第12話 王都からの招待状と、布面積の多すぎるドレス
銀の盆に乗せられた王城からの招待状は、ただそこにあるだけで、周囲の空気を重く沈み込ませるような異様な威圧感を放っていた。
深紅の蝋に深く刻印された、剣と盾を象る王家の紋章。
厚手で上質な羊皮紙の表面に走る、一切の無駄を省いた流麗な筆跡。
過剰な装飾などどこにもない。けれど、だからこそ、決して逆らうことの許されない絶対的な重みがそこにはあった。
私は重厚な革張りのソファの端にちょこんと座り、執務机の向こうでギルベルト様がペーパーナイフを手に取り、その封を切るのを固唾を呑んで見守っていた。
つい先ほどまで、日の光に満ちた温室での初仕事の甘い余韻に浸っていたはずなのに、今や執務室の空気は冷や水を浴びせられたようにすっかり張り詰めている。
硬い封蝋がカチリと割れ、分厚い紙を開くカサリという乾いた音だけが、静かな室内に小さく響いた。
ギルベルト様の漆黒の瞳が、文面を素早く滑っていく。やがて、その端整な眉間に微かに不機嫌な皺が寄った。
「……王都で来月、王家主催の夜会が開かれるらしい」
「夜会……」
「我が夫妻に出席を命ずる、だと」
最後の一言だけ、ギルベルト様の声音が地を這うようにわずかに低くなる。
命ずる。
なるほど、これは確かに歓迎の招待状というより、絶対の召喚状に近い。
壁際に控えていたセバスチャンが、足音も立てずに一歩進み出て、淡々とした声で補足した。
「先日の件が、すでに王都まで届いているのでしょう」
「先日の件、というのは……」
「バルトフェルト伯爵家の失脚に関する騒ぎでございます」
その名を聞いた瞬間、私は思わず膝の上でドレスの生地をきつく握りしめた。
失脚。
セバスチャンの口から出たそれはあまりにも簡潔な表現だけれど、その一言の裏には、私が物心ついた時から長く縛り付けられてきた『家』の終わりが詰まっている。
父も母も義妹も、最後には辺境の覇者たる侯爵家を敵に回した代償を払うことになった。あの家はもう、かつてのように領民や弱い貴族に対して威張り散らせる立場ではない。
それは私にとって喜ばしいはずの事実なのに、王都という遠く離れた場所にまでその顛末が噂として広がっていると聞くと、胸の奥に冷たい風が吹き込んだように少しだけざわついた。
「噂では、どのように……伝わっているのでしょうか」
「さあな」
吐き捨てるようにそう言ったギルベルト様だったが、横顔の顎の線は硬く、明らかに不機嫌の兆候を示していた。
代わりにセバスチャンが、普段の彼には珍しく、ほんのわずかに言葉を選ぶような数秒の間を置いてから答える。
「おそらく、『化け物侯爵に嫁いだ薄幸の令嬢が、奇跡的に生き残っている』といったところかと」
「……っ」
私は小さく息を呑み、血の気の引いた指先をさらに強く握り込んだ。
きっと、セバスチャンのその言い回しは、私に配慮したかなり穏当な表現なのだろう。
王都の絢爛な社交界に集う貴族たちが、もっと露悪的で、面白おかしく尾鰭をつけた噂話を好んで消費することくらい、私にも容易に想像がつく。
『呪われた侯爵に捧げられた哀れな娘』。
『数日で壊れるはずだった無価値な生贄』。
『それなのに、なぜか侯爵に異常な寵愛されているらしい奇妙な令嬢』――。
そんな棘のある言葉たちが、黒い蝶の群れのように容易に頭に浮かんだ。
実家の薄暗い物置にいた頃、私は身をもってよく知っていた。
貴族たちの集う社交界という場所が、弱い者の不幸や醜聞を、どれほど上品な顔をして、どれほど残酷に消費する場所なのかを。
「行かない」
重苦しい空気を切り裂くように、その時、ギルベルト様が低くきっぱりと言い放った。
私ははっと顔を上げる。
彼は手にした王家の招待状を、まるで汚らわしい塵でも扱うように机の上に放り投げ、心底面倒そうに深く眉を寄せていた。
「断る」
「ですが、旦那様. 王命に近しい形式かと」
「知るか」
「知ってくださいませ」
セバスチャンの冷静な指摘を切り捨てた彼に、私は思わず身を乗り出して口を挟んでしまった。
途端に、ギルベルト様の視線がこちらへ向くる。
黒曜石のような深い漆黒の目がじっと私を射抜くが、出会った頃のような恐ろしさはなく、今の彼からは、大きな獣が気に入らないものを前にしてただ不機嫌に唸っているような気配しか感じられなかった。
「お前は行きたいのか」
「そ、それは……」
即答できなかった。
行きたいわけがない。
