずの即答だった。

 私の隣に立つギルベルト様は、黒の重たい外套を肩に掛けたまま、いつものような無表情で自身の馬車を見上げている。だが、その漆黒の目は真剣そのもので、自分が用意させたこの巨大な移動空間に対して、一片の疑問も抱いていないらしい。


「王都までは、馬を急がせても数日かかる。途中の道が荒れていれば揺れもある。朝晩で気温も激しく変わるし、街道の整備状況も区間ごとに違う」


「は、はい」


「だから、お前の身体に最も負担の少ない仕様にした」


「仕様……」


 私が言葉の意味を測りかねてぽかんとしていると、背後に控えていたセバスチャンが足音もなく一歩前に出て、淡々とした声で補足説明を始めた。


「車輪の車軸には、王都の最新技術を用いた特注の衝撃緩和機構を組み込んでおります。さらに、座席の下と車体の底面には魔術式の緩衝材を何層にも入れておりますので、通常の馬車に比べ、走行中の揺れは大幅に軽減されるかと存じます」


「魔術式……」


「窓硝子には、外からの冷気を遮断する防風と、車内の温度を一定に保つ温度保持の術式も付与されております」


「温度保持、ですか」


「はい。奥様が道中で決して冷えないようにとの、旦那様の強いご意向で」


「……」


 冷えないように。

 たったそれだけの理由で、馬車の窓硝子に高価な温度保持の術式まで組み込んでしまうものなのだろうか。

 いや、この辺境の覇者である侯爵家では、あっさりと組み込んでしまうのだろう。ここ数日の過保護ぶりを思えば、もう驚くべきではないのかもしれない。


「あと、途中での休憩中も、奥様が扉を開けた際に外気に触れすぎぬよう、展開式の簡易の風除け幕を――」


「もういい、セバスチャン。説明はそれくらいにしておけ」


 ギルベルト様が短く制すると、セバスチャンは「失礼いたしました」と深く一礼して一歩下がった。

 私は思わず、目の前の黒曜石のような馬車をもう一度まじまじと見つめてしまう。

 (これ、本当に馬車……?)

 外見の形こそ、四つの車輪がついた馬車だ。

 けれど、セバスチャンから話を聞けば聞くほど、私の知っている「移動手段」という概念から遠く離れていく。

 実家で買い出し用などに使っていたものなど、ただの薄い木箱に車輪をつけた程度の代物だった。特に、私がこの侯爵家へ送り出されたあの日の馬車は、座面も背もたれも冷たく硬く、隙間風が吹き込み、まるで処分される不要な荷物のように無造作に乗せられた気しかしなかったのだ。

 それに比べて、今、目の前にあるのは――。


「乗れ」


 ギルベルト様が低い声で短く言い、私の腰へそっと大きな手を添えた。


「は、はい」


 侍女のマリーとアンナにドレスの長い裾を整えてもらいながら、私はそっと乗り口の踏み台へ足をかける。

 その瞬間、ギルベルト様のもう片方の手が、当然のように私の肘を下からしっかりと支えた。たった一段、大人の女性なら難なく上がれる昇降ですら、彼は私を自力で上がらせる気は毛頭ないらしい。

 分厚い扉をくぐり、車内へ足を踏み入れた私は、思わず小さく息を呑んだ。


「……わあ」


 広い。

 外から見るよりもずっと、信じられないほど広い。

 私はてっきり、普通の馬車のように向かい合う形で硬い座席があるのだと思っていた。

 ところが中は、半ば侯爵邸の小さな客間のように完璧に整えられていた。深い紺色の上質な天鵞絨の布で覆われた、横になれるほど長い椅子が左右にひとつずつ。中央には、万が一揺れても怪我をしないよう、角をすべて丸く削り落とした低い木製の机。その上にはすでに、保温機能のついた銀の茶器が、揺れ防止の固定具にしっかりと収められている。

 足元の床には毛足の長い厚い絨毯が敷き詰められ、窓辺の長椅子には、揺れを和らげるためか、肌触りの良い柔らかなクッションが幾つも無造作に置かれていた。

 さらに奥の壁面には、寒さ対策の毛布や予備のクッション、長旅の退屈を凌ぐための読み物を収める造り付けの棚まである。

 棚の木製の扉には、旅の揺れで不意に開いて中身が飛び出さないよう、精巧な細工の鍵が設えられていて、本当に細部まで一切の隙がない。


「すごい……」


「問題ないな」


「問題ないどころではありません……。これでは馬車というより、まるで動くお部屋みたいです」


「移動中に、お前が少しでも不自由な思いをすると俺が困る」


 やはり、呼吸をするのと同じくらい当然のことのように言われた。

 その重たい愛情に胸が詰まる一方で、私は自分の置かれた状況が少しだけおかしくなってくる。

 この人は本当に、私を王都の夜会へ連れて行くつもりなのだろうか。それとも、どこかの安全な客間に私を閉じ込めたまま、誰の目にも触れさせずに移動するつもりなのだろうか。その違いが分からなくなるほど、車内は徹底的に快適そうだった。


