シャングリラ、真実の幸福が在るところ 8
挨拶もそこそこに、立ち話しも疲れるので食堂へ移動することに。
そこには夕食の準備をしていたであろう痕跡と、濃い色をした瓶の山が机の上を占領していた。
丸裸の瓶を見た途端、見るからにそわそわする人がいる。
レレッチちゃんです。右往左往して何かを探しているようです。
彼女が気にするのは陽の光。オリーブオイルは非常に光に敏感ゆえ、直射日光が当たることが気になるとのこと。
蛍光灯の光ですら劣化が進んでしまうオリーブオイル。窓から差し込む光は人々の心を照らしてくれるものだけど、オリーブオイルに限っては肌を焼く灼熱の光源。
カーテンを閉めるか、日陰に移すか、布を被せて遮光したくて仕方がないのです。
颯爽飛び出したのはアラクネートさん。異次元書庫から取り出した反物を並べて光を遮った。
判断の早さもさることながら、目を奪われたのは彼女の作品の美しさ。
光に当たってキラキラと輝くそれは、夜の星々の輝きで染めた逸品。背景の深く淡い青色と、散りばめられた星の瞬きは見ているだけでうっとりとしてしまう。
なるほど、シャングリラの、1つの土地の【衣】を任されるだけのことはある。
通気性のよい厚手の生地の肌触りはふんわりとして心地よい。指で触れただけで上質の生地だと分かる。
この柄なら他の柄と合わせてアシメにしてもいい。
パッチワークのように使って被せるショートスカートもいいかもしれない。
あぁ~妄想が膨らみワンダフルっ!
「こちらは雨上がりの夜空で染めたひと品です。真ん中のものは海からシャングリラを臨んだもの。左のものは流れる川に浮かぶ花びらを映したものです」
「わぁ~どれも綺麗。雨上がりとそうじゃないものって、何か違うんですか?」
マーベラスな質問、と指摘して笑顔で答える彼女はまるで先ほどとは別人ではないかと疑うような饒舌。
とても紳士的で丁寧な語り口。
女性らしい物腰と、心地よい抑揚は歴戦の教授を思わせた。
その姿はとても楽しそう。本当に好きな仕事をしているんだなぁ、と羨ましくなってしまいます。
だってとっても生き生きしてるんですもの。
ひとしきりの説明でキキちゃんが満足したところで、これからどうするかを決めましょう。
すみれちゃんとレレッチちゃんは晩御飯のお手伝いと、プレゼントのオリーブオイルレシピ集を翻訳するということでシャングリラに残ります。
アラクネートさんはシャングリラから少し離れた街に居を構えているということで、今日はこのへんで帰路についてしまうとのこと。
個人的には金色の狼さんをもふもふできれば最上。
なんでも、料理用のお塩の在庫が少なくなってしまったとかで、お塩を街まで取りに行って欲しいそうな。
それでしたら我々もお供します。
狼さんの背中に乗ってっ!
これが本音。巨大な動物さんの背に乗って走り回りたい。
動物好きなら1度は夢に見る光景。
この機を逃すわけにはいくまいて!
恥も外聞もほっぽり出して、私は欲望を全開に叫んだ。
狼さんの毛並みをもふもふしたい。
背中に乗って疾走したい。
こういう時の私は遠慮なんていたしません。
欲望に忠実でしょうか。いいえ、積極的なんです。
するとハティさんは2つ返事でイエスの返答。
ありがとうございますっ!
今度、ベルンに来たらスイーツをおごっちゃいます。
外に出てフェインちゃんを呼ぶ。クレアちゃんが森に向かって叫ぶものだから、森の中から現れるのかと思った。
すると、お屋敷の影で日影ぼっこをしていた彼が静かな足取りで現れる。
不意の出現にびっくりするクレアちゃん。鼻先と顎をなでなでして自慢の家族を紹介です。
出会った時は体長1mほどだったのに、すくすく大きくなって今では体長約3mもの巨体になってしまったのだとか。母親は5倍ほどの大きさもあるらしい。
彼は長男で家族が9人もいるとか。
こんなに大きな狼さんがそんなにいるとは驚きです。
生態系がどうとか、子孫繁栄がどうとかがよぎるも、まず最初に知りたいことはそこじゃない。
ふっさふさの胸毛の感触を確かめたい。
ただそれひと言に尽きる。
ではさっそく、白い胸毛をもふもふ。
ふわぁ~~~~なんという胸毛のカーテン。
白いふわふわがふわふわしてる。
金色の体毛もつやつやふわふわで素敵な手触り。ずっと触っていたいです。
春が本格的に始まって換毛期になると、抜けた毛を加工して掛け布団にしてしまうのだとか。
通気性がよく、適度な重量と、たっぷりと空気を含んだ温かな感触がたまらない逸品になってしまうんですって。
なんて素敵なお布団なのでしょう。いい夢を見られるに違いありません。
さて、私を含め、みんなで一緒にもふもふを楽しんだので、そろそろ出発といきましょう。
背中に乗ってレッツゴーです。
まずは私が乗り、次にアルマちゃん。キキちゃん。ヤヤちゃんの手を引いて乗車。いえ、乗獣でしょうか。
力強い彼は4人を乗せてもなんのその。このくらいは余裕と言わんばかりの足取りで歩みを進める。
なんて……なんて素敵な景色なのでしょう!
