約束、破らないでくださいね
毎週土曜日の夜、1万文字以上、2万文字程度の百合短編を投稿しております。
今回は、会話文が少なめに感じられるかもしれません。
さらに、夏真っ盛りの時期に冬のお話になっています。
こうも暑い日が続くと、冬の物悲しいストーリーが恋しくなる、今日このごろです。
では、拙い文章にはなりますが、週末の暇つぶしにでもどうぞ!
(1)
あてのない旅は、旅として成立するのだろうか。
人のほとんどいない駅のホームに、三両の電車が滑り込んでくるのを見て、ぼんやりそう考える。
病室の白をイメージさせる、不健康な肌をした、髪の長い少女だった。
人里離れた場所で出逢えば、心臓が止まるかと思うほど驚く、幽霊みたいな容姿をしている。
ローカル線の寂れた黄色い電車は、ところどころ塗装が剥げていて、そう遠くはない死を予感している老人のように、諦めを含んだ車輪の音を闇に響かせていた。
電車が停車したのとは反対側のホームに立っていた少女は、手元に持っていた紙に、久遠寺玲奈と走り書きされた文字を指でなぞった。
それから、白い息を吐き出しながら、星の見えない空を見上げる。
今年の冬は寒くなるらしい。
すでに、例年を下回る気温の低さで、秋は音もなく死んでいた。
茶色のダッフルコートを身にまとっていた玲奈は、一番上までボタンを留め直すと、フードを深く被った。
天井からぶら下がっている電光掲示板には、目的の電車が到着するまで、まだ後五分ほどあることが表示されている。
それまで立ったまま待つか、それともベンチにでも座るかと、玲奈は少し迷っていた。
ベンチを探すため視線を周囲に向ける。
空いているベンチはいくつもあったが、近くで女子高生らしき少女が仲睦まじく大きな声ではしゃいでいたので、やはり、その場で待つことにする。
騒がしいのは嫌いだし、今は、人に会いたくない。
背負っているリュックサックを担ぎ直し、冷えた空気を吸い込む。
そうすることで、少しは自分の孤独が癒やされるかと思ったが、人肌とは無縁の冷たさが体に入り込んできただけで、かえって逆効果であった。
女子高生の声が段々大きくなってくる。
初めのうちは、品のない、幼い恋愛に関する自慢話だったのだが、話題は大きく変わり、どうでもいいネットニュースの話になっていた。
責任放棄の飲酒運転事故、つまらない命を繋ぐための強盗、ろくに名前も思い出せない遠い国の紛争、夫婦が滅多刺しにされた殺人事件…。
だが、所詮はどれもが他人事だ。
何重にもなった膜に隔てられ、対岸の火事を眺めるように、人々は好き勝手に感想を口にする。
実際、二人の女子高生もそうだった。
半笑いで、『死に過ぎじゃない?』と言い合う。
そうだよ、人が死にすぎている。
だが、それ以上に増える人口の影に、死者の嘆きは消えている。
玲奈は、いつの間にかそちらのほうを見ていたらしく、電車到着のアナウンスで顔を上げた際に、二人のうち片方と目が合ってしまった。
ぽかんとした表情を浮かべる相手から、素早く目を逸らす。
自分の背中を見つめて、ひそひそと会話をしている声が聞こえるものの、滑り込んできた電車の音のおかげで聞こえなくなる。
電車が停止し、自動ドアが開く。
車内はガラガラで、この車両には自分と先ほどの女子高生二人と、疲れ切ったサラリーマン風の男だけだった。
座席の端のほうに腰を下ろし、半端に暖房の効いた車内で、リュックサックから本を取り出し、到着までの時間を潰すことにする。
まあ、到着してからのほうが時間の使い方に迷うだろうが。
ただ、小うるさい女子高生たちが正面に座ったのは不運だった。
電車が揺れて、規則的なレールの音がする中、目で文字を追うことに集中したかったが、やはり他人の会話が気になってしまう。
いつもなら、イヤホンを付けて自分の世界に飛び込むのだが、しばらくはそれも出来そうにない。
家に置いてきてしまったから。
バッグの中には、本と財布、そして着替えとちょっとした食料ばかりが詰め込まれていた。携帯すらも持っていなかったため、音楽の聞きようがなかったのだ。
さすがに車内に入ると、二人の声は小さくなったが、それでもこの距離でははっきりと会話の内容が聞こえてくる。
『これ、殺したの絶対に子どもじゃん』
『まあ、警察もそっちで調べてんじゃね』
『うえー、こわ。しかも、結構近くじゃん、ここ』
『ふぅん』
相方の気の抜けた返事に、もう片方が少しムッとしたように声を上げる。
『ねぇ、アンタ聞いてないでしょ』
『え、何?』
チッ、と不満たらしく舌を打った女子は、その必要以上に短くしたチェックのスカートの裾を揺らし、足を組み替えた。
もう少し歳を重ねれば大層色っぽく見える仕草だったのだろうが、無理やり背伸びしたような大人らしさでは、ただ品がなく映るだけだった。
そのまま女子高生らが会話を打ち切って、しばらく時間が経った。
駅にすると三駅ぶんほどだが、夜の静けさを再び取り戻した玲奈には、時間と時間の狭間に明滅する、一瞬のきらめきのような短さに感じられていた。
目的地である終点が近づき、車掌のくたびれたアナウンスがその駅の名を告げたときだった。
「ああ、もう」
完全な沈黙を保っていた女子高生の片方が、唐突に苛立ちを表した。
それでさすがに驚いた玲奈は、反射的に正面に座っている彼女らへと視線をやったのだが、気付けばそのうちの片方はすでに立ち上がっていて、何と、自分の隣に飛び込むように腰を下ろすところだった。
あまり感情が表に出ない玲奈も、これにはビクリと肩を竦めて、じっと睨みつけるような視線を向けてくる、目元のきらきらした少女を見返した。
「あのさ、ちょっといい?」
「ちょ、ちょっと、美景…!」
敵意とも、何ともつかない思いを瞳に込めていた少女は、玲奈の正面に座っていた少女に慌てて声をかけられても構わずに、訝しがる玲奈に向けて続ける。
「うちのツレが、アンタに気があるみたいでさぁ」
「うわっ、マジやめろ!」
急に見えない糸に引っ張り上げられたかのような勢いで、もう片方の少女が立ち上がった。
明るい茶色で染めた長髪を揺らしながら、焦燥に駆られた瞳を大きく開いた少女だ。
