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第11話 甘やかな朝と『奥様』の初めてのお仕事

 朝の静謐な空気が、部屋の隅々にまで満ちていた。

 重厚なベルベットの緞帳、そのごくわずかな隙間から滑り込んだ一条の淡い黄金色が、薄闇を切り裂くように伸びている。埃の粒が光の帯の中で静かに舞い、やがてシーツの起伏をなぞりながら、薄く閉じた私の瞼の上をやわらかく撫でていった。

 ふわりと鼻先を掠めるのは、上質なリネンの乾いた匂いと、深く焚きしめられた香木の残り香。そして、そのすべてを包み込むように、ひどく深くて落ち着く、男の人の体温がそこにあった。

 (……あれ……?)

 微睡みの底から意識がゆっくりと浮上していく。ぼんやりとした頭のまま、私は自分の身体に起きている異変を、ひとつひとつ確かめるように認識していった。

 まず、暖かい。

 分厚い毛布に包まれているような、信じられないほど確かな熱。

 次に、動けない。

 いや、正確には、動こうとして身体を強張らせた途端、背中と腰のあたりに回された太く力強い腕が、私をその場にきつく縫い留めたのだ。逃がすまいとするような、けれどひどく落ち着く重み。

 そして最後に――私の頬が深く沈み込んでいるのは、やわらかな羽毛の枕ではなく、微かな寝汗の匂いが混じる、規則正しく波打つ硬い胸板だった。耳のすぐそばで、深く、静かな呼吸音が聞こえる。


「……っ」


 一気に目が覚めた。弾かれたように視線を上げる。

 視界を埋め尽くしたのは、漆黒 of 寝間着の胸元。そこから見上げるように視線を辿れば、すぐ上には、冷たい銀の髪が幾筋もこぼれ落ちていた。その向こうから、正確な鼓動がとんとんと伝わってくる。

 恐る恐るさらに視線を上げれば、端整な顎の線、引き結ばれた形の良い唇、そして眠りの中にあっても周囲の空気を冷やすような威圧感を放つ、ひねた彫像のように美しい横顔があった。

 ギルベルト様だ。


「ひゃ……っ」


 悲鳴になりきらない小さな息が、ひゅうと喉の奥から漏れた。

 そのわずかな震えを察知した瞬間、私を抱き込んでいた太い腕の筋肉が硬く収縮し、ぐっと力強く私を引き寄せた。


「……騒ぐな」


 頭のすぐ上から、掠れた低い声が降ってきた。

 見上げれば、眠っていたはずのギルベルト様が、薄く目を開けて私を見下ろしていた。起き抜けの気怠さの中にありながら、その漆黒の瞳だけは妙にはっきりとした焦点を結んでおり、こちらの逃亡を許さぬ捕食者のような鋭い光を宿している。


「旦那様……! え、あの、私、どうして……」


「昨夜のことを忘れたのか」


 低い声音に、咎めるような色はない。ただ、当然の事実をなぞるだけの平坦な響きだ。

 けれど、私の頭は昨夜の記憶の断片をかき集めるので精一杯だった。シーツの中で、足の指先が所在なげに丸まる。

 実家の馬車が、この屋敷から叩き出された朝。

 私はようやく、自分を縛り付けていた過去の鎖を断ち切ったことを知って、窓辺で差し込む光を背にしたギルベルト様の腕の中にいた。

 それから、泣き疲れてひどい顔をしていた私を見て、彼は低い声で「今夜は一人にしない」と告げたのだ。

 最初は意味が分からなかった。けれど気づけば、真っ赤な顔をした侍女たちに手際よく寝支度を整えられ、私は侯爵邸で最も広く、最も豪奢で、最も安全だと言われる当主の私室へ運び込まれていた。

『また夜中に昔の夢を見て飛び起きるくらいなら、最初から俺の手の届く場所にいろ』

 不器用なほど真っ直ぐにそう言われて、恥ずかしさで頭が真っ白になりながらも、私は昨夜、この人の隣でシーツに潜り込んだのだった。

 ――眠った、のだけれど。

 (ま、まさか、こんなにぴったり抱きしめられたまま朝になるなんて……!)

