終わった楽園の守護者たち(後・2)
「あのガキィッ……! どこに逃げやがった……!!」
男は焦っていた。声の主をどうしても見つけられず、念の為に遊園地を去ろうとベンチに戻ってみたら、誘拐してきた少女が消えていた。
まさか、あのガキに逃げ出すだけの度胸があったとは。男はゴミ箱を蹴り付け、獣のように唸った。あんなガキにおちょくられている。そう思うとハラワタが煮えくり返るようだった。歪んだ被害妄想は際限なく怒りに油を注ぎ、男の血走った目はギラギラと輝いていた。
視界の端に動く影を捉えた。闇の向こうに目を凝らすと、少女の姿がうっすらと見えた。
「まてゴラァ! ぶっ殺されてぇのかおめぇよぉ!!」
怒声を喚き散らしながら、男は大股でズンズンと歩く。あんな子供を必死に走って追いかけるのは、男の薄っぺらいプライドが許さなかった。
少女の姿がとある遊具に吸い込まれた。遊園地の定番、コーヒーカップだ。
男はわざと足を踏み鳴らしながら遊具に踏み入った。歩くたびに近くのコーヒーカップがギシギシと揺れる。少しでも少女を怯えさせてやろうという、安い考えだった。
コツリとカップの一つから音が上がる。恐怖に耐えきれずに動いたか、と男は口端を歪めた。
「見つけたぞ!! テメェ――」
男は怒鳴り込むようにカップを覗き込むが、中はもぬけの空だった。男は舌打ちをし、カップを蹴りつける。瞬間、突然足場がぐらりと揺れた。
「なっ――!?」
男はたたらを踏みながら、カップに手を掛けて姿勢を整える。なんで遊具が動き出すんだ。男がそう考える前に、体重を預けていたカップが、グルンッ!! と回転する。小さな悲鳴を上げながら、男はカップの中へ転がり落ちた。
「いってぇなぁ!! んだよこれはぁ!!」
男は立ち上がろうとするが、激しく回転を続けるカップの上では身動きが取れない。
「あっ、ガッ、ちょっ。んだっ、これっ。とと、とっ、止ま――」
男の乗っているカップは軽快な音楽に乗って、目にもとまらぬ速さで回転を続ける。
グルングルン。グルングルン。グルングルングルン。
やがて男は声も出せなくなり、唸りながら必死にカップの縁にしがみ付くだけとなった。
「……う~わ~……」
やだあんなの。私なら絶対に気持ち悪くなっちゃう。シズクはのんびりと流れるカップの縁から、乱舞する男のカップを眺めていた。
「コーヒーカップといえば、調子に乗って回し過ぎるのがお約束だからね。たまに投げ出されて怪我をする子もいるんだよ」
二本の白い腕が、でなくてサジがいう。
「だから事故が起きないように、制御室でカップの回転を調整できるんだ。減らす事ができるなら、当然増やす事もできる。にしても双子たち、やり過ぎだな」
やがて音楽がフェードアウトし、コーヒーカップの動きも止まった。男は眩暈を起こし、立ち上がるどころでは無かった。サジは身体を(腕を)更に薄くして男に近づく。カップ内に携帯電話を落としていないかと期待したが、そうはならなかったようだ。この作戦は失敗だ。
男が履いたズボンのポケットに携帯電話と見られる膨らみがある。前後不覚となっている男から携帯電話を盗み出す事は容易に思えたが、サジは守衛としてスリを働く気にはなれなかった。
〝お山の上の廃遊園地には、人を食べちゃうコーヒーカップがある〟という噂話を小学校で聞いたことがある。その正体はこれだね、とシズクは思った。ああやって動けなくなっちゃうんだ。あるいは、回転が凄すぎて弾き飛ばされちゃうのかな。だから居なくなっちゃったように見えるんだ。
何にせよ、いい気味だった。シズクは少しだけ胸がすくような気持になった。なんだかいじわるな気分だ。良くない感情だとは思う。けれど、あのおじさんには色々と酷い事をされた。少しくらいはお母さんとお父さんも、そして神様だって許してくれるはずだ。
『おう、サジ。お目当ての物が見つかったぞ。ちぃっとばかし埃を被っちゃいるが、なぁに、問題は無いだろうよ』
無線機から音量を絞った声が流れる。クラハシとハルカは、医務室やスタッフの休憩所で救急セットを探していたのだった。
