9、聖女誕生
祝福せよ、天の声は地上にもたらされた。この国の将来は安泰だ。
陶酔したような声が聞こえる。大ホールの真ん中からだ。みんな音楽もダンスも忘れて、この演説を聞いているらしい。
一体、何事かしら。おかげで私とナスターシャは、誰にも注目されずに城内に入ることが出来たけれど。
そっとホールを覗こうとした時、足早に出ていこうとする女性とぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「失礼」
同時に声を上げて相手を見ると、次にはあら、とちょっと気まずい顔を見合わせることになった。
ご無沙汰だけど見覚えのある顔ね。エルシー嬢のご友人だったわ。最初の頃はよく嫌味を言ってきたものだったけど、私がアンドリュー様に放っておかれはじめた辺りから接触がなくなっている。
そこへ何かしらの声があがり、ホールが沸いた。騒ぎを振り返った彼女は、今の感情を思い出したらしい。怒りだ。
まだ少し紅潮の残る頬で肩をいからせ、私の隣をすり抜けて行こうとした。
「……もうここには来ないわ」
ホールを出ていく前に足を止め、彼女はそう言った。……呟きにしては大きい声だったものね。私に言ってるのよね。きっと。
とはいえ、返答のしようもなく言葉を迷っていると、彼女はやおら振り向き、人だかりに向かって扇を突き付けて私に苦情を申し立てた。
「ねぇ! 貴女あの呆れた茶番、止められないの!?」
と、いいますと。
「ごめんなさい、何が起こっているのかすら分かっていなくって」
なんだか申し訳なくてつい小声で謝ると、憤懣やるかたない様子の彼女はイライラと扇を振り回す。
「うちの国のナントカいう皇太子よ! おめでたいのは知っていたけれど、あそこまで無能とは思わなかったわ!」
ははぁ、言うのも憚られるほど罵りたい偉い人。
そういえば、聞こえてくる声はアンドリュー様に似ている。ああー、と私は難しい顔をしてみせた。
「そもそも私の話を聞いてくれると思う?」
だってそれなら、今とは違う事態になっているはずだ。納得したらしい彼女は首を振り、溜息をついた。
「いいわ。もうここには来ないわ、だから関係ない。知ったことですか。言っておきますけどね、私だけじゃないわ。同じ気持ちの貴族たちは幾人もいる。社交界存続の危機だって喚いている人もいたけどね。それで済むかしら。国が危うくなるくらいの話じゃないのかしら……ともかく」
と言ってしばし、腕組みで物思いに耽った彼女は、存分に間をあけて「ともかく」の後の言葉を継いだ。
「……あの胡散臭い女にアイリスの間を使わせようって時に、怒ってくれて嬉しかったわ。ありがとう」
最後はごく小さな声だったけど、ちゃんと聞こえた。謝辞をいただくとは思わなかったから戸惑ったけど……こちらこそ。そう言われると、間違ってなかったと思えて私も嬉しいわ。
「じゃあね。貴女も、早めに逃げた方がよくなくって?」
そうして、彼女はホールを出て行った。
……さてそうなると、残された私とナスターシャは顔を見合わせて、騒ぎの真ん中を探りに行くよりほかなくなった。何事だっていうのよ。全く。
近くに寄ると目ざとい者が「あら」という顔で私の挙動をじっと見守りに入る。
人だかりの外周は倦んだ空気だったので、私に気づいた人は多い。でも真ん中に寄るにつれ、皆熱心に演説者に注目しているので、気づかないどころは中々通してもくれない。
「彼女は素晴らしい女性だ。聖に従い、邪を遠ざけ、身を慎んでいる。勉強を怠けてばかりいる坊主たちとは大違いだ」
声のアタリがついていたので、必死でプレゼンされている「彼女」が誰のことか、だいたい分かってしまった。
「天使と話ができるのは最早奇跡だ、そうだろう? 奇跡の使える女性が我が国に現れた事に、神の意思を感じないか?」
そうだそうだ、と観衆は同調している様子。
「彼女のサロンに行ってから、私も天使の視線を感じるようになったの」
「天使の祈りを貰ったおかげで、夜がぐっすり眠れるようになった」
「私は胸のつかえがとれたわ」
誰もが天使と我が身のコンタクトを喜んでいる。やだ、あの人そんなことやってたの?