「気に入ったか」


「はい、とても……。でも、こんなにも立派で贅沢なものを、私のために使ってしまってよろしいのでしょうか」


「お前のためだから、惜しみなく使うんだ」


「……」


 そういうことを、そんなにも簡単な事実のように言わないでほしい。

 心臓に悪すぎる。

 私が耳まで赤くなって黙り込むと、ギルベルト様はそれ以上何も言わず、私のすぐ後から車内へ乗り込んできた。

 そのまま、流れるような動作で私のすぐ隣へ腰を下ろす。

 いや、隣というより、距離が近すぎる。

 肩と肩が触れ合いそうなほど、かなり近い。


「旦那様」


「なんだ」


「向かい側の長椅子は……誰も使わないのでしょうか?」


「使わない」


「え?」


「お前はこっちだ」


 そう言うなり、彼は分厚い外套を翻し、当然のように私の腰を抱き寄せた。

 一瞬、何が起きたのか分からない。

 視界がぐるりと回り、次の瞬間には、私は彼の長い脚の、その硬い膝の上にすっぽりと横向きに収まっていた。


「……っ!?」


 頭の中が真っ白になる。


「だ、だ、旦那様!?」


「騒ぐな」


「さ、騒ぎます! どうして、突然こんな体勢になるのですか!?」


「これから馬車が揺れるからだ」


「揺れるから!?」


「少しでも衝撃があれば危ないだろう」


「な、何が危ないのでしょう!? 床には絨毯もありますし……」


「お前がだ」


「私ですか!?」


「当然だ」


 当然ではなかった。少なくとも、一般的な貴族の常識にはない。

 私は必死に彼の膝から降りようと身を捩ったが、私の腰を抱え込んでいる太い腕は、まるで鉄の枷のようにびくともしない。

 見た目にはごくさりげない動作なのに、私を逃がさない拘束力だけは妙に高いのが、この人のずるいところだ。


「だ、旦那様、せっかくあんなに広くて立派な長椅子があるのですから、私はそちらに一人で座れば……」


「駄目だ」


「どうしてですか」


「予期せぬ揺れが来た時に、お前は体勢を崩す」


「クッションもありますし、手すりを持ってしっかり座ります」


「信用ならん」


「ひどいです」


「実際、お前は時々、自分の体を軽く扱いすぎるきらいがある」


「そ、そんなことは」


「ある」


 私の目を真っ直ぐに見つめ、きっぱりと断言されて、私はぐっと言葉に詰まった。

 図星だったからだ。確かに、私は自分のこととなると、「これくらい大丈夫だろう」「我慢すれば済むことだ」と思ってしまう悪い癖がある。

 実家で、食事を抜かれたり、冷たい床で眠ったりと、あれこれ我慢するのが当たり前の日常だったせいか、自分の身体の少しの痛みや不便を、無意識のうちに見過ごしてしまうのだ。ギルベルト様は、私のその自己評価の低さと鈍感さが、心底気に入らないらしい。


「だから、俺がお前をこうして持っている」


「持っている、って……私は荷物ではありません」


「荷物より遥かに大事だ」


「……」


 さらりと、あまりにも甘い声でそう言われて、反論の続きが喉の奥でピタリと止まる。

 本当に困る。この人は時々、息を吐くように自然に、とんでもなく甘いことを言う。

 やがて外から重い扉が閉められ、御者の短い合図が響いた。

 車輪が軋み、馬車がゆっくりと動き始める。

 私はこれから来る揺れに備えて、緊張で肩を強張らせたが――次の瞬間、思わず拍子抜けして瞬きを繰り返した。


「……あれ?」


「何だ」


「ほとんど……揺れません」


「そう作らせたからな」


「すごい……」


 車輪が侯爵邸の硬い石畳から、少し土の混じる街道へ移る瞬間の振動すら、ひどくやわらかく吸収されている。

 実家の粗末な馬車なら、走り出してすぐ身体が左右へ激しく振られ、座面の板の硬さに腰の骨が悲鳴を上げたものだ。けれどこの特注の馬車は、船が波を越えるようにわずかに上下するだけで、しかもその揺れがまるで、赤子をあやすゆりかごのように緩やかで心地よかった。


