終わった楽園の守護者たち(前)
闇を貫く一条の光。
懐中電灯の光は下卑た笑い声に合わせて揺れ動き、静かな夜を蹂躙している。
「夜の遊園地ってよ、なんかグッとくるよな。別世界っつーか異世界っつーか」
「ぎゃはは。なんだよグッて、おやじかよ」
「キタコレ良いね異世界っ。転生しちゃう? 転生しちゃう?」
大学生くらいだろうか。若い男が三人、摘まむように缶チューハイをぶら下げて汚泥のような声を上げている。少し後ろを男たちと同年代の女性が二人、おっかなびっくりといった様子でついてくる。
「ねぇ帰ろうって。肝試しとか今時流行んないよ。マジ意味ないって」
「ネットでもさ、超ヤバいってここ。なんで男ってこういうの好きなの?」
二人の女性が身を寄せ合い、小動物のように辺りを見回す。
裏野ドリームランド。いま彼らが足を踏み入れているこの地は、三年前までそう呼ばれていた。開園当初はそれなりの入場者数を誇り、業績は順調といえるものだった。しかし、いつからか良からぬ噂が次々と立つようになり、客足が急激に遠のいた。
裏野ドリームランドは瞬く間に閉園に追い込まれ、莫大な解体費用を工面する事もできずに放置されている。子供たちの笑い声で溢れていた頃の面影は欠片も無く、今や暇を持て余した若者のたちの、一時の慰み者に成り果てていた。
男たちは「びびってんのか幽霊さんよぉー」「出てこないと火ぃつけちゃうよー?」などと大声を張り上げ、ゲラゲラと笑い声を上げている。威勢の良い事だが、その実、彼らはとても怯えていた。
裏野ドリームランドは心霊スポットとしては、いわく〝本物〟にカテゴライズされ、軽い気持ちで近づいてはいけない場所とされている。心霊スポットの話題は季節を問わずネット掲示板などを賑わせるが、裏野ドリームランドの名が上がるたびに〝あそこは、なぁ?〟と誰もが遠慮がちにその名を扱う。
夢と希望に溢れていたはずの遊園地が、なぜこのような魔境に成り果ててしまったのか。この地を取り巻く、様々な不気味な噂は本当だったのだろうか。
そうではない。裏野ドリームランドが忌み地として扱われるようになったのは、人々を遠ざけ、この地を守ろうとする者達がいるからだ。心無い噂に弄ばれ、廃園の憂き目にあってもなお、面白半分に蹂躙され続ける。その事が許せない者達が、今もここに居るのだ。
男たちは錆びの浮いたゴミ箱を蹴り、建物の壁に空き缶を投げつけて騒音を上げる。そうしていないと、恐ろしくて堪らないのだ。声を張り上げ、あらゆる物を使って音を上げ、我此処にありと主張しなければ、周囲を取り囲む夜闇の静寂に飲み込まれてしまうような気がしてならなかった。どこからかにゅっと白い腕が伸び、自分を闇の中へ引きずり込んでしまうのではないか、という馬鹿げた幻想が頭から離れなかった。
裏野ドリームランド跡地は山の深い場所にあり、周囲にはコンビニの一つも無い。生を謳歌する若者がこのような場所にやって来たのは、少しばかりのスリルを求めてのことだ。金も掛からず、手間も無い。何より女性を深夜まで連れ回す絶好の言い訳になる。加えて、ちょっとばかりカッコいい所を見せる事ができれば僥倖だ。わざわざ深夜にこのような場所へやって来る男たちは、大概がそのような子供じみた思考しかもっていない。
だが、彼らはこの地に足を踏みいれた事を後悔することになる。聳え立つ壁のような漆黒の闇。生臭く、重苦しい空気。放棄された遊園地が、巨大な生物の死骸のように見える。楽しい思い出の、平和な日常の、亡骸。その口の中に自ら飛び込んだのだと、後戻りができなくなってから気が付くのだ。
友人たちの手前、いまさら「やっぱり、やめにしよう」などとは言えない。男の誰かが帰ろうと言い出さないかと期待しながら「は、腹減らない?」「トイレとか行きたくなったらヤベェよな」と遠回しな台詞を並べ、しかし結局は薄っぺらいプライドに背中を押されて歩みを進める。
彼らは観覧車の乗降場に辿り着いた。そう広い遊園地でもない。入口から真っ直ぐに目指せば十分も掛からない距離なのだが、彼らにはその道行が途方も無く長い物に感じられていた。