 私の顔が一気に沸騰したように熱くなる。心臓が痛いほどの早鐘を打ち始めた。

 実家では、誰かの温もりに守られながら眠るなど、一度たりともなかった。冬の夜でさえ、すきま風の吹く冷たい物置の床で、膝を抱えて丸まっていた私にとって、この状況は甘すぎて、落ち着かなすぎて、どうにかなってしまいそうだった。


「だ、旦那様、もう朝です……っ」


「それがどうした」


「どうしたって……! その、執務とか、朝のお仕事とか……」


「後でいい」


 瞬きすら許さない、あまりにも即答だった。

 私はぱちぱちと、彼の広い胸元で瞬きを繰り返す。

 辺境の広大な領地と巨大な侯爵家を束ねる当主が、そんなにも軽々しく執務を放り出していいのだろうか。いや、よくない気がする。絶対によくない。


「で、ですが……」


「お前が昨夜、一度も悪夢で飛び起きずに眠れた。その確認の方が重要だ」


「か、確認……」


「それに」


 ギルベルト様はそこで言葉を切り、大きな手を私の額へと伸ばした。指先が、私の額にかかる髪をそっと横へ払う。その仕草は、彼の持つ剣だこに覆われた掌からは想像もつかないほど驚くほど丁寧で、まるで壊れ物に触れるようだった。


「お前を抱いていると、痛みがない」


 朝の静かな光の中で紡がれたその言葉は、変に飾られていないぶん、胸の奥底まで真っ直ぐに落ちてくる。

 彼の屈強な身体を、内側から蝕む呪いの痛み。

 それが、私が傍にいるだけで嘘のように和らぐことは、もう疑いようのない事実だった。

 けれど昨夜、私は彼の口からはっきりと聞いたのだ。

『お前だから、俺の痛みが消えたんだ』と。

『道具などと呼ぶな』と。

 あの体温を持った言葉を聞いたあとでは、今の台詞も、もう私の心を冷やして不安にさせることはなかった。ただ、少しくすぐったく、そして切なく胸の奥を熱くするだけだった。


「……それなら、よかったです」


「よかったで済ませるな」


 不意に、私の腰に回された腕の力がさらに強まる。

 ぐんと身体が持ち上げられ、気づけば私は、ほとんど彼の上に乗り上げるような体勢で、分厚い胸板にぴったりと張り付けられていた。


「旦那様!?」


「お前は自分が昨夜どれほど震えていたか分かっていない。ようやく少し血の気が戻ったのに、今離したらまたろくでもないことを考えるだろう」


「そ、そんなこと……」


「考える」


 間髪入れずの断言だった。

 私は反論しかけて開いた唇を、情けなく閉じるしかなかった。実際、昨夜までの私は、少しでも気を抜けばすぐに『いつか用済みになって捨てられるかもしれない』という暗い不安の底へ引きずられていたのだ。彼の言う通りすぎて、否定しきれない自分が悔しい。

 ギルベルト様は、そんな私の微かな表情の変化を逃さず見て取り、小さく鼻を鳴らした。


「ほら見ろ」


「う……」


「今日はこのまま寝台から出さない方が安全か」


「だ、駄目です!」


 思わず、大きな声を張り上げていた。

 自分でも驚いて目を見開くと、至近距離にあったギルベルト様の方も一瞬だけ目を丸くした。けれどすぐに、その端整な口元がわずかに、本当にわずかに緩む。


「初めてお前からそんなに強く否定されたな」


「そ、それは……っ, だって……!」


「なんだ」


 促されて、私はシーツをきゅっと強く握りしめた。

 言うべきか迷った。けれど、昨夜あれほど私の本音を、醜い弱音を真っ向から受け止めてくれた人に、ここでまた無難な言葉で取り繕うのは卑怯な気がした。


「私……少しでも、旦那様の妻らしいことがしたいんです」


 口に出した途端、胸の奥がぎゅっと縮こまる。

 身の程知らずだと思われるかもしれない。笑われるかもしれない。今の私に「侯爵夫人らしさ」なんて、ドレスの着こなしひとつとっても、何一つ備わっていないのだから。

 けれど、ギルベルト様は決して笑わなかった。

 ただ、静かに目を細めて、私の瞳の奥を覗き込むように見つめてくる。その漆黒の視線はひどく真剣で、重みがあって、逃げ場がないほど真っ直ぐだった。


「妻らしいこと、だと」


「は、はい……。私、今まで守っていただいてばかりで……。もちろん、それが嫌だというわけではありません。むしろ、あまりにも優しくしていただいて、毎日夢のようで……」


