第10話 愛の居場所と制裁のはじまり
「開けなさい! どうして外に出られないのよ! 私を誰だと思っているの!?」
豪奢な調度品に囲まれた客室の中で、義妹セリナの金切り声が虚しく響き渡っていた。
王都の職人が手掛けた最高級のソファー、目にも鮮やかな織物の絨毯、銀のトレイに載せられた過不足ない見事な食事。与えられた部屋そのものは、侯爵家の客人として恥じない、完璧なまでの『厚遇』であった。
だが、その実態は完全に“管理された牢獄”だった。
扉の前には屈強な騎士が二名、彫像のように無言で立ち塞がり、一歩でも廊下に出ようものなら、冷たい槍を交差させて行く手を阻む。窓の下には高い城壁と見回りの兵。彼らが連れてきたバルトフェルト家の護衛たちは、到着早々に屋敷の外にある詰所へと隔離され、完全に連絡を絶たれていた。
「クソッ……! どういうつもりだ、あの化け物当主は!」
元婚約者のエリオットは、爪を噛みながら部屋の中を苛立たしげに歩き回っていた。
王都の社交界であれば、彼らの家柄と「契約の窓口」という立場を振りかざせば、誰もが道を譲った。その“都の常識”が、この辺境の地では紙切れほどの役にも立たないことに、彼はようやく気づき始めていた。
ガチャリ、と重い音を立てて扉が開き、執事のセバスチャンが数名の従者を連れて静かに入室してきた。
その後ろには、なぜか見慣れぬ地味な衣服を着た男が二人、羽ペンと分厚い手帳を抱えて無言で控えている。
「セバスチャン! ちょうどいい、当主を呼べ!」
エリオットは血走った目で執事に詰め寄った。
「我々はバルトフェルト伯爵家を代表して、正式な契約確認の窓口として来ているのだ! このような軟禁状態に置かれる筋合いはない。直ちにエルサをここに連れてこい。彼女の健康状態を直接確認し、誓約書にサインさせなければ――」
「エリオット様。および、セリナ様」
セバスチャンの声は、どこまでも慇懃で、そして氷のように冷たかった。
「外部の者が当家の奥様へ直接面会することは固く禁じられております。例外はございません。お二人のご要望は、すべて『当主の許可』が必要となります」
「ふざけるな! 契約上の権利だぞ!」
エリオットが怒鳴りつけた瞬間、セバスチャンの背後に控えていた男たちが、サラサラと音を立てて手帳に羽ペンを走らせた。
「……おい、そいつらは何をしている」
エリオットの背筋に、嫌な汗が伝った。
「彼らは、当家お抱えの法務書記官と、領都より派遣された行政の立会人でございます」
セバスチャンは完璧な微笑みを浮かべたまま、エリオットにとって死刑宣告にも等しい事実を告げた。
「エリオット様は『契約の窓口』という極めて公的なお立場でいらっしゃいます。ゆえに、この屋敷での貴方様のすべてのご発言、および侯爵家に対するご要望は、後日の相違を防ぐため、第三者の立会いのもとで『一言一句違わず』公式記録として残させていただいております」
「な……っ」
エリオットの顔から、さぁっと血の気が引いた。
記録されている。先ほどの応接間での当主に対する暴言も、今の横柄な態度も、契約を盾にした強引な要求も、すべて。
契約の窓口、という立場が、ここでは完全に『自らの首を絞める足枷』にすり替わっていたのだ。彼がここで怒りに任せて声を荒げ、失言し、越権行為に及べば及ぶほど、それは「侯爵家への不当な干渉と侮辱の証拠」として完璧な書面となり、王家へ提出される材料となる。
「あ、あ……」
エリオットは後ずさり、崩れ落ちるようにソファーに座り込んだ。
罠だ。あの冷酷な当主は、最初から自分たちをこの密室に閉じ込め、焦らせ、自爆するように仕向けているのだ。
「いやよ……帰りたい、こんな気味の悪い屋敷、もう嫌よ……お父様ぁ……っ」
状況の異常さを肌で感じ取ったセリナが、ついに堪えきれずに子供のように泣き喚き始めた。
だが、書記官たちの無情な羽ペンの音は、止まることなく客室に響き続けていた。
一方、屋敷の最奥――当主の私室にも隣接する、最も安全で日当たりの良い豪華な部屋。
私は、ふかふかの長椅子に膝を抱えて座り、重苦しい溜息を吐いていた。
「奥様、温かいハーブティーをお持ちしました。少しでも召し上がってくださいませ」
専属の侍女が心配そうな顔でカップを差し出してくれるが、私は弱々しく首を振ることしかできなかった。
ギルベルト様の命令により、私は客前に出る時間を完全に絶たれ、この奥の部屋に隔離されるようにして守られていた。
扉の外には近衛の騎士たちが立ち、実家の人間が絶対に近づけないよう、鉄壁の防陣が敷かれている。
私は完全に守られている。ギルベルト様が、あの恐ろしい義妹と元婚約者から私を遠ざけ、彼らを自らの手で処理してくれているのだ。
頭では、分かっている。
彼が私を大事に扱い、傷つけまいとしてくれていることは、痛いほどに伝わってくる。
けれど、私の心は、どうしても暗く冷たい沼の底へと沈んでいくのを止められなかった。
(私のせいで……旦那様に、侯爵家に、争いを持ち込んでしまった)
私がこの屋敷にいるから。私が、実家にとって未だに「金になる不良品」だと思われているから、こんな事態になってしまったのだ。
そして、私の胸を最も深く抉っていたのは、私自身の内側に隠された“秘密”だった。
(旦那様が私をここまで手放さず、守ってくださる理由……。それは、私が『呪いを静めることができるから』だわ)
私の脳裏に、領都の路地での出来事が蘇る。
私が無意識に張った光の膜の中で、ギルベルト様の身体を蝕んでいた呪いの痛みが完全に消え去った時の、彼のあの切実な、すがるような瞳。
私のような、実家でボロ雑巾のように扱われ、誰からも愛されたことのない女が、あの気高く美しい当主様から無条件で愛されるはずがない。
実家で叩き込まれた呪いのような自己評価が、私の思考を冷酷に支配していく。
彼が私に優しいのは、私が彼にとって唯一の『治療薬』だからだ。
私の身体からあの不思議な力が消えてしまったら?
