第1話 絶望と追放、あるいは地獄への片道切符
大理石の床から這い上がってくる冷気が、繕いだらけの薄いドレスを通り抜け、私の痩せこけた体を容赦なく芯から凍らせていく。
豪奢なシャンデリアが照らし出す侯爵家の広間は、皮肉なほどに美しく、そして残酷だった。
「――というわけだ、エルサ。お前の婚約は本日をもって解消する。そして、エリオット殿との婚約は、妹のセリナが引き継ぐことになった」
高い天井に響き渡ったのは、私を“娘”ではなく路傍の石ころのように見下ろす、父・バルトフェルト伯爵の無機質な声だった。
床に崩れ落ちる私を見下ろすその目には、憐れみすら浮かんでいない。
「お姉様、ごめんなさいね。でも、これは『由緒あるバルトフェルト家のため』なんですもの。優秀なエリオット様には、日陰に咲くカビのようなお姉様より、私の方がふさわしいって……ね?」
鈴を転がすような甘い声で毒を吐くのは、異母妹のセリナだ。彼女は最高級のシルクで仕立てられた真紅のドレスを揺らしながら、悲劇のヒロインを気取るように目尻を指先で拭ってみせる。その細い腰をしっかりと抱き寄せているのは、昨日まで私の婚約者であり、私にとってこの地獄のような日々から抜け出す唯一の希望だったはずの男、エリオットだった。
「……エリオット様、それは、本当ですか……?私たちは、どんな困難も共に乗り越えようと……」
ひび割れた唇から、どうにかそれだけの言葉を絞り出した。
彼はかつて、庭園の片隅で震えていた私に「君を守る」と微笑みかけてくれたはずだった。その言葉だけを支えに、私は今日まで生きてきたのだ。
しかし、彼が私に向ける視線は、まるで汚泥を見るかのように冷え切っていた。
「仕方ないだろう。僕だって家柄だけで君を選んだんだ。だが、そんなボロ雑巾のような服を着て、いつもおどおどと目を伏せている陰気な女には、正直言って反吐が出る」
「エリオット様……っ」
「セリナのような華やかで美しい令嬢こそが、僕の隣にふさわしい。君も自分の惨めな姿を鏡で見たことがあるなら、身の程というものが分かるはずだ」
心臓を素手で握り潰されたかのような痛みが走る。
私の着ているドレスがボロ雑巾のようなのは、新しい服など何年も与えられていないからだ。
手がひび割れ、肌が荒れているのは、真冬でも冷水で屋敷中の床磨きをさせられているからだ。
優しい母が病で亡くなってからというもの、私の世界は光を失った。継母のヴィクトリアがこの家を取り仕切るようになってから、私は“長女”ではなく“厄介者の下働き”へと身分を落とされた。
食事は常に家族が残した残飯。時には腐りかけたパンと水だけのこともあった。着るものはセリナが着古して捨てたドレスを、夜な夜な自分で縫い直したもの。与えられた部屋は、屋敷の北の隅にある、隙間風の吹き込む物置部屋。少しでも継母や義妹の機嫌を損ねれば、食事を抜かれるのは当たり前で、理不尽な暴力や罰が待っていた。実の父はそれを見て見ぬふりをし、私を守ろうとはしなかった。私はいつしか「逆らっても無駄だ」「心を殺せば痛みは通り過ぎる」と、己の感情を削り落として息を潜めることだけを覚えていったのだ。
「さあ、みっともない真似はやめて頂戴、エルサ。そんな底辺のあなたにも、最後にバルトフェルト家のために役立つ、素晴らしい新しいお役目を用意してあげたわ」
不気味なほど艶やかな声で、継母のヴィクトリアが一枚の羊皮紙を私の目の前に突きつけた。
「あなたはこれから、辺境の地を治める名家、ヴォルガード侯爵家へ嫁ぎなさい。お相手はあの、“化け物当主”よ」
ヴォルガード侯爵。
その名を聞いた瞬間、私の凍りついていた血が逆流した。
王国建国に多大な貢献をした最強の将軍の血筋でありながら、代々に伝わる恐ろしい『呪い』のため、初代当主が自ら王に願い出て辺境の地へと退いたという一族。王家は侯爵家に一目置き、その呪いのせいで花嫁が見つからない彼らのために、有力貴族から次々と令嬢を送り込む配慮をしている。