「なら、そのまま守られていろ」


「旦那様」


 私が困り果てて名前を呼ぶと、ギルベルト様の美しい眉間に、深い皺がくっきりと刻まれた。

 どうやら彼は本気で、私に指一本動かさせたくないらしい。


「お前は十分、俺の役に立っている」


「でも、それだけでは……」


「息をしてここにいるだけでいい」


「旦那様、それはさすがに」


「さすがでも何でもない」


 彼は真顔だった。声のトーンにも、表情の筋肉にも、冗談の気配が一切ない。

 本気でそう思っているのだ。

 そのことが嬉しくて、でも同時にひどくくすぐったくて、私は込み上げてくるものを堪えきれず、思わず小さく吹き出して笑ってしまった。

 するとギルベルト様は、少し不満そうに目を細めた。


「笑うな」


「だって……旦那様があまりにも過保護なんですもの」


「自覚はある」


「あるのですね……」


「当然だ」


 開き直るように言い切られて、私はつい肩を震わせて笑い続ける。

 この人は本当に、冷酷で恐ろしい、血も涙もない『化け物当主』と噂されるあのギルベルト様と同一人物なのだろうか。少なくとも今、朝の光が差し込む寝台の上で私を抱き枕のように抱え込み、何よりも私の睡眠と安全を優先しているこの姿は、巷の噂とはまるで違う。

 しばらくの沈黙の後、彼はひどく苦い薬でも飲み込むような顔で、大きく息を吐き出した。

 まるで、到底受け入れたくない要求を呑み込む覚悟を決めるように。


「……分かった」


「えっ」


「何かひとつだけ、お前に任せる」


「本当ですか?」


 私がぱっと顔を輝かせて身を乗り出すと、ギルベルト様は露骨に視線を逸らした。

 けれど、銀髪の隙間から覗く耳の先が、ほんの少しだけ赤みを帯びているのを私は見逃さなかった。


「ただし、条件がある」


「はい」


「絶対に安全な仕事だけだ。危険な場所へは行かせない。重いものも持たせない。刃物も駄目だ。外部の人間と勝手に接触することも許さない」


「そ、そんなにですか?」


「そんなにだ」


 再び、有無を言わせぬ即答。

 私は少しだけ笑いを堪えながら、こくりと頷いた。


「では、どんなお仕事でしょう」


「……温室だ」


「温室?」


 聞き慣れない言葉に小首を傾げると、ギルベルト様はようやく私を拘束していた腕の力を少しだけ緩め、枕に背を預けたまま説明を始めた。


「本邸の南側にあるガラス張りの温室だ。薬草や花卉、希少な果樹を管理している。屋敷の敷地内で、強固な結界も張ってある。魔物は絶対に入らない。外部の人間も近づけない。日当たりはいい。風も強くない」


「まあ……」


 思わず胸が躍った。

 実家にいた頃、手入れもされず荒れ果てた庭園の片隅で、誰にも見つからないよう息を潜めて雑草を抜いたり、枯れかけた花にほんの少しの水をやったりする時間だけが、私にとっては心が落ち着く唯一のひとときだったのだ。


「温室の管理……素敵です」


「まだ早い」


「え?」


「喜ぶのは説明を聞いてからにしろ」


 ギルベルト様は私を見下ろし、まるで軍議で重要な作戦を伝えるかのように重々しく告げた。


「温室に入るのは、お前と、温室主任の老庭師、それから女の侍女二名のみ。入り口は三箇所あるが、すべて騎士を配置する。周囲の巡回も今日から増やす。内部の温度管理はすでに見直させる。土壌の検査も今日中に終えさせる」


「……え?」


「害虫駆除も再確認する。棚の角にはすべて厚手の保護布を巻く。背の高い脚立は撤去だ。水差しは一番軽いものを使え。万一転んだ時のために通路には滑り止めを敷く」


「……旦那様?」


「あと、温室の外周には念のため」


 そこで彼は、当然のことのように言った。


「三十名ほど護衛を置く」


 私はしばらく、その言葉の意味を脳内で処理できなかった。


「さ、三十……?」


「少ないか」


「多いです!」


「温室は広い。東西南北と上空、死角を考えれば最低限だ」


「上空!?」


 温室に、上空の護衛。

 もはや何から私を守る想定なのか、スケールが大きすぎて全く分からない。空から何かが降ってくる前提なのだろうか。

 しかし、ギルベルト様の顔はどこまでも本気だった。冗談ではなく、本気でそれが「最低限の護衛」だと思っている顔である。

 私は思わず額に手を当てたくなる衝動を、どうにか奥歯を噛んで堪えた。

 でも、ふと可笑しくなってしまう。昨日まで実家の影に怯え、過去の幻影に縛られていた私が、こんなふうに目の前の大の男に呆れる余裕を持てている。それ自体が、まるで魔法のような奇跡だった。