シャンデリアの眩い光と、きらびやかなドレスの波。そんな華やかな夜会など、私には到底似合わない場所だ。王城という国の中心に足を踏み入れ、大勢の貴族たちの値踏みするような視線を全身に浴びることを想像するだけで、指先からゆっくりと熱が奪われていく。
けれど、行きたくないと駄々をこねて逃げ切れるとも思えなかった。
もう私は、あの実家の隅で息を潜め、押し潰されるのを待つだけの娘ではない。辺境を統べる巨大な侯爵家の妻として、ギルベルト様の隣に立つ立場になったのだ。もし彼が当主として王都に赴く義務があるのなら、私も妻として、その隣にいるべきではないだろうか。
「怖い、です」
「なら終わりだ。行かない」
「でも」
私は震えそうになる唇をぎゅっと結び、それでも言葉を続けた。
「怖いからといって、いつまでも逃げてばかりでは、旦那様の妻としてふさわしくなれません」
口にした途端、自分で自分の胸を針で刺したように痛くなる。
ふさわしい、なんて。
そんな言葉に、私はまだほど遠い。教養も、作法も、貴族としての矜持も足りていない。
けれど、ギルベルト様は私の不器用な決意を鼻で笑って否定することはしなかった。
ただ、どこか苦しげな、深く長い溜息をひとつ、執務室の床へ落とす。
「お前は、時々そういうところだけ妙に頑固だな」
「す、すみません……」
「謝るな。そこを責めているわけじゃない」
彼は革張りの肘掛けに長い指を苛立たしげに打ちつけながら、しばらく黙り込んだ。
とんとん、という規則的な音だけが響く沈黙の間に、室内にいるセバスチャンも私も、彼の機嫌の行方を見極めようと息を潜める。
やがて、ギルベルト様は心底不本意そうに、喉の奥から絞り出すように低く呟いた。
「……行くとしても、お前は俺の傍を一歩も離れるな」
「はい」
「誰にも触れさせない。勝手に言葉を交わすな」
「そ、それは」
「駄目か」
「いえ……」
とても駄目だと言えるような空気ではなかった。何より、その異常とも言える過剰な制限の中に、彼なりの不器用な心配と庇護欲が痛いほど透けて見えてしまうからだ。
私が小さく頷いてみせると、ギルベルト様はほんの少しだけ強張っていた表情を和らげたものの、すぐにまた親の仇でも見るような不機嫌な顔へと戻った。
「そもそも、王都の連中に見せたくない」
「え?」
「外の虫どもに、お前を見せる理由がない」
あまりにもはっきりした物言いに、私はぽかんと口を開けた。
セバスチャンは表情一つ変えずにごく自然に聞き流しているが、給仕のために控えていた侍女のマリーなどは、危うく吹き出しそうになって口元を両手で押さえている。
「む、虫……」
「そうだ。お前を面白半分で眺める貴族どもなど、全員まとめて庭の肥やしにしてやりたい」
「だ、旦那様」
「冗談ではない」
真顔だった。
彼の瞳の奥には、確かな殺意めいた黒い炎が揺らめいている。本気である。
私は一気に顔が熱くなるのを感じながら、そっと視線を自分の膝へ落とした。
こんなふうに、直球で執着を向けられることに、まだ全然慣れない。
けれど、そのあまりにも露骨で重たい独占欲が、今の私には嫌ではなかった。
そんな私の気恥ずかしそうな様子を見てか、セバスチャンが意図的に実務的な咳払いをし、冷徹な声で話を現実へと戻す。
「出席なさるのであれば、早急に準備が必要です」
「準備?」
「奥様の夜会用の装いでございます」
「……あ」
その瞬間、先ほどの熱とはまったく別の意味で、すっと血の気が引いた。
そうだ。
王城の夜会に出席するということは、当然それ相応の、格の高いドレスが必要になる。
私は侯爵家に嫁いでから、彼に何着か上等な衣装を用意してもらったけれど、いずれも屋敷内の温調された空間で過ごすためのものや、領内の安全な訪問に耐える程度の格式のものだった。王家が主催し、国中の高位貴族が集う夜会となれば、求められる華やかさも格式も、話はまったく別次元だ。
「わ、私に似合うようなものがあるでしょうか……」
「似合うに決まっている」
「旦那様」
「問題はそこじゃない」
ギルベルト様は一瞬の迷いもなく即答すると、今度は心底嫌なものを想像したように、深く眉を顰めた。
「夜会の女の衣装は、布が少ない」
「ぬ、布……?」
「肩を出すな。背中も出すな。胸元も論外だ。腕も駄目だ」
「……」
「脚など論外以前だ」
私はしばらく、目を丸くして瞬きを繰り返した。
どうやら、ギルベルト様の脳内において、王都の夜会というものは、敵意と過剰な露出に満ちた、極めて治安の悪い危険地帯として認識されているらしい。
セバスチャンが「では、腕の確かな仕立て屋を数名呼びましょう」と静かに提案すると、ギルベルト様はすぐさま強く頷いた。
「屋敷へ呼べ」