歩き去ろうとするシズクを見て、男が「まぁてぇぇ、こらぁぁぁ」と覇気のない声を上げ、よろよろと立ち上がった。どうやら回復しつつあるようだ。シズクの治療の為に、時間を稼ぐ必要がある。シズクの傷をいつまでもそのままにしておくのは、あまりに可哀想だった。
サジがミラーハウスに向かうと、入口の前でシズクが戸惑うような仕草を見せた。どうしたんだい、とサジが問うと、シズクは「ここって、その、他の誰かに身体を取られちゃうんでしょう?」と怯えるように呟いた。
ああ、とサジは頷く。そういえば、ミラーハウスにもそんな噂があった。いわく、〝ミラーハウスから出てくると、まるで別人のように人格が変わってしまう人が居るらしい〟という物だ。
男の怒鳴り声が近づいてきた。あまり猶予は無い。
「大丈夫だよ。ここにも怖いお化けなんていないから」
「でも……」
うーん、とサジは腕を組む。
「じゃあ、ミラーハウスの出口に向かう間に、噂の本当の事を教えてあげるよ。きっと笑っちゃうよ?」
渋るシズクの手を引いて、サジが扉をくぐる。壁際のスイッチを押すと、パパパッと明かりがついた。ジジジ、という電灯の唸りが、ドリームキャッスルの地下から響くハヤトの雄叫びのように思えた。
シズクはキョロキョロと辺りを不安そうに見回しながら、肩を縮めて歩いていく。くすんだ鏡に映る自分の姿が、なんだか恐ろしい物のように思えた。
「ある双子の姉妹が居てね、この双子、顔は瓜二つなのに性格が正反対だったんだ。あ、さっきのミキとミクとは別人だからね。たしか、高校生だったかな」
約束通り、サジが噂の真相を語り出す。
「姉は結構キツイ性格で、妹の方は人当たりが良いのだけれど、自分の意見をはっきりと言えない性格だった。妹にはしつこく言い寄る男の子がいてね、妹は断り切れずに、この裏野ドリームランドで遊園地デートをする羽目になっちゃったんだ」
「う、うん」
デート、か。なんだか大人な話だね。とシズクは思った。
「困り果てる妹を見て、姉はとある作戦を考えた。姉が先にミラーハウスに入り、中ではぐれたふりをした妹と入れ替わるってものさ。単純だけれど、だからこそ男の子には見抜けなかった。洋服も髪型も同じにして、靴とバッグは隠れて交換した。見た目だけは全く同じだった。けれど、二人は性格が正反対だった」
「それで、どうなったの?」
シズクは気になって、先を促す。
「姉は男の子と出口で合流した。そして、こっぴどく振ったんだ。シズクちゃんの教育に良くないような言葉をたっぷりと添えてね」
シズクは思わず噴き出した。その男の子は、よっぽど驚いたに違いない。人が変わったような彼女の態度に面食らった事だろう。だがそれも当たり前。本当に〝人が変わって〟いたのだから。
話に夢中になっているうちに、いつの間にか出口についていた。扉を抜けると、救急セットを手にしたハルカが二人を待っていた。
「で、この後はどうするつもりなの?」
シズクの傷の手早く応急処置したハルカが、興味も無さそうにサジに問う。
「せっかくだから、裏野ドリームランドを満喫して貰おうと思う。お次はジェットコースターかな」
びくり、とシズクは肩を震わせた。絶叫系は苦手だ。乗った事は無いけれど、見ているだけで胸元が浮ついたような感覚に襲われる。
「……悪趣味ね。危害は加えないんじゃなかったの?」
「別に怪我をさせる訳じゃない。楽しんでもらうだけさ」
「意外と怖い奴なのかもね、アンタ」
小さく肩を竦め、ハルカがくすり、と笑う。
「最後は、ハルカさんとクラハシさんに頼る事になると思う」
サジがそういうと、ハルカは少し考えて「わかった、準備しておく」と言って立ちあがる。ミラーハウスの内部から、男の怒声が遠く聞こえて来た。
やっとの思いでミラーハウスを抜けだした男は、額に青筋を浮かせてギョロギョロと辺りを見回していた。程なくして少女の背中を遠くに捉えた。
どこまでもおちょくってくれやがって、と男は激高した。もうなりふり構っていられるか、と走り出す。しかし、一向に距離が縮まらない。馬鹿な、あんなガキに追いつけないなんて。いくら最近体力の低下が気になるとはいえ、そんな事があり得るか?
というか、あのガキ……。少し、浮いてないか?
