終わった楽園の守護者たち(後・1)
「おらっ! モタモタしてねぇでキリキリ歩くんだよ!!」
男が怒声を張り上げながら、乱暴に少女の手を引く。男の年齢は四十手前くらいだろうか。細長い顔の上で、丸い瞳がギョロリと光っている。その眼も離れ気味で、どこか深海魚を思わせる顔立ちの男だった。
少女はハルカの言う通り、八才くらいと思われた。身長は平均的だが大変華奢で、見るからに気弱そうな女の子だった。彼女は小さくしゃくりあげながら、引っ立てられる罪人のように歩かされている。
男に殴られたのだろう。少女の頬は腫れ上がり、口端には血の跡が擦られて反対側の頬に引かれていた。サジはその傷を見て、例えようのない怒りに襲われた。いつかの助けを求める少年の姿が、少女に重なった。
だが、今回は虐待という訳でもなさそうだ。数えきれない程の家族を見守って来たサジには、確信があった。あの二人は親子の関係に無い。
「ロクなもんじゃねぇ、ってのは、わかるが……」
ハヤトが声を上げる。サジとハヤトは物陰に隠れて、男と少女を観察していた。堂々と姿を晒しても彼らの目に映らないようにする事も可能なのだが、それでも隠れてしまうのは生きている頃からの癖のようなものだ。
男は思うように歩かない少女に腹を立て、頬を平手ではたいた。何度もそうされてきたのだろう。少女は悲鳴も上げず、ベンチにもたれ掛かる。男は舌打ちをして苛ただしげにベンチに腰掛けた。
クラハシと双子がやって来た。遠くに少女たちを捉えながら、彼らはひそひそと言葉を交わす。
「何もんだ、あいつら」クラハシが言う。
「遊びに来た……なんてことは、ないよねぇ?」
「だよねぇ。私も、違うと思う」ミキとミクが頷きあう。
思うんだけど、とサジが手を上げ――というか、手のひらを皆に向けた。
「もしかしたら、誘拐じゃないかな」
はぁ? とハヤトが片眉を上げる。
「どうしてそんな話になるんだよ。確かに顔も似てねぇし、ヤバそうな雰囲気はあるけどよ。そんな風に決めつける事はできねぇだろ」
「親子っていうのはさ、たとえどんなにお互いの関係が悪くても、やっぱりどこかに繋がりみたいなものを感じるんだよ。けれど、あの二人にはそれが無い」
サジは、はっきりと言い切る。
「まぁ、最悪の事態を想定して動くってのは大切だ」
クラハシが頷く。「そうはいうけどよ」とハヤトが口を開いた。
「どうするっていうんだ? 俺たちにできる事なんて、せいぜいが脅かすくらいだぞ」
「だからと言って、見過ごすなんてできないでしょ」
声に振り向くと、いつの間にかハルカがサジの隣に立っていた。
「おじさんの頭を、パコーンとやっちゃえば良いんじゃない?」
「そうだよ。それで女の子を連れてきて、隠しちゃえば――」
「駄目だ」
双子の提案を、サジがぴしゃりと却下する。
「怪我を負わせるのは駄目だ。絶対に」
「でもよサジ、相手は誘拐犯かもしれねぇんだろ? そんな奴に気を使う必要はねぇだろ」
「それでもだよ、ハヤト。遊園地のスタッフが来園者へ、故意に怪我をさせるなんてありえない」
「けれど――」
「駄目だ。これだけは譲らない」
ハヤトは溜息をつき、ゆるゆると頭を振りながら両手を上げた。
「わかった、降参だよ、頑固者め。怪我をさせるような事はしない」
とにかく、とハルカが口をはさんだ。
「今私たちが知らなければならないのは、彼女がどんな目に遭っているのか、よ。こういうのは、当事者から聞き出すのが一番ね」
『おぉーい、幽霊さんよぉー! 出て来いよぉー!!』
遠くから聞こえてくる若い声に、ベンチでふんぞり返っていた男は舌打ちをした。クソガキが、と小さく毒突く。ネットで評判になるほど悪名高い廃遊園地なら誰も寄り付かないだろうと考えていたが、それは間違っていたようだ。車は一応目立たない場所に停めたが、見られているかもしれない。
場合によっては口留めも考えなければな、と男は腰を上げる。まずは声の主を確認しようと思った。恐らくは夏休み中の大学生あたりだろう。一人でこんな場所までやって来るという事はあるまい。上手くやり過ごせれば良いが……。
男は少女を「勝手に動いたら殺すからな」と脅しつけ、足音を立てずに歩き去る。楽しんだ後に結局は殺すつもりなのだが、逃げられでもしたら余計な手間がかかる。しかし所詮はガキだ、軽く脅しておけばビビッて動けまい。男はそう思った。
男の背中が闇に消える。少女がほう、と息をつくと、突然背後から「こんばんわー」と声を掛けられた。
「えっ」
少女は身を固くする。こんな場所に、あの男と自分以外に誰かが居るはずがない。もしかしたら……。いや。さっきの遠くからの声の主かもしれない。そうであって欲しい。
恐る恐る少女は振り向き、そして透けた身体を持つ双子を見て悲鳴を上げかけた。ミキとミクは「わーっ!? ちょっと待って待って!」と慌ててその口を塞いだ。
「む、むぐ! おば、おばばば」少女が目を丸くしてもがく。
「失礼な! 十代になりたてのピチピチだぞ! 生きていればそうかも知れないけども」
「もうピチピチってのが古いよ、ミク。それに〝おばさん〟じゃなくて、〝おばけ〟って言いたいんじゃない?」
そっかー。とミクが頷く。少女もコクコクと首を縦に振った。
「大丈夫。私たち、良いおばけだから」
