息も詰まるようないい匂い 3
ちょうどいいところに生乳タンクを運ぶミレナさんを発見。
デルレン親方が愛してやまないアイスクリームを作るために必要不可欠な材料。その日に搾った牛乳を直で搬送してもらった正真正銘のおいしい牛乳。
低温殺菌の牛乳は甘味を感じやすく、すっきりとした味わい。
対して一般的な超高温殺菌はコクを強く感じやすい。なのでどちらも一長一短なのですが、長期保存の観点から、流通する中では低温殺菌のものは少なく手に入りづらい。
つまり我々は貴重な体験を享受しようとしているわけです。
作り方は簡単。業務用アイスクリーム製造機に牛乳を流し込み、細かく砕いたバニラビーンズ、生クリーム、溶かしたバターを極少量加えて待つだけ。
本来であればバターはいらないそうなのですが、シルヴァ曰く、低温殺菌された牛乳だと味が薄くなるから、コクと風味を足し算するためにバターを少量入れる、とのこと。
なるほど、勉強になります。
「なるへそ。バターは分かったんだけど、砂糖は入れないの?」
「今回は香りの強いバニラビーンズをたっぷり加えるので必要ありません。低温殺菌された牛乳のさっぱりした甘さも活かしたいので砂糖不使用です」
伊達にスイーツショップの跡取り娘ではない。
「砂糖を入れると途端に甘くなるからね。それがいいって人もいるけど、今回は牛乳の味とバニラビーンズの香りを楽しみましょう」
「砂糖不使用ってことはいくら食べても問題ないってことか」
それは希望的観測がすぎますよ、親方。
ほらもうミレナさんが怒り出しそうじゃないですか。
火が点いたのはミレナさんではない。スイーツ大好きシルヴァのほうだった。
「考慮はしてますが、食べすぎには注意してください。と言っても、今回使う生乳、生クリーム、バター、バニラビーンズ。どれも低糖質ですのでご安心下さい。ちなみに、こちらがバニラビーンズを使ったバニラエクストラクトです。ご存知かと思いますが、ウォッカにバニラビーンズを漬け込むだけの簡単なものです。一般的に市販されているバニラエクストラクトはオーガニックなウォッカを使っていて、バニラの香りはほんのりと香る程度なのですが、セチアさんが栽培しているというこのバニラビーンズはとっても香りが強くて、ウォッカが醸し出すアルコールよりもバニラの香りが先に立つんです。そのまま使う場合は、コーヒーや紅茶に少し混ぜたり、朝食のバゲットに乗せるバターと一緒に使ったり、ヨーグルトに混ぜても楽しい逸品なんです。ケーキであれば加熱してアルコールを飛ばせるので未成年でも楽しめるようになります。ショートケーキやシフォンケーキにも合うんですよ。フィナンシェならふわっと香るウォッカの風味と甘やかなバニラ、かぐわしいバターの香りを同時に楽しめます。もちろん、アイスクリームに振りかけて食べるといっそうおいしくなると思いますっ! 未成年も多く参加する後夜祭でこれを出すのはどうかとも思ったのですが、こんな機会は滅多にないので持ってきました。あ、ちなみにバニラビーンズは先日受け取ったばっかりなのですが、加速術式を使って2か月分、漬け込んだ状態にしているので味は保証します。みんなでバニラビーンズを心ゆくまで楽しみましょうッ!」
歴戦の職人であらせられるデルレン親方も腰が折れそうなほど仰け反った。
それほどまでに彼女の圧と情熱が迸っている。これは誰かが止めないと、親方が甘味を楽しむ前に倒れてしまう。
落ち着けと止めに入ったウォルフ。背後から両肩を抑えに行ったが、バニラエクストラクトの蓋が開いたと同時に甘美な香りが鼻と脳天を直撃。
幸福のあまり恍惚な表情を浮かべて倒れてしまった。ミイラ取りがミイラではないか。
興味津々で近づくヤヤちゃん。未成年の自分がアルコールに近づくと止められることが分かっているので、人の目を盗み、一瞬の隙をついて香りを嗅ぎに行き、ミイラと化す。
幸せそうにウォルフと添い寝するように倒れた。どう収拾をつければいいんだろう。
