さくら、さくら
神奈川県のさくらはもうそのほとんどが散ってしまったが、種によってはまだ、決してやわらかいとはいえない春風に煽られながら、方々にその名残を残している。
思えばこの白い絨毯は、誰が掃除するわけでもないのにいつの間にやらその姿を消して逝く。
「どこへいっちゃうんだろうな」
と、隣人に聞いたら、
「知らない」
「うむ」
……そこで一句。
「しらない」と ミもフタもない 返事舞う ひかりのどけき 春の日に。
……駄作だ……。
人間の情熱も、それに似る。
人が情熱に燃えるとき、暖かな日差しを受けて芽吹く桜が、枝いっぱいに花を咲かせるかのような、圧倒的な力を胸に秘める。
が、春の風は思いのほか強く、その風が運んでくる雨雲の勢いも、冬よりもよほど激しい。
さくらは気丈に咲きつつも数日の間に風となって街の片隅に面影を残すのみとなり、やがて忘れられてゆく。
さくらはすぐに、人の記憶の遠いところにのみ浮かぶ、思い出となる。
人間の情熱も、それに似る。
最近サービスを終了したサイトを見た。とあるシリーズのキャラクターたちを抱えていたサイトで、ストーリーも世界観も申し分ない。
それでも人気がなかったらしい。そのサイトは孤高に咲き、孤高に散っていった。
キャラクターたちは、ありがとうございました、の一言を残し、消えた。
もう二度と、彼らは泣いて笑って、走り出すことはないのだろう。
サイトの管理者にしてみれば、両手いっぱいに咲き乱れた桜が散ったようなものだ。
この無念は、ひょっとしたらクリエイターにしか分からない哀愁なのかもしれないけれども、思い出がいっぱい詰まった部屋が、がらんと空き家になったようで、切ない。
そのはかなさ……さくらの花のはかなさと似ていると思うのだが、しかし、実際のさくらは、そのはかなさに何の未練ももっていない。咲こうと思い立った時に思う限りの情熱を咲かせて、春の嵐に煽られ散って葉をつけて、また次の年に新しい花を咲かせるために木は生きる。
そして次の春の訪れと共に、またがむしゃらに咲き誇るのだ。
その繰り返しが、さくらをさくらたらしめ、人の記憶に、確かな楔を打っているのだろう。
そのような割り切り方を、人はできるのだろうか。
人は、手の平いっぱいに咲かせたさくらをあっさりと捨て去って、また新たなる情熱を燃やし尽くし、再び空いっぱいの花を咲かせることが、できるのだろうか。
人は、桜のように生きられるのだろうか。
桜は、そのように生きられない人間を、どう見下ろしているのだろうか。
桜よりもはるかに寿命の短い人間なのだ。せめてその努力が一度や二度で尽きないようにはしたい。