「これなら、長椅子に座っていても絶対に大丈夫では……?」


「駄目だ」


「まだ駄目なのですね……」


「むしろ、揺れが少なく快適だからこそ、お前は油断して怪覚をする」


「そんな、屁理屈のような理由ですか」


「俺にとっては十分な理由だ」


 やはり、どう足掻いても彼の膝の上から降ろしてはもらえなかった。

 窓の外を見ると、侯爵邸の巨大な鉄の門が開き、整列した使用人たちが一斉に深く頭を下げるのが見える。

 見送りの列の中には、温室主任の白髪のエドガーさんや、私に王都の作法を教えてくれた侍女のマリー、アンナの顔もあった。私はせめてもの感謝の気持ちで、窓越しに手を振ろうと身を乗り出したが、その前にギルベルト様が、自分の着ていた黒の外套を私の肩へすっぽりとかけてくる。


「冷える」


「まだ朝ですし、車内は術式で暖かいですが」


「朝で、これから気温が下がるかもしれないからだ」


「……はい」


 彼の体温が残る分厚い外套に包まれ、素直に従うと、彼は満足したように小さく頷いた。

 そのまま馬車は邸を離れ、辺境の領都の石造りの街並みを抜け、いよいよ王都へ向かう長く広大な大街道へ出る。

 窓から見える景色は次第に開け、冬の終わりと春の訪れを告げるような、淡い光に照らされた若草色の草原が、左右へと飛ぶように流れていった。


「きれい……」


 思わず感嘆の声を漏らして呟くと、ギルベルト様が私の視線を追うように、私の頭越しに窓の外を見た。


「景色が見たいのか」


「はい。こうして辺境の街の外へ出るのは、こちらへ嫁いできてから初めてで、久しぶりでしたので」


「なら、もう少し窓際へ寄るか」


 そう言って、彼は私を膝に乗せ、しっかりと抱いたまま、自分の身体ごと窓の方向へ体勢を変えた。

 結局、外を見やすくしてくれても、膝の上からは降ろさないのである。


「旦那様」


「なんだ」


「それでは、せっかくの長椅子の意味が……」


「ある。お前の視界がより広くなる」


「そういう意味ではなくてですね」


「俺にとっては何も問題ない」


 私にとっては問題ばかりだった。

 だが、彼の硬く安定した腕の中から見る窓の外の景色は、確かに遮るものがなく見やすかった。

 それがなんだかとても悔しい。

 街道沿いには、赤い屋根の小さな村や、尖塔のある石造りの礼拝堂、雪解け水を湛えてきらきらと光る川が見える。時折、農作業の手を止めた領民が、紋章を見て私たちの馬車へ深く頭を下げ、そのたびに護衛の騎士たちが、隊列を乱さぬよう道幅を整えるように前へ出るのが見えた。


「皆さん、すごいですね……」


「何がだ」


「護衛の騎士の方々です。こんなに長い距離を、一糸乱れずに」


「俺の直属だ。あれが彼らの仕事だからな」


「でも、旦那様の普段の移動には、いつもこれほど大勢の騎士がつくのですか?」


「いや。今回は特別多い」


「やはり、王都への道中だから多いのですね」


「お前がいるからな」


 そのさりげない一言に、また胸の奥がじんわりと温かくなる。

 本当にこの人は、なんでもないような涼しい顔で、こういう直球の言葉を投げてくる。

 私が耳まで赤くして動揺するのを面白がっているのかとも思ったけれど、彼の真剣な目を見れば、たぶん違うと分かる。本人にとっては、全部ただの事実を口にしているだけなのだ。

 しばらくして、セバスチャンが車内の前方に設けられた、御者台と繋がる小さな小窓越しに声をかけてきた。


「旦那様、奥様。道中のおくつろぎに、温かい茶のご用意が整っております」


「入れろ」


「失礼いたします」


 彼は揺れる車内に入ってきても淀みない手つきで銀の茶器を扱い、香り高い茶を二つの陶器のカップへ注いだ。

 しかも、受け皿の底面が机の窪みに固定されているので、揺れても中の茶がこぼれることはない。

 私はその精巧な作りに感心しながらカップを取ろうとしたが、その前にギルベルト様の大きな手が先に一つを手に取り、私へ差し出した。


「熱い。こぼさないよう気をつけろ」


「ありがとうございます」


 両手で大切に受け取ると、ふわりと立ち上る湯気が、冷えていた鼻先を優しく撫でた。

 ほんのり甘い、温室でも飲んだ花茶の香りだ。緊張で無意識に強張っていた喉が、ひと口飲んだだけでふわりとほどけていく。


「おいしい……」


「それはよかった」


 頭上から降ってきた低い声に顔を上げると、ギルベルト様はなぜか、自分が褒められたわけでもないのに少しだけ満足そうだった。

 私が長旅の間も、喉を詰まらせずにちゃんと飲み食いできるか、そんな些細なことすら気にしていたのだろう。


「旦那様もお飲みになってください」


「俺も飲んでいる」


「ではなくて……」


 私は少し迷ってから、自分の手の中のカップを見下ろした。

 この体勢では、私が茶を飲むたびに身体が動き、彼の腕が私を落とさないよう微妙に支え直されている。もしかすると、私ばかりが彼の膝の上で楽をして、彼に負担をかけているのではないだろうか。


