1、始まりは偶然に
物語の始まりは一昨年の冬、ボンテシー公の誕生祝いにお呼ばれした時のことだった。
さすが洒落者公爵、御屋敷が見事だったとか、洗練された宴会の様だとか、そういうことを端折ってその日の大事なことだけ言うと、私はアンドリュー・クストーに恋をした。
出会いは、偶然なる事故。
冬の道の悪さに馬車を立ち往生させて困っていたら、ちょうど通りすがったのが彼の馬車だったのよ。
アンドリュー様が皇太子だとは言ったと思うけれど、まさか王室の印も掲げていない馬車からお出ましになるとは思わないじゃない。
「どうしました」
優しい声だった。
「車がぬかるみに嵌ってしまって……これからボンメルシー公の御屋敷に行かねばならないのですが」
「ああ、私たちも同じですよ。よければご同席なさいますか?」
道がぬかるむだけあって、前日は雪が降っていた。
その、とりわけ深い轍の泥濘に、車輪がとられてしまって二進も三進もいかなくなったのだ。
私とお母様は青い顔をしてぶるぶる震えながら車の外に出ていたので、それはそれは、ありがたい申し出だった。
早速、乗り込ませていただく。席にいたのは装いを正した男女お一人ずつ。声をかけてくれた男性が女性の隣に席を移り、どうぞ、と私たちにシートを譲ってくれた。女性の方は、淡く輝く薔薇色のスカートをそっと寄せてくれた。
厚く礼を述べ、大変でしたね、などと一通りの挨拶の後、お母様はしげしげと男性の顔を眺めた。
「私の顔に何かついておりますか?」
面白そうに言う彼は、むしろ何もなくても眺めておきたいほどの整った容姿をされていたけれど。
「いえ……でもまさか」
「それとも、我が国が誇るドラ息子、アンドリュー・クストーに似ている、とか?」
「あら、やはりアンドリュー様……」
お母様は驚き、慌てて「ドラ息子」部分を否定し、「まあ、なんということ。知らぬこととはいえ大変なご無礼を」と頭を下げた。
「お気になさらず。お困りのレディを雪の中に放り出しておくことなんて、出来ないじゃないですか」
それはよかった。また凍えなくてすみそうだ。
安心してくるとアンドリュー様のお顔をとっくり眺めることができた。こんなお近くで拝見することなんて、めったにない。
皇太子、アンドリュー・クストー・クリューラント。
優しい顔立ち。実際お優しいし。それに、気取らない人だわ。気さくに困った人を助けてくれるなんて。素敵じゃない。
「たまたま、今日は別の用事で彼女と出ていて……いつもと違う道を通ったのであなた方を見つけることができました。運が良かったですね」
そうか。この馬車は彼女の家のものなんだわ。
「こちらはレディ・エルシー」
アンドリュー様に紹介されて、女性は小さく頷いてみせた。
レディ・エルシーは、マディアーナ公爵家のご令嬢だという。
「まあ、ご丁寧にありがとうございます。私はダブリン侯爵夫人、カシアーニと申します。こちらは娘のメアリーアン」
お母様に紹介され、私は精一杯、優雅に見えるようにと頷いてみせた。
「お会いできて光栄です、ダブリン夫人。それに、レディ・メアリーアン」
言いながら母と、それから私の方を見てニッコリと微笑んでみせる。もう、それだけで心臓が跳ねたのよ。本当に。
「愛らしいお嬢様だ。今での舞踏会ではお会いできませんでしたね」
「まだ社交界に上がって日も浅うございますから」
「じゃあ、これからはお目にかかれるのかな」
お母様がまだ何か言っていたが、もう耳に入らない。えっ、何。なになに。どういう意味かしら。
もっと早くに会いたかった?? そんな意味かしら。そういう意味でいいかしら。ちょっと期待できるのかしら。
しかし、話をしているうちにのっぴきならない事実が判明した。
アンドリュー様とエルシー嬢は婚約者同士だと言うのだ。
……まあ、そりゃあそうね。さもなくば、気楽に男女二人きり、馬車に同席なんてしないわ。お安くないじゃない。
ちょっとだけガッカリした。言わないけれど。
「しかし、ダブリン侯爵といえば、確か先月……」
「はい。主人が亡くなりました。今は私の弟に来てもらい、屋敷を切り盛りしているところでございます。最近ようやく落ち着いてまいりました」
おかげで爵位は返上しなくて済んでいる。
「それはお気の毒に。困ったことがあれば何でも言ってください」
「ありがとうございます。私は良いのですが、娘の行く先だけが不安で……」
車内のおしゃべりはまだ続いている。
母は他愛もないおしゃべりが得意だ。口を差し挟む余地もない。思わず気も抜けてシートに背中を預け、ボーッとしていた私は、豪奢なお屋敷の輝く窓明かりを眺めていた。
気が付けば、目的地に到着するところ。車が軽くカーブを描く。
ふと会話が途切れ、その拍子に頬に視線を感じた私は、釣られて振り返った。
ええ、気のせいじゃなかった。視線は対角線上のお席。アンドリュー様からだ。気づいた私とバチリと目が合うと、甘い笑みを見せてきた。
三秒も遅れて、私は微笑み返した。ぎこちなく見えなければいいけれど。だって、あまりの緊張で。
惜しげもなく見せてくる秋波は、手に取ってはいけない誘惑の実のよう。言葉のない密室。隣にはその人の婚約者。
……彼は、人を安心させる笑顔を持っている。それが若い娘にどんな作用を及ぼすか、ねえ、判っていらっしゃるわよねぇ?