「何だよ、そっちがチラチラ、チラチラ見てるだけだから、気を利かせてやってんでしょ」
「最悪だし、空気読めなさすぎ。もう、黙っててよ!」
ぴしゃりと怒鳴られたことで、美景と呼ばれた女子も一気にその勢いをなくし、しゅんとする。
突然始まった、客を放って進む、わけの分からない喜劇を、玲奈と、不幸にも同席してしまったサラリーマンの男性が困惑した顔で、無言で眺めていた。
「そっちが、『あの子、メチャクチャ可愛くない?』とか言うから…」
そういうのが余計な一言ではないだろうか、と玲奈が思うと同時に、被害者側の女子が深くため息を吐いて、元の座席に戻った。
長く垂れた茶色い前髪をかき上げ、額をさするその仕草に、彼女の苦労と苦悩が透けて見えた気がしていると、チラリとこちらを見やった視線とぶつかった。
一瞬で赤面した彼女を見て、どうやら、美景とかいう女の言ったことはあながち間違いではないらしいと他人事のように考える。
弾かれるようにして視線を外した彼女だったが、すぐにまた、唇をきゅっとつぐんだ顔で目線を合わせてきた。
何かに挑みかかるような、決心するような…、少なくとも、力強い意志の片鱗を覗かせる瞳に、玲奈は心の中だけで苦笑いした。そして、そういう反応を取った自分に、ぞっとするほどの驚きを覚えた。
「あ、あの…、ごめんね。その、美景が、馬鹿で。あぁ、美景って、こいつのことね」
「…馬鹿で悪うござんした」と拗ねる美景を無視して、少女は続ける。
「えっと、でも、こいつの言ってたことって、嘘じゃないって、いうか…」
もう、彼女らの頭の中には、近くの町で人が死んでいることなど忘れ去られているのだろう。
所詮は、他人事。
地球が後どれだけ保つとか、保たないとか、そういうことに興味を持てない人々と同じ類のものだ。
それそのものは、善悪に関わりはない。
どうでもいいことだ。
まだ少女が何かを口にしようとしていると、電車の車輪がけたたましい絶叫を上げて、目的地に辿り着いたことを躍起になって教えてくれた。
ふらりと、玲奈は立ち上がる。
生きているのか、死んでいるのか分からない、そういう、およそ生気のない仕草であった。
それを見て、言葉を途中で飲み込んでいた少女が残念そうに眉をひそめたのだが、直後、玲奈が発した言葉を聞いて、その双眸はこぼれ落ちそうなほど見開かれることとなる。
「話、降りてからでもいいですか」
私自身、どうしてそんな気分になったのかは分からなかった。
もしかすると、この二人の少女がしみ付けている、良くも悪くもことごとくを他人事にしてしまえる平凡さを、利用しようと思ったのかもしれない。
(2)
運命の相手ってのは、物語の中だと突然やって来るものらしかった。
曲がり角でぼんっ、とか。
深い眠りから、キスで目を覚まさせてくれたりだとか。
少女が年中蹲っている暗い牢の扉を、開けてくれたりだとか。
あと、とにかく色々。
そういう古典的かつロマンティックなストーリーに触れる度に、憧れを抱いてしまう反面、私はいつも思うわけ。
――…いや、急すぎだろ、って。
前方不注意だったり、変質者同然だったり、相手が誰でもそれは惚れるわ、みたいな恩人だったり。
そうそう人間の人生、急変することなんてない。
少なくとも、私はずっと信じてきた。というか、夢見がちな現実から、叩き起こされるぐらいの時間は、まだまだ子どもの自分でも積み重ねてきた。
でも、私のその考えを、確たる証拠をもって否定してみせたのが、昨夜の出来事であった。
いや、昨夜の出来事で終わりではない。
私の人生を大きく変える(かもしれない)出会いは、今も確かな温もりを持ったまま、変な動悸と共に早起きした私のベッドに横たわっていた。
何かの病気にかかったみたいに真っ白な手足や頬。
それに反発する、黒々とした、カラスの羽を一枚、一枚丹念に仕上げて出来たかのような黒髪。
目が開いているときでも、アンニュイな雰囲気を放っている彼女――久遠寺玲奈は、まさに私の好みど真ん中だった。
自分と違って、頭の良さそうな口調も、
化粧をせずとも、魅力的な光を常にまとう端正な顔立ちも、
何もかもが、私の夢見ていた、理想の女の子だった。
確かに、一夜にして世界が変わることは現実としてあったのだ。
いつもは余計な真似をしてばかりいる美景だったが、今回ばかりは頭を地面に擦り付けて感謝しても良いほどだった。
まあ、普段かけられている迷惑分の負債を考えれば、そこまでする必要はなさそうではあるが。
玲奈は、いわゆる家出少女だった。
詳しいことは教えてくれず、はぐらかされたが、家庭問題か何かで、携帯も持たずに家を飛び出してきたようだった。
実際、彼女が背負っていたリュックサックの中身は、小難しいタイトルの文庫本が数冊と、薄っぺらい財布と着替え、それから、数日分のカップ麺や缶詰だけだった。
まあ、私たちの年頃なら、そんなに珍しいことではない。
でも、本よりもっと持ってくるべきものがあるのでは、とちょっとだけ呆れた。
年齢を聞くと、歳は私の一つ下で、十六歳という。
そんな少女が、これだけの荷物でどうするつもりだったのかと尋ねたところ、本人曰く、『行けるところまで、行くんです』ということだった。
彼女の大人ぶった喋り方も、ぐっとくるものがあった。
なにはともあれ、私は、無計画かつ無謀な一歩を夜の街へと踏み出していた玲奈に、とりあえず行く宛がないのであれば、私の家に来てはどうかと提案した。
最初は顔をしかめ、こちらの提案に迷いを示した玲奈だったが、父親の単身赴任に母がついていってしまって、しばらくは自分だけでこの一戸建てで暮らしている、と伝えたところ、その天秤が揺らいだらしく結果的にこうして同じベッドで眠ることとなった。
…もちろん、指一本触れていない。
そんな甲斐性はないし、昨日の私は、もしかするとこれから当分の間、この私好みの美少女、久遠寺玲奈と共同生活を送れるのでは…という甘美な時間を妄想するので忙しかったのである。
とはいっても、昨日はそう多くは言葉を交わしていない。
電車から降りて、連絡先だけでも、と勇気を出して聞いてみたら、携帯を持っていない、ということであった。
私たちの年頃では、携帯を持っていないというのは財布を忘れるよりも由々しき事態だ。