「……分かりました」


「納得したのか」


「全部はしていません。でも」


 私はそっと、彼の広い胸元に両手を置き、微笑んだ。


「旦那様が、私のことをとても大切に考えてくださっているのは分かりますから」


 その一言で、ギルベルト様はぴたりと押し黙った。

 そして、数秒遅れてから、胸元にあった私の手をすくい取るように掴み、そのまま自分の唇に引き寄せて、そっと触れさせた。


「分かっているならいい」


「……はい」


 窓越しの朝日が、彼の冷たい銀髪を淡く照らしている。

 出会った頃は冷たく恐ろしいだけだと思っていたその美しい横顔が、今はどうしようもなく優しく、甘く見えて、私は胸の奥がじんわりと熱いもので満たしていくのを感じた。


   


 その後、私たちはようやく寝台の海から抜け出ることを許された。

 けれど「許された」と言っても、私に解放感はほとんどない。

 なぜなら、シーツを捲って起き上がろうとした私を見て、ギルベルト様が当然のように鋭い声を飛ばしたからだ。


「待て。床は冷える」


「え?」


「靴を履け」


「まだ寝台の脇ですけれど……床敷きもありますし」


「駄目だ」


「……はい」


 さらに、控室で侍女が用意してくれた朝のドレスを選ぶ段になると、彼は布の質感や色味にまで細かく口を挟み始めた。


「もっと柔らかい布にしろ。その生地は擦れる。首元は閉じろ。朝は冷える」


「旦那様、これは屋敷の中で着るものです」


「だからどうした」


「その……少し大袈裟では……」


「黙れ。今日は初仕事だろう。万全に決まっている」


 朝食の席でも、その過保護ぶりは健在だった。

 私が焼き立てのパンをちぎろうと指に力を入れただけで「硬いなら別のものを持ってこさせる」と眉をひそめ、湯気の立つスープをスプーンで口に運べば「熱すぎないか」と真顔で睨み、食後の果物に手を伸ばせば「皮は剥かせろ。ナイフは持つな」と命じる。

 私は途中から、恥ずかしさでテーブルの下に穴を掘って入りたくなった。

 けれど、背後に控える執事のセバスチャンも、給仕をする侍女たちも、誰一人として当主の異様な過保護ぶりに驚いた顔をしない。それどころか、どこか微笑ましいものを眺めるような、温かい目で見守っているようですらあった。


「セバスチャン……」


「はい、奥様」


「旦那様は、いつもこのような……?」


「いいえ。本日はかなり控えめでございます」


「控えめ!?」


 つい大きな声が出てしまう。

 その瞬間、向かいの席でコーヒーカップを傾けていたギルベルト様が、不満そうにこちらを見た。


「何か問題があるか」


「い、いえ……」


「なら食べろ」


「はい……」


 私がしゅんとしてスプーンを握り直すと、向かいに座る当主様は我が意を得たりと満足そうに頷いた。

 その様子がまるで、大事な雛鳥に餌を与える猛禽類のようで、私はますます頬が熱くなってしまうのを止められなかった。


   


 一方その頃、侯爵邸の東翼にある執務室周辺は、朝からかつてないほどのピリピリとした緊張感に包まれていた。

 なにしろ、機嫌が良いのか悪いのか分からない当主が、直々に「奥様の初仕事」に関する命令を、凄まじい速度で矢継ぎ早に下していたからである。


「温室の再点検は終わったか」


「はっ。昨夜のうちにガラスの歪み、通風孔、結界の継ぎ目まで、全方位確認済みです」


「土は?」


「奥様が転倒なさる危険がないよう、通路脇の土留めをすべて締め直しました」


「植木鉢の配置は?」


「腰の高さ以上の棚からは、すべて落下の危険がある物を撤去しております」


「よし。花粉の強いものは一時的に別区画へ移せ。匂いで酔うかもしれん」


「はっ」


「護衛の配置は?」


「東西南北に八名ずつ、さらに温室の外周を隙間なく巡回させるために十六名――」


「足りん」


 その一言に、報告の書類を読み上げていた騎士がぴたりと固まった。

 執務室の中央に立つギルベルトは、腕を組み、朝から恐ろしく真剣な顔で壁の領地地図を睨みつけている。

 それは本来なら、国境付近での魔物討伐や、他国との緊迫した外交案件の時にのみ向けるべき表情であり、決して「奥様がご自宅の温室で土いじりをなさる」という平和な案件に向けるものではなかった。


