プールの底に映るのは月か魚か
輝夜姫は、まだ月に帰っていなかった。
地元の中学校を卒業して30年が経ち、今年になって、僕は教師として母校に戻ってきた。忙しさに圧されて一学期はあっという間に過ぎ、これから二学期の授業が始まるという時だった。
「君たち、授業が始まるぞ。スマホしまいなさい」
「あっ沖田先生、これ知ってる? プールサイドに佇む謎の女子生徒。毎年この時期になると現れるんだって。先輩が写メで偶然撮ったやつがあるよ」
「そんなうわさ話は――」
……輝美?
その名は生徒たちに聞こえただろうか。
スマホに映っている女子生徒は、初対面で僕の心を虜にした時と同じ制服姿をしていた。そして、今この時も……。
輝美は、かつての同級生。濡れ羽色の髪を短く切りそろえ、仕草の一つ一つに気品を感じさせる、まさに『ショートの輝夜姫』というあだ名がふさわしい女子だった。
そして輝美にはもう一つのあだ名がある。それは『黒髪の人魚』。水泳部での彼女は、バタフライの県大会記録保持者でもあったのだ。
クラスでの輝美はまさしく月の住人、手を伸ばしても届かない孤高の存在。それでも僕は諦めず、彼女と同じ水泳部に入部した。同じ魚になれば、少しずつ距離を縮めていけるんじゃないかと、そう思っていた。
最後の大会の直前で、輝美が交通事故にあうまでは。
未練だよな、輝美。
僕は管理者に頼み込んで、プールの使用許可をもらった。放課後に行ってみると、今年の授業が終了したプールは苔生した臭いのする液体に満たされている。
これじゃあ、泳ぐ気になれないよな。
それから僕はプールの水を抜き、毎日プールを掃除するようになった。
何日か経った夜、掃除を終えた僕はプールを新しい水で満たした。25メートルのスクリーンに、上下逆さまになった満月が曇りなく映し出されている。
「これなら泳げるだろ、輝美」
予感はしていた。今日は輝美の命日だったから。反対側のプールサイドに輝美はいた。その姿は輝夜姫ではなく、白いキャップに水着を身にまとった人魚の姿だった。
「ありがとう、沖田くん」
すっかり翁の年齢になってしまった僕に、輝美は記憶よりも鮮明な笑顔を見せた。
そして、輝美はプールの淵に立つと、吸い込まれるように、逆さまの月へと飛び込んでいった。
ほんのわずか、月の中心から波紋が広がっていく。
「輝美、達者でな」
30年越しに伝えられた別れを口にすると、眼前の月が朧に揺れた。
うねる月の模様が、まるで泳ぐ人魚のようだった。
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