私の夢のひとつが叶った瞬間です!
かつて子供の頃、無理やりペットのゴールデンレトリーバーの背中に乗ろうとするも、乗れるだけで歩いてはくれなかった。さすがに馬のようにはいかなかった。
それが今、なんと、背中に乗って歩いている。
動物好きの誰もが憧れ夢に見た体験。
私は今、エクセレントに感激していますっ!
「はぁ~~~~なんて素敵な景色なんでしょう。緑の畑の向こうには輝く海。丘の麓には段々畑。なにより目の前にはもふもふのフェインちゃん。なんてワンダフルなんでしょうっ!」
私もキキちゃんも大興奮。
「うぉおぉおぉ~~っ! つやつやもふもふだぁ~。おぉ~おぉ~おぉおぉ~~っ!」
ヤヤちゃんも毛並みをもふもふして大満足。
「以前にお馬さんに乗せてもらったことがありますが、フェインちゃんは背中が大きくてもふもふしているので乗り心地が最高ですね」
アルマちゃんも御満悦。
「こいつぁたまりませんな。ベレッタさんから聞いてましたが、こいつぁたまりませんなっ!」
楽しむ我々の足元で、楽しみを奪われた絶望的な表情をするライラさんがいた。
「おい、マルタ。帰りは私が乗るからな?」
「えぇ~~どうしましょ~~~~」
うわぁ、すっごい怖い顔で睨んでいらっしゃる。
そんな顔をしなくても、帰りの席はお譲りします。私とライラさんの仲じゃないですか。
と、言いつつも……言い出さないなら帰りも乗って帰るつもりでした。これは絶対に内緒です♪
街までの道のりは思いのほか長く、いっこうに距離が縮まないようにすら思えた。
緩やかな傾斜を持つ丘をいくつか超えていく。
道路だけは舗装されていて歩きやすそう。
薄橙色の砂道の両側は背の低い草が生えて絨毯のように広がっていた。顔を上げると大きな金色の体をした牛さんたちが幸せそうに過ごしている。
驚くべきことに、羽を生やして空を飛ぶ豚のような豚がいるではありませんか。
サイズは豚。
羽は鳩くらいの大きさ。
どう考えても、翼を広げてはばいても飛べそうにない。
アラクネートさんの話しでは、あれらは渡り豚と呼ばれる種類の豚。年中温かい場所と食べ物を求めて世界中を飛び回っているとのこと。そんな豚さん、聞いたことないんだけど。
まるでファンタジーの世界の景色。
不思議には思ったけど考えはしなかった。今は心の原風景ともいえる素敵な景色と、金色狼さんのもふもふの乗り心地を全力で楽しんでいたいから。
全力で集中しているのです。
全力で楽しんでいます。
牛さんたちの影が見えなくなったと思ったら、次に現れたのは、これまた見慣れない影。
身長80cmくらいの濃い色の肌をしたドワーフみたいな人間らしき者。よく近づいて見るとゴブリンではありませんか。
約20年前、魔王軍と人間界&天界の大戦で滅んだとされる魔族の1種。社会性はあるものの知性は低く獰猛という印象がある。
近づいて大丈夫だろうか。何やら土木作業のようなことをしているみたいだけど。そばには人間らしき姿もある。厚紙の束を持って何か指示を出してるようだ。
ハティさんたちが住むシャングリラの森にはこんこんと真水の湧き出る湖がある。その湖から水脈を伸ばして農業用用水路を作っている真っ最中。
現在、作業をしているこの場所は農夫が暮らすために必要な井戸を建設途中。いずれは村のような構造となってシャングリラの【食】を支えるひとつとなるのだ。
しかしそこでゴブリンとはこれいかに。種族とか、それ以前にもっと力仕事に向いた者がいるのではないだろうか。
一度立ち止まり、ハティさんは彼らの前で微笑んだ。
「みんな、お疲れ様。ハインリッヒ。ダバダ。ベデ。ググ。ビボ。デダ。ゴガ。それからガグ。水が行き渡ればたくさんの作物が育つ。本当にありがとう」
名を呼ばれた全員が神に祈るように手を組み、膝をついた。
「オォ……ワタクシメラ如キノ名前ヲ覚エテイテ下サッテイルダナンテ。感激ノ至リデゴザイマス…………ッ!」
「もちろん。みんな覚えているよ。誰一人として忘れない」
彼らはひれ伏し、涙を流して感謝を表した。
まるで女神を崇める信徒のよう。
以前からハティさんは神々しいオーラを身にまとってるという印象だったけど、こうなるといよいよ神か、信仰の象徴として君臨する巫女のように思えてくる。
彼らの過去に何があったかは知る由もない。けれど、頭を垂れて跪くほどの何かを示したのだろう。