それに対して、また後先考えずに噛みついた美景のおかげで、玲奈が家出少女だということが判明した。
そのときには、下心抜きで彼女がどうするつもりなのか心配になって、色々と聞いたところ、行く当てなどない、と平然と告げられた。
まさか、知らない男でも引っ掛けるつもりなのではあるまいか、と地震みたいに急な焦りに突き動かされて、彼女を家に招いたのだった。
自室を離れ、一階にあるキッチンで朝ご飯の支度をする。シリアルと目玉焼きぐらいの簡素なものだが、カップ麺を食べるよりずっと健康的だろう。
十分もしないうちに、二人分の食事が完成する。卵の焼ける匂いと、油の弾ける臭いで部屋がいっぱいになる。
すぐに珈琲を用意できるようにしておき、自室に戻る。すると、さっきまで布団に包まっていた玲奈が、ベッドの縁に腰かけて、薄く開いた目でこちらを見ていた。
低血圧なのだろうか、と思いながら、私は出来るだけ優しい口調で声をかける。
「おはよう、ちゃんと眠れた?」
浅く頷いた玲奈は、ラグでも生じたみたいに一拍遅れてから、「それなりです」と答えた。
「そっか、それは良かった。あ、朝ご飯出来てるけど、すぐに食べられそう?」
「え?」とここにきて、初めて彼女は驚いたように目をきちんと開いた。
その反応は、朝起きて、ほとんど他人と変わらない女の顔を見たときにするものではないだろうか。
ちょっと、勇み足になって勝手をしすぎたかもしれない。
そう思って、続く言葉を一生懸命考えていると、玲奈はふいっと顔を逸らして、何の抑揚もない平坦な口調で言った。
「食べます」
ありがた迷惑なのかどうなのかは分からないものの、すぐに行動を開始したところを見るに、お腹は空いているようだ。
「じゃあ、下りておいで」
つい早口になって、どこかぶっきらぼうになってしまった気がする。
言った本人が心配して、何度も玲奈の顔色を窺ったのだが、彼女は何も気にしていない様子で、少しほっとする。
一階に下りてきた玲奈は、すでに食卓に並べてある食事を目にすると、興味深そうな顔をして立ち止まった。
その様子が、手抜きの朝ご飯に呆れているようにも見えて、私は慌てて言い訳を口にする。
「いやぁ、いつもはもうちょっとマシなんだけど…。ほ、本当だよ?」
「そうなんですか」
「嘘じゃないからね」
「別に、疑ってませんよ」
どうでもよさそうなトーンでそう告げた玲奈は、どちらに座ればいいのか悩んだ挙句、奥の座席に腰を下ろした。
彼女に続いて私も席に着く。それから慣れた動作で手を合わせ、「いただきます」と呟きシリアルをスプーンですくい、口元に運んだ。
しかし、こちらが何度それを繰り返しても、玲奈が食事を始める気配はなく、ただ、じっと、廃人のように、一つ一つ形の違うシリアルの欠片を見つめるばかりだった。
毒なんて入ってないよ、と冗談を口にしようかとも思ったが、真面目に返されそうなのでやめておく。
「どうしたの、食べないの?」
ぴくっ、と眉を動かした玲奈は、本当に言ったのか、幻聴なのか判断のつけようのない声量で、「いただきます」とこぼした。
食事は淀みなく円滑に、なおかつ、他人行儀な静けさの中で行われた。
相手との距離感を推し量る静寂をつつくのは、ステンレスのスプーンが陶器とぶつかり立てる高い音と、玲奈が水を嚥下する際にこぼす、言葉を詰まらせたような、艶めかしい声だけだった。
食事を済ませ、片付けをする段階に入ると、玲奈は自らすすんで手伝いを申し出た。
実際、その手際は他人の家だというのに鮮やかで、自分一人でしているときの、何倍もスピーディーに終えることが出来た。
今度はフライング気味にならないように、彼女に確認してから珈琲にお湯を入れる。
インスタントとはいえ侮れない香気が、目玉焼きの臭いを押しのけ、辺りに広がった。
珈琲を口に運んだ彼女が、心底落ち着いたような吐息を漏らしたのを見計らって、私は踏み込み過ぎないよう注意して声をかける。
「あのさ、学校はどうしてるの?」
本日は土曜日ではあるが、人によっては登校する必要もあるだろう。もちろん、通っていない、あるいは、不登校という可能性が高いと思っている。
玲奈は、しばらく私の意図を探るような目で見つめていて、大した他意がないことを悟ると、窓の外を眺めながら言った。
「もう、ずいぶん行ってない」
予想していたことだ。家出するような状況なのに、学校は真面目に通っているというのは珍しいケースだろう。
それじゃあ、月曜日からはどうしよう、留守番しておいてもらうか…。
そのときの私の頭の中には、玲奈が何か金目のものを盗んで、蜃気楼みたいに消えるなんていう可能性は全く浮かんでいなかったし、事実、玲奈はそういうことをする人間ではなかった。
一先ず、遠い二日後のことなんて置いておいて、現在の話をしようか、と考えていたところ、やおら玲奈が口を開いた。
「名前、なんて呼べばいいですか」
思わず、ハッとした。
彼女の名前はしっかりと確認したのだが、肝心の自分の名前を相手に伝えていなかった。これでは、時折彼女がこちらを不審がるような顔をしても、おかしくはない。
「うわ、ごめん!名前名乗ってなかったね。――私、真平飛鳥。飛鳥って呼んでくれて構わないから。あ、後、敬語もいらないよ」
「あすか…」
覚えたての言葉を、ゆっくりと噛みしめるように玲奈が呟く。
小さな子どもみたいで、可愛い。
言葉を咀嚼中の彼女に、これはチャンスだと、私は間髪入れずに続けた。
「あのさ、貴方のこと、玲奈、って呼んでもいい?」
三人掛けのダイニングテーブルの上で、半分ほど入った珈琲が、白い湯気を昇らせている。
直前まで彼女は、窓の外か、窓際に置いてある玩具みたいな鉢に植えられた紅葉か、その白い湯気を見つめていた。
しかし、私の馴れ馴れしい提案を耳にして、緩慢な動作で面を上げる。
「どうして、ですか」
「え?」
まさか理由を尋ねられるとは思ってもおらず、急ピッチで、それらしく聞こえる理由を考えようと努めたのだが、上手くいかなかった。
「いやぁ、ほらぁ…、仲良くなりたい、みたいな?親密度を上げたいというか…」
「…あぁ」