「温室の北側は林に近い。木々のせいで視界が切れる箇所があるだろう。そこへ四名追加しろ。屋根の上にも見張りを置け。空からの不測の事態に備えろ」


「屋根、ですか……?」


「不満か」


「い、いえ!」


「あと、温室内に入る者は事前に全員、衣服の香料と持ち込む薬品の確認をしろ。奥様に少しでも害があっては困る」


「承知いたしました」


「老庭師にも再度伝えろ。奥様が少しでも疲れた様子を見せたら、即座に作業を中断して俺のところへ報告するように」


 次々と飛んでくる命令を受ける騎士たちは、口々に「はっ」と直立不動で応じていたが、内心では皆、完全に同じことを思っていた。

 ――戦場か。

 しかし、誰一人としてそれを口に出す命知らずはいなかった。

 言えるはずがない。

 当主の背後には、奥様に万が一のことがあれば、この領地に世界の終わりが来ると言わんばかりの、どす黒く重たい執着が立ちのぼっていたのだから。


   


 やがて準備が整い、私は侍女のマリーとアンナに付き添われて、屋敷の南に位置する温室へと向かった。

 本邸の南側に広がるガラス張りの温室は、私が想像していたよりもずっと、ずっと巨大な空間だった。

 高いアーチ状のガラス天井から、惜しみなく朝の光が降り注いでいる。一歩足を踏み入れると、内部はまるで春の真ん中にいるように暖かかった。石造りの床の両脇には整然と花壇が続き、色鮮やかな花々が視界の奥まで咲き誇っている。奥には青々とした薬草の区画、さらにその向こうには、小さな果実をつけた木々まで育っていた。


「まあ……きれい……」


 広がる色彩の波に、思わず感嘆の声が漏れた。

 こんなにも花や緑の命に満ちた場所に、私は生まれてから一度も足を踏み入れたことがない。


「お気に召しましたかな、奥様」


 声のした方を振り返ると、白髪の老庭師が恭しく一礼していた。

 日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、とても穏やかそうな老人だ。


「わたくし、温室主任を任されておりますエドガーと申します。本日より、奥様のお手伝いをさせていただきます」


「エルサです。よ、よろしくお願いいたします」


 私が緊張気味に頭を下げると、エドガーさんは目を細めて柔らかく笑った。


「こちらこそ。……旦那様からは、『奥様に少しでも無理をさせたら首が飛ぶ』と大変ありがたいお言葉をいただいておりますので、どうぞご安心を」


「ご安心……?」


 命に関わる物騒な響きが含まれていて、全然安心できない内容だった。

 だが、エドガーさんは実に慣れた様子で、穏やかな笑顔のまま続けた。


「今日はまず、お花の状態を一緒に見て回りましょう。水やりも、重い桶などは決して使いません。こちらの小さな水差しだけで結構です」


「ありがとうございます」


 私は胸の前で両手を組み、小さく、深く息を吸い込んだ。

 温室の中の空気は、湿った土と、澄んだ水と、様々な花の匂いが混じり合っていて、なぜかひどく懐かしい。荒れ果てていた私の心のささくれを、ゆっくりと優しく撫でてくれるような匂いだった。

 最初に案内されたのは、ガラス窓際にずらりと並ぶ白い花の区画だった。

 花弁の薄いその可憐な花は、ほんのりと甘い香りを放っている。


「これは月白百合にございます。夜になると香りが強くなりますので、奥様が今後開かれるお茶会の飾りなどにもよく使われます」


「お茶会……」


 その響きに、私は少しだけ目を丸くした。

 私がそんな華やかな場に関わる、侯爵夫人として客人を招く未来など、まだ想像すらできない。けれどエドガーさんはごく自然に、当然の未来として「奥様のお茶会」と言ってくれた。

 奥様。

 その呼び方に、胸の奥がじんと熱くなる。

 もう私は、実家の暗い物置部屋で肩を縮めていた『役立たず』ではないのだ。

 この屋敷で、あの旦那様の隣で、きちんと自分の居場所と名前を持って呼ばれる存在なのだ。


「奥様?」


「あ……すみません。少し、嬉しくて」


「では、その嬉しさのまま、こちらのお花に水をやっていただけますかな」


 差し出された銀の小さな水差しを、私は両手で大切に受け取った。

 驚くほど軽いのに、なぜだろう。私の胸の中には、ずっしりと大きな責任と、温かい喜びが広がっていく。

 私はしゃがみ込み、ドレスの裾を気にしながら、花の根元へそっと水差しを傾けた。

 ちょろちょろと細い水流が土に吸い込まれていく。乾いていた土がじんわりと濃い色に変わり、息を吹き返したように見える。月白百合の葉先からこぼれ落ちた雫が、ガラス越しの朝日を受けて小さな宝石のようにきらきらと輝いた。