「私、やっぱり向かいの長椅子に座ります」


「駄目だ」


「旦那様の方が、ずっと同じ体勢で大変です」


「俺は全く大変ではない」


「でも」


「むしろ、こうして触れている方が落ち着く」


「……」


 あまりにもストレートな言葉に息を呑む私に、ギルベルト様はごく自然な、悪びれもしない顔で続けた。


「お前が俺の手の届かない場所に離れて座っていると、馬車が揺れるたびに、ぶつかって怪我をしていないかと気になって、かえって疲れる」


「そんなに、でしょうか」


「そんなにだ」


 真顔でそこまで言われてしまうと、もう反論の余地はなかった。

 結局私は、彼の心地よい体温に包まれながら、顔を赤くして甘い花茶を少しずつ飲むしかない。

 昼に近づく頃には、車内の張り詰めていた空気はすっかり柔らかくなっていた。

 最初の羞恥心も、流れる景色と花茶の香りにほぐされて少しずつ薄れていく。

 ギルベルト様は、王都での会合に使うのか、分厚い書類の束を一つ持ち込んでいて、時折それに鋭い視線を落として目を通していた。だが、私が窓の外の珍しい鳥や建物に気を取られるたび、あるいはカップを机に置くたびに、自然と視線をこちらへ寄越してくる。そのたび私は、厳しい監視の目で見張られているような、それでいて、何よりも確かな盾に守られているような、不思議な安心感に包まれた。


「旦那様」


「何だ」


「お仕事、進みますか」


「問題ない」


「本当でしょうか」


「本当だ」


「……私が膝の上にいては、邪魔では?」


「むしろ捗る」


「どうしてですか。物理的に書類が読みにくいのでは」


「俺の視界の端にお前が入っているからだ。無事を確認する手間が省ける」


 やはり、彼らしい即答だった。

 私はもう、まともな論理で対抗するだけ無駄な気がして、ふっと肩の力を抜いて笑ってしまった。

 するとギルベルト様は、私のその笑みを見たせいか、手元の書類から完全に意識を外してしまった。


「旦那様」


「何だ」


「今、書類を見ていませんでした。文字を追っていません」


「別に構わん」


「構ってください……書類の相手が怒りますよ」


 そう言うと、彼はほんの少しだけ、端整な口元を緩めた。

 冷たく整った彫像のような顔立ちのせいで、彼は決して声を出して大きくは笑わない。なのに、そうして僅かに表情の筋肉が動くだけで、私の胸の奥がどきりとして、甘く疼く。

 昼過ぎ、一度だけ街道脇の広い休憩所で隊列が速度を落として停車した。

 長距離を走る馬の状態確認と、護衛の騎士たちの交代、および私たちへの昼食の提供のためだという。

 私は「少しだけ外の空気を吸って、脚を伸ばしても」と言いかけたが、最後まで言い終える前に、ギルベルト様が冷酷に首を横に振った。


「風が強い」


「でも、ずっと車内だと息が詰まりますし」


「駄目だ」


「ほんの五分、少しだけ」


「駄目だ」


「……」


 三度目の嘆願で、完全に却下された。


「食事なら、ここで止まったまま中で取れる」


「それは存じていますけれど」


「前日の雨で、外は足元も悪い」


「まだ扉も開けていないのに、見ていないのに分かるのですか?」


「見るまでもない」


「旦那様は時々、何でも分かっているようにおっしゃいますね」


「実際、戦場でも街道でも、だいたいのことは予測がつくし分かる」


「今は、ただ私を他の人の目に触れる外に出したくないだけでは?」


「それもある」


 隠すことなく、あっさりと独占欲を認められた。

 結局、私たちは車内から一歩も出ず、セバスチャンが運んできた軽い食事を取ることになった。

 白身魚を包んだ温かいパイ、ちぎりやすい柔らかなパン、冷めにくい器に入った濃厚なスープ、そして一口大に切り分けられた瑞々しい果物。どれも旅の途中の野営とは思えないほど丁寧なものばかりで、しかも器が揺れないよう、机の窪みにぴったりと嵌まるよう工夫されている。


