息も詰まるようないい匂い 2
ハティさんはシャングリラと呼ばれる場所では女主人、言い方はその土地その土地で違うけれど、身寄りのない子供たちを育てるシスター的な仕事をしているという。
それでなんで文字が読めないのかはさておき、とにかく彼女のことをもっと知りたい。
高身長なんて気にならないほどの魅力的な女性。
だからしっかり頑張ってくれ、暁とヘラさん。
キッチンの窓越しに歓談を楽しむ3人を眺め、さて足元の状況を確認しよう。
ルージィに頼まれてリンゴを炒めたのはいいものの、ここから先はどうしようか。リンゴと、残ってるのはミニサイズのバゲットくらい。
バゲット――――たしかこの後、ハティさんが作ったっていう禁断のアップルパイが出てくるんだったか。
温めても冷やしてもおいしいという魅惑のスイーツ。
甘味にうるさいシルヴァが太鼓判を押した逸品。
うぅむ、ぶっちゃけ被るしフライングが否めないけど、もうこれしかない。というか選択肢がない。
キキちゃんとソフィアさんに頼んでバゲットの中身をくりぬいてもらい、リンゴをたっぷり詰めてシナモンをまぶす。それをオーブンに入れて焼き直せば簡単アップルパイのできあがり。
バゲットの香ばしい薫りにとろとろあまあまのアップルパイ。特に酸味のあるライ麦パンとの相性が抜群。
ライ麦とリンゴの甘酸っぱい風味が口いっぱいに広がって、即席で作ったとは思えない完成度。
これはかなりいけるんじゃないでしょうか。
きっと彼女も喜んでくれるはず。
頃合いもいいだろう。そろそろ出かけるといたしましょう。
ついでに紅茶も用意――――している間にキキちゃんが即席アップルパイを持ってハティさんのところへ突撃してしまった。
ちょっと待ってキキちゃん。
それは僕に持って行かせてっ!
「あのねあのね。アポロンさんが作ったアップルパイがすんごくおいしいよ。食べて食べて♪」
「おおどれどれ。リンゴがぎっしり詰まっていて食べ応え十分だな」
「シナモンの香りも素敵。ちょっと多めかと思ったけど、これだけリンゴとライ麦パンの風味が強いなら、このくらいあっても気にならないわね。さっすがアポロンくん」
「お褒めに預かり光栄です。ハティさんはどうですか?」
「にやにや♪ (暁)」
「にやにや♪ (ヘラ)」
「うまうま♪ (キキ)」
「? (ソフィア)」
「ちょっ、2人とも……」
「すっごくおいしいっ! やっぱりアポロンは料理が上手だね。前に作ってもらった真っ赤なパエリアもおいしかった。またうちに料理を作りに来てもらっていい?」
「もちろんですともっ!」
やったーよっしゃーうまくいったーッ!
マーベラス、キキちゃん。今度ヘイターハーゼに来てくれたらサービスしてあげる!
おいしそうに、本当においしそうに両手に掴んでほいほいと口に運んでいくハティさんの溢れる笑顔たるやマジフェアリー。
あれだけ食べておいてまだおいしそうに食べられるハティさん、マジフェアリー。
今は後夜祭。食べたあとのお皿は溜まったら適当にセルフで食洗器に回している。
彼女のテーブルには取り残され、食べ終わった食器が山のように積まれていた。もはや数えるのも怖いほどに。
それほどの勢いで食べ続ける。まさかとは思うけど、摂食障害じゃないよね?
それにしても赤色のパエリアか。あぁ~できれば思い出したくはない。
なぜなら、あれは調理中にミスってケチャップを鍋にぶちゅーってしてしまった代物だから。
料理人としてあるまじきミス。消し去りたい過去。
パエリアにケチャップ、その他野菜とか何やら入れれば食べられないものではないのでごまかした。
結果オーライとして高評価。赤色大好きなすみれと、おいしいものならなんでもござれのハティさん。気に入ってもらえてなによりです。
個人的には完全に失敗以前の問題なので思い出したくはないけれど。
「あれ? パエリアに使われるサフランはたしかに赤の金と呼ばれるように宝石のような赤色ですが、水に溶かすと黄色になるのでは?」
そういう反応になりますよね。
「うっ…………えっと、ケチャップを入れて、赤色に………………」
ちょちょちょっ!
これ以上は突っ込んでこないでっ!
「え? でもそれではサフランの香りが損なわれるのでは?」
「そうなの? でもおいしかったからまた作ってほしい」
「んん~、次はオムライスにしようかな」
「オムライス? 卵いっぱい使ってふわっふわのとろっとろなのがいいっ!」
よっし、パエリアから話しを避けられそう。
キキちゃんには今度、めいいっぱいサービスさてあげるっ!