乗降場の入口を閉じるフェンスは、鍵が壊れて開かれている。キャップを斜めに被り、ズボンの裾をだらしなく垂らした男がわざとコミカルな動きでそれを越える。
「ほら、ここだよ。〝誰もいないのに声がする〟って観覧――」
仲間たちの方を振り向き、引き攣った笑顔を浮かべていた男の表情が固まる。「なんだ、びびってんのか?」と笑う声も耳に入らない。彼は、別の声に怯えていた。
『出して……。出して……。ねぇ、出してよ……』
子供の声だ、と男は思った。幼くて高い、子供の声。
心臓が鷲掴みにされたようだった。身体中の筋肉は強張り、息が詰まって満足に呼吸もできない。身じろぎ一つする事もできずに、男は浅い呼吸を繰り返す。
男はゆっくりと振り向く。錆びついたブリキ人形のような、ぎこちない動きだった。見てはいけない。見たらきっと後悔する。頭ではわかっているのに、気のせいだという思いもどこかにあった。そうであって欲しいと願った。彼の心は恐怖に凍り付いているが、自分一人が情けなく叫び声を上げて、仲間たちから笑いものにされるのも御免だった。
幽霊なんて居るはずない。そんな彼の視線は、ゴンドラの汚れて曇ったガラスに付けられた、小さな手形に釘つけにされた。
「――はっ――」
胸が締め付けられ、軋みを上げる。脳髄が痺れ、本能が最大級の警告音を発している。
なんだ、コレ。
手形? 内側からか? どうして。
いたずら? さっきまでは無かったはず。
見落とした? いやそんな。ヤバい。変だ。
何か。ここは。何かが違う。何が?
解らない。危険だ。手形? 何が? 解らない。
ああ、ダメだ。ヤバい。ヤバい。逃げないと。
ダメだ。ああ、ちくしょう、足が動かない。ヤバいって。マジで。
マジで、ヤバ――。
『バンッ!!』
ゴンドラの内側から誰かがドアを平手で叩くような音が響いた。乗降場の前で待つ仲間たちは、男がゴンドラを叩いていると思ったのだろうか。「何してんの?」と呑気に、あるいは怪訝そうに声を掛ける。
男は仲間たちの声に応える事ができない。また『バンッ!!』と音が鳴る。
『バンッ!!』『バンッ!!』『バンッ!!』『バンッ!!』『バンッ!!』『バンッ!!』
ドアを叩く音が鳴り止まない。男は凍り付いていた。恐怖に捕らわれ、呼吸もできずに喉をひくつかせていた。
音のたびに、〝手形が一つずつ増えていく〟――。
何やってんだ、と仲間の一人が男の隣に並ぶ。そして、彼も凍り付いた。ドアのガラス一面にびっしりとついた、小さな手形に目を見開いた。
「お、おま、ここ、これぇ……」
手形で埋まったガラスの向こうに、丸い物が浮かび上がった。
それは顔だった。子供の、小さな顔。
顔が、ゆっくりと口を開く。
『だぁしぃぃてぇぇぇぇ……』
「あっ、あっあああっ、うああああぁぁぁぁ!!」
恐怖を爆発させ、二人の男は転げまわるように逃げ出した。入口で二人を見ていた仲間たちも、訳が分からないままにその背中を追いかけた。
「ちょっと何!? 意味わかんない! おいてかないでよ!」
と遅れた女性の一人が泣き出しそうな声を上げ、必死に仲間たちに追い縋る。
辺りは再び静寂に包まれ、夜に沈む。
手形に塗れたドアガラスの向こうで、密やかな笑い声が上がった。次第に声は大きくなり、やがて耐えきれないというように、大きな笑い声が溢れ出した。声は二つ。いずれも子供のものだった。
コツ、コツ、と硬い音。闇から伸びた半透明の腕が、ゴンドラをノックする。
「ミキ、ミク。あまり騒ぐな。まだあいつらは園内に居るんだからな」
若い男性の声が、囁くように流れる。
「大丈夫だって、サジ。逆に声に怯えて、逃げ出しちゃうんじゃない?」
ケラケラと子供たちが笑う。事務所に戻るようにサジが伝えると、ゴンドラの壁から染み出すようにニュッ、と二人の少女が姿を現した。
「やり過ぎだったかな?」
「えー? いいってアレくらいー。お望みどおりにスリルを味わえたでしょ」
まぁそうだよねー、とミキが笑う。右側頭部から髪束を垂らしているのがミキ。左側頭部でサイドテールを作っているのがミクだ。二人は双子の姉妹で、髪型以外は瓜二つだった。〝二十年前から十歳の姿〟であるらしい彼女たちは半年ほど前にこの地に流れ着いてきた。以来サジたちの〝裏野ドリームランドを守る戦い〟に協力している。完全に遊び半分ではあるが。