「本当に、動くお部屋ですね……」


「気に入ったならいい」


「はい。とても快適で、美味しいです」


「なら、このまま王都の別邸に着くまで、一歩も馬車から降りなくていい」


「それはさすがに困ります」


「何が困る。不便はないはずだ」


「着いたら、自分の脚で降りる必要があります」


「必要ない」


「あります」


「俺がお前を抱えて運べば済む話だ」


「旦那様」


 呆れて思わず名前を呼ぶと、彼は平然とした顔でスープを口に運んでいる。

 本気なのか冗談なのか、半々くらいで判断に迷うところが、この人の一番恐ろしいところだ。

 食後、馬車が再び一定の速度で走り始めると、私は満腹感と暖かさで少し眠気を覚えた。

 衝撃吸収の術式による揺れが少ないせいか、かえって緊張が解け、身体がゆるむのだ。

 私が小さく欠伸を噛み殺したのを察したのか、ギルベルト様は手元の書類をパタンと閉じ、私の頭を自分の広い肩へ預けるよう、大きな手でそっと導いた。


「少し休め」


「でも、お仕事が……」


「王都へ着いたら、嫌でもまた気を張ることになる。今のうちに寝ておけ」


「……はい」


 逆らわずに身を預けると、彼の肩は私が思っていたよりもずっと、ずっと安定していた。

 筋肉質で硬いのに、決して痛くない。厚い黒の外套越しに伝わる彼の体温が、じんわりと心地良く私の頬を温める。


「旦那様」


「なんだ」


「王都へ着いたら、たくさんの方が、私たちを見ているのでしょうか」


「見るだろうな. 珍しい見世物が来たとでも思っている連中ばかりだ」


「……」


「気にするな」


「でも、きっと嫌な噂も……私の実家のことも……」


「ある」


「……」


「だから、俺がいる」


 その答えは、彼らしくひどく簡潔だった。

 けれど、不思議とそれで十分だった。どんな慰めの言葉よりも、その「俺がいる」という事実の重さが、私の不安を打ち消してくれる。


「お前は外の連中に、何も言い返さなくていい. 誰にどう見られようと、何を言われようと、ただ俺の隣にいればいい」


「……はい」


「俺の傍から一歩も離れなければ、それでいい」


「旦那様は、本当にそればかりですね」


「当然だ」


 低い声が、振動となって耳の近くで落ちる。

 そのまま、私の銀の髪を一度だけ、大きな掌で梳かれるように優しく撫でられて、私は胸の奥の強張りが、ふわりと完全に緩むのを感じた。


「寝ろ」


「そんなにすぐには、眠れません……」


「目がとろけているぞ」


「そ, そんなだらしない顔はしていません」


「している」


「……」


 言葉で反論したかったのに、まぶたが抗えないほど重い。

 結局私は小さく息を吐き、彼の肩に深くもたれる形で、ゆっくりと目を閉じた。

 最後に意識の底へ残ったのは、規則正しく街道を進む馬車の車輪の音と、ギルベルト様の太い腕が、私の背を落ちないようにしっかりと支えている、頼もしい感触だった。


   


 次に目を覚ました時、窓の外の光はすでに夕暮れの色に傾いていた。


「……あ」


「起きたか」


 すぐ頭の近くから声がして、私ははっと身を起こす。

 いつの間にか、私は彼の肩どころか、完全に彼の分厚い胸へ寄りかかり、抱き着くような体勢で深く眠っていたらしい。しかも、肩からずり落ちないよう、途中で暖かい毛布まで掛けられていた。


「も, 申し訳ありません……!」


「何がだ」


「私、ずっとこんな体勢で眠って……」


「道中で眠れる時に眠ればいい. 俺がそう言ったはずだ」


「でも、旦那様の膝をこんなに長時間ずっと占領してしまって、脚が痺れていませんか?」


「お前に占領させていたのは俺だ. これくらいで俺の脚は痺れん」


「……」


 やはり、言い訳をしてもこの人には敵わない。

 気恥ずかしさを誤魔化すように窓の外を見ると、景色は辺境のゆるやかで何もない草原から、少しずつ人工的なものへと変わっていた。

 道幅は馬車が三台並べるほど広くなり、往来する荷馬車や人の数も明らかに増えている。街道沿いの宿場町には、石造りの立派な二階建ての建物が並び、旅装の商人や、王都へ向かうらしい他の貴族の一団が、侯爵家の紋章を掲げた私たちの隊列を見て、慌てて道を譲っていた。


