距離は遠くとも、心は近く、温かく 5
こんなことならジェイクを用意しておけばよかった。
彼ならわたしの言葉に絶対服従してくれる。右を向けと言えば右を向く。紅茶をミルクティーと言えばミルクティーと言う。
過去にはわたしの代わりに社交パーティーに出ろと言い、嫌がる素振りもなく期待に応えてくれた。
可哀そうなお姫様に残された最後の奴隷。いったい、今どこにいるのかしら。必要な時にいてくれないと意味がないじゃないっ!
役立たずばかりか、ちくしょうっ!
あぁ、絶望と失望と怒りの連鎖のせいで、お腹が空いてきてしまった。
今日はお肉が食べたい気分。お肉を食べるスイッチが入ってます。
せめてランチはお肉が食べたい。鯨と牛と鶏の肉。荒く砕いた香ばしいナッツにパンチの効いた胡椒の粒。
麦芽ののど越し際立つビールと一緒に…………はぁ~、幸せを感じたい!
前祝で食べさせてもらった鉄板焼きが忘れられない。本当においしかった。思い出すだけで頬が緩む。野性味あふれる肉の塊のカーニバル。
王宮で出されるような洗練された肉料理ももちろんおいしい。キッチンで食べたド直球に【肉ッ!】って感じの味は、あの日が最初で最後。
忘れられない、忘れたくない、素敵な出会い。
でも、いじわるなソフィアのせいでプレオープンには出られない。
諦めるしかないのか。人生は諦めが肝心なのか…………。
仕方ない。諦めよう…………諦めるのを、諦めよう!
そう、セバスはたしかに今、『料理長が料理を持ってくる』と言った。
つまりその時だけは扉が開く。開いた瞬間に、本気ダッシュで駆け抜ける。
わたしだってただのお姫様をしてないんだから。お忍び散歩で鍛えた脚力を甘く見てもらっちゃ困ります。
これでも体力には自信がある。護身用の魔法だって習熟してるんだから。隠密や変装だってお手のもの。颯爽逃げきって、グレンツェンへ脱兎だぜ!
「お待たせいたしました、姫様。ランチができあがりましたよ」
「それいけダッ…………え? そのプレートはいったいどこから?」
わたしはひとまたたきたりとも扉を見逃すことはなかった。
なのになぜ、セバスの手元には料理が運ばれてるのだろうか。
まさかこれを運びこむためだけに、転移魔法だなんてたいそうな魔法を使ったんじゃないでしょうね。
不思議に思いながら、それはどこから出てきたのかという質問に、セバスはお得意の『こんなこともあろうかと』を炸裂。
本当にテレポートを使って運ばせた。そのためにわざわざ腕利きの宮廷魔導士に出向いてもらっている。
なんという人件費の無駄遣い。
その費用は税金で賄われてるのだから自重してよ。
さすがに……ここまでか…………これをお腹に入れたらきっと、もう何も入らない。
匂いから察するに肉。
とびきりおいしそうな肉。
お肉が欲しいお腹が食べたいと嘶いておるわ。
くっ、ここまでか。食欲には勝てぬ。
今日のところはこれで我慢して、お祭り当日にほおばることといたしましょう。
席に着き、銀のクローシュを開けば野性味溢れる肉の香りが湯気となって脳天直撃。
とたん、無意識のうちに鼻が空気を吸い込む。全身に行き渡らせるが如く深く吸い込み、幸福なため息が漏れ出でた。
この匂いは…………忘れもしない、彼らと共に騒いだ夜。試作と言って出してくれた魅惑の君。
キッチン・グレンツェッタの鉄板焼き!