これはまずいとミレナさん。前のめりのシルヴァを落ち着かせて座らせる。
当然のようにバニラエクストラクトの香りを楽しみ、これはいくらで販売するのか、真剣に聞いているではないか。
貴女もほとんどミイラですよ。
残念ながら売る予定はないとのこと。
自前で加工したとはいえ、好意で貰った物を売るのは気が引けること。
あくまでキッチン・グレンツェッタとして貰ったこと。
なによりこれほど高品質のバニラビーンズはなかなか手に入るものではない。全部自分で使い切りたいという菓子好きとしての欲望が前のめりした。
でも商品としてケーキを売るので食べに来て下さい。と……さすが、商売上手。
「わぁ~なにこれ。バニラビーンズの漬物?」
いいえて妙である。暁の文化にはバニラエクストラクトはないらしい。
「漬物……たしかに間違いではないんですが、バニラエクストラクトと言います。もしかして暁さんのところにはバニラビーンズをアルコールで漬ける習慣とか、そういう手法は一般的ではないのですか?」
「いやぁ~これは初めて見た。あとでアイスクリームにかけて食べさせてもらっていいかな?」
「是非ともご堪能下さいっ! あっ、それと、少し変な話しかもしれないのですが、もしよろしければ完成したバニラエクストラクトをセチアさんに渡していただいてもよろしいでしょうか。頂いたものを返すようで複雑な気持ちなのですが、すっごくいいものに仕上がっていますのでっ! ウォッカとホワイトラムの2種類がありますっ!」
「なんという饒舌。そしてありがとう! きっとセチアも喜んでくれるよ。なにより、自分が作ったものを大切に扱ってくれてるんだからな。生産者として、これほど嬉しいことはないだろう」
「そう言ってもらえると、私も嬉しいですっ!」
暁の手をとってぶんぶんと振り回す。よほどセチアさんのことを気に入ってるみたい。
大きな声が聞こえて、思い出したように手を叩くハティさん。力加減を間違えたのか、発砲音のような破裂音が響き渡った。
「香りで思い出した。アッチェさんから渡されたものがあるんだった」
そう言って取り出したるは木彫りの彫刻。
リンゴを抱いて安らかな表情を見せるウサギ。
キノコの日傘を持つリス。
どちらも表情豊かでかわいらしい。超一級の職人が作ったと分かる代物。
香木なのか不思議な良い薫りが鼻をくすぐった。
全体が白寄りの灰色っぽいそれは、木目というよりは大理石のような肌模様。
しかし香りを放ってるし、大きさから石とは思えないほど軽い。木材にもよるけれど、木の彫刻より軽いのではないだろうか。
20cm四方ほどの置物。サイズ感もほどよくて置き場所にも困らなさそう。
先日、アイザンロックにゆきぽんの大好物である雪りんごを貰いにいった際、アッチェさんから、『みんなで捕鯨した一角白鯨の中に超でかい龍涎香が見つかったんだ。せっかくだから船に乗ったみんなのために彫刻にして渡すから、どんなモチーフがいいか聞いておいてくれ』と言われたそうな。
ちなみに今日まで忘れていたのは龍涎香が食べ物でなかったから。ハティさんらしいなぁ……。
それにしても龍涎香とはいったいなんだろうか。
鯨の体の中から出てきたということだけど、随分といい匂いがする。珍品なのかな?
キキちゃん曰く、龍涎香とは鯨のうんこらしい。
ヘラさん曰く、厳密にはうんこではなく結石とのこと。
ハティさん曰く、その龍涎香は捕鯨船の半分ほどの大きさだったとのこと。
そんなに大きな結石が……全長1200mのクジラ的には大きいのか小さいのか分からないけど、人間視点から言えば結石は万病の元。あの鯨も苦労していたのかもしれない。
結石の彫刻。うさぎもリスもすごいかわいいんだけど、結石から作られたと言われるとちょっと、どうも、なんていうか、これを渡されても困るというか、いい匂いはするんだけど、世間的にはどう見られてるんだろう。
芸術に造形が浅い僕には価値の判断ができない。
それに、こういうなんていうか、そもそも鯨の結石って何系の代物なの?