「承知いたしました」
「王都の流行を知っている者がいい。だが、余計な色気を押しつけるような勘違いした者は不要だ」
「選別いたします」
「あと、宝飾師も呼べ」
「宝飾師も、でございますか」
「最高のものを用意しろ。ただし、露出を誤魔化すための安っぽい装飾は不要だ。最初からきちんと布で隠せ」
「かしこまりました」
何がどう「かしこまりました」なのか、私には半分くらいしか理解できなかった。
けれど、腕を組み、鋭い眼光を放つギルベルト様の様子を見る限り、この件に関してはすでに彼の中で苛烈な戦が始まっている。
相手は王都の華麗なる夜会文化と、女性の肌を見たがるすべての不届きな男たち、なのだろう。
その日の午後には早くも、侯爵邸の広大な応接室に、三人の仕立て屋と一人の宝飾師が呼び寄せられていた。
いずれも王都でも名の知れた超一流の職人らしく、磨き上げられた長机の上には、色とりどりの上質な布見本や、ビロード張りの宝石箱が整然と並べられている。彼らは部屋に入ってきた私へ、一糸乱れぬ動きで丁寧な最敬礼の頭を下げた。
「この度はお声がけ光栄に存じます、奥様」
「王城の夜会にふさわしい、最高の一着を誠心誠意お仕立ていたします」
私は極度の緊張で喉をカラカラにしながらも、何とか微笑んで挨拶を返す。
だが、その職人たちの熱意に満ちた和やかな空気は、長くは続かなかった。
「まず申し上げておく」
応接室の上座に深く腰掛けたギルベルト様が、地鳴りのような低い声で口を開く。
「奥様の肌は、一片たりとも下品に晒さない」
「は、はい……?」
「首元は詰めろ。肩は覆え。腕も手首まできっちり隠せ。背中は当然見せるな」
「か、かしこまりました……」
仕立て屋たちの営業用の笑顔が、一瞬にして見事に引きつった。
宝飾師も、煌びやかな首飾りを取り出そうと宝石箱に伸ばしていた手を、空中でピタリと止めている。
しかし、当主であるギルベルト様の要求に容赦という文字はない。
「布地は最上級のものを使え。だが装飾で重すぎるな。肌あたりが柔らかく、長時間着ていても絶対に疲れないものだ」
「承知いたしました」
「締め付けも最低限だ。息苦しいコルセットなど論外」
「はい」
「ただし、形は美しくしろ」
「もちろんでございます」
「美しく、上品で、誰にもいやらしい視線を向ける隙を与えず、それでいて俺の妻に相応しい、他を圧倒する格を持たせろ」
「……」
仕立て屋たちは、もはや無言で深く頭を垂れるしかなかった。
難題にもほどがある。すべての要求が矛盾しているとすら言える。
私は彼らに対する申し訳なさで身を縮め、消え入りたい気持ちになったが、当のギルベルト様は本気そのものだ。
むしろ、まだ俺の要求は終わっていないとでも言いたげな顔で、さらに続ける。
「色は」
「旦那様」
これ以上職人たちを追い詰めるのは忍びなく、私は思い切って声をかけた。
「少しだけ、私の意見も聞いていただけますか」
「……言ってみろ」
ギルベルト様の視線が私に向いたのを確認し、私は机の上に広げられた無数の布見本の中から、そっと一枚の絹を手に取った。
それは、夜空に浮かぶ月の光をそのまま布に溶かし込んだような、ごく淡い青銀色の絹地だった。一見すると白に近いが、まっさらな白よりも少しだけ柔らかく、窓からの光の加減でごく淡い青みが波のように揺らぐ。指先の感触は、水に触れているかのように滑らかだった。
「これが、きれいだと思います」
「青か」
「はい。私には、少し勿体ない気もしますけれど……」
「勿体なくない」
やはり、食い気味の即答だった。
ギルベルト様は私の手元にある青銀の布をじっと見つめ、それから深く、ゆっくりと頷いた。
「いい色だ。お前の目に合う」
「……ありがとうございます」
胸の奥が、ふわりと温かなお湯に浸されたように熱くなる。
張り詰めていた空気がわずかに緩んだのを見計らい、最年長らしい女主人の仕立て屋が、緊張の汗を滲ませながらも職人としての真剣な顔つきで口を開いた。
「恐れながら、旦那様。奥様の艶やかな髪と、透き通るようなお肌の色を考えますと、その青銀を基調に、流れるような銀糸の刺繍を重ねるのが最も映えるかと存じます」
「刺繍か」
「はい。さらに胸元から肩のラインにかけて、透明感のある白珠を散らせば、布地で覆われていても、決して重くならず、清らかで格のある印象になります」
「白珠……」
その言葉に反応し、息を潜めていた宝飾師がすかさず別の小箱を開いた。
黒い天鵞絨の上に並べられていたのは、朝露の粒のように瑞々しく艶めく、不純物のない真珠の連なりだった。