短く返事をした彼女の顔には、納得の光と、呆れたような、どこか、小馬鹿にするような陰りがあった。
う…、下心全開すぎたか。
「構いませんよ」
哀れみからか、玲奈が平然とそう答えてくれたのは、私にとっては救いだった。
「あ、ありがと…」
早速名前を呼びたい衝動に駆られたが、適当で、明るい話題が思いつかなかった――捜索願いは出されていないだろうか、とかは思いついたが――ので、この溶け切っていない氷のような沈黙を誤魔化すため、テレビの電源を点ける。
面白そうなバラエティはやっていなかったし、そもそも玲奈が好みそうにもなかったので、とりあえずニュース番組を表示する。
ニュースでは、名前も覚えられないくらい頻繁に交代する政治家の不祥事が騒がれているほか、昨夜に引き続き、飲酒運転による事故と、滅多刺しにされた夫婦の話が取り沙汰されていた。
世の中、暗い話題ばかりだ。
こういう社会だから、玲奈のような子どもも現れるのではないか。
そうしてすでに出来上がった社会のせいにすることが、とても楽なことだと私は知っていた。
自分もその一部なのに、輪の外からそれを観察している気でいるのだ。
知的ぶって、ニュースの話でもしようか、でも馬鹿が露呈したらどうしよう、と迷っていたところ、初めて玲奈のほうから会話の口火を切ってきた。
「飛鳥は…」と彼女が素直に私の名前を呼んだのが、正直なところ驚きだったが、それ以上に、心が浮足立つような感覚を覚えたため、相手の言葉を遮るように、「うん」と返事をしてしまう。
「女の人が好きなの?」
きゅうっ、と心臓が縮んだ。
タイプの女性にきゅんとするときとは、全く別の感覚。
それ、言葉にして確認しちゃうんだ、という驚きと、私に必ず答えさせようという、不思議な強制力のある瞳に押されて、言葉を詰まらせる。
目に見えない何かから、懸命に目を逸らすかのような、そういう矛盾した行為を咄嗟に行なった私を、絶えず玲奈が観察しているのが分かった。
一見すると、玲奈の質問は野暮ったいものだが、彼女の思惑の底にあるのは、単純な好奇心などではなく、もっと複雑な意図があるような気がした。
誤魔化しや、建前はいらない。
そう、私は直感した。
「うん」と短く答え、彼女の目を見つめる。「変かな?」
こちらの問いに、酷く疲弊したような感情のこもった瞳が、わずかに細くなる。
目を凝らして、見えない何かを見ようとしているふうにも見えたし、非難めいても見えた。
その真意は分からずじまいだったものの、今までの会話の中で、一番しゃんとしたトーンの言葉が返って来たので、決して悪い感情ではないのではないか。
「それは、何を基準にするかによる」
適当に流されるかと思っていたので、私は裏返りそうな声を抑えて、首を傾げた。
「基準にするもの?」
「そう」
「えーと…。どういうこと?」
何が何やら分からなくて、聞き返したところ、玲奈はあからさまに辟易した様子で無遠慮に私を睨んだ。
「ちょっとは自分で考えました?」
「か、考えました…」
あ、これ今、馬鹿だなって思われてる。
事実、玲奈は飛鳥の返答を聞くや否や、小さくため息を漏らしていた。
「変かどうか、という質問ですが…。もしも、世間一般や、種の保存という大前提の上に成り立つ、人間という生物学的な存在を基準にするなら、間違いなく、変です」
「え、う?あ…そう、だよね」
ほとんど何を言っているか分からなかったが、結論の部分が非常に単純明快だったため、こんな私でも彼女の言いたいことは理解できた。
いっそう深い、失意の谷底に私を突き落としたのは玲奈だったが、落下していく私を掴み上げたのもまた彼女だった。
玲奈は、さして重要なことではない、と言わんばかりに、珈琲を口元に運びながら続けた。
「ですが、自分の外に基準を設けること自体がナンセンスと思います」
ずずっと、音を立てて珈琲をすする玲奈に、「ナンセンス?」と繰り返す。
カップから口元を離した彼女は、物言いたげな顔で私を一瞥すると、「無駄ということです」と低い声で教えてくれた。
「世間が変だというなら、納得できますか?法律では認められてないからというだけで、溜飲が下りますか?…そんなことでは納得できないから、悩むのでしょうに」
「おお…」
何かよく分からないことが続いているが、それでも、彼女が私たちのような存在に寛容であることは伝わってきた。
『変』の一言で、私たちに諦めを強いないことが、どれだけの救いになることだろうか。
「世界地図を作るときに、自分の国を中心に据えるのと同じ道理です。自分のありかたを考えるときに、自分以外を中心にしてはブレもするでしょう」
今まで必要なこと以外、ほとんど何も口にしなかった玲奈が、これだけ突然饒舌になったことにも驚いた。
しかし、それ以上に、自分よりも年下の子どもが、こんなにもハッキリ、自信と論理を持って意見を口にしたことに、度肝を抜かれた。
見た目や口調よりも、ずっと一生懸命に喋っているのか、私が度々見せる、間抜けな反応にも目をくれず、玲奈は機関銃のように言葉を重ね続けた。
「とにかく…、飛鳥は、飛鳥の思うがままであればいいと思います」
そこでようやく自分の口数の多さに気付いたのか、おずおずと玲奈は顔を上げた。
そして、私と視線が交わると、たちまち頬を赤く染めて、照れくさそうにそっぽを向き、ほとんど中身の入っていない珈琲を持ち上げた。
元々好みドストライクの玲奈だったが、今のやり取りで、いっそう私は彼女に引かれた。
少数派の人々に寄り添うような姿勢だったこと、明らかに最後の言葉は私を気遣ったものであったことも、その理由の一つであった。
だが、自分にはない、鈍く輝く知性のきらめきを所持しているように思えたことが、何よりもの理由だった。
玲奈にとっては、羞恥に耐える沈黙の時間だったかもしれない。しかし、私にとっては、自分の中で急激に成長しつつある、彼女への熱い思いを抑える時間であった。
今にも吐き出してしまいそうな、玲奈を欲する言葉を、どうにかこうにか必死に堪える。
会ってまだ、丸一日も経っていない。
こんな状況で彼女を口説き落とそうとしても、軽い女だと思われかねない。
ここは、何とか我慢するのだ…!