「……きれい」


 思わずそう呟くと、私の斜め後ろで控えていた侍女のマリーが、ほっとしたように目を細めた。


「奥様がお花に触れていらっしゃると、この温室の空気がさらに明るくなりますね」


「そ、そんな大袈裟な……」


「本当ですとも」


 アンナまで真顔で力強く頷くものだから、私はますます気恥ずかしくなってしまう。

 けれど、和やかな空気が流れたその時だった。

 温室の入り口の外、ガラスの向こう側から、ざわり、と硬い金属の擦れ合う重厚な音がした。

 何事かと視線を向けると、ガラス越しに見える外周には、ずらりと等間隔で並ぶ騎士、騎士、騎士。

 しかも一人や二人ではない。遠くの通路にも、植え込みの向こうの影にも、ありとあらゆる場所に黒い制服を着た護衛が壁のように立っている。


「あの……エドガーさん」


「はい」


「もしかして、あの方たちは……」


「旦那様のご指示でございます。死角を無くせ、と」


「やはり……」


 よく見れば、ガラス屋根の上を歩くブーツの影すら見える。

 本当に、冗談ではなく上空護衛までついているらしい。

 私は頭を抱えたくなった。

 けれど同時に、どうしようもなく笑ってしまいそうになる。

 いったい私は、この平和な温室で花に水をやるために、どれほど厳重に、過剰に守られているのだろう。


「旦那様は、そんなに心配なさっているのでしょうか……」


「それはもう」


 エドガーさんは、即答した。


「今朝は夜明け前からこの温室に足をお運びになり、ここに置く休憩用の椅子の座り心地まで、ご自身で試しておられました」


「椅子の……」


「『固すぎないか』『角で怪我をしないか』と」


「……」


 私はしばし、返す言葉を失った。

 するとマリーが、少し笑いを堪えるように口元をハンカチで押さえる。


「旦那様、温室の空気が乾燥しすぎていないかまで、ご自身の肌で確認なさっていましたよ」


「奥様のお肌に障るといけない、と仰って」


「も、もう十分です……っ」


 恥ずかしさに耐えきれず、私は両手で顔を覆った。

 侍女たちは微笑ましそうに肩を震わせ、エドガーさんは「愛されておられますなあ」と深い皺を寄せてしみじみ頷く。

 私は本当に、今すぐ土を掘って埋まりたかった。

 それでも、作業を続けているうちに、次第に恥ずかしさよりも楽しさが勝っていった。

 薬草の葉の裏を見て虫がいないか確かめ、傷んだ花弁をそっと摘み取り、咲き終わった花の茎をエドガーさんに教わりながら整える。作業自体はどれもささやかで、力のいらないものだったけれど、ひとつ終えるたびに、温室の景色が少しずつ整っていくのが嬉しかった。