「うわぁ~おいしそぉ~♪ (キキ)」
「ヘイターハーゼに卵料理が得意な人がいるから、今度作れるように教えてもらうよ (アポロン)」
「それってヘイターハーゼが差し入れで持ってきてくれたっていうクリームシチューを作った人? ダーインが言ってたんだが (暁)」
「そうです。ヘイターハーゼの前菜で出される半熟卵と生ハムサラダとか、ふわふわオムレツとか、卵料理の研究をしている料理人です。他にもキノコを専門にしてる人、魚料理が得意な人など、プロフェッショナルが揃ってますよ (アポロン)」
「おぉ~そうなのか。ベーコンとほうれん草を使ったクリームパスタがめっちゃうまくてさ。たまにはパスタもいいなって思わされたよ。もう1つのミートスパゲティもうまい。特に挽肉がうまい。バゲットですくって食べる分も欲しいと思って多めにとってしまった (暁)」
「それを聞いたらきっと喜びますよ。パスタ料理の為のソースはみんな自分の得意分野を生かしながら、しのぎを削ってますからね。ちなみにミートソースはオーナーの手作りです (アポロン)」
「なんと。知らぬ間にそんな贅沢なものを食べていたとは。残ったら持て帰ってもいいですか? 1人分でいいので、どうか! (ソフィア)」
懇願するソフィアさん。これほどまで熱望されると、料理人冥利に尽きます。
「ふふふっ。マリオオーナーの挽肉料理は絶品だものね。彼のハンバーグはヘイターハーゼを代表する料理だから (ヘラ)」
「チーズハンバーグとキノコハンバーグが大好き。もんんんんんんんんんのすごいおいしいのっ! (キキ)」
「オーナーのハンバーグは老若男女問わず大人気だからね。そうだね。ベルン住みのソフィアさんはグレンツェンに来ることも少ないかもだから、残ってたらもう取り分けてもいいよ。そろそろデザートの出番だと思うし。冷凍のパスタも持って帰って。全部使い切ってくれて構わないって言われてるから (アポロン)」
ソフィアさんは満面の笑みを浮かべて速足で鍋に向かう。
よっぽど気に入ってくれたようで、保存容器の蓋の裏にソースが触れるほど詰め込んだ。
きっと同居する妹さんに分けてあげたいのだろう。鼻歌まじりでよそっていた。
それでは改めまして、ハティさんとおしゃべりタイムといた――――いない!?
なんでも僕が、『そろそろデザートの出番』と言ってしまったがために、彼女は自慢のアップルパイの仕込みに出かけてしまったらしい。
なんという墓穴……いや、ここは彼女と一緒に厨房に行ってスキンシップを図ることができるのではないでしょうか。
立ち上がり、ガラス越しに見える先にはシルヴァやすみれ、ウォルフたちが楽しそうに食後の支度を整える姿。
先を越された。否、ここは無理やりにでも!
「いや待て。ここは作戦会議といこうじゃないか」
暁に手を引かれて待ったをかけられる。
「そうよねぇ。無策で突っ込んでいったって返り討ちに遭うのが関の山。それに今の状況ではハティちゃんに恋心を抱かせるのは無理そうよ?」
「と言うと?」
後ろ手を引かれてコイバナ大好き怪獣に挟まれる。
ハティさんにコイバナ攻撃を浴びせたところ、男女の関係という概念がないということが分かったのだとか。
好きな人がいるのか、との質問も『いい人ばっかりでみんな大好き』。誤魔化そうとしているわけではない。彼女には異性に恋をするという感覚が皆無。
結婚をしてずっと一緒にいたい人っているのか、との質問にも『ずっとみんなと一緒に楽しく暮らしたい』。【結婚】という言葉の意味を知らないとしか思えない発言。1周回って騙されないか心配です。
子供は何人欲しいのか、と問うと『いっぱい欲しいっ!』。そこは共感します。
子供ってどこから生まれるか知っているのか、との回答は、『お母さんの腕の中』。
マジすか。
マジに言ってるんですか!?
いやたしかに出産したあとはお母さんの腕の中に抱かれるだろうけど、腕の中から生まれるわけじゃないから。
これは相当な難題のようです。真実を知ったら驚愕するのではないでしょうか。
「あたしもここまでとは思ってなかった。アルマにはそれとなく、人間の体の神秘を勉強できる講義を勧めるように言っておくよ」
「それなら義務講義の1つにあるから私から情報を流しておくね。仮にお母さんになるなら知っておくべき知識だから。それはさておき、アポロンくん。これは振り向かせるには難儀な課題ですな」
「小細工無しの正攻法しかないですね。ご協力いただきありがとうございました。危うく爆死するところでした」
「恋に関して、天然の歩くトラップだということが分かってよかったな。周囲の人間の数だけ爆弾があるみたいなもんだしな」
「あぁ、囃し立てられて、準備もないまま事実上告白状態に持っていかれたら、恋が始まる前に破滅もありうる。こういうのは個人のペースで進めたい」
女子の数だけ恋バナ怪獣がいると言っても過言ではない。
「まぁでもハティちゃんは見た通りの美人だから、狙ってる子も少なくないかもね。飾らないところも男心をくすぐるんじゃない?」
「はいっ!」
「力強い返事だな。とはいえ料理を作りに来て欲しいと言われたなら、それだけ分はアポロンがリードだな。おいしい料理を作ってアピールだ。頑張れよ!」
背中を押されてそのまま厨房へ向かう。訪れたワンダーランドには甘いすい~つを楽しみにして、目を爛々と輝かす少女たちの覇気で満ちていた。
この熱気と情熱が恋色バズーカとなり、一点に打ち込まれたなら死んでしまうに違いない。
プレッシャーと羞恥心で押し潰されるに違いない。
よし、いきなり本命に体当たりすると恋色センサーに引っかかるので、少し外れたところから様子を見ていこう。




