ベレッタ奮闘記 2
部屋全体の雰囲気は理路整然。棚に仕舞われた資料はきちんと整理されている。
机の上も、何がどこにあるのかが分かりやすく並べられていた。
グレンツェンで開催される義務講義から、ベルンで受け持っている講義の資料。果ては彼女のライフワークである龍脈と魔獣に関する歴史まで。
壁一面に貼られた世界地図には、いつ、どこで、どんな魔獣が発生し、その前後の龍脈の波動はどのような形があったのかをひと目で理解できるようにまとめてある。
情熱と、なにより執念に似た激情がひしめいてるように思えた。
静かな研究室にうねりを上げるように、しかし静かにこちらをにらみつけているかのよう。
静か、と言えばユノさんの姿が見えない。
待ち合わせ場所はユノさんの研究室。ここで間違いないはず。
1番奥の机。ユノさん専用のデスクの上には、今年に入ってからの世界中で発生した魔獣の報告書が並べられている。
それらの資料には付随して、各地の龍脈の流れと状況を観測したデータが添えられていた。集約されたデータは折れ線グラフに統一されている。
特異点は今年4月。ある日を境に龍脈は安定を見せ、同時に魔獣の発生件数が激減した。
吉兆か。神の恩恵か。
はたまた嵐の前の静けさか。
世界中の学者が原因を血眼になって探してる。
ユノ・ガレオロスト。彼女もその1人。
その人の姿が、どこにもない。
約束を忘れてフィールドワークに出かけるような人ではないはず。
であれば、まさか、誘拐!?
優秀な研究者は世界中の研究機関で重用される。
ユノさんのように優秀な宮廷魔導士となればなおのこと。
どうしよう。もしもそんな事態になってたら、わたしはいったいどうすれば!?
1人で勝手な妄想を膨らませ、無駄にわたわたするわたしを見かねたマルタさんが手招きをする。
彼女は仮眠用の2段ベッドを指さした。
「ユノ先輩ならここですよ。この人、全然寝息がたたないんで、よく死んでると勘違いされるんです」
「死んでると勘違いされるんですか!?」
「ええ、あまりに安らかに寝るので。普段から仕事に忙殺されてるから、という理由もありますけど。あ、でも一番の理由はまともに休もうとしないことですね。自業自得です」
どうやらシェリーさんの言葉は本当だったらしい。
なんてことだ。思ってたより事態は深刻なようだ。
ユノさんに声をかけるも返事はない。すっかり熟睡されてる。自然に起きるのを待つとしよう。
「いつ起きるか分からないので叩き起こしましょう」
容赦ないマルタさん。
自分の考えと真逆を行く彼女のはっきりとした物言いに驚くベレッタ・シルヴィア。
「いいんですか!? ぐっすり眠られてるみたいですが」
「約束の時間がきてますので。怒られるいわれはありません」
そういわれると強く出れない。
時間と約束を守るのは社会人の基本。叩き起こされても文句はいえない。
ほっぺをぺちぺち。
ぺちぺちぺち。
ぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちもちもちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺちぷにぷにぷにぺちぺちぺちぺちぺちぺちぺち。
ぱっちーん!
「ひゃっ! あ、マルタ。それにベレッタ。久しぶり。元気してた?」
左頬が真っ赤に腫れている。
上司にこんなことをしていいのだろうか。いやよくない。
「えっと、はい、おかげさまで。今日からよろしくお願いします」
「え、なにが?」
え、なにが!?
マルタさんの声色が怖くなる。
「忘れちゃったんですか? ベレッタを助手に雇うっておっしゃってたじゃないですか。今日この場所、この時間に待ち合わせです」
「あ、ああっ! そうだったそうだった。ちょっと寝ぼけてたよ。ごめんね?」
ちょっと寝ぼけてた!?
