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文系脳、理系脳

 よくサブタイトルのような言葉を聞く。

 高校くらいになると文系(国語、社会)と理系(理科、数学)というふうに区分けがされて、大学に行くとそれが顕著となるからそういうことかなと思うのだが、理系脳で数学がダメな奴も、文系脳で納豆ねばねば平城京(710年平城京遷都)を知らない奴もいるわけだから、単純に『その方面に詳しい人間』と区分けするのは乱暴だと思う。思うってば。


 しかし文系脳と理系脳というのは確かに存在する気がする。

 前者と後者が話していると結構いろんな場面で共通の違和感があるのだ。

 すなわち、理系脳は「答えは一つだ」という考え方。文系脳は「答えはまぁ、見方によってはいろいろあるんじゃない?」的なアバウトさ。……もちろんかならずそうというわけではないが、互いがこういう発想の元論陣を張るから、究極話が合わないことがある。気がする。気がするってば。


 同じようなところで、……例えば海があったとして、その向こうに何があるのかなという思いに至った時、理系脳は何があるのかを調べ、文系脳は何があるのかを想像するという発想の違いもある。

 まぁ、昨今インターネットが一般化しすぎて、文系脳も想像することを放棄して堕落しているが、もともと文系脳には答えを想像、もしくは創造して楽しむ気楽さがある。

 ようするに、理系脳にとって大事なのは『答え』、文系脳に大事なのは答えよりも『答えに至るまでのプロセス』なのである。

 そういう意味で、現在は明らかに理系脳が支配する世の中だ。繰り返すが「理科、数学」に長けた人間たちが……という意味ではない。今の世界は、創造する余地を与えない。


 結果ばかりが求められる時代に、いつからなったのだろうか。

 確かに正確な答えの前ではどのような想像も稚拙なのかもしれない。ただ、それがあるからこそ人は両手に届く範囲を超えて大きいものを作り出せるのに……とは思う。

 こんな時代では、もはや宮沢賢治は生まれまい。生まれないってば。

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