二人は一見しただけでは、普通の少女と変わらない。服装が少々古めかしい事と、身体が半透明である事を除けば。
はしゃぎながら遠ざかる背中を見つめながら、サジは溜息をついた。永遠に子供というのは、本人たちはそれはそれで楽しいかもしれないが、見ている方はなんとも複雑な気持ちになる。
白い腕が無線機を取り上げる。サジはミキやミクのような人間の形を持っていなかった。闇夜に浮かぶ、半透明な二本の白い腕。それがサジという存在であり、その全てだった。
「目標はメリーゴーラウンド方面へ移動中。ハヤト、出番だよ」
サジが無線機に向かって話す。サジは自分でも不思議なのだが、身体は無いのに視ることも聴くことも、話すこともできた。自分の顔や身体は誰の眼にも映らず、触れる事もできないが、自分自身では〝確かに存在している〟と感じられるのだ。
どうしてだろう、と考えることもあったが、すぐに気にしなくなった。どれだけ考えても答えなど解るはずもない。行動に支障がないのであれば、問題はないと思った。
しばらく待っても返事は返って来なかった。サジはもう一度「ハヤト?」と声を掛ける。ややって、無線機から面倒くさそうな声が流れてきた。
『はいはい、聞こえているよ、サジ。喜んで肉体労働をさせて頂きますとも』
無様に息を上がらせて、男たちが溺れるように走る。夜遊びに明け暮れた運動不足の身体はすぐに限界を迎え、彼らは膝に手を当てて俯いた。ポタポタと垂れる汗のしずくがアスファルトに水玉模様をつくる。
「なんで置いてくの!? わっっっっけわかんない!!」
やがて二人の女性が男たちに追いつき、缶チューハイの空き缶を背中に投げつけた。胸は激しく上下し、汗に溶けたマスカラが少し滲んでいた。地面に落ちた空き缶が虚しい音をたてる。
「るっっっせっぇな! マジでヤバかったんだって、マジで!」
「だから! 何が!?」
「あぁ!? 聞こえなかったのかよ、中から、その、〝出して〟って……!!」
「知らねぇよ! ってか勝手に連れてきて勝手にビビって先に逃げ出すとか、マジでありえねぇんですけど! ダサ過ぎんだよ!!」
ビ――――ッ!!
男女の激しく言い合う声は、突然のブザー音に遮られた。
「――えっ?」
「な、なんだよ。今度は――」
ズリッ。ズ、ズズ……。
どこからか、何かを引きずるような音が聞こえてくる。彼らは息を潜め、辺りを見回す。やがて女性の一人が「ね、ねぇ。アレ、動いてない……?」とメリーゴーラウンドを指さした。
彼らが視線を揃えた瞬間、パッ!! と光が灯った。
オレンジ色の光が溢れる。闇夜にぽっかりと浮かんだような光景。回転する光の園の中で、崩れた馬車や首のもげた白馬が上下しながら躍っている。
ひび割れた音楽が鳴り響く。陽気に泣き笑う、嗚咽のような歪んだメロディ。轟々と唸るモーター音と、軋む金属音が不協和音を奏でる。
それは夢のようで、悪夢のようだった。ここは世界の果てだ。夢の世界の、胸躍る楽園の屍。
ぐるぐる。ぐるぐる。死骸が躍る。
ぐるぐる。ぐるぐる。まばゆい光に包まれて。
ぐるぐる。ぐるぐる。世界の終わりを謳っている。
誰も目を離せなかった。息をするのも忘れて見入っていた。彼らはどこか背徳的な、退廃の美に魅入られていた。
同時に、心はこれまで以上の恐怖に捕らわれていた。なんて場所に足を踏み入れてしまったのだ。踏み入ってはいけない場所に踏み入り、見てはいけない物を見ている。怠惰で退屈で平穏な日常は、もはや遠いものになってしまった。
やがて音楽は途絶え、メリーゴーラウンドは息を引き取るように、静かに動きを止める。ポトリと落とされた静寂の中で、彼らは鋭く息を吸い込んだ。
今だ。今しかない。ここが最後の分水嶺だ。そう思った。今ならば、帰れる。
やっとの思いで、一歩後退る。足が大地の感触を掴み、身体に感覚が戻ってくる。
彼らは走る。もがくように走る。叫ぶこともできず、ただ必死に足を動かす。くだらないと放り投げた日常へ帰ろうと、帰してほしいと、帰りつかせてくれと願いながら走る。
