6、王妃ナスターシャ
人の気持ちって本当にどうしようもないわね。
私は次の夜会から、わかりやすく避けられはじめた。
挨拶しても、それきり。みんな距離を開けてくる。昨日までずっと寄ってきては離れてくれなかった女の子たちも。
たまに、ソワソワしながら私の顔色を伺う心優しい子もいるけど、いいのよ放っておいてくれて。もう黙って愛想笑いを浮かべるしか出来ないわ。私に話しかけてくる者は誰もいない。こんな盛況な舞踏会の中で。
アンドリュー様も、なんとなく遠巻きにされているのがざまぁと言えば言えるわね。どうにも落ち着かない、鼻持ちならないオトコ、って認識は抱けるものねそりゃ。女票は厳しくなるだろう。とはいえ、肩書は揺るがないから、私よりはマシって程度の人気。
むしろ、横にいる女が地雷だとして避けられてるのかしら。だとしたらもっとざまぁだけど。
カタリナ・フーリー、本当に面の皮厚っついわね。どこ吹く風って感じで今日もシレッと夜会に出席している。
私をヨイショしていた人たちは、アンドリュー様ほど素行を気にしない人達ってわけでもないので、新しい神輿を昨日の今日で担ぐ勇気がないのだろう。そして私を気に入らない人たちは、だからといってカタリナ嬢を好きになるわけでもない、という事情なんでしょうね。
まあねえ、誰も聞きにこないから私も言ってないけれど、先日、カタリナ嬢を送っていったアンドリュー様はその晩お戻りにならなかったんだもの。午前様なんてもんじゃないわ、ゆったりと翌日の午後様だわ、さすがの私も呆れ果てたわ。ナニなさっておいででしたの?
「いや、そんないやらしい目で見るんじゃない、メアリーアン。そういう思考は彼女が汚される」
彼女を守ろうとするとすぐキリッとする。そうですかそうですか。また弱った彼女の手を握ってお話されてたんですね、はいはい。
そこでより深く聞けば「キスはノーカン」ぐらいは言うだろうし、やってるんだろうなぁ、と考えるくらいには、私はアンドリュー様のことをわかっているつもりだ。そして、あの女のことを信用していない。皇太子様に言い寄られたらやっぱり、魅力的だもの。それも私にはよく理解できる。
あの夜、私は一人で部屋に飛んで帰って、布団被って震えていたというのに。
そうだ……逃げ帰る原因となった、アレよアレ。
……幽霊?
言うのも憚っていたけれど、アレってやっぱり幽霊だったのかしら。少なくとも怪現象ではある。
曖昧な記憶を頼りに昼間もう一度探してみたけど、どうも北棟の一角だったみたい。
草が好き放題生い茂って薄暗い感じ。庭園はどこも綺麗に手入れされているのに、なぜかそこだけは放置されている様子だった。
いかにも曰くありげだから、メイドに尋ねてみたのよ。何か知らないかって。そうしたら、「よくは知りませんが危険だから近づくなと言われたことはあります、人もいないので行ったことはございません」ですって。
もっと詳しそうな執事に聞いてみた。何か知ってる?