はいちょっとごめんなさいね、と手で人波を切り分けていくと、いたわよ騒動の元凶。アンドリュー様。
いつも私に語ってくれてるテンションで、カタリナ嬢の素晴らしさを大勢に向かってぶちまけている。その横には当人カタリナ嬢。皆の声に応えて立ち上がり、キラキラと輝く顔で聴衆に呼びかけた。
「ありがとう。皆さんがそう言ってくれるだけで、私は嬉しい。皆さんの気持ちが愛を持ち続けている限り、天使さまはきっと呼びかけに答えてくれるはずです」
堂々たる演説、そしてお辞儀。まるで臣民に挨拶する女王様ぶって、嫌味なほど自信に満ちている。
アンドリュー様は満足げに頷き、今宵最強の、爆弾発言に及んだ。
「皆も彼女の侵しがたい聖性は、理解してくれていると思う。そこで私は考えた。彼女に、聖人の名誉を与えるのはどうだろうか」
「……!」
言葉にならない私の悲鳴は、興奮に沸き立った周りの声にかき消された。ナスターシャもあまりのことに、開いたきり塞がらない口元を押さえて隠している。
喝采を浴びて得意げな顔を巡らせていたアンドリュー様は、ようやく私の顔を見分けたらしく、イタズラを見つけられた子供のような表情になった。
「ヤベっ」
みたいな。
「ヤベっ」じゃないわよ!!
不思議ちゃんが現れた。不思議ちゃんは天使さまとお喋りしている。
そして、ここで二つに割れる反応。乗るタイプ。引くタイプ。
乗るのはカタリナ嬢から好感触で迎えられた人たちだ。穏健派で、とりあえず彼女の意見に反対をしなかった人たち。本当に天使を信じたのか、彼女をカワイソウな人と思って黙っていてくれたのか、それは分からない。ただ、カタリナ嬢から「心の綺麗な人」認定をされて仲良くなり、アンドリュー様にも覚えめでたく思われたというオマケがついた。
「困ったのは、他にもあの思い付きに乗ってくれている人が少ながらずいるってことよ」
と、ナスターシャは首を振る。
「自分が正義と思えるのはね、とてつもなく甘い誘惑なのよ。そこで仲間意識を誘うなんて、敵もさるものね。きっと少なくない人たちが彼女の側にいるわ」
そーなのよね。しかも将来の出世街道に直結するとあっては、お得な話にオマケがついて大安売りされてるようなもの。不思議なビジョンなど、見えてなくても「見えましたー!」と言う者もいよう。
「いや、でも、私がワガママ言い始めたわけじゃないぞ! そうしたらどうだろうか、と周りの声が上がっていたんだ、私はただそれを取りまとめただけだ」
「ワガママ以前の問題でしょう!? 聖人にしようですって!? 彼女を!?」
ゴタゴタの中からアンドリュー様を引っ張って帰った自室で、早速どういうつもりか聞いてみたのだが。最初に言ったのが言い訳ときた、これは話し合いもアテにならない。
「聖女、ってやつだな」
さらにどうでもいい事をツッこまれて、私はギッとアンドリュー様を睨みつけてやった。さしものアンドリュー様も黙って俯く。女性名詞なぞどうでもいいわ。
「聖女ですって! 聖女……本気で? あの人が……私の目から見れば即物的で甘ったれのあの子が聖女!」
「彼女を悪く言うな、メアリーアン」
「人から外套奪っておいて礼も言わない子が聖女」
「それは言うなメアリーアン」
ッかー!!