「王都が近い」


「そう、なのですね」


 いよいよ現実が迫ってきたのを感じ、胸の奥が少しだけきゅっと縮む。

 気づいたら、私は無意識のうちに、ギルベルト様の黒い服の袖をきつく掴んでいた。

 彼は何も言わず、その震える私の手を、自分の大きな掌でそっと包み込む。

 そして、硬い親指の腹で、私の指の背を一度だけゆっくりと撫でた。


「大丈夫だ」


「……はい」


「お前を物珍しさで見たいだけの連中は、腐るほど多いだろう」


「やっぱり、そうなのですね……」


「だが、俺は誰にも見せたくないし、見せたいわけじゃない」


「それも、やっぱりなのですね」


「当然だ」


 彼の不器用そうな顔を見て、私は不安なはずなのに、少しだけ笑ってしまった。

 怖いのに、笑える。

 この人が隣で手を握っていてくれるだけで、王都に対する緊張の色が、黒から少しだけ明るい色へと変わるのだ。

 やがて夕日が沈み、空が茜色に染まり始める頃、一定だった隊列の速度が緩やかに落ちた。

 前方から馬を飛ばしてきた伝令の騎士が戻ってきて、御者台のセバスチャンに何かを報告している。


「王都の西門でございます」


「……着いたのですね」


 私はごくりと息を呑み、窓硝子の外へ視線を向けた。

 高い。

 見上げるほど、とても高い城壁だった。

 夕陽を浴びて赤く染まった灰白色の堅牢な石壁が、左右へどこまでも続いている。巨大なアーチ状の西門の前には、入城の手続きを待つ人馬の列が長く伸び、その上空には、王家を示す黄金の獅子の旗が、夕風を受けてバサバサとはためいていた。

 城壁の向こうには、尖塔や鐘楼、幾重にも重なる貴族たちの屋根の群れが見える。辺境の領都より遥かに大きく、建物が密で、および圧倒的な人の気配に満ちていた。


「……すごい」


 思わず口から零れたのは、王都の規模に対する感嘆とも、これから待ち受けるものへの不安ともつかない、掠れた声だった。

 西門の警備にあたっていた衛兵たちは、近づいてくる巨大な馬車に刻まれた侯爵家の紋章を認めた途端、目に見えて顔色を変えた。

 慌ただしく大声で指示を出し、一般の入城列を止め、中央の広い道を開けさせる。周囲の馬車や荷車が、波が引くように左右へ避けていく。

 ざわめきが、波紋のように門の周囲へ広がるのが、防風の術式が張られた閉じた窓越しにもはっきりと分かった。

『ヴォルガード侯爵家だ』

『まさか、あの辺境の覇者が――』

『王都の夜会に、本当に来たのか』

『化け物当主……』

 個々の言葉まではっきり聞こえるわけではない。

 けれど、外にいる人々の強張った表情や、ヒソヒソと交わされる口の動きが、すべてを物語っていた。

 好奇、恐れ、緊張、興奮。

 および、その中に明確に混じっている、「あの生贄にされた妻の顔を見たい」という下世話な視線。

 私は無数の目に見られているような錯覚に陥り、思わず身を固くした。

 すると、ギルベルト様が窓の外を一瞥しただけで、車内の空気が凍りつくほど機嫌を悪くしたのが分かる。


「見るな」


「え?」


「外の連中を」


「ですが、王都の街並みを見るのは初めてで……」


「それでも見るな. 俺が目障りだ」


「目障り、というのは」


「連中の、お前を探るような視線がだ」


 地を這うような低い声には、周囲の人間を皆殺しにしかねないほどの露骨な苛立ちと殺気が滲んでいた。

 彼は自分の分厚い外套の片側を大きく広げると、私の肩をぐっと引き寄せ、そのまま私の顔も身体も、半ば包み込むように覆い隠した。

 傍目には、夕方の寒さから妻を守っているようにしか見えないだろう. だが実際は、おそらく「外の人間から、お前の髪の一筋すら見えにくくする」ための、極めて独占欲に満ちた行動だ。


「旦那様、そんなに隠さなくても」


「そんなにだ」


 きっぱりと、有無を言わせぬ声で言い切られてしまう。

 王都の西門をくぐった先、城壁の内側は、さらに圧倒的な光景だった。

 馬車がすれ違えるほど広い、綺麗に舗装された石畳の通り. ずらりと並ぶ、ガラス張りの店舗. 夜の訪れを前に明かりが灯り始めた華やかな看板. および、人、人、人。

 仕立ての良い服を着て歩く紳士淑女、足早に過ぎる商人、巡回する兵士、本を抱えた学生らしい若者、重い荷を引く労働者. 辺境とはまるで違う、高い密度の生活と欲望が、そこら中で脈打っている。

 なのに、私たちの黒い巨大な馬車が進むたび、その人の流れが、まるでモーセの奇跡のように不自然に割れた。

 見えない鋭い刃が、水を裂くように。

 窓の外の通りにいる人々は皆、まず辺境侯爵家の威圧的な隊列に驚き、次に私たちの乗る馬車へ視線を釘付けにし、および最後に、その扉がいつ開き、中から誰が出てくるのかを待ち構えるような、息を呑む顔をした。