「存じ上げません。危険ですので、立ち入らない方がよろしいかと思います」
「どうして? 何が危険なの? もしかして幽霊でも出る?」
執事はジロリと私の顔を見て、しかつめらしく言った。
「昔、事故があって人が亡くなっております。出るという噂はございませんが、手入れもなされておりませんので、お近づきにならぬようお願いいたします」
はぁん。ウソつきね。知ってるじゃない。
「身分ある女性っぽかったけど、亡くなったっていうのは貴族の方?」
ぴくりと執事の眉毛が動く。
「何かご覧になられたのですか?」
「……いえ。別に……噂を聞いたのよ」
何故か誤魔化してしまった。どうしてそんなところに行ったのか、私の説明もしなければいけなくなる。
「重ねまして近づかないようお願いします。危険なので」
クギを刺された。
その日も夜会が予定されていた。
また始まるのか、賑やかで退屈な時間。流行りのリズムに香水の匂い、目の前をチラチラする色とりどりのドレスたち。
ともかく奮い立たない気持ちを持て余して、私は無表情のままドレスを着せられていた。
支度は出来たが、広間に向かう気はやっぱり起こらない。
「どうなされました?」
私はニッコリとメイドに笑顔を見せ、スカートを引いて部屋を出た。広間はもうざわめいている。まあごきげんよう。ゆっくりしてらしてね。当たり障りのないことを言ってそこを通り抜け、メイドの押しているワゴンからデキャンタを引き抜き、グラスも二つ失敬した。
そのまま外に出る。誰も追ってこない。
今日もまだ明るい月明かりを辿って、私は例の塔へと足を向けた。あ、しまった。道中はいいけど中は暗かったわね。何か灯りを持ってくれば良かった。でも手はもう塞がってるし、人が居るとバレても困るし、いいか。
冷えた空気の中、階段を登る。最上階に出て、月を見た。誰もいない。
「こんばんはー……」
当然、返事はない。
何度か辺りを見回し、慎重にものの気配を探ったけど、やっぱり何もない。
ね。何もない。……てことは怖くもないのよ。よし。私がただ一人で夜会をサボって埃臭い塔で一杯やろうとしてるだけ。よーかった。
ある種の緊張感が抜けて、私は窓辺の壁に座り込んだ。
ストレスから逃げ出してお化け屋敷に飛び込む心理も不思議だけど、居ないならそれはそれで快適だ。誰も私を好奇の目で見てこない。いいじゃん。ここなら泣いても喚いても、誰にも聞こえないし。いい隠れ家だわ。
早速、床にグラスを置いてデキャンタからワインを注ぐ。使われないグラスも侘しいので、二つともに。
「結構量あるわね。飲めるかしら。お相伴がいれば良かったけど」
「あら、じゃあいただくわ」
急に声が聞こえたので、床に置いたデキャンタを倒しそうになった。
驚きに強張った顔を上げると……いた。いや、出た。
古めかしいドレスの女が私を見下ろしている。間違いない、あの時、助けてくれた彼女だ。私は空唾を飲み込んだ。
「じゃあ……どうぞ」
「ええ、ありがとう。ワインなんて、何年振りかしら」
そこまで言われては今更イヤとは言えない。私はワインの入ったグラスを腕いっぱい伸ばした先に設置した。
いや、今更だけどビビるじゃない! 怖いし! 幽霊かもしれないし!
かもしれないって言ったけど、彼女の足元に影がない。スカートの下に埃も立たない。やっぱりそうよね。神様、悪いことはしませんから地獄行きにはしないでね、と、こっそりお祈りしておく。そんな私の緊張をよそに、彼女はワイングラスの位置に腰を下ろし……そう、床にね……おおよそ身分あるレディのやることじゃないけど……私と同じように壁に背をつけてグラスを取った。
「わざわざお礼に来てくれたの?」
「えっ?」
「命の恩人にである私によ! 今日はもうバカなことしようなんて、考えてはいないんでしょう?」
「ああ……ええ、飛び降りたりはしないわ」
「ならいいわ。あなたの助かった未来に乾杯」
そう言われて杯を掲げられ、単純なものだけど、私は急に安心した。
だって、影でヒソヒソ言われる夜会より、大勢いる中の一人より、ここは孤独ではないし私の敵はいないのだ。よっぽど心の健康にいい。お礼に来たというよりは好奇心だったけれど。