「こちらは北方海域の深海でしか採れぬ、最高品質の白珠にございます。光の当たる角度によって、淡い銀にも青にも見える、大変希少な品でして」
「綺麗……」
思わず感嘆の声を漏らした私に、宝飾師は我が意を得たりとほっとしたように微笑んだ。
だが、その平和な時間は、次の瞬間もろくも崩れ去る。
若い仕立て屋が、王都の最先端の流行を伝えるのも自分の仕事だと使命感に駆られたのか、何気なく一枚の意匠画を広げてしまったのだ。
「ただ、今季の王都の夜会では、このように鎖骨のラインを美しく見せる浅めの開きの――」
「駄目だ」
「あるいは、背中に控えめな抜けを作ることで、隠しつつもかえって上品な色香が――」
「却下だ」
「そ、袖先だけでも、透けるレース素材にすれば軽やかさが――」
「論外だ」
氷の刃のような三連続の即時却下で、応接室の室温が物理的に数度下がった気がした。
提案を打ち砕かれた若い仕立て屋が、文字通り青ざめて後ずさる。
私は慌てて二人の間に割って入るように口を挟んだ。
「だ, 旦那様、その方も、プロのお仕事としてより美しくなる提案をしてくださっているだけですから……」
「分かっている。だからまだ追い出していない」
「追い出す予定はあったのですか!?」
「露出を勧め続けるならある」
微塵の冗談もない真顔だった。
本当につまみ出す気らしい。
女主人の仕立て屋が極めて機敏な動作で若い職人の意匠画を引っ込め、「では、首元まで端正にすっぽりと覆う立ち襟で進めさせていただきます!」と即座に路線変更を宣言する。
さすがは王都を生き抜く商人の、経験の差だった。
そこから先は、まさしく薄氷を踏むような、綱渡りの採寸と打ち合わせが始まった。
首元は高く、しかし決して喉を圧迫しない絶妙な立ち上がり。
肩から胸元にかけては、女性らしい滑らかな曲線を作りつつも、布地による完全防御。
袖は手首の骨が隠れるまでをすっぽりと覆うが、決して重く見えないよう、光を反射する細かな銀糸の刺繍を蔦のように散らす。
裾は格式高く幾重にも重ねるが、歩いた時の足捌きを邪魔して転倒しないよう、内側の生地を極限まで軽くする。
背中はもちろん、首の後ろまで厳重に閉じる。
腰のラインはコルセットに頼らず緩やかに整え、全体は清楚で格調高く。
そして何より――肌を覆う布面積が、異常に多い。
とても、とても多い。
打ち合わせの途中、私はふと、職人たちが描き直して机上に並べた意匠画を見て思った。
これは本当に、華やかな夜会に着ていくドレスなのだろうか。
もしかすると、どこかの王妃が戴冠式で着る式典用礼装か、あるいは神殿の奥深くに仕える高位巫女の正装ではないのだろうか。
「……旦那様」
「なんだ」
「少し、その……厳重すぎませんか?」
「どこがだ」
「その、腕も首も、本当に全部覆われていますし……」
「寒いだろう」
「夜会は屋内では?」
「馬車から会場への移動がある」
「ほんの少しの距離では……」
「駄目だ」
やはり、何を言っても駄目だった。
私は抗議を諦め半分で呑み込み、そっと手元の意匠画に視線を戻す。
だが、不思議なことに、見れば見るほどそのデザインは美しかった。
露出は少ない。少ないどころか、首から下はほぼ完全に隠れている。けれど、首から肩へ落ちる線の取り方と、何層にも重ねられた青銀の布の重なりが絶妙で、肌を見せるよりもかえって、触れがたい上品さと圧倒的な高貴さが際立っているのだ。
「……綺麗です」
「当然だ」
私の感嘆の呟きに、ギルベルト様が事も無げに短く答えた。
「お前に着せるものだ」
「旦那様は、何でも当然のように仰るのですね」
「当然のことしか言っていない」
そのあまりにも堂々とした言い方がおかしくて、私はつい肩を震わせて笑ってしまう。
すると、ギルベルト様は少しだけ目を細め、私の顔をじっと見つめた。
傍から見れば不機嫌そうに見えるその表情が、実際には私が笑ったことに心底安心している時の顔だと、最近の私はようやく知るようになっていた。
しかし、いざ採寸の段になると、さらに騒ぎは大きくなった。
女主人の仕立て屋がメジャーを持って私に一歩近づいただけで、ギルベルト様の視線が抜身の剣のように鋭く剣呑になる。
「必要最小限の接触にしろ」
「は、はい」
「触れる時は、必ず一言断れ」
「かしこまりました」
「手つきに気をつけろ。力を入れるな」
「もちろんでございます」
私はとうとういたたまれなくなり、思わず両手で顔を覆って俯いた。
恥ずかしい。
ただ採寸されるだけなのに、恥ずかしすぎる。
「だ、旦那様……」
「何だ」