しかしハティさんは彼らの最敬礼を見て、あまり芳しくない表情。
彼女としては友達とか、良き隣人とか、そんなふうに接して欲しいと願っていた。
敬うようなことではない。彼らにとって、与えられた恩は石に刻むほどのことだとしても、彼女はそれを当然に与える道徳だと考えているからだ。
だから彼女は軽く挨拶をするだけで立ち去った。
彼らを友と思ってるから。助け合う仲間だと思ってるから。
赤の他人のようなぞんざいな扱いはしない。かと言って、主人が奉公人に語り掛けるような態度もしない。
彼女は誰にだって平等に接する。そういう優しさを大事にしていた。
「そこがハティ様の魅力でもあるのです。わたくしはハティ様の近くで、ハティ様とハティ様の愛する方々のために生きることが生きがいでございますっ!」
「アラクネートもありがとう。貴女のおかげで冬はあったかく過ごせる。夏は涼しく過ごせるってみんな喜んでる。これからもよろしくね」
アラクネートさんは感謝されるなり、頬を真っ赤にして身をよじらせた。
「はぁあ~~~~んっ! ハティ様にお褒めいただけるだなんて望外の喜びでございます。このアラクネート。益々精進いたしますっ!」
「ありがとう」
簡潔に、だけどめいいっぱいの愛を込めた感謝の言葉に、アラクネートさんは失神しそう。
「本当にハティはみんなから慕われてるんだな。それはそうと、井戸作りにゴブリンとは聞いたことが無いのだが。彼らは力持ちなのか?」
ライラさんが質問すると、突然素面に戻るアラクネートさん。
変わり身が早すぎて怖い。
「いいえ、腕力は我々ディアボロスや人間の成人男性と同程度です。しかし彼らには特殊な能力が備わっているのです。それゆえ、彼らは遠い地からハティ様、ひいてはシャングリラのために馳せ参じたのです」
彼らの能力とは、なんと石を粘土のように扱うことができる特殊能力だという。
固い岩盤をプリンのように掬い取ることができる能力を使い、シャングリラ北部の岩盤を削って井戸のための材料にした。
掬い取った石は手から離すと元の固さに戻る。この特性を活かし、材料の採取と井戸の建設を担っている。
粘土状になった石は別の個体と結合させることもできるし、半流体に変質しているのでどんな形にも加工可能。継ぎ目のない筒状の井戸塀を作ることができる。経年劣化で亀裂が入ったとしても、彼らはその手で撫でるだけで完璧に塞ぐことができた。
採掘も、造形も、修復も思いのまま。石に関しては超エキスパート。
その種族はボルグゴブリン。凄いぞボルグゴブリン。とんでもない石工泣かせである。
彼らのおかげで数年はかかったであろう治水事業が、ものの数か月で終結しそうだというではないか。
おまけに地下のくり抜いた硬い岩盤は共同の冷暗室として利用される。
治水工事が早く済めば、それだけ畑を耕す時期が早くなる。
自然、作物の収穫量にも影響される。
冷暗室があるなら長期保存できるものが増える。
収穫時期に加工して冬に備える。
なんという一石二鳥。うまいことやるもんです。
「しかし驚いたな。シャングリラでは人間と魔族がこれほどまでに密接に関わってるだなんて。ベルンやグレンツェンでもここまではありえない」
ライラさんは感心して肩を落とす。我々もこんな世界を創れたら。そんな思いがため息に混じった。
アラクネートさんは誇らしげに語る。
「残念ながら、わたくしは外世界の状況というものに明るくはありません。ですが、少なくともシャングリラでは全ての生き物がお互いに助け合い、共存共栄の関係にございます。それはハティ様が世界に示した幸福の形です」
「うんっ。みんな仲良く暮らす。それから、お腹いっぱいのご飯。安心して眠ることのできる夜。私はそんな世界が幸せだと思う」
「ハティ様のおっしゃることに間違いなどございませんっ!」
彼女の言うことは至極まっとうではあるが、アラクネートさんはあまりにもハティさんを信用しすぎではないだろうか。
信用するのはいいけれど、なんていうか、やることなすこと全て全肯定はさすがに危険なのではないでしょうか。『慕う』というか、もはや『崇拝』に近い感情すら感じた。
気のせいでしょうか?
いや、女の勘で分かる。
私の直感は正しい。
何が彼女をそうまでさせるのかは分からない。
分からないので、とりあえず今は考えないことにしておきます。