遠くでそれを見つめる影がある。宙に浮かぶ二本の腕が、誰にも見えない頭を下げる。
どうぞ、気をつけてお帰り下さいませ。またのご来園、心よりお待ちしておりません――。
ランドの中心に位置するドリームキャッスルの地下には、裏野ドリームランドの心臓部ともいうべき機械制御室や電気室がある。また、地下通路は事務所やスタッフの休憩室にも繋がっている。サジは重い鉄扉を開け、階段をゆっくりと降りていく。傍目には、階段の上を浮遊する白い腕にしか見えないが。
「お疲れさん。悪ガキどもは帰ったかね。ションベンで園内を汚してなきゃ良いが」
サジが廊下を進むと、一人の老人が声を掛けてきた。青い作業着を身に纏い、短く刈り込んだ白髪の下で、ガキ大将がそのまま年を取ったような笑顔を浮かべている。
「お疲れ様です、クラハシさん。今日もメリーゴーラウンドの調子は最高でしたよ」
「ったりめぇだ。この俺が調整してんだぜ。最高に最低な仕上がりだろう」
老人の名は〝でんせつ〟のクラハシ。レジェンドではなく、電気設備で〝電設〟である。本来は電気工事士ではあるが、持ち前の器用さを駆使して遊具の保守整備を一手に引き受けている。本人曰く「安全性なんぞ気にせずに、不気味な感じにすりゃ良いんだから楽なもんだ。面白ぇしな」ということらしい。因みに、彼もサジと同じく幽霊である。
電気室の扉を開けると、一人の青年が発電機に繋がれた自転車のハンドルにもたれ掛かり、ゼイゼイと息を上げていた。
「幽霊が死にかけるなんて、身体を張ったジョークだね、ハヤト」
「うるせぇよ腕だけ野郎」
ハヤトが顔を上げると、ぽたぽたと汗の雫がコンクリートの床に落ちた。霊体から滴る汗って、成分は何なのだろうなとサジは思った。たぶん考えても答えは出ない。
廃園となった裏野ドリームランドは、当然電気が通っていない。しかし配線などはそのまま残されている。つまり、電気さえあればアトラクションや遊具は動かせるのだ。
そこでクラハシが用意したのが、大型発電機と自転車を繋ぎ合わせた自転車発電機だ。彼曰く、〝安全性をかなぐり捨てた、常識外れな大出力仕様〟となっているらしい。
しかしそれでも、この自転車発電機一つだけで遊具を動かすには力不足であるため、大容量の蓄電池と併用ではある。だがその容量もすぐに使い切ってしまうため、遊具を満足に動かすには誰かがペダルを全力で回さなければならなかった。そこで白羽の矢がたったのが、元競輪選手という経歴を持つ幽霊、ハヤトであった。
「ああ、ちくしょう。こんな手の込んだ事をしなくても、幽霊らしくバァ!! って脅かしゃいいじゃねぇか」
「〝それじゃ芸がねぇ〟って言い出したのはハヤトでしょ。発言には責任が伴うものだよ」
サジがそういうと、ハヤトは舌打ちをしながら「解ってんだよ、んな事は」と短髪を掻き上げた。ハヤトは生きている頃は整った顔立ちと野性的な雰囲気のおかげで、相当にモテたらしい。サジは競輪業界には馴染みが無いので知らなかったのだが、競輪界のアイドル的存在でもあったという事だ。全てはハヤトが勝手に言っている事なので、どこまで本当かは解らないが。
ザザッ。とサジの手にした無線機がノイズを吐き出す。次いで流れ出たのは、年若い女性の声だった。
『サジ君、ハヤト君、聞こえる? お客様よ』
「聞こえているよ、ハルカさん」
うげ、とハヤトが顔を顰めた。裏野ドリームランドの門扉に上り、近づいてくる車両が無いかを監視するのがハルカの役目だ。裏野ドリームランドの周囲は深い山であり、どこかへ抜ける道も無い。つまりハルカの目に映るヘッドライトは、その全てが招かれざる来園者という事になる。
「クラハシさん、充電はどれくらい残っているかな」
サジが声を張り上げると、遠くから「あー、十%もねぇな」と声が返って来た。
「という訳だから、今のうちに充電よろしく」
「ああもう、わぁ――ったよ!! くそっ、マジで口は災いの元だぜ! なんで死んでまで自転車漕いでんだよ、俺はぁ!!」
猛烈な勢いでペダルを回すハヤトの雄叫びが、今日もドリームキャッスルの地下に木霊する。