「皆さん、とても困っておられます……」
「俺の指示で困らせるような真似をする方が悪い」
「まだ何もしておられません」
「これからするかもしれない」
「ただの採寸です」
「分かっている」
分かっていてこれなのだから、もう完全に手に負えない。
結局、採寸の間じゅう、ギルベルト様は私の斜め後ろに仁王立ちし、まるで暗殺者の襲撃から主君を守る近衛騎士かのような恐ろしい顔で、布を当てる全工程を瞬きもせずに見届けていた。
すべての作業が終わり、応接室から退出する仕立て屋たちは、目に見えて寿命が縮んだような安堵の息を吐いていた。
それから数日、侯爵邸は王都への出発に向けて、妙な熱と活気に包まれた。
仕立て屋は毎日のように仮縫いの調整と確認のために訪れ、宝飾師はドレスに合わせる髪飾りと首飾りの試作品をいくつも持ち込んだ。侍女たちは私に王都の複雑な礼儀作法を少しでも叩き込もうと、廊下を小走りで奔走している。
「夜会では、会場に入られましたら、最初に国王陛下へご挨拶を申し上げる流れとなるかと存じます」
「陛下に……」
「お言葉をいただいた際は、簡潔に、しかし堂々と、決して臆さずにお答えください」
「う、臆さず……」
「もしプレッシャーで無理だと思われましたら、隣にいる旦那様の袖をそっとお引きください」
「それで、無作法だと怒られずに許されるのでしょうか」
「旦那様なら、物理的に許させます」
「許させる……」
侍女のアンナの補足説明はどこか力強く、そしてギルベルト様の性格を考えれば妙な説得力があった。
その一方で、王都から届く手紙や商人たちを通じて運ばれてくる噂話も、日に日に増えていった。
侯爵邸の使用人たちは、決して私の前で露骨には話さないが、廊下の角を曲がる時や給仕室の前を通り過ぎる時、ひそひそと漏れ聞こえる声がある。
『辺境の化け物侯爵が、どうやら新しく迎えた妻を異常なほど溺愛しているらしい』
『あの没落したバルトフェルト家の娘だろう? 王都にいた頃は、まるで壁の花のように冴えない、存在感のない子だったはずだが』
『侯爵夫人になって、見違えるほど美しくなったらしいぞ』
『いやいや、侯爵が誰にもその姿を見せたがらないから、余計に得体の知れない噂が膨らんでいるだけだ』
断片的な言葉を聞くたびに、私の胸の奥が冷たくざわついた。
王都の貴族たちは、きっと悪意と好奇心を隠そうともせず、私を見に来るのだろう。
あんな家にいた哀れな生贄が、本当に生きているのか。
あの恐ろしい『化け物侯爵』に見初められた娘とは、いったいどんな顔をして、どんな振る舞いをするのか。
どれほどみすぼらしく、あるいは身の程知らずで滑稽なのか。
そんな無数の好奇の視線を全身に浴びることを想像するだけで、夜の静寂が訪れる頃には、私の気持ちは鉛のように少しずつ沈んでいった。
そして、出発を目前に控えたある晩。
私は仮縫いを終え、仕立て屋たちが帰った後の広い自室で、一人、姿見の鏡の前に立っていた。
まだ完成前のドレスには所々に白いしつけ糸が残っているけれど、全体のシルエットはすでに完璧に浮かび上がっている。
月光を織り上げたような、滑らかな青銀の絹。
首元まで端正に整えられ、肌を隠す立ち襟。
肩から腕のラインを、窮屈さなど微塵も感じさせずやわらかく包み込む長袖。
胸元には、職人の執念とも言える繊細な銀糸の刺繍がゆるやかな曲線を描いて流れ、雪の結晶にも似た模様が、散りばめられた白珠とともに淡く、冷たくきらめいている。
美しい。
本当に、見惚れてため息がこぼれるほどに美しい。
なのに、鏡の中に映る私は、その圧倒的な美しさに見合う中身を持った人間には、どうしても見えなかった。
「……綺麗な服に、助けてもらっているだけ」
静かな部屋にぽつりと漏れた自分の声は、驚くほど弱く、ひび割れていた。
ドレスが悪いのではない。
仕立て屋たちの仕事は、ギルベルト様の理不尽な要求に応えた完璧な芸術品だ。
ただ、それを着る私という人間が、圧倒的に足りていないだけだ。
王都の夜会という残酷な光の海へ出れば、私はきっとすぐに見抜かれる。
育ちの悪さも、根底に染み付いた自信のなさも、社交界の腹の探り合いに不慣れなことも。
侯爵夫人という豪奢な衣装だけを纏った、中身の伴わない空っぽな女だと。
「そんな暗い顔で立つな」
不意に背後から低い声が落ちてきて、私はびくっと肩を震わせた。
慌てて振り向くと、開け放ったままだった扉のところに、黒い室内着を纏ったギルベルト様が腕を組んで立っている。
いつからそこにいたのか、足音すらなかったので全く分からない。