そうした沈黙の中、自らの羞恥心に苛まれ、つつくり回されていた玲奈は、とうとう口をつぐむのを諦めて、こう言った。
「な、何か言ってください…。恥ずかしいじゃないですか…」
白い頬をチークで軽く染めたみたいに赤くして、俯きがちなまま見上げてくる彼女の、上目遣いになった瞳の奥の銀河。
それを見たとき、自分の中で何かが制止を振りほどき、飛び出したのが分かった。
玲奈に他意はないと分かっている。
だが、そんなことを、そんな顔で言われては、我慢するなというほうが無茶な話だ。
「ごめん」と口が勝手に動いた。
ぐっと、身を乗り出す。
「謝るぐらいなら――」
何事かを口にしようとしていた玲奈の唇を塞ぐ。
何気に初めてだったが、自分でも、よくもまあスムーズに狙いを定められたものだと感心した。
唇を離し、本当に柔らかいんだな、とか、近くに寄ると、すごい良い匂いがしたな、とか馬鹿みたいに考えながら、ぽかんとした表情の玲奈を真っすぐ見つめる。
「す、好きになっちゃった…かも」
彼女のように、何事も言い切れない自分が少しだけ情けなくなった。
段々と、彼女の瞳が細くなり、眉間に刻まれた物憂げな皺が深まった。
分かり切っていたことだが、さすがの玲奈もおかんむりらしかった。
「これだけは言えますが」と彼女の中でもとびきり冷たい声音でそう前置きをされる。「無理やりは絶対に良くないです」
「…はい」徐々に冷静さを取り戻し、後悔の荒波に押し流されそうになっている私に向けて、玲奈は、「全く…」と大きなため息交じりで続けた。
「したいときは、したいと言ってください」
(3)
まさか、これほどまでに自分が飛鳥に好かれているとは、想像もしなかった玲奈だったが、決して悪い気はしていなかった。
ほとんど無理やりされた口づけに関しても、どうしてか、嫌悪感もなかった。ただ、あまりに不意打ちだったことだけは、無性に腹が立った。
飛鳥との共同生活も、すでに六日が経過していたわけだが、確かに彼女が言う通り、両親が帰って来る気配は微塵もなかった。
夜、時折飛鳥が電話している姿を見ることが出来る以外は、その存在を感じることすら出来ない。
彼女が学校でいないときは、穏やかで、孤独な時間が流れていた。
例えるなら、シロアリに柱を食い尽くされかけている家だ。
そう遠くない未来に、崩れ去ることが分かっていても、どうすることも出来ない孤独がすぐ目の前に蠢いている。
ある種の死を待つハゲタカのような影が、起きていて、一人でいる間はずっと部屋の隅に立っていた。
その影から逃れるという意味だけでも、飛鳥の存在は非常に大きなものとなっていて、彼女がいない時間は、可能な限り眠って過ごそうとも考えていた。
しかし、それを許さない、呪いに身を染めた影が、ベッドに潜り込む度に同じ布団に潜り込んで来るので、結局眠ることは叶わず、本の隙間に逃げ込むしか、玲奈に出来ることはないのだった。
飛鳥が家に帰って来ると、すぐに夕食に取り掛かった。事前に準備しておいて、可能な限り彼女との会話の時間を確保した。
自分の作った料理を、彼女が美味しそうに頬張り、お礼を口にする度に、玲奈は不思議な浮遊感を味わった。
実のところ、その浮遊感が一番強かった日は、初めて彼女の家で迎えた朝のことだった。
飛鳥がはにかんだ表情で、ご飯が出来ていると告げたとき…。
そして、実際それを目の当たりにしたとき…。
誰かが何かを自分のためにしてくれる、という感覚に、あまりに不慣れであったため、玲奈の怜悧な頭脳は一時活動を停止してしまうという事態にまで陥った。
何もかもが、当然のようにふりまかれる愛情や善意に満ちたこの家が、かえって恐ろしくも感じた。
自分の元居た場所と違い過ぎて、途方もない息苦しさを味合わされることも、少なくはなかった。
濁った川で生きてきた魚が、澄んだ水では生きられないのと同じように、一日経つごとに、玲奈はこの環境への順応が不可能だと思い知らされた。
それを感じずにいられるのは、唯一、飛鳥と一緒にいる間だけだった。
彼女が必死で堪えながら示している好意の一つ、一つが、玲奈の中の奥底に沈んでいる澱をさらってくれたので、それを続けてもらうためにも、出来るだけ彼女の求めに応えた。
抑えきれず、彼女が顔を寄せて来るときは、獣を躾けるように一旦待たせて、必ず想いを口にするよう伝えた。
若く、自分の欲求に素直な彼女はすぐに、どうすれば唇を重ねられるのかを学んだ。
しかし、ウィンウィンであると思えたその関係も、じきにそう長くは続けられなくなった。
人間は際限なき欲望の生き物で、飛鳥もその例外ではなかった。
触れられなければ、手を重ねるだけでもと願い。
手を重ねる日々を続ければ、次は唇を重ねたいと思うようになる。
そして、キスが済めば、今度は体に触れたいと思う。
そうして最後は、体を重ねることを望むようになる。
いくらでもお金を持っていて、餓死することのない、安逸的な環境を手にしたとして、それでも金儲けのことしか考えられない人間の、多いこと多いこと。
人間という存在を、漢字一文字で表すなら何か。
答えは簡単だ、『欲』である。
愛、信、誠、義、善…これらはみんな全て、『欲』の破片、あるいは排泄物だ。
飛鳥のように、邪悪さをまるで感じられない相手でもそうなのだから、およそ、真理だと玲奈は思っていた。
それを証明するように、飛鳥は玲奈の体に触れたがった。というよりも、その一歩前段階で、まずは触れられずとも、見てみたいと思うようになったらしい。
玲奈が風呂に入るとき、彼女も一緒に入りたいと言い出した。当然、彼女は断ったが、珍しくしつこく食い下がる飛鳥に、正直なところ辟易としていた。