しかし、現当主のギルベルト・ヴォルガード侯爵の噂は、社交界の令嬢たちを震え上がらせるものばかりだった。
『傍にいる者が次々と原因不明の体調不良に陥り、血を吐いて倒れる』
『屋敷の奉公人は恐怖で定着せず、逃げ出す』
『嫁いだ令嬢は、一ヶ月と持たずに正気を失うか、ひっそりと姿を消す』
病なのか、呪いなのか、事故なのか――真相は誰も知らない。結論だけが残っている。
「誰も、あの当主の傍では生きていられない」。
「な、……そんな……!あの屋敷へ行くということは、死ねとおっしゃるのと同じです!」
私は抗議すら許されないと知りながら、反射的に叫んでいた。
けれど、継母はまるで虫けらを見るような目で私を見下ろし、口角を吊り上げた。
「ふふっ、心配いらないわ。この婚姻契約には最初から『試用期間』が設けられているの」
「試用……期間?」
「ええ。もし向こうの当主と合わなければ、契約は解消される。その場合、当主側から多額の『解消金』と『護送費』がこの家に支払われ、花嫁は返還されるという取り決めよ」
継母は、金の匂いを全く隠そうとしなかった。
「だから、あなたがすぐに追い出されて戻ってきても、我が家にとっては少しも損はないのよ。むしろ、早い方がいいくらいだわ。あなたが無様に逃げ帰ってくれば、莫大なお金が転がり込んでくるのだから」
「そういうことです。婚姻の手続きと、解消された際の窓口は、僕が責任を持って引き受けます。契約書は僕がしっかり見ておきますから」
エリオットが、事務的な、まるで商品の返品手続きでも語るかのような淡々とした口調で言った。
ああ、そうか。
私は理解した。
これは嫁入りなどではない。厄介者の「処分」と、侯爵家から金を巻き上げるための「金策」だ。私が向こうで呪いに蝕まれて死のうが、壊れて発狂しようが、生きて帰れるかどうかなど、この場にいる誰一人として気にしていないのだ。
「……分かりました」
私は、乾ききった声で答えた。
これ以上、何を言っても無駄だ。泣いても、すがりついても、この人たちの心には一滴の同情も湧かない。
絶望の淵に立ちすぎて、逆に心が奇妙なほど凪いでいくのを感じた。
その夜。
冷たい隙間風が吹き込む物置部屋で、私はたった一つの小さな鞄に荷物をまとめた。
持っていくものなど、ほとんどない。母の形見の小さな手鏡と、使い古して歯の欠けた櫛くらいだ。
窓の外を見上げると、氷のように冷たい月が浮かんでいた。
「誰も近づけない屋敷……傍にいる人間が壊れる当主……」
噂を反芻する。怖い。得体の知れない呪いに殺されるのは恐ろしい。けれど、ここにいても結局は同じなのだ。毎日心をすり減らし、尊厳を奪われ、ゆっくりと殺されていくだけ。実家での私の居場所は、とうの昔に失われていた。
化け物に壊されるのと、家族に飼い殺されるのと、一体どちらがマシなのだろうか。
翌朝。
朝霧が立ち込める中、門前には祝言の華やぎなど一切ない、古びた馬車がポツンと用意されていた。見送りに来た継母は「早く金に変わるといいわね」と満足げに微笑み、義妹のセリナは勝者の優越感を隠そうともせず、扇子の陰でクスクスと笑っている。父は、最後まで私に言葉をかけることはなかった。
「さようなら、お姉様。化け物当主様に食べられないようにね」
背後で重厚な鉄の門が、ガシャン、と大きな音を立てて閉ざされた。その音が、私の過去との決別を告げる合図のように響いた。
馬車が動き出し、かつて「家」と呼んでいた監獄がゆっくりと遠ざかっていく。私は冷え切った馬車の中で、膝の上で両手を強く握りしめた。
――これは嫁入りではない。「死ね」と言われたのと同じだ。
ならば、ただ黙って殺されてやるものか。
誰にも望まれない命なら、せめて最期くらい、自分の足で立ってやる。
胸の底で静かに、けれど決して消えない炎のような結論を下し、私は呪いで孤独だと噂される当主の屋敷へと向かった。