けれど、その深い漆黒の目は、逃げ隠れする隙も与えず、まっすぐに私を射抜いていた。
「旦那様……」
「何を考えていた」
「……」
「言え」
私は言葉に詰まり、迷った。
でも、この人の前で自分を良く見せようと取り繕うことが、最近は少しずつ難しくなっている。
どうせ隠したところで、私のちっぽけな不安など、彼にはあっさりと見抜かれてしまうのだ。
それなら最初から、情けない本音を言ってしまった方がいいのかもしれない。
「……私なんかが、こんな立派なものを着ていい人間ではないのでは、と」
「誰が決めた」
「王都の方々は、私の顔を見れば、きっとそう思われます」
「王都の連中が思うことなど、道端の塵ほどの価値もない」
迷いのない、一刀両断だった。
ギルベルト様はゆっくりとした歩みで私の傍まで来ると、鏡越しに私の顔をじっと見つめる。
その視線には、彼特有の冷酷さも厳しさもなく、ただ一つの事実を告げるような、ひどく真剣な光だけがあった。
「その衣装は、お前のためだけに作られた」
「ですが」
「お前以外の誰が着ても、何の意味もない」
彼は低い声でそう言い切ると、私の肩先にかかる青銀の生地へ、壊れ物に触れるようにそっと指先を這わせた。
「俺が選んだ色だ」
「……はい」
「俺が、お前にこう着せたいと思った形だ」
「はい」
「なら、それでいい」
その理屈は、冷静に考えればたぶん少しだけ、いやかなり横暴だ。
でも、彼特有の低い声で、真っ直ぐにそう言い切られると、不思議とそれが世界の真理であり、それ以外の解釈など存在しないかのように聞こえてしまうから困る。
「それに」
彼は長身を少しだけ屈め、私の耳元へ息がかかるほどの距離で低く囁いた。
「王都の連中が何をどう言おうと、お前が俺の唯一の妻である事実は、天地がひっくり返っても変わらない」
「旦那様……」
「見下す目があるなら、俺がその目を潰す。お前を笑う口があるなら、二度と開けないように縫い合わせてやる」
「そ, それは」
「本気だ」
鏡越しに見る彼の顔は、やはり微塵の冗談もない真顔だった。
私は思わず、不安も忘れてくすりと吹き出して笑ってしまう。
そんな私の拍子抜けした顔を見て、ギルベルト様はわずかに満足そうに目を細めた。
「ようやく、少しまともな顔になったな」
「……旦那様は、いつもそうやって強引です」
「嫌か」
「……いえ」
ほんの小さな、吐息のような返事だった。
けれど、彼の耳にはそれで十分に届いたらしい。
彼は私の肩を背後からそっと抱き寄せると、鏡の中に映る私たちを静かに見下ろした。
月光のような青銀のドレスを纏った私と、その隣で私を包み込むように立つ、影のような黒ずくめの彼。
光と闇のようにあまりにも対照的で、けれど不思議と、一枚の絵画のようにしっくりと馴染んで見える。
「悪くない」
「本当ですか」
「いや」
ギルベルト様は、じっと鏡の中の私を舐めるように見つめた後、何か重大な誤りに気づいたように訂正した。
「悪くない、では全く足りないな」
「え?」
「綺麗すぎる」
一瞬、言われた言葉の意味が分からなかった。
「だ, 旦那様」
「これでは、やはり外の連中には見せたくない」
「褒めてくださっているのか、私を困らせたいのか分かりません……」
「両方だ」
彼が平然と、悪びれもせずに言うものだから、私はもう何も言い返せなくなる。
顔だけでなく、耳の先までカッと熱くなっているのが自分でもよく分かった。
それからさらに数日後。
いよいよ完成して私の部屋へ運ばれてきたドレスは、想像をはるかに超える仕上がりだった。
たっぷりとした布の量感がありながら、着てみると少しも重さを感じさせない。
上質な絹は、私が一歩足を踏み出すたびに月光の波のように滑らかに揺れ、散りばめられた銀糸の刺繍は、本物の星屑を纏ったように繊細な光を放つ。
高く整えられた立ち襟の首元は清廉そのもので、肩から腕へかけての流れは、一切の肌を見せない慎ましさがありながら、女性らしい美しい曲線を際立たせている。
胸元や袖口にあしらわれた白珠が、過度な華美に陥るのを防ぎ、凛とした気品だけを静かに主張していた。
そして何より――やはり、布面積が尋常ではなく多い。
けれど、袖を通した今、もうそれを過剰でおかしいとは思わなかった。
むしろ、この重厚なドレスは私を隠しているのではなく、外の悪意から優しく守ってくれている鎧のように感じられた。
ギルベルト様の不器用な過保護が、そのまま美しい布の形になったような一着。
手伝ってくれた侍女たちが、周囲でほうっと感嘆の息を漏らす中、私は姿見の前でそっと深呼吸をした。