そして、そうなってくると、同じベッドで眠る、という行為に危険がつきまとうようになった。
眠りに入る前の、飛鳥の雷鳴を抱いたような、ぎらぎらした目を一度目撃してしまってからは、彼女が寝た後からでないと、安心して目をつむれなくなった。
断っておくが、玲奈は飛鳥に触れられることが不快だったわけではない。
むしろ、彼女の温かで、思いやりに富んだ指先に身を委ねたとしたら、一体どんな心地になるのかと興味が尽きなかった。
ただ、彼女の場合、裸体を見られるということに激しい拒否感があったのだ。特に、親しくなればなるほど、その傾向は顕著に表れた。
飛鳥も、それに薄々勘付いてはいたものの、たいしたことだと思っておらず、だからこそ、あの事件が起きたといえよう。
玲奈と飛鳥の奇妙な同棲生活が始まって、一週間が経った金曜日の夜のことだ。
ここ最近の玲奈は、飛鳥が眠るのを確認するまで起きている、という睡眠欲との戦いを連夜続けており、限界が来ていた。
そのため、自分の上に飛鳥が馬乗りになっている、という状況になるまで、玲奈は気付くことが出来なかった。
最早、反省も後悔も見られない、欲に支配されつくし、頬を獣のように上気させた飛鳥と目が合う。
彼女が袖を通していた、子どもっぽい、パステルカラーのパジャマと、相手を制圧したがっている瞳とが、酷くアンバランスに感じる。
一時間前までは、石油ストーブが点火されていた飛鳥の寝室は、今では半端な温もりだけが漂っており、天井から暖色の光を降らすシーリングライトほどの熱しかなかった。
玲奈が起きたことを察した彼女は、ごくりと喉を鳴らして、ほんの一瞬だけ目を逸らしたが、すぐにまた玲奈を真っ直ぐ見下ろした。
視線は、じわじわと、這うように玲奈の瞳から鎖骨、胸まで下ってきて、最後に身じろぎしたせいであらわになっている、白いお腹辺りで止まった。
飛鳥を押しのけようと、その両手を掴んだことで、かえってその情欲の炎をたぎらせてしまったようで、とうとう、飛鳥は玲奈の借り物のパジャマの上着を無理やりめくり上げた。
一度だけ抵抗した玲奈だったが、その手を強く振り払われたことで、もう何をする気も起きなくなった。
慣れていたのだ、彼女は。
抵抗してもどうにもならないことが、世の中には多すぎる。
現実とかいう、つまらないものを大いに含んだものも、それの代表的な仲間の一人だった。
自分のパジャマだというのに、飛鳥は何の躊躇いもなく、その白いボタンを千切り飛ばした。
ほとんどのボタンホールが形骸化してしまったところで、ようやく彼女は次を考えたらしく、思い切りパジャマと、肌着を上にずらし上げた。
声もなく、抵抗もない玲奈の動きを、あろうことか受け入れてもらっていると勘違いした飛鳥は、呼吸を一人だけ荒げて、その病的に白い肌に口付けを落とした。
そして、彼女はようやくそのときになって違和感に気付いた。
唇に触れた際とは、まるで違う、奇妙な感触。
その正体を探るように、薄闇に目を凝らしたとき、飛鳥は絶句してしまった。
自分の目にしたものが、他にもないかと不躾にも探し回るため、玲奈の体を右に、左にと傾けた。
そうして、その数が十を超えた辺りで、数えるのをやめた。
ぴたりと動きを止めて、必死になって頭を回転させている飛鳥を、玲奈は今度こそしっかりと押しのける。
ぐらりと、放心して倒れ込むようにベッドに仰向けになった彼女を見下ろし、乱れた肌着を整え、口を開く。
「これで、満足しましたか?」
冷淡というわけでもないが、もちろん慈悲を感じられる声音でもない。
「…本当にごめん、玲奈」
「いいんです。別に」
強がりでも何でもない。本当に、玲奈にとっては、『もう』どうでもいいことだった。
トン、と弱々しくも、確かな温もりと重みが玲奈の背中を包んだ。
つい数秒前までは、獣同然だった飛鳥が、今や聖女じみた哀れみに満ちた涙を堪えきれず、すすり泣いているのが分かって、玲奈は驚愕した。
「何で、飛鳥が泣くんですか…?」
何を問いかけても、飛鳥はもう、ごめんね、という言葉しか発さない。
飛鳥が見たのは、玲奈の真っ白い肌に残る、円形の禍々しい痣だった。彼女の境遇を知るものであれば、それが虐待の痕だとすぐにピンとくるだろう。
おそらくは、煙草の火を押し付けられたであろう痕は、全てが遠い過去の傷ではなかった。明らかに最近つけられたであろう痕も、そこには混じっていたのである。
白い肌の上から、何かを消そうとしたかのような、歪で、不気味な痣。
上半身だけではなく、全身に及んだその傷痕が、久遠寺玲奈という人間が生まれ出でた世界の全てを象徴していた。
醜くて、どうにもならなくて。
痛くても、届かなくて。
身勝手で、独りよがりで…。
諦観の嵐が自分自身のことごとくを――未来さえも奪い去るのを傍観しながら、時間を浪費して、意味もなく生きてきた。
だからこそ、玲奈には、飛鳥のような人間が解せなかったのである。
無関係な相手のために、想像もできない過去のために、涙を流す彼女が…。
ただ、同時に、酷く愛おしく思えたことも事実であった。
謝罪を繰り返す出来の悪いロボットみたいな飛鳥の顔を、肩越しに振り返り、その頭を撫でる。
その優しい手付きに、驚いたような表情で顔を上げた彼女に、玲奈は静かに告げた。
「馬鹿な人ですね…本当に」
頬を指でなぞり、顎を上向きにして、初めて玲奈のほうから顔を近づけた。
ごめん、と言いかけた飛鳥の口を無理やり塞ぐ。
今度はこちらの番というわけだ。
そうすることで、この理解不能な温みに満ちた刹那が途絶えず、どこまでも激しく光を放ち続けると信じたかった。
ただ、彼女の明晰な頭脳は、そうならないことを知っていた。