ビシッ! とミクがサムズアップを少女に向ける。少女は未だ怯えていたが、双子の様子に危険はないと判断したようだ。身体から力が抜けていく。双子が口元から手を放すと、少女は大きく息をついた。
「いろいろ聞きたいけれど、まずは一番大切なことからね」
「う、うん」
ミキの言葉に、少女は不安そうに頷く。じゃあ、と双子は声を揃えた。
「「助けて欲しい?」」
少し迷うように顎を引き、やがて少女は力強く頷いた。見合わせた双子の顔に、笑顔が灯る。
ベンチを離れ、双子は少女をメリーゴーラウンドに連れて行く。そこでサジたちが待っていた。
「ようお嬢ちゃん。俺はクラハシだ。君のお名前を聞いてもいいかい」
しゃがみ込んで目線を合わせ、クラハシが孫に話しかけるような調子で言う。初めは怯えた様子だった少女も、クラハシの柔らかい雰囲気に警戒を弱めていく。
「し、シズク……です」
「シズクちゃんか。よろしくな」
ニカッとクラハシが歯を見せると、シズクもつられて笑顔を見せた。腫れあがった頬が痛々しい。
ほらお前も、と促すクラハシに「私は別に良いわよ」とハルカは面倒そうに顔をそむける。自分を不安そうに見上げるシズクの視線に気が付くと、ハルカは居心地が悪そうに身じろぎし、やがて「……ハルカ。別に覚えなくてもいいわ」とぶっきらぼうに言った。
「じゃあ、僕も自己紹介を」
サジがクラハシの背後から姿を現すと、シズクは小さく悲鳴を上げた。
「ばっかお前、出てくんじゃねぇよ。シズクちゃんが怖がるだろうが」
「ええ? 酷いな。クラハシさんみたいに、怖い顔なんてしていませんよ」
「おめぇは顔すらねぇだろうが!」
密やかな笑い声が上がる。二人のやり取りを見て、シズクの口元から笑みがこぼれていた。
「ほら。子供の順応性をなめちゃいけません」
「けっ。たまたまだ、たまたま」
つまらなそうに舌打ちをするクラハシを置いておいて、サジは自己紹介をする。声を上げて男を引き付けているハヤトの事も付け加えておいた。
「それで、なんだけれど」サジが言う。「シズクちゃんはどうしてこんな場所へ? あのおじさんは、誰だかわかるのかな?」
シズクの表情がみるみる曇っていく。彼女はやがて絞り出すように、ぽつぽつと語りだした。
シズクの話を要約すると、こんな所だ。
夕方、母親と近所のスーパーに出かけ、母親が野菜を選んでいる間にシズクは一人でお菓子コーナーに向かった。そこで男に声を掛けられた。あの深海魚顔の男だ。なんと言われたのかは、半分も理解できなかった。ただ〝お母さんがひどい怪我をした〟というような内容だったと思う。それでシズクは頭が真っ白になり、男に言われるがままに車に乗り込んでしまった。
自分がとんでもない間違いを犯したと気が付いたのは、辺りの街並みに見覚えがなくなってからだ。『知らないおじさんに付いていってはいけません』と何度も言われてきたのに、約束を守れなかった。これではお母さんとお父さんに叱られてしまう。そう思った。
何とかして逃げ出そうと思った。信号で車が止まった瞬間に、隙を見てドアの鍵を開けた。瞬間、男がシズクを殴りつけ、シートに押さえつけた。激高した男は車を路肩に停め、シズクが抵抗しなくなるまで痛めつけた。
そしてシズクが大人しくなると、男はそのまま数時間かけて車を走らせ、裏野ドリームランドにやってきた――という事だ。
覿面に怒りを表したのはクラハシだ。鼻の穴を膨らませて「あの野郎、ゆるせん!!」と髪の毛を逆立たせている。
「やっちまおうぜ、サジ。あの男は客じゃねぇんだ、ちょっとくらい痛めつけたって構わんだろう。シズクちゃんに怪我をさせたお返しをしなきゃならん。そうだろう?」
「私も許せないとは思いますよ。しかし、危害を加えるようなことはNGです」
「俺以上の頑固者だな、お前は」
ため息をつくクラハシの隣で、ハルカが「でも」と声を上げる。
「あの男、絶対にシズクを諦めないわよ。私たちがシズクを隠すのにも限界があるし、何か手を打たないと」
まったくその通りだった。シズクを匿った所で、一時しのぎにしかならない。他に招かれざる来園者でもやってくればシズクを任せることもできるだろうが、今日に限ってその気配はなかった。
「はいはーい。お巡りさんに通報するのが良いと思います」
「私もそう思うー」
双子の言葉に、クラハシが「でもよ」と眉根を寄せる。
「どうやって連絡を取るんだ? 電話は使えねぇぞ。街まで歩いていくにしても、俺たちだけで行っても意味ねぇしな……」
裏野ドリームランドから車通りのある国道に出るだけでも、大人の脚でも数時間はかかる。幼いシズクには遠すぎる道のりだ。
「電話ならあるでしょう。あの男から拝借すれば良いのよ。自分の携帯で通報されるなんて、滑稽だわ」
「それ良い! わっ、と脅かして奪っちゃおう! サジもそれで良いよね?」
楽しそうに両手を広げる双子に、サジは悩むように唸った。脅かして携帯電話を奪う。守衛としてどうなのだ、それは? しかし、他に手がなさそうなのも確かだった。
「良いだろう。誘拐犯を驚かせて携帯電話を奪い、通報して朝を迎える」
ただし、とサジは付け加える。
「絶対に怪我をさせないようにだ。あくまでアトラクションの範囲で、奴を驚かせる」