ベレッタ奮闘記 3
翌日、目が覚めてみると見知った天井ではない。木造の天井独特の暗さはなく、真っ白な壁紙がのっぺりと顔を見せた。もうここは故郷ではない。決別しなくてはならないのだと実感させられる。
リビングに出ると、トーストを焼いてミルクを用意するユノさんがいた。
早い。予告されてた起床時間より30分も早く支度したのに。
「おはよう、ベレッタ。今日から本格的に仕事の補助をしてもらうことになるけど、そんなに気負いすぎないでね。それから、私生活ではあくまで対等だから、お互い支え合っていこうね」
「は、はい。がんばりますっ!」
「ふふふ。がんばりすぎちゃダメだよ?」
トーストの乗った皿を差し出し、バターとイチゴジャムの選択肢を与えてくれた。
バターはパック。ジャムは瓶。
これってつまり、自分で量を選んでいいってことですか?
こ、これが社会人の愉悦。
これが自由!
修道院ではまずありえない。不公平にならないよう、シスターが均等に分配するからだ。
それがどうだろう。トーストにバターをたっぷり塗れるなんて信じられない。なんならバターとジャムを一緒にしちゃっていいなんて。
なんという背徳感っ!
わたしは思ってたよりも、すごい世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。
本日は初夏ということもあり、長い髪を後ろにまとめてポニーテールに。
白のワンピースの上に薄手のリーフグリーンのカーディガンを重ね着。
なななんと、スニーカーは新品。奮発して5000ピノ(約6000円)を使いました!
無論、髪留めは寄付。ワンピースも寄付。カーディガンも寄付していただいたものを手直しして使っています。
ハイジ監修なので、誰に見られても恥ずかしくない装いのはず。
ユノさんの後ろを歩いて恥ずかしくない女にならなくてはっ!
ユノさんの研究室にはマルタさんが控えていた。ほかには誰もいない。静かな空気を温めるかのように、マルタさんは優しく微笑んで挨拶を送ってくれる。
「おはようございます。ユノ先輩、ベレッタ。それでは予定通り、ここからは私が引き継ぎますね」
「ええ、お願い。私はこれから講義に行ってくるね。大丈夫だと思うけど、ベレッタはマルタの言うことをきちんと聞いて、しっかり勉強してね」
「もちろんです! がんばります!」
彼女を見送ったあと、マルタさんからの指摘は衣服について。
「とっても素敵なお洋服ですね。やっぱり気合いを入れて新調なされたのですか? それとも元々お持ちのもので?」
「先日ちょうど、寄付されたお洋服がありまして。今着てるのはそれらを手直ししたものなんです。スニーカーだけは新品ですっ!」
新品に浮かれて語気が強くなってしまった。
「まぁっ! これが中古なんですか? とても信じられません。本当によく似合ってます。色合いなんて夏の季節にぴったり。背中の生地の違う部分が手直しされたところですか?」
「はい。背中の部分の色褪せがすごくて、生地も縦に裂けてたので取り除き、別の生地を繋いでパッチワークにしました。変化があって気に入ってるんです」
首元から背骨に沿うようにまっすぐ伸びる生地は、大部分を占めるカーディガンとは別のものを繋ぎ合わせたもの。違う生地を組み合わせて変化をつけることで、見え方と印象がガラリと変わった。
ついでにいうとワンピースもそう。裂けていたところを綺麗に裁断し、ボックススカートのように別の生地を張り合わせたオリジナル。白のワンピースにちらりと見えるスカイブルーの裏地が清涼感を感じさせてくれる。
「レベル高っ! 本当に素敵なお洋服。今度時間ができたら、一緒に服を選びに行きませんか?」
「それはっ! ぜひともお願いします。でも、服のセンスはハイジに教えてもらったもので、もしかしたら一般的な見識と合わないかもしれませんよ?」
「それならどんどん学んでいけばいいんです。さしあたって、まずはパソコンの操作から。と言っても、システム自体は完成してますので、初めてのベレッタでも簡単に操作できます」
本当だろうか。
一応、図書館のパソコンを借りてペーシェに最低限の知識と技術を教えてもらった。
ワードとエクセル。それからパワーポイント。このへんができれば大丈夫だろう。彼女はそう言っていた。
デスクトップを見る限り、ファイルの種類のほとんどは上記の3つ。他に特殊なアイコンは見当たらない。さすがペーシェ。頼りになる。
マルタさんは口頭と共にマウスを操作。専用のファイルをドラッグ&ドロップ。情報を統合するためのファイルにぽとん。途中経過を報せる数字が増えていく。
処理完了値100%の達成と同時に画面いっぱいに、ぎっしりと数字の詰まったマス目とグラフが表示される。
左隣に設置されている2つ目の画面には、カラフルなネオンで作ったような地球儀が現れた。
「今のはボルティーニの観測所から送られてきたデータです。データはアルファベット順に左から並んでいます。グラフは大陸別に整理されていて、こちらのチェックボックスを押すと表示非表示を選択できます。左画面の3D地球儀にカーソルを合わせてクリックするだけで、当該地域のデータとグラフが表示されるようになっています」
