ヴィルヘルミナ・イン・ワンダーランド 9
翼竜の言葉によると、彼らは湖の中に潜ってどこかへ行ってしまったらしい。
潜ってって……溺死したんじゃないだろうな。覗いてみようと思うも、先ほどの庭園での一件のせいで体がこわばった。
ぬるりと腕が伸びて頬に手が触れる感覚。首の後ろに冷たい水が滴り落ちて、弧を描くような笑顔が――――――思い出しただけでもゾッとする!
これがトラウマというやつか。あんなことがそうそうあってたまるか。ワンダーランドだからこその出来事だ。
頭では分かっていても心が凍てつく。
今後一切、ホラー映画を見ることはないだろう。
それとは別にトラウマになりそうな出来事が勃発する。悪戯っぽい少女の怒号とともに背中を押された。
押されたといっても、そっと手を添えて背中を押すようなものではない。思いっきり殴って体をぶっ飛ばすような勢い。容赦のない暴力そのものである。
あたしは大きな波しぶきを上げて湖へダイブ。でも大丈夫。この湖は底が浅いことを知っていた。
四つん這いになって体を起こしたとしても、体の半分は水面から出る。それほどに浅く命の危険はない。
にしても、だ。あとでアリスを殴り倒すぐらいしてもいいよね?
反射で起き上がると潮の香りが鼻をくすぐる。
強い日差し。
揺れる木板の床。
喧騒奏でる船の上。
激しい金属音と耳を割くような発砲音。
今まで味わったことのない感覚。殺意と熱気に満ち、油断すれば命が危ないような、そんな感覚に襲われた。実際、周囲の光景はあたしが予感した通りの世界が広がる。
屈強な男たちは片手にサーベルを持ち、鍔ぜり合って戦っていた。
血なまぐさく泥臭い。まるで映画のワンシーンを見せられているよう。
これは……もしかしたら夢なのか。世界を渡る途中に見ている夢なのではないだろうか。
さっきまで生きていたであろう人間が目の前に斃れている。
この実在感。
肌にひりつく違和感。
硬直する体は逃げろと叫ぶも動かない。
まじか……アリスのやつ、とんでもないところに連れてきてくれたもんだ。一発では足りない。死ぬほどしこたま殴り倒してやる。
そのためにはまず生き延びなくてはならない。隠れるか。戦うか。いやどっちが味方なんだ。そもそも味方なんているのか。
伝統的な様式の帆船。木造で造られたそれは現代の技術に遠く及ばぬ骨董品。
隅で丸くなって右往左往している子ウサギが壁に張り付くも、つんざく異臭に襲われて顔を背けて縮こまる。
本当にどうしよう。あたし、ここで死ぬのかな。いやまだこんなところで死んでられない。
あたしには叶えなくてはならない夢があるのだ。こんなところで諦めてなるものかっ!
「当然なのだ。お前が死んだら姉のシルヴァが悲しむのだ。そうなると、一生お菓子を作れなくなるかもしれないのだ。それは我としても困るのだ。お前の姉の作るケーキは絶品だからな♪」
嘘でもいいから目の前のあたしを心配してくれますかね?
心配してくれたのは海賊帽を被ったアリス。アリスが2人いるんですけど!?