――もう少し、早く飛鳥に出会えていたなら…。
私もきっと、彼女の隣を歩けていただろう。
(4)
目が覚めてすぐ、愛しい人の寝顔がある喜びを、どう表現すればいいのか。語彙力に欠ける私には、うまく分からなかった。
カーテンの隙間から、私の幸せな起床にあやかろうとする冬の弱い光が入り込んできている。
そして、その薄明かりが照らし出す、玲奈の新雪のような白い肌を見て、いっそう私は胸の奥が温まるのを感じた。
愛に、費やした月日は関係ないと、今なら断言できた。
青臭いと思われるかもしれない。
現実を知らない子どもだと、笑われるかもしれない。
それでも構わない。
私がどう思うかは、私が決めることだから。
「玲奈」と静かに呼ぶ。
一瞬だけ目元が痙攣するように動いたが、やがてすぐまた穏やかな寝顔に戻った。
今度は、頬を撫でた。小さなうめき声と共に、ようやく彼女は覚醒した。
真っ白な顔に二つ並んだ、冬の夜空みたいな瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
「おはよう」
ぎゅっと抱き締めあったまま眠りに落ちていたため、目の前に玲奈の顔があったのだが、不思議なことに、彼女の表情は奇妙な諦めを宿していた。
一体どうしたのだろうか、ともう一度名前を呼ぼうとしたところで、玲奈は半裸のまま起き上がり、思い出したかのように、「おはようございます」と呟いて着替えを始めた。
透き通るような背中には、青白い血管が浮かんでおり、それを見ただけで激しく動悸がしそうになる。
それを誤魔化すために、何でもないことのように私は明るく言葉を発する。
「玲奈って、雪女みたいだね」
自分で口にしながら、しまった、と思う。
案の定、玲奈は顔を歪めてじっとこちらを見つめており、「それってもしかして、褒めているつもりなんですか?」と尋ねてきた。
「ほ、褒めてるって!肌とか、真っ白で、綺麗でさぁ…。あ、しかも、玲奈と会ったのって、冬の夜じゃん?」
「今の時期、朝昼以外に出会えば冬の夜ですよ」
そういうことじゃないってば、と乾いた笑いをこぼす私に、玲奈は静かに笑ってみせた。その顔に、何か、取り返しのつかないようなものを感じ、どこか不安になる。
こんなに幸せなのに、一体何を不安になるというのか。
馬鹿らしい。冬の朝に幸と不幸を同時に感じて、センチメンタルになるなんて、絶対にごめんだ。
私を信じ、体を委ねた彼女を不安にさせるような顔は、天地神明にかけても、絶対にしない。
そういうことを考えるのは、お腹が空いているせいだ、と判断した私は、素早く着替えを済ますと、玲奈を伴って一階に下りて、朝食の支度を進めた。
今日も、いつもと同じシリアルと目玉焼きだったが、初日以降、玲奈が妙な顔をすることはなくなっていた。
食卓を囲み、昨夜の興奮をどうにか抑え込みながら、どこか顔色の悪い玲奈の様子を窺う。
受け答えの感じから考えるに、どうやら、体調が悪いというわけではなさそうではあるが…。
少しでも彼女の心を軽く出来ないだろうかと、私は努めて明るい声で思いつきを提案する。
「ねえ、玲奈。遊園地、好き?」
「え?」と玲奈は眉をひそめた。「遊園地ですか?」
「そう」
「…行ったことないから、分からないです」
相手の解答に、内心、気の利かない自分を罵りつつ、私は頷く。
親から(あくまで推測だが)虐待を受けていた玲奈が、そんな気の利いた思い出を持っていると考えるのは、少し短絡的すぎた。
「じゃあ、今度行ってみようよ」
「遊園地に?」
「んー…、この際、遊園地でも、水族館でも、どこでもいいよ。とにかく、玲奈とデートしたいなって、思って」
そのときの私は、事態を甘く見ていた。
玲奈にどんなつらい過去があっても、懸命に、人が本来与えられるべき愛情と、友愛、親愛を注いでいけば、きっと未来は明るいはずだ、と。
取り返しのつかないことなんて、この世界にはないんだと…。
ここが玲奈にとって、すでにある種の終着を迎えた、最果ての地だということも知らずに。
コトン、とスプーンを置いて、絵本の中の夢物語でも眺めるように目を細めた玲奈は、ぼそりと呟く。
「素敵ですね。とても…」
乗り気に思える返事に、ぱあっと私が破顔したときだった。
突如、がなり立てるような電話の着信音が幸福な食卓をかき乱した。
誰だよ、こんなタイミングに…。
ディスプレイを確認する。そこには、美景の文字が表示されていた。
野暮ったいタイミングだったから、どうせアンタだと思ったけどぉ。
初めは無視しようと思っていたのだが、あまりにもしつこかったためか、玲奈がやけに穏やかな声で出るように勧めた。
最早、感情の木花が、枯死剤でもくらって萎んだかと思えるような、生気のない声だった。
「もう、なに?」
開口一番、迷惑さ全開で電話に出た私に対し、美景はそんなものを気にする余裕もなさそうな、切羽詰まった大声をぶつけてくる。
「ちょっと、今アンタどこにいんのよ!」
鼓膜が破れるかと思うような美景の声に、反射的に携帯を耳から離す。
「うるさ…!朝から何なの、美景。家、家に決まってるでしょ」
「分かった、すぐ行くから!待ってなよ!」
「はぁ…?美景、さっきから何を言って…」
美景は、その問いに、言葉にし難い唸り声を上げたかと思うと、さらに声を大にして告げた。
「あぁもう!テレビ!テレビ見ろって!」
あまりに滅茶苦茶で、一方的な罵られようだったので、いよいよ私は頭にきて、携帯をソファのほうに放り投げた。
何か、ギャーギャー言っている美景の声が聞こえるが、無視して一応言われたとおりテレビを点ける。
別に、面白くもなんともない番組ばかりだった。昨今のテレビなんてそんなものか、と思いながらひたすらチャンネルを切り替える。