「……すごい」
「でしょう、奥様. 息を呑むほどの仕上がりです」
「まるで、絵本から抜け出てきた月の聖女様みたいです」
「せ, 聖女だなんて……言い過ぎよ」
私が顔を赤くして慌てると、マリーやアンナたちは自分のことのように嬉しそうに笑った。
その和やかな空気が流れた時、重い扉が開く音がした。
振り返るまでもなく、部屋の空気が一瞬で引き締まる。
ギルベルト様だった。
黒い正装に身を包んだ彼は、一歩、二歩とこちらへ近づいてくると、ドレス姿の私の全身を上から下まで見つめ、珍しくすぐには言葉を発しなかった。
その沈黙が、かえって私の心臓の鼓動を早くし、緊張を煽る。
「……旦那様?」
「気に入らない」
私はぎょっとして肩を跳ねさせた。
周囲に控えていた侍女たちも、一斉に顔を強張らせる。
まさか、ここまで完成して出発直前だというのに、作り直しを命じるつもりだろうか. いや、あり得る。この人の常軌を逸した執着なら、十分にあり得る。
「ど, どこがでしょうか……お気に召しませんでしたか」
「綺麗すぎる」
前と同じ、理不尽極まりない理由だった。
ギルベルト様は露骨に不機嫌そうに眉を寄せ、私の周囲を確かめるように半歩だけ回る。
「首元は良い。腕も完全に隠れている。胸元の開きも問題ない。だが」
「だが?」
「やはり、お前の顔が見える」
私はしばらく、口を半開きにしたまま言葉を失った。
「そ, それは、服を着ているのですから、顔が見えるのはそうでは……?」
「駄目だな」
「駄目ではありません!」
さすがは理不尽すぎて反論すると、背後にいた侍女たちが一斉に俯き、必死に肩を震わせ始めた。
笑いを堪えているのだ。
ひどい。
しかしギルベルト様は、侍女たちの反応など意に介さず、本気で悩み込むように端整な顎へ手を当てた。
「面紗でもつけるか」
「つけません」
「顔が隠れる薄いレースなら」
「駄目です. 前が見えません」
「なら、上から分厚い外套を追加する」
「会場に入ったらどうせ脱ぐのでは?」
「脱がなければいい」
「それでは、夜会用のドレスを仕立てた意味がなくなってしまいます」
「別に構わない」
「私は構います……っ」
とうとう私が声を張って言い切ると、ギルベルト様はわずかに目を見開いた。
そのあと、まるでとても珍しくて面白い生き物でも見たかのように、口元を緩める。
「最近、お前は本当に俺に対して、はっきりと物を言うようになったな」
「旦那様が、いつも無茶ばかり仰るからです」
「無茶ではない. 俺はいつでも真剣だ」
「なお悪いです」
私がむっとして言い返した途端、侍女たちの堪えていた笑い声が、とうとう「くすっ」と小さく漏れてしまった。
しかしギルベルト様は不敬だと怒るどころか、なぜかひどく機嫌が良さそうだった。
彼は私の目の前へ立つと、黒い革手袋を外した素の指先で、そっと私の顎を持ち上げる。
「……まあいい」
「旦那様」
「この顔を隠してしまうのは、確かに俺にとっても惜しい」
至近距離で囁かれた声に、心臓がどくんと大きく鳴った。
「ならせめて、他の男が簡単に近寄れないようにしておく」
「それは、どうやって……」
「俺が、片時も離れず傍にいる」
「……」
結局、最初の結論へ戻るのだった。
でも、その独占欲に満ちた言葉が、束縛ではなくひどく頼もしく聞こえてしまう私は、もう自分でも自覚している以上に、かなりこの人に甘やかされているのだろう。
その後、宝飾師が最後の仕上げとして、このドレスのために打った髪飾りを恭しく持ってきた。
細い銀の枝を模した繊細な細工に、小粒の白珠と、水滴のような淡い青石が散らされたものだ。決して派手ではないのに、シャンデリアの光を受けるたびに、星の瞬きのような繊細な輝きを返す。
私が鏡の前に座り、それを丁寧に髪に挿してもらうと、侍女たちはまた一斉にほうっと熱い息を呑んだ。
「奥様、本当にお綺麗です……」
「旦那様、これは王都の虫が、光に焼かれて死にますね」
「アンナ」
「失礼いたしました」
口を滑らせてギルベルト様に叱られたアンナは、そう言いながらもまったく悪びれた様子はなかった。
ギルベルト様はそんな周囲のやり取りを完全に無視して、鏡越しの私だけをじっと見ている。
視線が、物理的な質量を持っているかのように重い。
けれど、その重さが少しも不快ではなく、むしろ冷えた身体をやわらかく包み込んでくれる極上の毛布のように感じられる。
「旦那様」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「急に何に対してだ」
