一ノ話 「同心と瓦版」
江戸の都を少し離れた宿場町。
そのまた外れの長屋に“瓦版あやかし屋”と書かれた、小さな看板が下げられている。
そこに同心、本村博嗣が訪れたのは、秋も深まる霜月の朝であった。
「いるかい、惣助」
「……はーい、お待ちを。……なんだ本村さんか」
「なんだたぁご挨拶だな」
奥の部屋から出てきた小柄な男は、生あくびを噛み殺しボンヤリと立っていた。
いかにも寝起きの体で、髪はボサボサ、懐手をした左手で顎をぽりぽりと掻いている。
大柄でいかにも膂力の高い、羽織の上からでも筋肉が透けてみえるような本村とは対称的であった。
「どうしたんです、こんな朝っぱらから」
「言うほど朝っぱらでもねえよ。いいからしゃんとしてきやがれ」
「はいはい。じゃあ、ちょいとお待ちを」
まったく、急いで出てみれば……などとぶつぶつ言いながら、惣助は再び部屋に引っ込んだ。
――やれやれ。
本村は小さくため息をついた。惣助との付き合いは半年程になるが、朝に来てまともな格好をしていた試しがない。ともすれば昼時でさえ寝間着のままで握り飯に齧りついていたりする。
――ちゃんとすりゃあ男っぷりも悪くねえんだがなぁ。
そう思う本村だったが、反面、どれだけ言っても改めない惣助に、半ば諦めてもいた。
「お待たせ。それで、どうしました?」
「おう。……ちょいとまた、おめえさんの力を借りたくてな」
「ってことは、また?」
「ああ」
本村の眉間に皺が深く刻まれる。
困った時の彼の癖である。
「またあやかし話が出やがった。……今度は“お膝元”だ」
「……詳しく伺いましょうか」
そう言うと、惣助は本村を長屋の中に促す。本村は小さくうなずくと、玄関の扉を後ろ手に閉め、草履を脱いだ。
――――
「化け猫、ですか」
言いながら惣助は湯を沸かしている。
昨夜も遅くまで仕事をしていたのだろう。惣助の座る後ろには、机を中心に文字や絵を書き綴った紙が散乱していた。
「見たのは出入りの呉服屋なんだがな。そいつの話じゃあ、昨日の晩、猫が二本足で立って歩いているのを見たんだそうだ」
「二本足で?」
惣助の入れた白湯を受け取った本村は、湯呑みに口を少しつけ、顔をしかめた。
猫舌なのである。
「大きい身体して、いまだに熱いの駄目なんですか」
「大きいは関係ねえだろう。これでも大分良くなったんだ」
「案外その化け猫の方が湯に強いかもしれませんね?」
「からかうんじゃねえよ。……で、その化け猫なんだがな。ちょいと厄介があってよ」
「どういうことです?」
そう聞いてくる惣助を見つつ、本村は声を低くして言った。
「見かけたのはとある与力の屋敷の中庭なんだがな。……その家で飼っている猫にそっくりだったそうだ」
「……ほう?」
それから本村はその猫について知っている情報を話した。
その猫はキジトラ柄で、首に巻いた青い首輪には鈴がついている。鈴の音が特段に綺麗で、一度聞けば間違えるようなものではないらしい。見た者も、最初はその鈴の音を聞いたらしい。お殿様の子が可愛がっている猫が、外に出ているなら教えて差し上げようという腹づもりで鈴の音がする方を向いた。すると、
「猫が立っていたと。なるほどねぇ……」
「で、まぁそいつも驚いて、腰を抜かして泡食ってる所を、門番が見つけて……ってなことらしい」
そこまで話すと本村は半ば冷めた白湯をぐい、と飲み干した。
「問題はその先だ。化け猫はふい、と消えちまったらしいんだが、その直後に屋敷の中から叫び声がした」
「ふむ」
「そいつから聞けたのはそこまでだ。家の者が憑り殺されたか、それとも滑って転んだのか、そのあたりからはっきりしねえ。俺としちゃあ何かしらの形でその化け猫が絡んでんじゃねえかとは思っちゃいるがな。だから今日、その与力に話を聞きに行こうと思ってな、おめえさんに声を掛けたんだ」
「“あやかし同心”の本村さんはともかく、私はただの瓦版屋ですよ? 与力の旦那のお宅になぞ、そうおいそれと伺えるわけが」
「なに言ってやがる。俺をあやかし同心などと名付けて広めやがったのはおめえさんだろうが。責任取って付き合いやがれ」
「えー……」
渋りながら、惣助は自分の後ろの机を振り返った。
周りには紙が散らかっているが、肝心の机の上には何も乗っていない。
「まぁいいか。ネタにも詰まってたし……」
「なんだ、書けてねえのか」
「世俗のあれこれには大して興味ありませんから。こないだの幽霊の件でだいぶ稼がせてもらいましたから、もう少しは生きていけるんですけどね」
こないだの幽霊の件、というのは、半年ほど前の騒動だ。江戸の北町の外れ、川のほとりに幽霊が出るとの噂が広まり、ちょっとした騒ぎになった。
結局蓋を開けてみれば、日暮れ時に風に揺れた柳の影がそう見えた、だけのことではあったが、その件を担当した同心が本村、通りがかりに解決してみせたのが惣助だった。
以来、この二人の付き合いが続いているといった話である。
「もう昼になるか。……とりあえず飯に行かねえか。起きてから食ってねえんだ」
「手持ちが余りないんですよねぇ……」
「そのくれぇ俺が持つ。与力殿の屋敷に行きがけに“夕庵”で鮭でもつつこう」
「……ご執心ですねぇ」
ニヤニヤと笑う惣助を、本村は仏頂面で一瞥した。
「うるせぇな。じゃあおめえさんは店の外で待ってろい」
「冗談ですよ。ご馳走になります」
「ったく……」
「まぁ、可愛らしいですからね、お多恵ちゃん」
「お、おう」
「あんな娘に仕事帰りに酌なんかされたら、そらぁ執心にもなりますよねぇ?」
「……おう」
「ま、みんな平等にそうなんですけどねっ」
「おぅ……の野郎っ!」
「あはははは」
そう楽しそうに笑う惣助の顔を見て、本村は再び小さくため息をついた。
この作品は秋月忍先生主催の「和語り企画」参加作品です。
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