いや、もう終わったことは考えまい。
「い、いいえ、大丈夫です。それで、これからどうすればよろしいでしょうか?」
「えっとー…………まずは毎日送信されてくる各国の龍脈観測地からの情報の整理。及び魔獣発生報告の情報を統合。各国の共同研究機関と情報共有。その後、ベルンにある龍穴地点から龍脈の感情レベル・魔力濃度・龍脈の移動速度を観測。同時に、人・動物が起こした事件・事故の発生件数も調査・統合。これも共同研究機関に情報共有。異変や手がかりが見つかれば意見交換や仮説を出し合って観測、必要であれば実証実験。最後に過去の龍脈と魔獣発生に関する情報を照らし合わせて、類似条件の照合検査。照合したデータをカテゴリごとに振り分けて情報整理。でも最近は龍脈が安定してるから、情報の整理ばっかりで意見交換は少ないかな。だからそんなに忙しくないよ~」
「忙しくない要素が見当たらないのですが。わたしの経験値不足でしょうか?」
マルタさんの首が横に振られる。ですよね。
「ううん。すっごく忙しいです。昼過ぎまでは超激務です。なにせ世界中の龍脈観測点から情報が集約されるのです。データ量は膨大ですよ。一応、地域ごとにデータが集約されて送られてくるのですが、最終統合地点はここ、レナトゥスです。ユノさんは今回の龍脈調査の発起人にして最高責任者です。なにせ龍脈研究に関しては、ユノ先輩とエイリオス氏が世界屈指の識者ですから」
「最高責任者…………」
ゆるっとふわっとしてる印象からは想像もつかないユノさんの肩書。
わたしはそんな超重要ポジションに座する女性を支えていくのか。緊張する。できるかどうか分からなくて怖くて逃げだしたい。
でも、だからこそ、やり遂げなくてはならない。逃げることなんてできない。
アルマちゃんを思い出せ。きっと彼女ならどんな状況だって楽しんでしまうに違いない。
千載一遇のチャンス。
もう2度と訪れない幸運の流れ星。
わたしの夢を叶える第一歩。
ふんすふんすっ!
やる気が鼻息になって吹き出した。
肩に気合いに力を入れるも、ユノさんはくすりと小さく笑った。
「そんなに気負わなくても大丈夫。今日の仕事は終わってるから、あとは帰ってご飯食べて寝るだけ。住む場所にも慣れないと」
マルタさんもわたしを安心させようと、ひとつ笑って肩を叩いた。
「ですね。明日はまた私がOJTをしますので、少しずつ仕事を覚えていきましょう」
「よろしくお願いしますっ!」
「元気があるのはいいことです。それでは、頑張りましょう」
♪ ♪ ♪
バス停でマルタさんと別れ、レナトゥスの独身寮へ。
10階建ての寮が男女ともに2棟ずつ。隣には寄宿生用の学生寮。3階建ての立体駐車場。共用の食堂、売店、寄宿生を対象にした講義の資料関係を集めた図書館。魔道具の販売所まである。
なんかもう、ちょっとした街みたい。
寮のエントランスはヘイターハーゼに似て豪華で瀟洒。きらきらしていながらもどこもいやらしくない。伝統と最先端の技術と芸術が織り込まれていた。
二重扉はまさかの網膜認証と魔力認証。
24時間体制で警備員が常駐。
移動は階段じゃなくてエレベーター。
玄関がある。靴箱がある。
トイレとお風呂が別々。
ベランダから街が一望できる。
まるで別世界。
ここがわたしの新天地。
分不相応すぎてお腹が痛くなってきた!
「ご飯できたよ、って、どうしたの? 気分が悪い?」
「初めてのことばかりで気疲れが。すみません」
「ううん。こちらこそ気づかなくてごめんね。晩御飯、食べれそう?」
大丈夫です。気持ちのもちようでなんとかなるタイプの腹痛なので。
今日は助手になってくれるわたしのために御馳走を用意してくれたとのこと。ユノさんの真心を無碍になんてできるはずがない。
本来であれば、助手であるわたしがお世話をしなければならない。でも、今日くらいは甘えてもいいですよね。明日からは頑張りますので、ご期待ください!