「奥様、お手が土で汚れます」


「大丈夫です。少しぐらいなら」


「ですが」


「不思議です」


 私は自分の指先についた黒い土をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。


「昔は、こうして冷たい土に触っている時だけ、少しだけ心が静かだったんです」


 エドガーさんのハサミを動かす手が、一瞬だけ止まった。

 マリーとアンナも、息を呑んで何かを言いかけ、そして飲み込む気配がした。

 しまった、と私は唇を噛んだ。

 実家での冷遇という過去の話など、わざわざこの温かい場所で口にするつもりはなかったのに。

 けれど、エドガーさんは同情するでもなく、何も聞かなかった。

 ただ穏やかな手つきで作業に戻り、こう言っただけだ。


「では、これからはここが奥様の安らぐ場所のひとつになると良いですな」


 そのさりげない言葉に、鼻の奥がつんとして、胸が熱くなった。

 私は小さく頷き、涙をこらえるようにもう一度花壇へ向き直る。

 目の前には、少し元気のない薄桃色の薔薇があった。葉の色は綺麗だが、水分が足りなかったのか、蕾が一つだけしょんぼりとうなだれている。


「この子、少しだけ元気がないですね」


「昨夜の冷え込みで弱ったのでしょう。ですが、根はまだしっかりしております」


 私はドレスの裾を気にせず膝をつき、その薄桃色の薔薇のそばへ手を伸ばした。

 とても自然な動作だった。励ますように、慰めるように、そっとうなだれた蕾の傍の葉先へ触れる。

 その瞬間――。

 ふわり、と。

 私の指先から、ごく淡い光の粒がこぼれ落ちた気がした。

 本当に一瞬のことだった。

 窓から差し込む陽光の反射かと見紛うほど淡く、儚いきらめき。

 けれど次の瞬間、うなだれていたはずの蕾が、まるで自ら意思を持ったように、すっと上を向いたのだ。


「あ……」


 私は息を呑んだ。

 背後にいたエドガーさんも、マリーもアンナも、驚きに目を見開いている。


「い、今の……」


「気のせい、でしょうか……」


 そう言いながらも、私の胸の奥は不思議なほどの温もりで満たされていた。

 恐ろしさは、微塵もなかった。

 あの領都の暗い路地で、恐怖に駆られて突然溢れ出した力とは全く違う。もっと静かで、優しくて、春の雪解け水のように穏やかな感覚だけが、指先に残っていた。


「奥様はやはり、お花にも愛されておられますな」


 エドガーさんが、ひどく感動したような震える声で呟いた、その時だった。


「……何があった」


 地を這うような低い声が、温室の入口から響いた。

 振り向くと、そこには息を切らしたギルベルト様が立っていた。

 黒の外套を羽織った姿はいつも通り威圧的で隙がないのに、私へ向ける視線だけがひどく切迫している。執務室で書類仕事の山と格闘していたはずなのに、どうやら微かな気配の変化を察して、飛んできたらしい。


「旦那様」


「どうした。怪我か。具合が悪いのか」


 彼は長い足でずかずかとこちらへ歩み寄るなり、迷うことなく私の前に片膝をついた。

 そのまま私の手首を掴んで脈を取り、指先を確かめ、両手で私の頬を包み込んで体温を測るように触れてくる。


「冷えていないな……息も乱れていない。転んではいないな」


「だ、大丈夫です。何もありません」


「では今の騒ぎは何だ」


「その……」


 私は少し迷ったけれど、視線を薄桃色の薔薇へと向けた。

 確かに、先ほどよりもしゃんとして、葉にも艶が戻っているように見える。


「お花が、少し元気になった気がして……」


「花?」


 ギルベルト様の美しい眉が寄る。

 視線が薔薇へと向き、次に私へと戻る。

 するとエドガーさんが、感極まったような顔で一歩前に出た。


「旦那様。奥様がそっとお触れになった瞬間、この弱っていた薔薇が、自ら生気を取り戻したように見えまして」


「……」


 ギルベルト様は一瞬、何も言わなかった。

 その沈黙が妙に重くて、私は少しだけ身を縮める。

 ――やはり、人間業ではない気味が悪い力だと、思われてしまっただろうか。

 そんな暗い不安が胸をよぎった瞬間。


「……そうか」


 彼はぽつりと呟き、私の土のついた指先を大きな手でそっと包み込んだ。


「なら、もう十分だ」


「えっ?」


「今日の仕事は終わりだ」


「は、早すぎませんか!? まだほんの少ししか、水やりをしていません……!」


「初日だ。十分すぎる」


「でも」


「駄目だ」


 やはり、有無を言わせぬ即答だった。


「お前は朝から働いた。花も元気になった。成果は出た。これ以上続ける必要はない」


「そ、そんな理屈……」


「理屈だ」


 さらに彼は、真顔で私の指先を見つめて続ける。


「それに、土がついている」


「え?」


「手を洗う。温かい茶も飲ませる。休憩だ」


「旦那様……」


 私は呆れたように、彼の下の名前を呼んだ。

 けれど、ギルベルト様はどこ吹く風で、懐から取り出した真っ白な絹のハンカチで、私の指先についたわずかな土をひどく丁寧に拭い始めた。その仕草があまりにも真剣で、愛おしげで、結局私は反論する気力を失い、逆らえなくなってしまった。