呆れて物も言えないわ、という気分に浸ってたら、あっちで様子を見ていたナスターシャがプッと噴き出した。よっぽど、すごい顔してしまったらしい。それで私はちょっと冷静になれて口を閉じる。
「私以外にも、反対票はそれなりにいそうですけど?」
と水を向けてみると、アンドリュー様はちょっと気まずそうな顔をしてみせた。知ってはいるのか。しかし
「ちょっとだけだぞ」
往生際は相変わらず悪い。
引くタイプの人たちは、単純にカタリナ嬢とウマが合わなかった人たち。
いや別にいいのだ、そういう人だっているだろう。人間だもの。いろんな人がいる。
いるだろうが、ウマが合わないというだけで相手をいきなり悪人認定してしまうのかいかがなものか。
誰だって、「あれは心根がよろしくない」などと断定されれば愉快なものでもないだろう。実際、カンカンに怒ってしまった人もいる。しかも身分も決して低くはない相手だったりするのだこれが。
それでも、カタリナ嬢は恐れず好悪の選別をやってのける。善悪のつもりで。
「敬虔な人も逃げてるんじゃない? バイブルには則っても、カタリナ嬢の世界についていくつもりはない人たち」
と、ナスターシャ。
あー、ね。なるほど正直、その気持ちもわかる。
「遠巻きに見てた人も少なからずいたのを、私は見てきましたわよ。『もうここには来ない』とさえ言い残して、去っていった人もいたわ。それでも良いんですの?」
引き続いて私はアンドリュー様を説得する。
去っていった彼女がどう感じたのか知らないが、少なくともついていけないと思ったのだろう。アンドリュー様、そして囲い者たちに。
もしかしなくても社交界、割れてるんじゃなくて? これって対立になっているんじゃないかしら。
だが恋する男の答えは、ズレたポイントを指してくる。
「彼女の純粋な気持ち、本当の姿を見ていてくれれば反対することなどないはずなんだ。もっと信じてやってほしい」
溜息しか出ない。ナスターシャは薄く笑った。
「呑気ねえ。彼、自分の足元に鉄槌を振り下ろしている事、分かっているのかしら」
「でしょー? 私にだってわかるわ」
ナスターシャのお陰で、上に立つ人が場をとりまとめるという苦労を背負うことは最近学んだ。ために、アンドリュー様のヘタこいた部分が理解できるのだ。このまま好き嫌いで人を間引いて行けば、アンドリュー様の傍には佞臣だけしかいなくなる。
アンドリュー様は急に大声を出した私を、不審そうに眺めた。まあ、本当。呑気な顔ね。
「大体もう、この際だから言わせてもらいますけど。彼女は本当に天使と話が出来ているのかしら?」
「もちろんだ」
アンドリュー様は胸を張る。
「自信おありのようですけど、根拠は?」
「彼女がそう言っている」
「それだけ?」
「ウソをつくような女性じゃない。それに、あの大勢の賛同を聞かなかったのか? 彼女が天使に祈りを捧げ、その奇跡に触れた者たちだ。気分が良くなったり、病気が治ったり、同じく天の声を聞いたり、光を見たりと枚挙にいとまがないんだぞ」
私はナスターシャの方を見た。
「……話が出来るかどうか、それは関係ないわ、メアリーアン。悩みなんて、みんな持ってるものでしょう。そこに天使様の名前をちょいと出して慰める。そう、解決しなくてもいいの、慰めでも。波長が合えばシンパシーは湧くのよ。例えば、時が解決する問題なら時が解決するまで放っておけばいい。その間に天使のご神託を貰っていたら、それは天使様のお手柄に見えちゃうのよ」
「やっぱりウソってこと?」
「いや、知らないわ。確証はない。ただ問題はそこじゃなくてね。よしんば本当に天使と語り合えていたとしても、聖人認定は簡単にできるものではないってところよ。だからこそ彼の先走りが論点であって」
「それはそう……」
「さっきから誰と喋っているんだ、メアリーアン」
不快と不安の混じった声で私を咎め、アンドリュー様は私と、何もないはずの窓際とを交互に見やった。そう、ナスターシャが見えていないのね。
でも私には見えている。誰と喋っているかですって?
「天使よ」
私にとってはね。
アンドリュー様は息苦しさを示すように、胸元に手をやった。
「そんなバカな」
「あら。彼女の言う事は信じるのに、私のことは信じないの?」
返事はこなかった。アンドリュー様は議論を放棄して、サッと部屋を出て行った。