男が突然走り出したのを見て、サジは慌ててシズクを抱え上げた。誘い出すつもりが、追いつかれてしまっては元も子もない。シズクの両脇に手を差し込み、少しだけ身体を浮かせて全力で走る。なんとも滑稽な光景だった。
こんな身体でも、意外となんとかなるものだ。どうにか追いつかれずに、男をジェットコースターの乗降場に誘いこむ事ができた。
やがて男がジェットコースターの車両を挟んだ反対側にシズクの姿を見つけ、座席に足を踏み入れる。瞬間、膝裏を何かに叩かれた。サジの仕業だ。男はカクン、と姿勢を崩し、座席に座り込む。男は慌てて立ち上がろうとするが、その前にストッパーが下りてきて身体をガッチリと押さえつけた。
「なっ!? なんだよ今度は! どうなってんだ、この遊園地はよぉ!?」
男の脳裏にコーヒーカップでの恐怖が蘇る。嫌な予感が溢れ出して止まらない。果たして、その予感は現実のものとなった。ジェットコースターはゆっくりと動き出し、最初の山を車両がゆっくりと昇っていく。
「このジェットコースターにも、嫌な噂があるんだ。シズクちゃんは知っているのかな」
サジの言葉にシズクは頷いた。いわく〝裏野ドリームランドのジェットコースターで過去に事故が起きた事は確実なのだが、誰もその内容を正しくは知らない〟というものだ。ただでさえ恐ろしいジェットコースターに、そのような妙な噂があっては誰も乗る気にはなれないだろう。シズクも勿論、ごめんだった。
やがて車両が山の頂点に達し、抗議の声を上げ続ける男を乗せたまま走り出した。
深夜の廃遊園地に絶叫が木霊する。車両がレールを駆け抜ける騒音と相まって、潰れた蛙の悲鳴よりも聞き苦しい代物だった。
「その噂もね、なんてことない出来事から生み出されたんだ。過去に事故があったのは確かだよ。でもね、その事故ってのはさ」
シズクは気が気では無かった。このジェットコースターは、そう大きなものでは無い。もうすぐ車両が帰ってきてしまう。そうなれば、男も降りてくるはずだ。
車両がみるみる近づいてくる。そして乗降場に到達し――、そのまま駆け抜けた。
「――。へっ?」
ポカンと車両を見送るシズクの頭を、サジが優しく撫でる。
「点検中の作業員が試運転で乗り込んだ時に、制御盤が故障してね。そのまま十週したんだ。解放された作業員はグロッキー状態。救急車で運ばれたよ。もちろん、命に別状はないけれどね」
生まれたての小鹿のような足取りで、男がジェットコースターの乗降場から降りてくる。
本当に何なのだ、この遊園地は。妙な事ばかりが起きやがる。幽霊なんぞ欠片も信じちゃいねぇが、この遊園地がおかしいのだけは確かだ。
結局ジェットコースターは男を乗せたまま、十週も走り続けた。突然男が「うっ!?」と呻き、そのまま胃の中身を地面にぶちまけた。無理も無い。三半規管をとことんまで震わされた。よろめきながらでも歩けているのが奇跡のようなものだった。
視界の端に少女の背中を見つけた。もう何度目だ? 男はもう追いかけっこには飽き飽きしていたが、逃がす訳にもいかない。どうにか少女を追いかけていくと、またもその背中はアトラクションの中へ消えて行った。
男はアトラクションの入口を見上げ、看板に書かれた文字を読み上げる。
「アクアツアー……。か……」
たしか小さな水路を、船に乗ってのんびりと進むアトラクションだ。男は少し迷ったが、ここならば先ほどのような目には遭うまい。意を決して、内部へ踏み込んだ。
進んでいくと、ちょうど少女が船に乗り込んだところだった。
どうする? と男は考える。別にここで追わなくても、あのガキはここに戻ってくるのだ。別に追う必要は――。
いや、俺が追って来ないのを良い事に、どこかで船を飛び降りたら? そうなれば、完全に見失ってしまうのではないか? それに、このままコケにされ続けるのも癪だ。待ち伏せなんかよりも、追い立てて追い詰めて、ションベン漏らしそうな程にビビらせてとっ捕まえる。これしかない。
男は小さく頷くともう一隻の船に乗り込み、操縦席の始動ボタンを押した。
背後からゲロを吐く呻き声が聞こえてきた。明日の掃除は大変なことになりそうだな、とげんなりしながら、サジはシズクと共に『アクアツアー』にやってきた。
この『アクアツアー』も、妙な噂の絶えなかった場所だ。
噂とは、〝水面に謎の生き物の陰が見える〟というものだ。結論から言うと、〝謎の生き物〟の正体とは、アクアツアーのスタッフである。