周りの静けさもあるからか、とても落ち着いた人という印象も受けた。悪人には見えない。何なら安心感すら覚える。
ちびちびとワインを啜り、早速だけど気になっていることから聞いてみた。
「あの、貴女……お名前は?」
彼女は答えず、何か言いたげな目をこちらに軽く流してみせた。そこで初めて、異様な雰囲気に飲まれた私が、相手も淑女であるということを思い出したのよ。
「あっ、失礼。こちらから名乗るべきね。そうね。私はメアリーアン・ダブリン……アンドリュー皇太子殿下の婚約者よ」
丁寧に説明したのは、幽霊に対しての配慮だ。アンドリュー様のことをご存じないかもしれない。
名乗りを聞くと、彼女は軽やかに笑った。
「あらぁ、次期王妃様なのね」
「……ええまあ、今はまだ、そう」
「ワケありなのね。でないとこんなところに来ないわよね。私はナスターシャ・バルブロスティ」
「ナスターシャ……」
バルブロスティは聞いたことがない。少なくとも、知り合いの範囲内にはいない。けど、どこか記憶にひっかかる。答えはあっさりと本人が告げた。
「私は王妃だったわ……二代前のね」
あら。じゃあアンドリュー様とは血縁ってこと? と思ったら違うみたい、「今の王は関係ないわ、私の子じゃない。私の旦那の子だけど」
かいつまんで聞くと、後妻の息子が今の王様らしいのね。要は彼女が死んだ後の。
「権力って本当に砂糖菓子ね、蟻がたかって毎日が戦争だわ、食ったり食われたり。私はその舞台から『降りた』だけよ。ちょっとばかり高いところからね」
掛詞はサラリとしているが、私は返す言葉もなくしてしまった。
まあ、実際ここで幽霊になっている時点でいろいろと察するものはあるわね。うすら寒い話よ。
「昔、ここで人が亡くなったって聞いたわ、事故で。貴女のことなのね?」
「そうねえ、私のことだと思うわ、事故で死んだ人が他にいるなら違うと思うけど。私は故意だものね。で? 貴女はどうして『降りよう』と思ったの? しかも故意に」
ナスターシャが私の方へと話題を振ってきた。そりゃそうね、いい酒のツマミだしね。
「私は……死ぬ気はなかったのよ、本当よ……多分きっと。いい感じにケガしないかと思ったのよ。反省はしているわ」
経験者の視線が鋭くなったので、素直な態度を見せておく。昼間確認したこの塔なら確かに、助からない高さだと思う。落ちないで良かったわ。
「彼の気を引きたかったの……助けてくれてありがとう。感謝してるのよ」
それから私は、ここに来るまでの経緯をナスターシャに話してきかせた。
出会い、誘い、乗ってしまった自分。城に来てから、出て行った前の彼女。新しく表れた女。そして今。
酒も入ったこともあり、話をしていると段々といい塩梅にタガが外れてきた。最近は私の話を聞いてくれる人なんていなかったもの。
その分、溜まった鬱憤まで話に紛れてぶつけてしまったが、ナスターシャは落ち着き払ってふんふんと相槌を入れてくれている。淑女ね。
「そりゃあ、ノコノコついて来ちゃった私もチョロかったかもしれないけど! 連れてきちゃったアンドリュー様はちっとは責任というか、うら若き女の子一人かどわかしてきた事実を重く考えるべきよねっ! アンドリュー様の態度如何ではもう私、社交界にいられなくなるじゃない!」
言葉も乱れてきた私の話を最後まで根気よく聞いていたナスターシャは、考えながら感想を述べ始めた。
「チョロかった……というのは……」
言いながら空になったグラスを置く。
「彼の方じゃない? 自分の前に現れる花に、次々と目移りしただけでしょう?」
は。確かに。
目の前の人物が二転、三転したのはアンドリュー様だけだわ。なんてこと。
言われてみれば単純な事実と、それに今まで気付かなかった自分に憤ってしまった。散々吹き上げた後、気が付けばナスターシャは黙ってじっと私が落ち着くまで待ってくれていて、私は慌てておかわりのワインを注いで差し上げた。ありがとうございます失礼しました、どうぞ。
「今更なんだけど、貴方、ワインは飲めるのね……?」
「あら、美味しいわよこれ。口に合うわ」
いやそこじゃなく。物理的に飲めているところもアレだけど。
「主は『これは私の血である』と仰ったけど……昇天しない?」