あるいは、私以上に彼の呪いを抑え込める、もっと美しくて身分の高い令嬢が現れたら?
その時、私は間違いなく「用済み」として捨てられる。
「……怖い……」
私は、絹のドレスの裾を強く握りしめ、ポロポロと涙をこぼした。
実家で虐待されていた頃の恐怖とは違う。
優しさを知ってしまったからこその恐怖。必要とされている理由が「愛情」ではなく「機能」であると思い込んでいるゆえの、息の詰まるような孤独感。
守られれば守られるほど、大切にされればされるほど、いつかそれを失う時の絶望を想像してしまい、私の心は千々に乱れていくのだった。
「……エルサ」
不意に、静まり返った部屋に低く落ち着いた声が響いた。
ビクッと肩を震わせて顔を上げると、いつの間にか部屋に入ってきていたギルベルト様が、扉の前に静かに立っていた。
彼の顔には、先ほどまで執務室で実家への制裁を指揮していた冷酷な当主の面影はない。ただ、膝を抱えてボロボロと涙をこぼす私を見つめるその漆黒の瞳には、ひどく痛ましそうな、そして焦燥に駆られたような色が浮かんでいた。
「どうして泣いている。……誰かに何か言われたか。あいつらが、ここまで入り込んだのか」
ギルベルト様は足早に歩み寄り、私の目の前に片膝をついた。彼の手が私の濡れた頬に伸びかけるが、ふと躊躇うように空中で止まる。私が彼を恐れているのではないかと、気遣ってくれているのだ。
その不器用な優しさが、私の胸をさらに苦しく締め付けた。
「違います……旦那様は、何も悪くありません……っ」
私は首を横に振り、溢れ続ける涙を手の甲で乱暴に拭った。しかし、一度決壊してしまった感情は、もう自分の意志ではどうにも止められなかった。
実家で叩き込まれた「逆らってはいけない」「本音を言ってはいけない」という掟を破り、私は初めて、自分の内側にある最も醜く、恐ろしい本音を彼の前で口にしてしまった。
「私が……私が怖いのは……っ、私が旦那様にとって、ただの『便利な道具』だからです……!」
ギルベルト様が、微かに息を呑んだのが分かった。
「私がここに置かれているのは、旦那様の『呪い』を抑え込めるからです。私がいると、痛みが消えるから……だから、こんなに優しくしてくださる。綺麗な着物を着せて、温かい食事を与えて……」
言葉にすればするほど、自分の惨めさが浮き彫りになっていく。
「もし、私からこの力が消えたら? もっと立派な令嬢が、私と同じように呪いを抑えられると分かったら? その時、私は……私はまた、不良品として捨てられるのではないですか……っ」
恐怖でガタガタと震える私を、ギルベルト様は無言で見つめていた。
彼の表情は、驚きから、やがて深い自責の念へと変わり、そして最後に――行き場のない怒りを孕んだような、ひどく切実なものへと歪んだ。
「……馬鹿なことを言うな」
低く、けれど雷に打たれたように真っ直ぐに響く声。
空中で止まっていた彼の手が、迷いを捨てて私の肩を力強く掴んだ。
「お前が俺の呪いを抑えられるから、傍に置いているだと? ……逆だ」
ギルベルト様は、私の目を決して逸らさずに、一言一言、噛み含めるように言った。
「俺は、お前が俺の呪いを中和すると知る『前』から、お前を帰す気など一切なかった。お前が俺の前で水桶を落として倒れたあの日……俺の呪いが、お前を完全に壊してしまうかもしれないと絶望したあの時でさえ、俺はお前を手放すことなどできなかった」
その言葉に、私の呼吸がピタリと止まった。
「力が消えたら捨てるだと? ふざけるな。もしお前がただの女に戻り、俺の呪いが再びお前を蝕むようになったとしても……俺は、俺自身を鎖で縛り付けてでも、お前をこの屋敷の最も安全な場所に閉じ込めて、一生かけて守り抜く」
彼の漆黒の瞳に宿っているのは、理性や損得勘定などではない。
執着だ。純粋で、狂おしいほどの、ただ一人の女に対する執着と溺愛。
「お前が俺の痛みを消してくれるから、愛しているのではない。……お前だから、俺の痛みが消えたんだ」
ギルベルト様は、私を引き寄せるようにして、その広い胸の中にすっぽりと包み込んだ。