アクアツアーの湖は、自然の物をそのまま利用した造りになっている。住んでいた魚は別の生け簀に移したが、それでもいくらかはアクアツアーの湖に侵入してくる事があった。
年に数回、スタッフが潜水して魚の死骸や設備に絡まった水草の除去などを行う。その年は水温が高かったせいか、水草が異常なまでに繁殖していた。
水草の清掃は一回では終わらず、予定を変更して営業中にも時間を設けて複数回行われた。ある日、手違いでアトラクションの営業中に水草の除去が行なわれた事があった。
水草はスタッフの身体に絡みつき、輪郭を曖昧にさせる。その影は乗客に動画や写真を撮られ、SNSで拡散された。〝素材〟は面白可笑しく加工され、肥大化した噂だけが今もアクアツアーの水底に沈んでいる。
サジとシズクが船に乗り込むと、ミキとミクがそれを出迎えた。
「なんだ二人とも。どうかしたのかい」
「えっとねー。退屈だから来ちゃった♪」ミクが言う。
「…………」
まぁ良いか、とサジはそのまま二人を乗せて出港した。下手に降ろして機嫌を損なわれるのも面倒だ。シズクは同年代の双子が加わって、少し嬉しそうだった。
問題なのは、あの男が思惑通りに追ってくるかだ。アクアツアーの水路は円形で、結局は乗降場に戻ってくることになる。わざわざ追いかける必要もない。
だが、サジは男は追ってくるだろうと考えていた。あれは他人を支配しようとするタイプの人間だ。それも恐怖や暴力で相手を屈服させることに快感を覚える類の人間だろうと、サジは考えていた。子供相手に、待ち伏せなどはしないだろう。力ずくで押さえつける方法を選ぶはずだ。
男が船に乗り込む様子が見えた。計画通りだ。少々手荒な方法になるが、致し方ない。怪我をさせるような事にはならないだろう。
深夜のアクアツアーは、黄泉路を往く船旅のようだった。ジャングルを模した景色はひっそりと静まり返り、垂れ下がった蔦が死神の指先のように見えた。
船の距離は一向に縮まらない。男はイラついて計器を殴りつけたり、ボタンを滅茶苦茶に押したり、手で水面をかいたりしていた。船を漕いでいるつもりなのだろうか。
男の行為は、全てが無駄だ。計器類などは、殆どがフェイクなのだから。
アクアツアーの船は、実は船底からアームが伸びており、水底に敷かれたレールに繋がっている。いうなれば船の形をしたモノレールだ。だから特別な操縦技術などなくても、安心安全に航行できるという訳である。
アクアツアーでの計画はこうだ。湖に潜ったハルカが男の船を待ち伏せし、水の中に引きずり込んで携帯電話を奪う。結局力技になってしまうのは忸怩たる思いだが、今は結果が求められる場面だ。怪我さえさせなければ、自分の中の一線を越えることにはならないと、サジは考えていた。
目印に指定したカバの人形が見えてきた。風雨にさらされてペンキが剥げたカバが、大口を開けている。
「ねぇねぇ。これ使っちゃおうか」
「良いね! 一回撃ってみたかったんだぁ」
キャイキャイと双子が騒ぐ。気付かれたらどうする、とサジが二人を叱るが、テンションの上がった子供ほど手に負えないものはない。
双子は船体に取り付けられたウォーターガンを弄り回している。船を襲う原住民を撃退する、というアトラクション内イベントで使用される遊具だ。ウォーターガンはポンプで組み上げた水に圧力をかけて撃ち出すという仕組みで、バズーカ的な造形をしている。水を撃ち出す反動で転んで怪我をしないように、銃身は船体に固定されていた。丁度、百円玉をいれて覗き込む望遠鏡のような見た目だ。ウォーターガンは船尾にも取り付けられており、真後ろにも水撃を放てるようになっていた。
「一発目を譲ってあげる。ふくしゅーしちゃいなよ、ふくしゅー」
双子は戸惑うシズクの背中を押し、ウォーターガンのグリップを握らせる。
「おいおい……」
なんだか嫌な予感がした。サジはシズクを止めようとしたが、その前に無線機から『おい、サジ。聞こえるか』とクラハシの声が流れてきた。
「クラハシさん、少し待ってください。シズク、やめ――」
一歩遅かった。シズクが遠くに見える男の陰に狙いを定め、引き金を引く。次の瞬間、ウォーターガンから尋常ではない量の水が放たれた。放水の反動で船がガクンッ!! と大きく揺れる。まるで機動隊の放水砲だ。
放水は一直線に伸び、男を直撃した。男は「ぐぺっ!?」とヘンテコな悲鳴を上げて、船外へ吹っ飛ばされる。