「ああ、それ考えてなかったわ。でも、してないわねぇ。私が天に登るとしたら、色々と未練がなくなった時じゃないかしら」
今はあるのね……皆それぞれ事情があるわ。
でも今は自分の話はしないつもりのようで、ナスターシャはすぐに私の恋愛に話題を戻してきた。
「いやでも彼もすごい肝ねえ、周りの目は気にせずに理想を追い求めるの、なかなか出来ないわ。なんのかの言いつつ血筋ね。庇護欲かきたてる女が好みなんでしょ、でもだからといって大怪我してみせるのは割に合わないわ。ずっと寝込んでないといけなくなるじゃない。いや全く、宮廷なんてただただ恋愛バトルの戦場だわねぇ」
遠慮なく二杯目に手を伸ばしたナスターシャに、私は訴えた。
「でもやっぱりホラ……悔しいじゃない! そんな簡単に乗り換えるとか、私の気持ちはどうなるのよ、ほんといい面の皮だわ! ひどい! ポッと出の女もまたどこがいいのか分かんない相手だし! どうしてくれようかしら、もう! どうにかあの女に一泡吹かせてやれないかしら!」
「あら、ダメよそれじゃあ」
「どうして!」
「殴る相手が違うわ。殴るのはあくまで浮気した方よ」
ぽかんと口を開けて、私はナスターシャの顔を眺めた。
「だって……あの女腹立つし……やっぱりアンドリュー様好きだし……」
まだ言い募る聞き分けのない私に、ナスターシャは優しく声をかけた。
「そのお相手は、あなたを愛してるの?」
思い出したのは、エルシー嬢の言葉だ。
『彼、あなたを愛しているわけじゃないと思うわよ』
去り行く女の悔し紛れな捨て台詞だと思ってた。思おうとしていた。
「彼、あなたという個人を愛してる? それとも何か他のものを愛してない? 不幸だとか」
うん、知ってた。でないとケガしようとか、風邪ひこうとか思わない。彼の気を引くのには、不幸が何よりのエサなのだ。
あの人は、不幸好き。不幸に晒されて耐えている、庇護欲かきたてられる女性が好き。
もうフェチね、これ。
「初めからわかってたんじゃない。性分よ、それ。ここを凌いでも意味ないわ。彼の問題よ」
と、ナスターシャは笑う。ここで食い下がる私はもはや駄々っ子に等しい。
「だって悔しいもん殴りたい。私から仮を奪った相手が憎いのは当然でしょう?」
「いや考えてもごらんなさいよ、女の方を殴ったらどうなると思う?」
「……気が済む」
「そうね。貴女はね。じゃ、彼の方は?」
「……」
思わず返す言葉を無くした。
「無傷なのよ、それじゃあ。浮気して楽しんで、その代償は女たちの泥試合、自分は何一つ痛みが飛んでこないままオロオロしてて決着がついたら好きな女とまた楽しめる、それはただの成功体験なのよ」
雷が落ちたような衝撃だった。成功体験! そうか! そりゃそうか!
「浮気して何もペナルティがないんなら、次もやるわ。絶対よ。殴るなら、浮気した方よ」
痛い目見させないとね、とナスターシャはあっけらかんと言う。それでも、浮気性は治るかどうかもあやしいのだから、と。
なんだか涙腺に来た。ぶわりと涙が盛り上がり、拭う間もなくボトボト落ちる。
うじうじしていた心に火を点けられた気分だ。袋小路だと思っていた居場所に、扉を見つけたような、やるべきことを理解したような。
ありがたかった。今まで何もできず歯噛みしていただけに、理解を示してくれた上に方向性まで見出してくれた彼女に、感謝の気持ちを抱いた。
その恩人を困らせながら、私は号泣した。ナスターシャはあらあら、と困ったように「ハンカチは今、手持ちにないのよ……ごめんなさいね」と言って、泣き止むのを待ってくれた。
ありがとう。貴女、本当に素敵な人ね。
鼻をすすり涙を拭き、やっとのことで息を整えた私は鼻声のままナスターシャに聞いた。
「……私、貴女に会いにまたここに来てもいいかしら」
「あら、歓迎するわ。何もないところだけど」
「そうね、次はツマミも持ってくるわ」
ナスターシャはウフフと笑う。
「それは楽しみね」
ひとりぼっちになった私の話を聞いてくれたナスターシャ。幽霊だって構いやしないわ、生きている人間は誰も優しくしてくれなかったものね。
私には内緒の友達が出来た。そう思ってていいかしら。
私はこの出会いから彼女と急速に仲良くなり、そして夢中になっていたのよ。