三ノ話「与力と飼い猫」
「悲鳴、か。……聞かれていたのだな。湯澤屋か」
牛込邸。
本村と惣助の訪問を受けた牛込橋之助は、二人を前にして小さくため息を漏らした。
「一番は左様にございますが、他にも屯所への問い合わせが数件ございまして。その後、慌ててお屋敷から走り去る人影を見たとの報告もあり、こちらは湯澤屋だろうと考えはしましたが、万が一盗賊の類であれば一大事かと、本日お伺いした次第でございます」
「……なるほどな。いや、実のところを申せば、そう大した話ではないのだ。せがれが化け猫を見たなどと言うものだからな」
「化け猫、でございますか」
本村は内心、拍子抜けしていた。
牛込橋之助という男は、人となりは穏やかだが、現実主義で知られている。それゆえ変に怪しまれぬよう、じっくり話を聞きつつ水を向けるつもりでいたのだ。それが、よもや牛込の方から化け猫という単語を出してくるとは。
「うむ。昨夜のことだ。出入りの呉服屋が帰って程なくした頃だ。せがれは自室に行くと言って引っ込んだんだがな」
ここからはせがれの言った話だ、と前置きをして、橋之助は続けた。
「部屋に入ると、灯りが消えかけていたらしい。いつも切らさぬ行灯の油だが、どこかに漏れでもしたかと思って近づいた。……すると、行灯から外に向かって、点々と油が垂れていたらしい」
「行灯の油……」
「どうしたものかと思案しつつ何の気なしに障子を眺めると、……そこにはある影が映っていた」
「化け猫、でございますか」
そう返した本村に、橋之助は感心したような顔をした。
「よく判ったな。さすがは“あやかし同心”といったところか」
「おたわむれを。そもそものお話は化け猫、そして行灯とくれば疑いようもございますまい。……なんでも二本足で立っていたとか」
「うむ。確かに二本足で、尻尾は二本。それがまるで人の様に歩いていたんだそうだ。まあそれだけのことらしいのだが、それであんな悲鳴を上げるとは、まだまだ子供か……」
「ふぅむ……」
「あの、牛込様、一つよろしいですか」
「お主は」
「ああ、これは失礼いたしました。こやつは手前どもの飼っている岡引で、惣助と申します。頭の回るやつ故、何かのお役に立てばと連れてまいりました」
「そうか。……惣助とやら、申してみよ」
「では、失礼して。……ご子息様がご覧になったのは、影のみでございましょうか」
「……ふむ。その様に聞きはしたが、はっきりと確認はしておらんな。……おい、誰かあるか」
「は、こちらに」
橋之助が声を掛ける。するとすぐに襖の向こうから声がして、音もなく襖が開いた。
そこにはここに来た時、二人を案内した男が控えていた。
「吉太郎を呼んでまいれ。昨夜のことで訊きたいことがある」
「……ですが若は随分と怯えていらっしゃります故」
本村はその時、男がちらりとこちらを見たような気配を感じた。
「どうしても来られぬとあらば、今の問の答えを持ってまいれ」
「御意」
そう言ってまた音もなく、男が襖を閉じる。すると橋之助はほんの小さくため息をつき、脇息を引き寄せて肘をもたれさせた。
「やれやれ、相変わらず吉太郎に甘いやつだ。……まぁ、仕方ないと云えば仕方ないが」
「失礼ですが……」
「ん、ああ。今のは下男の彦左といってな。与力職で中々相手も出来ぬ儂の代わりに吉太郎を育てた、いわば育ての親のようなものだ。やつ自身も幼子を亡くしてな、吉太郎を本当の親、いやそれ以上に可愛がっている」
「なるほど。……察するに吉太郎様は元服前で」
「ああ。年が明けてから髪を剃ることになっている」
髪を剃る、とは元服、つまり成人することを意味する。
「女房も早くに亡くし、儂もお役目で構ってやれず、不憫に思う余りに我儘に育ててしまった。それでも小さい頃なら良かったが、元服を控える今になっても……」
「牛込様……」
「おお、済まぬ。愚痴などこぼしている場合ではなかったな。……さて、まだ来ぬかな」
――よい御方だな。
本村は、牛込橋之助という男をそう評価していた。
武士としては少々覇気に欠くきらいはあるが、性根は優しい。
与力ともなれば時には家のことも顧みる暇などない位に多忙であろうが、それをただ良しとはせず、息子のことも案じている。
手間を掛けるほどの時間はなくとも、気にかけるだけの想いは持っている、そういう男なのだと感じていた。
さて、後ろに控える惣助はどうしているかと目をやると、彼は話を聞いているのかいないのか、キョロキョロと周りを器用に眼だけで見回している。
――何か気がかりがあるのか。
すぐにも問いたい本村ではあったが、牛込の前ではそうもいかない。
やがて彦左が戻り、牛込に耳打ちをする。
すると牛込の顔がみるみるうちに青くなっていった。
「如何なされました」
「いや……、さて、そろそろ良いだろうか。ちと野暮用が出来てな」
はて、と本村は思う。
ご子息に何かあったのだろうか。実直な性質であろう牛込がこうも顔色を変えるのだ、何事かあったのかもしれない。
気にはなったが、とは言え一介の同心である本村が、その上の身分である与力の牛込にわざわざ聞くわけにもいかなかった。
「お忙しい中、かたじけのうございました。……ゆくぞ、惣助」
「はい。……あ、一つだけよろしいでしょうか、牛込様」
「こら、惣助」
「かまわぬよ。なんであろうな」
「はい。――このお屋敷の柱至るところに小さな傷がございますが、これは……」
「ああ、猫だ。飼った覚えはないんだが、いつの間にか居着いてしまったようでな。最近では中にまで入ってくるようになったらしい」
「そうですか……。いえ、少し気になったものですから。ありがとうございました」
結局大した進展もないまま、本村と惣助は牛込邸から出たのだった。
帰りの道すがら、本村はふいに、惣助が席を立つ前にした質問を思い出していた。
「なあ、惣助」
「なんです?」
「最後のお前さんの質問、ありゃあ何だったんだ?」
「……」
本村は質問したが、惣助は答えない。
「おい、惣助」
「本村さん。この件、ちょいと厄介なものが絡んでいるかもしれません」
「どういうことだ?」
「猫の爪痕、と仰っていましたが……」
惣助が見上げてくる。本村はその瞳に、困惑にも似たゆらぎを感じた。
「あれは猫、ではないかもしれません」
この作品は秋月忍先生主催の「和語り企画」参加作品です。
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