どうぞ楽しんでくださいというホストの声で、パーティ会場はダンスホールになった。
お母様と一緒にいると、奥様方の退屈なおしゃべりに付き合わされるので、私は一人で会場をそぞろ歩く。
「レディ・メアリーアン」
呼び止められて振り向く。
そうだったらいいなぁと思っていた。もう一度話をしてくれたらいいなって。でも、本当にそうなるとは思わなかったじゃない?
振り返ってみれば、アンドリュー様だった。
「アンドリュー様……」
あの人好きをする笑みを浮かべて、私を見ている。どうやらお一人の様子。
そうであればいいと願った光景は、いざ叶うと、どうしようもなく動悸があがる。嬉しさと、うしろめたさで。
だって、恋人のいる身で、一人で私を探して声をかけてきたのよ? ちょっと背徳感あるじゃない。もしかしたら何の疚しさもないから出来たことかもしれないけれどさ。
「楽しんでる?」
「はい。ありがとうございます」
「堅苦しくしなくていいよ。公式の場ではない。社交界はまだ慣れていないって聞いてたからね。緊張してる?」
「……少し」
はにかんで笑って見せると、アンドリュー様は頷いた。
「踊らないの?」
ホールは演奏が始まっている。みんな楽しそうに踊っているけれど、せっかくここまで来ておいて、今日は私は踊れないということがさっき判明したところだ。
「実は……」
そっとスカートの裾からつま先を出して見せた。
ぬかるみに立っている間に、私の靴はたっぷりと泥水を吸っていた。ドロドロに汚れて見せられたものではない。元の色がわからないほどのそれを見て、事情を知っているアンドリュー様はすぐに経緯を察したようだった。
「ああ。……なるほど、わかった。レディ・メアリーアン、ちょっとここにいて。すぐに戻るから」
笑い話にして終わろうと思っていたのに、アンドリュー様は慌ててどこかへ消えていった。仕方ないのでソファに座りお帰りを待つ。
しばらくして、アンドリュー様はまだリボンのかかった箱を持ってきた。
開けてみると、新品のダンス靴。深紅が美しい、上品な一足だ。
「これを使って」
「でも……そんな」
「いいんだよ。私からプレゼントしよう。今日のドレスに合わないかもしれないけれど……」
気の利かない私は、今日の一着にカナリヤ色を選んでいた。でも、まあ、でもでもまあ、マシよ。いいわ。だってこの色なら汎用性高いもの。
「いい差し色になります」
頷いた私に、アンドリュー様は手を差し伸べた。
「では、踊りませんか?」
そこからはもう、夢のようなひとときだった。
アンドリュー様にフロアの真ん中に連れられて、踊って踊って、息があがって、それでもほんの少ししか時は経っていないような気分だった。
楽しい瞬間というものは駆け足で去っていくの。
「ダンスも上手だね」
終わってほしくない曲が終わり、褒められながら私は元のソファまで連れていかれた。皆が私に注目しているのを感じる。いや、アンドリュー様にか。寄り添う私の真っ赤な顔が、運動したせいだと思われていればいいけれど。
「今夜は楽しかったよ」
「もう一曲いきたかったわ」
恐れ多くも皇太子様に、私は大胆な言葉をかけた。今の彼なら許してくれると思ったから。
実際、その無礼は笑って許された。でも、彼はあやすように私の手を叩き、悲しそうに囁いた。
「彼女が待っているから」
……そうだったわ。そうでした。これ以上は、私の素行にも影響が出る。
「そうでなければ、私もまだ踊っていたかったよ」
アンドリュー様は私の手にキスをして去っていった。……んまぁ。なんてこと言うの、この人は。
私はソファに沈みこんだ。
ああ。人生最高の日。こんないい日があるなんて。
次の曲が始まった。踊りつかれた人と交代して、次の人たちが楽しそうに踊り始める。
アンドリュー様の姿はそこにはなかった。特段、探そうとしていたわけではないけれど、ぼんやり中空を見上げていた私は彼を見つけてしまった。
二階廊下の隅で、彼女と話をしている。彼女、……エルシー・マディアーナだ……話というか、彼女が何かを怒っていて……それをアンドリュー様が宥めているように見える。
身振りも大きくイライラした様子を隠さないエルシー嬢は、まだ何かを言い募っているアンドリュー様に背を向け、足早に階段を下りて行った。そしてそのままフロアを出ていく。アンドリュー様の方もそれを追いかけるわけでもなく、肩を竦めただけで終わってしまった。
お二人の仲は、円満とはいっていない様子。
ふぅん。
私はちょいとスカートを引いて、頂いてしまったダンス靴を見る。ドレスの色に合っていないダンス靴。さっきの時間が夢ではない証拠だ。
また頬に熱が戻るのを感じてしまい、そっと隠すように、両手で冷やした。