もはやそんなレベルである。
「わぁ~いい匂い。うんこ学の本で読んだけど、実物はなんていうか、えっと、なんかすごいっ! リスちゃんがかわいい!」
「抹香みたいな匂いだな」
「マッコウクジラのマッコウは抹香からきてますからね。龍涎香の香りが元で名前が付けられています。リスちゃんかわいい」
結石であることを忘れ、とにかくリスちゃんのかわいさに注目する双子。
たしかに動物の体の中から、しかもうんこだと思ってるもので作られたとなれば、さすがに目を背けたくなる気持ちはわかる。
知識が乏しい僕たちも、これを受け取るべきかどうか困ってしまった。
が、ここで識者登場。彫刻を専門とするエキュルイュのエリザベスさん。声を震わせて、手も震えて目を見開く。
「なん……だと…………捕鯨したって聞いたから、もしかしたらあるのかと思っていたが、まさか本当に、しかも捕鯨船の半分ほどの大きさって…………。しかもそれを香料でなく彫刻に。なんという贅沢!」
「贅沢なんですか?」
僕の疑問に答えるのは芸術品コレクターを母に持つフィアナさん。
鼻息荒くして声を大にする。
「贅沢だなんてものではありませんわっ! しかもより高品質とされる白色。通常、鯨の体の中にあるなら黒色ですのに、きっと体内で酸化が進んでいったのでしょうね。重さはおおよそ2kgでしょうか。これだけで約330万ピノ。彫刻としての付加価値を合わせるとそれ以上の価格になることは間違いありません!」
「「「「「330万ッ!」」」」」
フィアナの記憶によると、なんと1g1600ピノ近い値段。
品質にもよるが、目の前にあるこれは上質な部類だそうで、もっと高値で取引されることもあるそうな。
そんな代物をみんなに1個ずつプレゼントだなんて、なんという大盤振る舞い。
というか、彼女の話しが真実なのかどうか疑わしくなってくる。
ハティさんが嘘をついたりするとは思えない。人を騙すような人ではない。
しかし何かしらの聞き間違えという線はいなめない。というかそうとしか思えない。むしろそうであったほうがよいのではないかと思うくらい。
だって単純計算で7000万ピノの工芸品をぽんと渡そうとしているのだ。
簡単に信じろというほうが無理である。
どうしようかと迷う視線をハティさんに送ってしまった。
彼女は我々の心情など知らずに、アイザンロックの人々のことを想う。
「アッチェさんも国のみんなも、捕鯨船に乗った人たちみんなに感謝してる。冬を氷で閉ざすアイザンロックは食料がなくなれば飢えて死ぬ。毎年冬は命がけ。だからすっごく感謝してる」
彼女の言葉に、アイザンロックをよく知るマーリンさんが言葉を重ねた。
「そうね、アイザンロックは冬に人が立ち入らないように関所を【氷獄】で閉ざして南部との国交を絶つから商人は入ってこれない。北西からの風もある。厳しい環境だけど、人々はみんないい人ばかり。だから好意は受け取っておきましょう!」
「いいことを言っているようで、最後に下心をぶっこんできましたね」
露骨に目を逸らすマーリンさん。でもまぁ、好意を無碍にするのは野暮である。
しかしあまりに高価なものだと気が引けてしまうもの。ガレットもそのようで、代替案を考えた。
「うぅ~ん、事情は知っていますが、さすがにそこまで高価なものは気が引けます。他のものではダメなのでしょうか。個人的には、アッチェさんの作ったガラス細工、お皿とかコップがいいなぁ~、なんて」
「それってもしかして、ガレットちゃんが持参してる青白いグラスのこと? グレンツェンで見かけないデザインだからすっごく気になってたやつ」
エリザベスさんはガレットがひと目惚れして手に入れたアイザンロックグラスを指さして興味を示す。
透き通る青と白、内部には意図的に不純物を混合することで光の屈折率を高め、どの角度からもキラキラと輝いて見えるように設計されている。
口を付ける部分には金で縁取りがされており、まるで晴れた日のアイザンロックの景色を落とし込んでいるような印象を受けた。
かくいう僕もそう。ここにいる多くの人がアイザンロックグラスを貰っている。
アイザンロックの工芸品の中でも最もポピュラーで人気のある品物の1つ。