 王都中が噂する『化け物当主』。

 および、その生贄となったはずの妻。

 王都の華やかな場に、現れるはずのなかった二人。

 私は自分でも分かるほど、緊張で息を浅くした。

 けれど、その時、私を覆う外套の下で、ギルベルト様の手が私の腰をさらに強く、逃がさないように抱き寄せる。


「別邸に着いても、俺が声をかけるまで動くな」


「……はい」


「扉が開いても、外の連中を見るな. 自分の足元だけ見ていろ」


「はい」


「誰が何を言っても、どんな視線を向けてきても気にするな」


「はい」


「俺への返事だけでいい」


「はい」


 まるで、これから血みどろの戦場へ出る前の、部下に対する最終確認みたいだ、と思った。

 けれど、当のギルベルト様本人は、本気でそう考えているのだろう. 実際、この人にとって、好奇と悪意に満ちた王都の社交界は、魔物の群れよりも厄介な、別種の敵地なのかもしれない。

 馬車はやがて、王都の喧騒の中心部から少し離れた、静かで格式高い貴族街の一角で止まった。

 高い石の塀に囲まれた、豪奢な造りの屋敷. ここが侯爵家の王都における別邸だろう. すでに先触れが届き、受け入れ準備を終えていたのか、大きく開かれた門の前には、別邸を管理する使用人たちが整然と列を作って待機している。

 だが、その門の外、通りの向こう側にも、すでに黒山の人垣ができていた。


「……っ」


 私は思わず息を呑んだ。

 貴族らしい上等な身なりの者もいれば、ただ噂を聞きつけて集まってきた見物人らしい平民の者もいる. 皆が皆、固唾を呑んで侯爵家の馬車を見つめている。

 扉の向こうで、護衛の騎士が馬車周辺の降車の安全確認を終えたらしい。

 外から、準備完了を知らせる短い合図が届く。

 その瞬間、ギルベルト様は私を膝から下ろして自分で歩かせるどころか、私の膝裏と背中に腕を回し、そのまま軽々と横抱きに抱え上げた。


「だ, 旦那様!?」


「静かにしろ」


「ですが、馬車を降りるくらい、自分で歩けます……!」


「駄目だ」


 もう反論する暇すら、一秒も与えられなかった。

 重い扉が開く。

 夕方の冷えた空気と、外で待ち構えていた無数の視線が、一斉に車内へと流れ込んできた。

 外にいた人々のざわめきが、水を打ったようにぴたりと止まる。

 そこに現れたのは、噂通り冷徹で、血も涙もない近寄りがたい辺境侯爵――のはずだった。

 漆黒の外套を夜風に翻し、氷のように冷酷な表情で馬車を降りたギルベルト様。

 だが、その腕の中には、まるで国宝級の壊れ物でも扱うように、外套で大事に隠され、丁重に抱えられた私がいる。


「……え」


 群衆の誰かが、信じられないものを見たようにそう漏らしたのが、静寂の中で微かに聞こえた気がした。

 当然の反応だ。

 抱き上げられている私だって、この状況にまだ半分混乱している。

 けれどギルベルト様は、周囲の困惑などまるで当然のこととしか思っていない堂々とした足取りで、私を抱えたまま、馬車の踏み台を一段ずつ下りた。

 私の身体にわずかな揺れすら伝えないよう慎重に、しかし、周囲を圧倒する王者のような威圧感は一切崩さずに。


「旦那様、お願いですから降ろしてください……っ」


「駄目だ. 足元が悪い」


「綺麗に舗装された石畳です」


「信用ならん. 躓くかもしれない」


「ここは王都の中心部の貴族街ですよ!?」


「だからどうした」


 私の胸元での小声の攻防など、周囲には聞こえていない――と思いたい。

 だが、近くで出迎えていた別邸の使用人たちの目が、驚きで丸くなり、きらりと揺れた気がした. たぶん、距離的に聞こえている. とても恥ずかしい。

 ギルベルト様はようやく玄関前のポーチまで来ると、そこで初めて、私をゆっくりと下ろした。

 ただし、ただ手を離して下ろしただけではない. 片手で私の腰をしっかりと支え、もう片方の手で私のドレスと外套の裾が汚れていないか整え、および私の足元に数ミリの段差すらないか入念に確認してからである。