「全部、です」
この美しいドレスも。
髪を飾る宝飾も。
王都へ行くことへの私の深い不安を、逃げずに真正面から支えてくれることも。
何より、私が過去の呪縛に怯えるたびに、その何倍もの強さと不器用さで、私を守ろうとしてくれることも。
ギルベルト様はしばらく私を見つめ、それからごく静かに、独り言のように言った。
「礼を言うのは俺の方だ」
「え?」
「お前が逃げずに行くと言って決めたから、俺も行く気になった」
「……そうなのですか」
「お前が隣にいなければ、王都の夜会など、あんな招待状の紙切れごと燃やして終わりだ」
平然とした顔で、さらりと恐ろしいことを言う。
けれど、それが強がりでも冗談でもなく、彼の本心であることを私は知っているので、もう驚くより先にふふっと苦笑してしまう。
「燃やしてはいけません」
「なら、お前が止めろ」
「はい. 頑張って止めます」
「よし」
彼は本当にそれで満足したらしい。
その夜、侯爵邸では王都行きの最終準備が慌ただしく整えられていた。
長旅に耐える馬車の車輪と内装の点検。
道中を固める精鋭護衛たちの選定。
王都での宿泊予定となっている侯爵家の別邸への先触れの連絡。
そして、王城への正式な出席の返書。
私のドレスは、皺ひとつつけないよう、内側に絹を張った専用の巨大な木箱に厳重に収められた。
窓の外には、すべてを飲み込むような深い辺境の夜が広がっている。
けれど侯爵邸の中だけは、出発を控えた静かな緊張と、少しの高揚感で明るかった。
私は入浴を済ませ、寝支度を整えたあと、いつものようにギルベルト様の私室へ通された。
最近ではもう、夜はこの部屋で眠ることがごく自然な、当たり前の日課になっている。
私が広大な寝台の端にちょこんと座ると、彼は当然のように私の腰を抱き、自分の隣へと引き寄せた。
「明日から、慌ただしい日々になる」
「はい」
「不安か」
「……少しだけ」
「少し、ではないだろう」
「ふふ……旦那様には、やっぱり隠せませんね」
「当然だ」
彼は私の額へ大きな手を当て、熱でも測るように、あるいは不安を拭い去るようにやわらかく撫でる。
「王都では、お前にとって余計なものをたくさん見ることになる. 実家のことや、お前の過去に関する聞きたくない声も、必ず耳に入るだろう」
「はい」
「だが、お前は何も気にするな」
「……」
「全部、俺が黙らせる」
その声は夜の闇に溶けるほど低く穏やかで、なのに、これ以上ないほど決定的だった。
私はそっと、彼の黒い寝間着の袖口を掴む。
すると、すぐに温かく大きな手が、私の冷たい指をすっぽりと包み込んだ。
「旦那様」
「何だ」
「……私、あのドレス、本当に好きです」
「そうか」
「布が、たくさん多くても」
「多くない」
「多いです」
「まだ足りないくらいだ」
「十分に足りています」
小さく口答えをして言い返すと、ギルベルト様は喉の奥でわずかに、低く笑った。
彼の胸の震えが伝わってきて、それだけで、私の胸の奥で固まっていた緊張の塊が、少しずつほぐれていくのが分かった。
「王都の連中が、どんな目でお前を見ようと関係ない」
「はい」
「お前は、俺が最も美しいと思う姿で、堂々と俺の隣にいればいい」
「……そんな甘いことを言われたら、胸がいっぱいで、眠れなくなってしまいます」
「なら、お前が眠りにつくまで俺がずっと傍にいる」
「それは、いつもです」
「なら何の問題もない」
本当に、この人にはどう足掻いても敵わない。
私は苦笑しながら、彼の広い肩へそっと額を預けた。
外では冷たい夜風が窓ガラスを叩いているだろうに、この太い腕の中は不思議なほど安全で、ひどく暖かい。
王都は怖い。
向けられる視線も、飛び交う噂も、きっと私に優しくはない。
けれど、私はもう一人ではない。
私を誰にも見せたくないと本気で不機嫌になる人がいて、
布面積の多すぎる、でも世界で一番美しい極上のドレスを用意してくれて、
王都の貴族すべてを敵に回してでも私を守るつもりでいる人が、すぐ隣で同じ夜の空気を吸っている。
それだけで、私はほんの少しだけ、顔を上げて前を向ける気がした。
そして翌朝、私たちはいよいよ王都へ向かうための旅支度を始めることになる。
ただし、この夜の私はまだ知らなかった。
その道中で待っている侯爵家の馬車が、普通の移動手段などではなく――
『少しでも揺れたらお前の身体に障るから危ない』という、あまりにも理不尽で甘すぎる口実のもと、私が王都に着くまでずっとギルベルト様の膝の上から降ろしてもらえない、恐ろしく快適で逃げ場のない密室になることを。