「……では、少しだけ休憩したら、また来てもよろしいですか」


「駄目だ」


「即答しないでください」


「なら考える」


「本当に?」


「お前の体調次第だ」


 それは、ほとんど却下と同義の言葉だった。

 けれど、今朝の寝台での「絶対に出さない」という問答に比べれば、わずかばかり譲歩しているとも言える。

 私は苦笑しながら、小さく頷いた。


「分かりました」


「よろしい」


 するとギルベルト様は満足したように深く頷き、私を立たせるために手を差し出した。

 その手を取って立ち上がった時、私の視線はそっと温室の外の景色へと向かう。

 ガラスの向こうでは、相変わらず黒い護衛がずらりと壁のように並び、誰も彼も神経を尖らせて周囲を警戒している。

 けれど、もうその物々しい光景に怯えはしなかった。

 こんなにも大裟で、こんなにも過剰で、少し呆れてしまうくらいの強固な守りの中に、私はいる。

 それが、窮屈だとは思わなかった。

 むしろ、守られているという実感が、胸の奥を温かいもので満たしていく。


「旦那様」


「なんだ」


「温室、好きになれそうです」


「……そうか」


 ギルベルト様は前を向いたまま、短く返しただけだった。

 けれど、私の手を握る彼の大きな掌の力が、ほんの少しだけ強くなる。


「また来たいです」


「……安全対策を見直してからだ」


「増えるのですか?」


「当然だ」


「もう十分多いと思います」


「足りん」


「まだ足りないのですか……」


 私が思わず吹き出して笑ってしまうと、ギルベルト様は不本意そうに視線を逸らした。

 けれど、その横顔はどこか穏やかで、満ち足りているように見えた。


   


 温室を出たあと、私は侍女たちに丁寧に手を洗わせてもらい、香りの良い温かい花茶を淹れてもらった。

 その休憩の間も、ギルベルト様は当然のように同じテーブルに同席し、私がティーカップから一口飲むたびに「熱くないか」と聞き、焼き菓子を手に取れば「喉に詰まらせるな」とじっと見守っていた。

 山積みだったはずの執務はどうなったのだろう、と途中で心配になったが、背後に控えるセバスチャンが無表情のまま「本日の旦那様は極めて上機嫌でいらっしゃいますので、処理速度が通常の1.5倍でございます」とこっそり教えてくれたので、少しだけ安心した。

 どうやら、私が温室で無事に初仕事を終え、何事もなく過ごしていたことが、彼の精神衛生には大変良い影響をもたらすらしい。

 その日の午後、ギルベルト様の広い執務机の上には、小さな鉢が一つ置かれていた。

 あの薄桃色の薔薇ではない。

 温室の隅でひっそりと育てられていた、小さな白い花の鉢植えだった。

 「奥様の初仕事の記念に」とエドガーさんが綺麗に整えてくれたもので、私が水やりをした鉢のひとつらしい。


「旦那様のお部屋に置いてもよろしいでしょうか」


 と恐る恐る尋ねた私に、彼は一瞬だけ黙り込んだあと、低い声でこう言ったのだ。

『当然だ。俺の机の上に置け』

 今、彼は膨大な書類に目を通しながらも、時折その小さな鉢へ視線を向けている。

 誰にも気づかれぬほど一瞬の、だが確かな柔らかさと愛おしさを帯びた眼差しで。

 私は少し離れたソファに座って、その静かな横顔を眺めながら、胸の奥に確かな幸福が根を下ろし、広がっていくのを感じていた。

 私が彼の役に立てたかどうかなんて、まだ分からない。

 侯爵夫人としては、きっと誰もが笑ってしまうほど小さな、ほんのささやかな第一歩だ。

 それでもいいと、今は心から思える。

 私はこの屋敷で、この優しくて不器用な旦那様の隣で、少しずつ自分の居場所を育てていけばいいのだ。

 まるで温室の小さな花に水をやるように、焦らず、丁寧に。

 けれど、その甘く穏やかな午後の空気は、やがて持ち込まれた一通の手紙によって、静かに、そして確実に揺らぐことになる。

 執務室の重い扉を叩く音がして、セバスチャンが銀盆を捧げ持って静かに入ってきた。

 その上に置かれていたのは、見慣れぬ深紅の封蝋を押された、分厚く上質な羊皮紙。


「旦那様。王都より、急使でございます」


「……どこからだ」


「王城より」


 その一言で、室内の空気がふっと温度を下げた。

 ギルベルト様の目が、鋭い刃のようにすっと細くなる。

 私は思わず背筋を伸ばし、無意識のうちに自分の膝の上で両手をきつく握りしめた。

 セバスチャンは恭しく、その重々しい封書を差し出す。

 王家の紋章が深く刻まれたそれは、辺境の静かな日常へと差し込まれた、王都からの明確な『招き』の合図だった。

 そして私はまだ、この一通の手紙が、私たち二人を王都の眩しく、そしてひどく煩わしい社交の渦の中へと引きずり出す始まりになることを、知る由もなかったのである。


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