 そこまで過保護な手順を踏んでから、ようやく彼は私を見下ろして低く言った。


「歩けるか」


「……はい」


「なら行くぞ」


 そのまま、彼は私の手を取る。

 指先だけを軽く取るエスコートではなく、私の小さな手を、彼の手のひらごとしっかりと包み込むような、絶対に離さないという意志表示のような握り方だった。

 門の外では、沈黙から解放された人々が、再び激しくざわめき始めていた。

『あれが、あの生贄にされた侯爵夫人……?』

『本当に生きてる. しかも、五体満足だ』

『いや、それより』

『あの血も涙もないヴォルガード侯爵が……妻を大事そうに抱いて降ろしたぞ……?』

『馬鹿な、噂と違うじゃないか. 妻は地下牢にいるはずでは』

『違わないだろ、侯爵の顔は噂通り、人を殺しそうなほど怖いままだ』

『顔は怖いが……妻に触れるあの手つきが、なんだあれは』

『まるで、硝子細工の壊れ物か何かか?』

『壊れ物のように大切な存在なんだろ、侯爵にとっては』

 そんな無遠慮な囁きが、夕風に混じって私の耳にも届く。

 恥ずかしさで頬がカッと熱くなる。

 だが隣を見上げると、ギルベルト様は周囲のざわめきなど一顧だにしていなかった。

 いや、正確には、自分の視界の端に入る私以外のすべてを、「いてもいなくても同じ、ただの背景」として処理しているような、絶対零度の顔だった。

 その横顔を見た瞬間、私はふっと、肩に入っていた力が抜けるのを感じた。

 そうだ。

 王都の人々がどれほど勝手な想像をして騒ごうと、この人の本質は変わらない。

 恐れられようが、変な噂を立てられようが、無数の好奇の目で見られようが、私を守るという姿勢だけは、何ひとつ揺るがないのだ。

 玄関扉の前に立つと、別邸を任されている初老の執事が、深々と頭を下げて迎えた。


「王都へお帰りなさいませ、旦那様、奥様. 長旅、お疲れ様でございました. お部屋はすでに整えてございます」


「ご苦労」


「お荷物の荷ほどきも、ただちに取り掛からせます」


「奥様の部屋の温度と湿度はどうなっている」


「旦那様のご指示通り、辺境の私室と全く同じ環境に調整しております」


「窓の結界は」


「二重に張り直しました」


「不審者の排除は」


「門前に近づいた時点で、護衛がすべて排除しております」


「……よし」


 到着直後の確認事項が、異常に多い。

 やはりここ王都でも、私は厳重管理対象のままらしい。

 けれど、その矢継ぎ早のやりとりを聞いていた別邸の使用人たちの視線は、恐怖というより、どこか不思議そうな、戸惑いの色を含んでいた。

 無理もない. 彼らにとってギルベルト様は、滅多に王都に寄り付かず、近寄りがたい冷徹な主として恐れられているはずだ. そんな主人が、王都での情勢確認および自らの休息よりも、到着早々、妻の室内環境の方を最優先で確認しているのだから。

 屋敷の中へ通される直前、私はほんの少しだけ振り返った。

 閉ざされようとしている門の向こう。

 王都の賑やかな通り。

 夕陽に照らされた、黒山の人波。

 そこにはまだ、信じられないものを見たという顔でこちらを見つめる無数の目があった。

 けれどもう、西門をくぐった時ほどは怖くなかった。

 私の手を握る彼の指は強く、大きくて温かい。

 隣に立つこの人の確かな気配は、王都のどんな悪意あるざわめきよりも、ずっと確かで力強い。


「旦那様」


「なんだ」


「……私、思ったより平気かもしれません」


「そうか」


「もちろん、王都の空気は少しは怖いですけれど」


「怖くていい」


「え?」


「お前が全部、自分の小さな肩で一人で背負う必要はない」


 そう言って、ギルベルト様は門の外の群衆へ向けて、一度だけ氷のような視線を向けた。

 その瞬間、門の外の見物人たちが、まるで首元に刃を突きつけられたようにびくりと身を強張らせ、一歩後ずさるのが遠目にも分かる. 黒い魔力が漏れたわけでもない. ただ、苛立ちを含んだ目を向けただけだというのに。


「連中の相手は、すべて俺がする」


「……はい」


「お前は、俺の隣にいろ」


 その不器用な言葉に、私は小さく笑って頷いた。

 やがて私たちは別邸の中へ入り、重厚な玄関の扉が静かに、しかし確かな音を立てて閉ざされる。

 外の喧騒と視線は、そこでようやく遠く遮断された。

 けれど王都の貴族たちは、もう確かに私たちの存在を知ってしまったのだ。

『化け物当主』が。

 その生贄の妻を。

 まるで宝物か壊れ物のように抱き上げ、誰の目にも触れさせまいと手を引いて歩く姿を。

 その夜、王都のあちこちのサロンや酒場で、この異常な到着劇の噂はさらに尾鰭をつけて膨らむだろう。

 辺境の冷酷な侯爵は、やはり噂以上に恐ろしい男だった。

 けれど同時に、その妻に対してのみ、あまりにも異常なほど甘いのだと。

 および、その数多の視線と好奇心のすべてが向かう最大の舞台が、いよいよ次には王城で開かれる夜会となる。

 ――私たちを待つのは、決して華やかで温かい歓迎ではない。

 王都の貴族たちによる、扇および微笑みで甘く粧った、残酷な値踏みおよび洗礼だ。

 ただし彼らは、まだ知らない。

 そのきらびやかな場で私に向けられる無数の悪意の一つひとつに対して、ギルベルト様がどれほど容赦なく、冷酷に、および堂々と私を庇い、王都の常識を叩き潰すのかを。


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