「今日は頑張って作ってみたよ。ミートスパゲティ、コーンポタージュ、キノコとチーズのタルト。それからデザートにはキャラメルのメルヴェイユ。お菓子は買ってきたものだけどね」
「す、すごい。どれもとってもおいしそうです。本当にいただいていいんですか?」
「もちろん。たーんと食べてくださいね♪」
なんて優しい人だろう。わたしを歓迎するために、こんなにたくさんの料理を作ってくれるなんて。
感激で涙がこぼれそうです。
どの料理もすごくおいしい。
濃厚なソースが和えられたスパゲティ。
ほっこりあたたかなポタージュ。
キノコとチーズは本当に相性のいい組み合わせです。
生まれて初めて食べたメルヴェイユ。とっても甘くて口の中でふわりと溶ける。こんな素敵な体験ができるだなんて!
せめて洗い物だけでもと申し出たのに、疲れてるだろうから休んでいてくれて構わないという。なんてできた人だろう。
それから一服ののち、風呂場や洗濯機の使い方などを教えてもらい、最後にわたしの部屋に案内された。
個室。
自分の部屋。
自分だけの部屋。
自由に使っていい空間。
独り占めできるベッドがある。
夢にまで見た1人ベッド。
修道院では基本的に物は共用。クレヨンも、お皿や食器も、ベッドだってそう。みんなで雑魚寝。それはそれで好きだった。頼られるお姉ちゃんとして妹たちに抱きしめられて夢の中。
いつまでもこんな日が続けばいいと思い、いつかは1人立ちしなきゃいけないと思う自分がいた。
誰にも言えないけれど、昨日は子供たちと過ごせた最後の夜。ベッドの中でちょっと泣いちゃいました。
「今日はもうお風呂に入って早く寝ちゃおう。明日も朝は早いから、7時までには起きるようにしてね」
「7時ですね。分かりました」
シャワーを浴びて、作ってもらったホットミルクをひと含み。
ぼーっと心を無にしていると、脳内に違和感が走った。
このままでいいのだろうか。
作ってもらったホットミルク。
シャワーを浴びる前に何か飲み物がいるかどうかと問われ、断るのも失礼かと思ってホットミルクをオーダーした。
晩御飯も作ってもらって、なにもかも受け身でいる。
『ユノ先輩の助手になるなら、彼女の仕事を奪うくらい前に出なくてはいけません』
マルタさんの言葉が脳裏によぎる。後夜祭の時、真剣な眼差しで説いた彼女の説教が蘇った。
いや、とはいえ、まだ初日。仕事はこれから覚えていけばいい。
だって初日だよ?
現実的に考えて何かできるわけがない。
できるとしても掃除洗濯家事料理。そうとしても初日。ユノさんのハウスルールだってあるのだから、善意で行動して、それが迷惑であったら本末転倒。ここはじっと我慢して様子を見るのです。
焦って勇み足になってはいけません。
ひとつずつひとつずつ、丁寧に丁寧に、よく観察して、仕事とプライベートにおいてユノさんに満足していただけるよう、誠心誠意努力するのです。
心の中でガッツポーズ。
両の拳を作ってガッツのポーズ。
よし、そうと決まれば今日は寝よう。しっかり寝て体を休めないといけませんからね。
扉を開くと誰もいない部屋が1つ。自分だけで使うベッドが1つ。備え付けの洋服タンス。かわいいカーテンを開けば街の灯りがぽつぽつり。
夢にまで見た自分だけの部屋。
夢にも思わなかった独りの寝室。
布団にくるまっても、肩にあたるぬくもりは遠い彼方。お布団の中があったかくなるのに時間がかかる。
故郷ではベッドの中に2人も3人も潜り込んできた。ぬっくぬくで、あったかくて、心も体もぽかぽかする。
ここにはそれがない。
寂しい。泣きそう。帰りたい。子供たちの声が聞こえない。
嗚呼、わたし、いきなり超重症のホームシック。
不安でお腹が痛くなってきた。