なんということでしょう。目の前にあるのはまごうことなきあの日の喜び。
もう訪れることのない彼の日の思い出。
回想して、胸が熱くなっていくのを感じる。あの夜の喧騒が耳に触れ、楽しくお酒を飲み交わした音が聞こえてくるよう。
どういう経緯で、どうしてここに、色々と謎は湧き出てきたけど、最初に放った言葉は感謝のひと言。
受け取った彼も、誇らしいと言わんばかりに喜んで、素敵な笑顔を返してくれた。
傍で見守ってくれるソフィアも、『よかったですね』と声をかけてくれる。
ああ、なんて幸せ者なのでしょう。きっとわたしは世界で一番幸せなお姫様。
ひとつ、お肉を口に運び、ふたつ、キンキンに冷えたビールをワインさながらに流し込む。
うまいっ!
ひとつ食べたら止まらない。
またひとつ。もうひとつ。飢えた食欲が満たされていく。
最後にひとつ。一番おいしそうな大きな鯨のお肉。フォークで刺して、口へ運ぼうと思った瞬間、言い知れない感情が待ったをかけた。
何か大切なことを忘れているような気がする。はて、なんだろう。
あたりを見回してそれはすぐに見つかった。脳裏には機嫌を損ねたソフィアの姿。今は微笑ましくわたしを見ていてくれているけれど、さっきまでずっとわがままを言って困らせてしまった。
何もしなくても彼女のことだから、もう過ぎ去ったことと言って許してくれるだろう。
でも、なんだかそれって、ずるい気がした。
ソフィアは本当に素敵な女性。だから小さなことは気にしない。
だけどそれって、ちょっとずるいかも。
「ねぇ、ソフィア。さっきはわがままばっかり言って困らせてしまってごめんなさい。だから、仲直りのしるし、というのも変かもしれないのだけれど、よかったらコレ、食べて?」
「いいのですか? 最後にとっておいたとっておきでしょう?」
「そうだけど、だからこそ、ソフィアに食べて欲しいの。ダメ?」
「姫様がそうまでおっしゃるなら。是非、いただきます」
ぱくりと食べて幸せを噛み締める彼女のなんと素敵な笑顔だろう。
本当にいい笑顔をする。わたしが男だったら絶対に惚れてる。
なにはともあれ仲直りができてよかったよかった。
さすが、セバス。彼の【こんなこともあろうかと】はいつもわたしを驚かせてくれる。
さすが、ソフィア。わたしの大切な友人なだけあって、いつもわたしを幸せな気持ちにしてくれる。
ジェイクは…………今日は非番でいないけど、いつもわたしに尽くしてくれて、本当に感謝が絶えません。
贅沢を言えば、またみんなに会いたかった。
今日はこのへんで諦めないとバチが当たるでしょう。
諦めが肝心。こういう時に使うのです♪
無事にプレオープンも終了し、残すところはあとわずか。最終監査と本番を残すのみです。
当たり前のようで有り難い日常のひとつひとつに喜びを見出すというのは、意識していないと見逃しがちなのかもしれませんね。
エマを筆頭に出会う全ての人々が笑顔になれるキッチンになって欲しいものです。
裏アカウントまで作ってキッチンのプレオープンの抽選に参加したお姫様。
当選したけど脱走がバレて缶詰にされるお姫様。
自分都合の理由を並べてなんとか抜け出そうとするお姫様。
このお姫様ってば本当にどうしようもないな。
なんかこのキャラはどいつかに似ていると思ったら、自己中なところが五十嵐詩織に似ているんですね。シャルロッテのほうがまだ良識を持ち合わせているだけ、ちょっぴりだけ可愛らしいですが、あっちは本当にどうしようもない設定に仕上げているので救いようがありません。
シャルロッテもソフィアという尊敬できるお姉さん的存在がいなかったら今頃どうなっていたか分からないところでした。でもある意味では一番キャラが立っている気がするので作者的には気に入っています。ただし性格が似ている五十嵐詩織は諸事情があって作者の嫌いなキャラです。
次回はルーィヒとユカがハティの文字の勉強のためにすみれ宅でランチをする話しです。