「地球儀に記されてる地域を選べば、データを視覚的に、かつ直感的に指定できるというわけですね」
光学系魔法で表示された立体地球儀に触れる。ボルティーニの場所をつんとつつくと、右側のパソコンの画面に最新の龍脈や気象状況の情報がピックアップされた。
なんという便利機能。最先端技術はここまできてるのか。
「そういうことです。ほかに気象データも反映されてます。自然災害も重要なデータなので、それらの情報もインプットされます。これらは気象庁からデータが送られてきますので、また別のファイルから落とし込みます。ひとまず我々の仕事はそれだけです」
「受信したデータを専用ファイルに入れる。情報の統合はコンピュータが自動演算。ということは、本当にわたしたちがする仕事って、ドラッグ&ドロップだけなんですね」
「本当にドラッグ&ドロップだけです。いい時代になったものです。でも、操作が簡単でも情報を収集して仮説を立てて検証・実験することは非常に重要なことです。それが人命に関わることとなれば、なおさら」
声のトーンが落ちた。表情は暗く、なにかを憐れむように寂しそうにしている。
彼女の実家はペットショップ。常日頃、動物たちと触れ合い、彼女も動物が大好き。だからこそ、魔獣に成ってしまい、害獣として殺される彼らを1匹でも減らしたいと心から願っていた。
「彼らはなにも悪くないのに、龍脈の影響を受けて魔獣になってしまう。現段階では防ぐ術も、救う術もありません。あるとすれば、彼らに痛みを与えることなく殺すことだけ。なんとかして、この現状を変えたいんです。今回の事件の原因を見つけることができれば、あるいは」
「その気持ち、痛いほどわかります。みんなで、世界中の人々と共に、原因究明をしていきましょう。と言っても、わたしにできることは少ないかもしれませんが」
「そんなことはありません。1人でも多くの同志がいてくれるだけで心強いです」
手を強く握り、誓いの握手を交わす。
魔獣の発生件数減少の原因を掴むことができれば、世界中の多くの人々を救うことができる。それはつまり、魔法で世界中の人々を幸せにするということ。
アルマちゃんの隣に、手を繋いで立てるということ。
堂々と。胸を張って。
絶対に見つける。
それがわたしでなくてもいい。
少しでも手助けができるなら。
求める結果を実現できるなら。
わたしは喜んで礎となろう。
龍脈史の資料。
龍脈の鎮静化に関する研究と実践結果。
ユノさんが受け持つ講義のレジュメ一覧。
グレンツェンで行われる講義の方向性とガイダンスの内容。
その他諸々、教授をサポートするために必要な前情報をインプットすること。それが今、わたしに必要な作業。ユノさんが何を思って何をしてるのかを理解しないと、助手として手厚いサポートなどできるはずもない。
しかしやはりというか、資料が膨大すぎて時間がかかる。まずは講義に関する資料から手を付けよう。
龍脈関係の資料や論文は量もさることながら、専門用語が多すぎて理解不能。これはユノさんに教えを乞うしかない。
時計の針が真上に揃い、お腹の虫が鳴き出した頃、講義を終えて戻ってきたユノさんに昼食を誘われてテラスへ繰り出す。
ガラス張りの食堂。外はガーデンテラスになっていて、大図書館の屋外テラスを思い出した。ガーデンテラスには色とりどりのあじさいが咲き誇る。ぽんぽんぽん、と丸い姿がかわいらしい。香りを強く放ち、梅雨の晴れた日にもってこいの景観です。
「なんだか久しぶりにテラスに出てきた気がする~」
デスクワークの多いユノさん。どうしても缶詰作業が多いのだろうか。背伸びをして深呼吸。太陽の温かさに身を委ねる。
彼女の発言に対し、ピリッと火花が散ったマルタさん。彼女からすると、煽っているようにしか聞こえなかった。
「いつも研究室でサプリメントとプロテインでしたからね。たまにはお日様の下で食事をしましょう。今日のランチメニューはオムレツ。キノコのソテーと半熟卵のガレット。カッペリーニのカーチョエペペ。うなぎのパイ包み。う~ん。どれもおいしそうで迷ってしまいます」
「カーチョエペペなのに細いカッペリーニを使うんですね。珍しいです」
「チーズと胡椒のスパゲッティだよね。ここのシェフは挑戦的な料理を出す時があるから面白いよ」
「面白いと思うならここで昼食をしてあげたっていいじゃないですか」
「あ、私はオムレツにするね。ベレッタとマルタはどうするの?」
ナチュラルに無視した!
「私はカーチョエペペに挑戦します。ベレッタはガレットとパイ包みのどちらにしますか?」
スルーした!
しかもいつの間にか2択になってる!
「えっと…………それじゃあガレットにします」
「それじゃあ決まり。3人でシェアして食べましょう♪」
「え、やだ」
「え?」
「ん?」
この2人、仲良しなのかそうじゃないのか、よくわからないなぁ。