剣を振り払って銃を放つ。ここは大海賊時代。女海賊キャプテン・アリスの船の上。
「よぉ~う、いいところに来たな。いやまぁお前がいなくても余裕で勝てるんだけどな。面倒くさい連中がたかってるんだ。とりあえず架けられた橋を外して船を離してもらえるか。そうすりゃ、連中大慌てで海へ飛び込むからよ」
「アイアイサーっ! お安い御用なのだ。キャプテンの指示は絶対なのだっ!」
「おっ、よくわかってんじゃねぇか。聞いたかおめぇらッ!」
「えっ!? なんか言いましたか、お頭」
アリスが2人…………1人は見慣れた格好のアリス。金髪ロングに青いワンピースとエプロン姿がトレードマークのくそったれ不思議のアリス。
片方はへそ出しルックに健康的な肢体が眩しいキャプテン・アリス。
歴戦の勇士を思わせる生傷。ロングコートに海賊帽がよく似合う。
彼女の笑顔は粗暴な性格の中にも信頼できる姉御肌気質のものを感じた。
敵には厳しく、味方には厳しくも仲間思いな性格が垣間見える。声は少し酒焼けっぽい。
敬礼を向けて魔法を使うと、架かっていた橋ははじけ飛び、船は自らの意思と違う方向に傾いて風を受けた。
少しずつ離れていく母船。それを追って海へ飛び込む人の粒。しだいしだいに影は小さくなって消えていった。
とりあえずの危機は脱したようだ。肩の力が抜け、緊張の糸がだるんだるんにたるみ始める。
なんとか繋ぎとめているのはドードーへの情熱。緊張の糸が切れてしまうと意識が飛びそうになるんだもん。
安堵のため息を流すと、キャプテン・アリスは心配そうに駆け寄り、気付け薬を処方してくれた。
なんて優しい人なんだ。どこかのお転婆ガールとは大違い。
これがアリスのパラレルワールドの姿。どう見比べても別人。同じ顔、同じ背丈、同じ乳。だというのに、この差はいったいなんなのか。
結局のところ、人はその人がどういう人かで決まる。まったく真理に違いない。
話しを聞いていると、どうやらキャプテン・アリスも不思議のアリスに振り回された被害者らしい。
彼女の場合は海底遺跡を探求するために船ごと海へダイブ。巨大な海獣や異形の深海魚と戦い、失われた古代技術の戦士と戦い、数々のトラップを潜り抜け、ロストテクノロジーを手に入れた。
結果オーライだったけど、もうあぁいうのは勘弁な。
張り付いた笑顔で背中をバンバン叩くキャプテン・アリス。
ユニークスキルを使って防ぐ不思議のアリス。
仲がいいのか悪いのか。
あっ、そんなことより。ドードー鳥はいったいどこへ!?
「ドードー鳥? あの丸々と太った茶色い鳥のことか。見た目に反して不味そうだったから無視したぞ」
「ありがとうございますっ! 実際、クソ不味いんで絶対に食べないでください」
「そうなのだ?」
「肉は硬いし臭いらしい。燻製にしてやっと食べられるレベルって文献に書いてあったの。それですら不味いから、海面に漂うプランクトンの集まりをすくって生で食べたほうがまだマシなの」
「どっちも絶対に食べたくないのだ」
「あぁあれか。カニとかエビっぽい味がしておいしいよな」
「は!?」
「ん?」
文化の違いからくる意見の相違。だが今はそれよりも、ドードーの行方を知るほうが先決。
やつらなら列を成して厨房のほうへ消えていったという。
消えていく。またどこかへ旅に出たということか。きっと揺れる船の上は居心地が悪かったに違いない。
彼らにとっての安住の地とは、人間が入ってくる前のモーリシャス島。
外敵がいない。
安心して子育てができる環境がある。
2足歩行の類人猿が辿り着けない未開の地。
そんな世界があるのか。あったとしたなら……まずいことになるではないか。
彼らが安寧の地を見つけたならば、あたしのペットとして手に入れることができなくなるかもしれない。なんとしても見つけなくては。彼らが定住する地を見つけるより早く、彼らを確保してヴィルヘルムのいる農場へ連れて行かなくてはならない。
万が一にも、別の誰かのものにでもなってしまったら…………はぁ~~~~考えただけ気が狂いそうになる!
思い立ったら大吉日。ここはもういいので先へ行こう。
今度はアリスの手を引いてドードーの足取りを追っていこう。
それから数々のパラレルワールドを渡り歩いた。
暗い部屋で1人うずくまる引きこもりアリス。
ミラーボールの世界で踊り狂うパリピアリス。
巨大なモンスターと戦うハンターアリス。
世界の平和とぶさかわスイーツを守る魔法少女アリス。
いくつもの浮島で永遠の休日を楽しむセレブアリス。
荒廃する世界で為政者に抗うレジスタンスアリス。
みな全て別の世界のアリスたち。それぞれの世界で一生懸命に生きていた。
そんなところに横やりを入れてかき回す不思議のアリス。
迷惑だからどっか行け。
みな全て同様の反応だった。どんだけ迷惑をかけて回ってるんだ。
呆れ果て、体力も底を尽きそうなほどにへとへと。ただ歩き回るだけならこうまではならない。渡り歩く世界で何かしらのトラブルに巻き込まれるのだからたまらない。危うく死ぬ場面にも何度も遭遇した。もういい加減にしてほしい。




