四ノ話「調査と変な話」
「で、猫じゃねえとはどういうことだ?」
牛込邸を出た二人は再び夕庵にやって来ていた。
昼下がりのこの時間は客の入りも少なく、いてもすっかり耳の遠くなったご隠居ばかりなので、内密の話をひそひそとやるのには格好の居場所なのである。
店の者も心得たもので、本村達の座る席には近づかない。
「んー……」
惣助はと言えば、牛込邸を辞してからこっち、ずっと思案顔である。目の前に置かれた好物の団子にも手を付けず、袖から引っ込めた左手を懐から伸ばし、顎をポリポリとかいている。
集中している時に出る、惣助の癖である。
「おい、どうした」
「……いや。僕が柱の小傷のことを聞いた時、牛込様は猫の仕業だ、とおっしゃっていたでしょう」
「うむ。それがどうかしたのか?」
「猫って天井に、逆さに張り付いたりするもんですかね」
「逆さ? いや、梁の上を歩くこたぁあるだろうが……」
「爪痕がね」
言いながらも惣助は思案している様子を崩さない。
「天井に付いてたんですよね……。それもあちこちに点在する格好で……」
「ふむ……?」
「考えられるのは……。いや、でもこのご時世で……」
「おい、途中でやめるな。気になるだろう。構わねえから言ってみろ」
「え、あぁ、すみません。――天井のあちこちに爪痕が残っている。それも点々と。もしも仮に猫が天井を伝ったとしても、その爪痕は点在などせず、通った跡として連続して残るはずですよね」
「確かにな。……む、まさか」
本村が思い当たったことに思わず絶句する。
惣助はそんな本村に小さく頷いてみせた。
「可能性、ですよ。……あそこの猫は、何者かによって天井に投げつけられている、だとしたらこれは」
「虐待ってことか!」
「しっ」
つい声の大きくなる本村を惣助が諌めた。
本村ははっとなり、つい浮きかけた腰を椅子に戻した。
「……まだそうと決まったわけじゃあありませんよ。可能性は低くはなさそうですが」
「……随分前に出た“憐れみの令”は絶えて久しいが、かといって飼い猫の虐待、それも与力がとなれば、世間様には顔向けできめえよ」
「ですが、もしそれが本当だとして、そのまま虐待なのかどうかもはっきりはしません。しばらく調べてみないと分かりませんね」
「だな。周辺の聞き込みでもやってみるか」
「はい。そちらの方はお任せしますね」
「ん、おめえさんはどうするんだ?」
「私は例の化け猫を調べます。……急にっていうのが気にかかる。しかも吉太郎様しかその姿を見ていない」
「……狂言だってのか?」
本村が訝しげな声で惣助に問う。だが惣助は首を小さく横に振りつつ言った。
「だったらいいんですけどね……。じゃあ、明日から手分けとしましょう。というか本村さん、ご公務の方は?」
「生憎と暇だ。この半年で俺がやった仕事なんざ、食い逃げ数件の捕縛と婆さんの荷物運びくれぇだよ」
「もったいないなぁ。まぁおかげで自由に動けるってもんですかね。……あ、そうだ」
惣助が何かを思い出したかのように声を上げる。そして厨房に向かっておもむろに叫んだ。
「おーい、お多恵ちゃん、ちょっといい?」
「……ぬ?」
「あ、はーい、お茶のおかわりです?」
「ああ、それはいいんだけど。……ね、お多恵ちゃん、明日暇?」
「明日ですか? うーん、夜はお店ですけど、それまでなら」
「そりゃいい。じゃあさ、ちょっと付き合ってくれないかな。……本村さんに」
「構いませんけど、私などがお役に立つんですか?」
「もちろん。ね、本村さん?」
「……おい?」
――――
翌朝のことである。
「……なんだこれ」
本村は、お多恵と牛込邸付近を歩いていた。お多恵を連れて聞き込みをするというのは惣助の提案だが、その真意を聞いていない。
お多恵、つまり女連れである必要があるのだろうか。
それとも、お多恵自身を必要と考えたのか。
或いは、本村のお多恵への想いから、気を回したのだろうか。
――それはあるまい、と本村は思っていた。
惣助という男は飄々として掴みどころがない一方、自分が興味を向けたことにはひたすら真摯である。気を回した、というのも皆無ではなかろうが、本筋はむしろ“女連れ”で歩くということなのだろう。
いや、それにしても。
「あっ、かんざし。本村様、ちょっと寄り道しても……」
「ん、あ、ああ。構わぬよ」
「やたっ。では少しだけっ」
そういってかんざし屋に駆け寄るお多恵の後ろ姿を眺めつつ、本村は
「いや、だからなんだこれ」
状況について行けずにいたのだった。
やがてお多恵が小走りで駆け寄ってくる。
「本村さまごめんなさい、随分お待たせしてしまって」
「う、あ、いや、構わぬ」
「ちょっと店先をからかうつもりが、ついお店のご主人と話し込んでしまって。……それで、ちょっと変な話を聞いてしまったんですが」
「……変な話?」
本村は反射的に簪屋に目をやった。
客の対応をしていた店主がその視線に気づき、目が合うと小さく会釈をし目線を戻す。
――なるほど。
つまり、惣助がお多恵をつけたのは、同じ街の人間であるお多恵の方が、この場においては情報の収集に役立つということだったのだろう。
一方本村は、いくら馴染みだとはいえ同心という立場がある。一介の町人がそう馴れ馴れしく出来る相手ではない。自然、口も固くなるというものだろう。
さすがだな、と本村は素直に感心していた。
納得のいったところで、本村はお多恵に話しかけた。
「……町を出てすぐに茶屋がある。そこで聞こう」
気になる娘にはしどろもどろでも、仕事となれば話は別である。
本村の頭は、お多恵が聞いたという“変な話”への興味でいっぱいになっていた。
「はい。でも、アレですね」
「む?」
「なんだか、逢い引きみたいですねっ」
「む!?」
お多恵の無邪気な一言が本村を現実に引き戻す。
以降茶屋まで、本村の頭から“変な話”は消え去り、やけにぎくしゃくとした“変な人”となってかっくんかっくん歩いたのだった。
この作品は秋月忍先生主催の「和語り企画」参加作品です。
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