彼の心臓の音が、厚い胸板越しにドクドクと伝わってくる。呪いの冷気など微塵もない、ひどく温かく、力強い命の鼓動。
「二度と、自分を道具などと呼ぶな。お前の居場所はここだ。俺の隣だ。……誰にも文句は言わせない」
あぁ、と。
私の口から、安堵の嗚咽が漏れた。
彼は、私の空っぽだった心の一番深いところに、強引に、けれどこの上なく優しく『居場所』という楔を打ち込んでくれたのだ。十八年間、誰からも与えられることのなかった「無条件の肯定」。
私は彼の背中に腕を回し、その温もりの中で、子供のように声を上げて泣きじゃくった。今度の涙は、恐怖や絶望から来るものではない。張り詰めていた糸が解け、本当の意味で彼に心を委ねられた安堵の涙だった。
翌朝。
ヴォルガード侯爵邸の正門前には、冷ややかな空気が張り詰めていた。
「ふざけるな! 我々をこんな扱いにして、タダで済むと思っているのか!」
屈強な侯爵家の騎士たちに両脇を抱えられ、文字通り“物理的に”屋敷から叩き出されたのは、義妹のセリナと元婚約者のエリオットだった。
彼らの身なりは、昨日到着した時の華やかさとは打って変わり、疲労と恐怖でひどく乱れていた。一晩中、客室という名の牢獄に閉じ込められ、自分たちの失言や横暴な振る舞いをすべて法務書記官に記録され続けたのだ。彼らの手元には、もはや侯爵家を脅すための契約書も、エルサを連れ戻すための大義名分も何一つ残されていなかった。
門の前に立つ執事のセバスチャンは、ゴミを見るような冷徹な目で彼らを見下ろした。
「お帰りはこちらでございます。お二人の馬車と、お待ちかねの護衛の皆様はすでに手配しております。……ただし、王都への道中、お気をつけくださいませ」
セバスチャンは、完璧な一礼と共に、恐ろしい宣告を付け加えた。
「当主からの『正式な抗議文』と、バルトフェルト伯爵家の数々の不正を記した告発状は、昨夜のうちに王家と監査院に向けて早馬で発たせております。お二人が王都へ到着される頃には、ご実家はすでに……相応の処罰を受けていることでしょう」
「な……っ」
エリオットの顔から、完全に血の気が引いた。
王家への告発。それが意味するのは、伯爵家の取り潰し、あるいはそれに準ずる致命的な破滅だ。自分たちがエルサを「不良品」として売り飛ばし、私腹を肥やそうとした浅ましい計画が、自分たちの一族すべてを地獄の底へ突き落とす引き金となってしまったのだ。
「嘘よ……嘘よ! お姉様! お姉様を出して! 私が謝るから! 私が悪かったからぁぁっ!」
セリナが半狂乱になって鉄格子の門に縋り付こうとするが、騎士たちによって容赦なく馬車の中へと放り込まれた。
「やめろ! 私には未来が……輝かしい未来があったはずなんだ! エルサ! エルサァァァッ!」
エリオットの情けない絶叫も虚しく、馬車の扉は外から無情に閉ざされた。
ガタガタと無様な音を立てて、逃げるように走り去っていく実家の馬車。
それを、私は自室の窓から、ギルベルト様の大きな手に包まれながら静かに見下ろしていた。
「……可哀想、などと思ってはいないか」
背後から私を抱き込むようにして立つギルベルト様が、頭上から低く問う。
私は、小さく首を横に振った。
「思いません。……あの人たちは、自ら選んであの道を進んだのですから」
もう、彼らを恐れる気持ちは一ミリも残っていなかった。
私を縛り付けていた鎖は、完全に断ち切られたのだ。私は窓枠から視線を外し、振り返ってギルベルト様の胸元を見上げた。
「旦那様」
「なんだ」
「私……ここで、旦那様のお役に立ちたいです。道具としてではなく……あなたの妻として」
その言葉に、ギルベルト様はわずかに目を見開き、やがて、氷が溶けるようなひどく優しい、そして甘い笑みを浮かべた。
「……ああ。覚悟しておけ。もう一生、俺のそばから逃がさない」
窓から差し込む朝日が、私たちを暖かく包み込んでいた。
それは、絶望の底から始まった私の嫁入りが、王国一の過保護で甘い『愛の居場所』へと完全に塗り替わった、確かな瞬間だった。
(第1部完)