「あ、あわわわ」
シズクは顔を真っ青にして固まっている。突然の出来事に脳の処理が追い付いていないようだった。
そろり、そろりと双子がシズクから離れようとする。その頭を、サジがガッシリと掴んだ。双子の口から「「ひぃっ」」と悲鳴が上がる。
「ミキ。ミク。僕が言いたいことは、解っているね?」
「ゆ、誘拐犯を撃退だ! ミキちゃんカッコい――痛い痛い!?」
ギリギリとミキの頭蓋が悲鳴を上げる。ミクは「あばばばば」と怯えていた。
『ウォーターガンだけどな、絶対に使うなよ。ちぃっとばかし強力にしすぎちまってな』
先に言っておいてくれ……とサジはため息をつく。ハルカは空っぽな船の淵に手をかけて、不思議そうに首を傾げていた。
■
シャワシャワシャワ、とセミが大合唱をしている。シズクとの一件から、どれくらいたっただろうか。今は夏真っ盛り。抜けるような青空の下で、サジは今日も空き缶を拾い集めていた。
あの夜。水没した男の携帯電話を、クラハシが通話だけはできるように応急処置的に修理をした。通報はシズクが自身で行った。サジのカンペを頼りに。
やってきた警察は錯乱する男を捕らえ、シズクを保護した。十台以上も集まった警察車両のパトランプが煌々と輝き、とてもまぶしい夜だった。
シズクは元気にしているだろうか。心に傷を負っていなければ良いが。終わった楽園に佇むしかできないサジたちには、ただシズクが元の平穏な生活に戻れるように、祈る事しかできなかった。
「まーたあの娘の事を考えてんのか」
不自然に動きを止めたサジに、煙草を燻らせながらハヤトが方眉を上げる。
「一歩も進めない幽霊な俺たちがよ、未来ある子供の事なんか考えても仕方ねぇだろ」
確かに、ハヤトのいう事は正しい。シズクとサジたちでは住む場所が違うのだ。あれは一夜の夢。泡沫の幻だ。
楽しかったのかもな、とサジは思った。シズクと過ごしたひと時は、物騒で、スリルがあって、笑えないほど危険で、そして夢のようだった。既に終わってしまった裏野ドリームランドと、終わってしまったサジにとっては、眩しすぎる時間であった。
シズクには、精一杯生きて欲しいと思う。この夏空のように、どこまでも晴れやかに、生命の光を迸らせて生きて欲しい。幽霊の自分が、とも思うが、それでもサジは祈らずにはいられなかった。
不意に、自動車のエンジン音が聞こえた気がした。こんな昼間に、こんな廃遊園地に、来園者?
エンジン音が近づいてくる。それも一台ではない。三台の警察車両が遊園地前に駐車し、中から制服警官と数名のスーツ組が現れた。そして彼らに護られるように姿を現したのは、シズクだった。頬の腫れはすっかり引いて、綺麗な顔を取り戻していた。
キョロキョロと何かを探すように辺りを見回すシズクから、サジたちは姿を隠した。
会ってはいけない。あの娘と自分たちは住む場所が違うのだから。もう夢は終わったのだ。自分たちが最後にシズクにしてやれることは、綺麗に忘れられる事だけだ。
だけど、とも思う。本当は声を掛けたい。もう一度小さな頭を撫でてやりたい。よく頑張ったね、と抱きしめてやりたい。
シズクはサジと回った遊具やアトラクションを順番に巡り、そこで何があったのかを説明していく。現場検証というやつだろうか? 説明を受ける刑事たちは困惑しきりだった。無理もない。あの夜は常識の範疇にないのだから。
結局、最後までサジたちはシズクに姿を見せなかった。
名残惜しそうに何度も振り向きながら、シズクは引き上げる刑事たちの背中を追った。その背中が正門の門扉をくぐる直前、突然振り向いて声を張り上げた。
「おばけさ――――ん! 聞こえますか――――!?」
何事かと刑事たちが目を丸くする。
「私、絶対に忘れないから! 絶対に絶対に忘れないから!! 一生ありがとうって言い続けるから――――!!」
刑事たちはシズクの突然の行動に戸惑っていた。とにかく車に乗せてしまおうと肩に手を掛けたとき、信じられない物を見た。
メリーゴーラウンドが、ジェットコースターが、コーヒーカップが、観覧車が、在りし日のように動き出した。軽快な音楽を奏でて、夢の国が目を覚ましたかのようだった。
「ねぇハヤト。幽霊だから一歩も進めない、なんて事もなさそうだよ」
サジはシズクの輝く笑顔を見つめる。未来への一歩は、確実に受け継がれてゆくのだ。サジはもう、忘れ去られたいとは思えなくなっていた。
夢の国は、永遠だ。
『完』