「何なの、美景のやつ…。つまんない番組ばかりじゃんか」
世界が切り替わるように、番組が切り替わる。
ボタンを連打しているうちに、ショッピングや、バラエティ、料理番組へと進み、そして、ニュース番組に辿り着いた。
「お」と思わず私は声を上げた。
ニュースは、ここ一週間ずっと騒ぎっぱなしだった、夫婦殺人事件の進展を伝えていた。
先週の金曜日、夫婦が滅多刺しにされた姿で発見され、その一人娘が見つかっていない、という話だったのだが、どうやら警察は、とうとうその未成年の子どもの名前や写真を公開し、本格的に捜索するようだった。
被害者らの娘は、私より一つ年下で、名前を、『雪乃玲那』といった。
「へぇ…」
まさか、自分よりも年下の女の子が、こんなおぞましい事件の重要参考人として警察に追われているとは信じられず、ついつい感心したような呟きがもれてしまう。
しかし、そのことごとくを他人事として処理してしまえる私たちの弱さは、思わぬタイミングで、残酷な現実の前に曝け出されることとなった。
雪乃玲那の顔写真が、テレビの中央にパッと大きく映し出されたとき、一瞬私は眉をひそめた。
「んん…?」
あれ、この顔…。
長い黒髪の隙間から覗く、この世の一切を諦めたような瞳。
カメラの故障かと思えるほど、真っ白い頬。
あぁ、と私はすぐにこの違和感の正体に気づき、間抜け極まりない声で平然と言ってのける。
「この人、玲奈にそっくりだね」
彼女の名前を出したというのに、玲奈は、まるで何も――息遣い一つ漏らさなかった。
無視されたのか、聞こえなかったのか、と私は玲奈のほうを向いた。
彼女は、確かに私の話を聞いていた。
なぜなら、真っ直ぐに、私の瞳を見返していたから。
だがそこには、昨夜、不器用ながらも愛し合った女の面影はなかった。
あまりにも、冷徹。
拒絶に次ぐ、拒絶。
唯一、私の知る久遠寺玲奈と違わなかった部分はといえば、やはり、冷たさの中、諦めに満ちているという点だけだった。
刹那、私はようやく全てを理解した。
握っていたリモコンが、どれほど悲惨な悲鳴を上げてフローリングの床に激突しようと、私は彼女から目を離せなくなっていた。
その白い頬が、緩やかに歪んだ。
「本当に、馬鹿ですね。飛鳥は」
嘆息と同時に囁きをこぼした久遠寺玲奈――雪乃玲那は、幽鬼の如くゆらりと音もなく立ち上がると、テレビのそばに寄って、じっと流れるテロップを読んでいるようだった。
『雪乃玲那さん(16歳)とは、一週間前から連絡が取れなくなっており、携帯も置きっぱなしにされていたことからも、事件と何らかの関係があるのではとされています』
『さらに、雪乃玲那さんは、両親から虐待を受けていたとの報告があり、度重なる虐待の末に、このような犯行に及んだ可能性も示唆されており――』
ぷつん、とテレビの画面が消え、真っ黒い鏡が出来上がる。
いつの間にかリモコンを拾い上げていた彼女と、その黒い鏡越しに目が合った。
ぞっとするほど、冷たく、寂しい目。
彼女を分子レベルで構成する、孤独の微粒子が瞳の奥でたゆたっている。
「私のことなんて、何も知らない連中が…、勝手に過去をあれこれ調べて、動機を妄想して、訳知り顔で私を語る」
くるりと、玲那がこちらを向いた。
「全くもって、虫酸が走ります」
あちこちが歪んでしまった玲那の瞳に射抜かれて、ほぼ無意識のうちに私は椅子から転がり落ちるようにして、彼女から離れた。
それを哀れむような目で追っていた玲那は、ふと、未だに何かをわめきたてている美景と繋がった携帯のほうに移動し、手に取った。
「もしもし…。はい、そうです。ええ、雪乃玲那です。よくお分かりで。…いいえ、馬鹿になんてしていません。…ふぅ、分かりましたから、そうきゃんきゃんと吠えないでください。イライラして、貴方の大事な人を殺してしまうかもしれませんよ?…ふふ、冗談です。ご安心を、絶対に飛鳥を傷つけたりしませんから。本当です、なので、もう少しだけ時間をください。…ええ、お好きにどうぞ。ただ、邪魔をしたり、警察を呼んだりしたら…、分かりますよね?…はい、はい。さようなら、永遠に」
電話が切れる、ブーブー、という音によって、完全にこの世界が、私と彼女だけのものに隔絶されたことを知った。
電話していたときも、片時も離れずに向けられていた視線が、きゅっと、鋭くなる。
「雪女は――」と彼女は朗読するように、私の知らない声で綴った。
「自分と会ったことを誰にも言わない、という約束を破った男を、殺そうとします。しかし、すでに相手を愛してしまっていた雪女は、自らが代わりに消えることを選択し、男の前からいなくなります」
「私は、あの童話を聞かされたとき、馬鹿だと思いました」
「さっさと殺しておけばよかったんです。そうすれば、自分が消えなければならないようなことにはならなかった。そう、アイツらだってそうです。私をさっさと殺しておけば、自分たちが殺されるようなことにはならなかったのに、ふふ」
「でも…、今なら雪女の気持ちが、少しだけ分かります」
玲那が屈んで私を覗き込んだことで、ぎっ、とフローリングが鳴った。
「飛鳥を殺したくない。でも、私だって、アイツらのせいで滅茶苦茶にされた人生を、やり直すって決めたから…」
こつん、と玲那が私と額をすり合わせた。
「――飛鳥は、ちゃんと約束守れますよね?」
いかがでしたでしょうか。
私はハッピーエンドも好きですが、やりきれない感じの終わり方も嫌いじゃないです。
みなさんは、どうでしょうか?
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