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ちょっときいて  作者: 矢久 勝基


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名女医

 僕の街には、名女医がいる。

 担当科は小児科で、笑顔が優しくとても親切で、医者の常識にはまらない独自の意見を述べ、常に子供たちに対して親身に接してきた。僕がまだ言葉もしゃべれない頃にはすでに開業されておられたから、相当長い間、開業医でいらっしゃる。

 それから何年がたったのだろう。あの頃すでに四十代くらいでいらっしゃった気がするから、相当なお年を召しているはず。

 にもかかわらず、魔王様を連れて予防接種に行って、変わらぬ笑顔で迎えてくれた時には少なからず驚いた。


 僕はあの頃とはまったく顔つきが変わってしまっているから、今の僕を見てあの頃を思い出してくれることはなかっただろうが、とにかく久しぶりすぎるの再会に、僕は感慨深いものを隠せず、いろいろなお話をさせていただいた。

 注射を卒なくこなすその手際の良さは老いたりと言えど何の不足もない。僕はその時ぼんやりと、「これで魔王様が大人になるまでは安心だ」と思ったものだった。

「今も御健在で診療していたことがうれしいです」と言ったら、「跡継ぎがいないからわたしがやるしかないのよ」と、さびしそうだったが、別れ際に言った「これから、娘をどうかよろしくお願いいたします」には、笑顔で答えてくれた。

 ……二年前の話である。


 しかしその後、小児科診療は引退して予防接種のみを行うようするらしい、といううわさが風に乗って舞い込んできた。まぁサラリーマンならとうに定年して、毎日の散歩を楽しんでいる歳である。無理もない話だ。

 ところが先生の場合、隠居の余生を楽しむことが理由ではなかった。

 認知症を患ってしまったらしい。医者の仕事をやっていくことが困難になったのが本当の理由だった。

 でも、「予防接種は行う」という。それがどういうことかは僕にはわからない。「え? 大丈夫なの?」という声も当然あろう。でも僕には関係ない。あの先生が大丈夫だと判断して行っているのだから、僕はそれを信じる。


 魔王様の予防接種の時期が来た。

 子供がいる家庭ならご存知と思うが、予防接種は生まれてすぐ全部を行うわけではなく、「半年でこの予防接種」「二歳過ぎたらこれ」と、数度に分けてかなり長い期間でいろんなものを打つ。うわさが流れてからまたさらに時間がたっていたが、まだ「予防接種だけは行なっている」のであれば、是非彼女にお願いしよう……僕は準備をした。


 ところが、嫁が小児科に電話しても繋がらない。

 すぐに「もう閉院してしまったのかもしれない」という発想に至ったが、それでもちゃんと確かめるまでは諦められない。僕にとって、小児科はあの小児科以外考えられなかった。

 僕は一週間で唯一午前中が空いている今日、病院を訪ねてみることにした。もし閉院しているのなら、病院の扉に張り紙くらいはしてあるだろう。それを見てから諦めても遅くはない。

 そんなことを考えながら自転車をこぐ。病院はすぐ近くである。


 行ってみると、患者もいないが張り紙もない。

 ガラスの引き戸から見える待合室はがらんとしており、とても営業中とは思えないが、受付のところになにやら張り紙がしてあるのだけ見える。

 おそるおそる扉に手を掛けてみると、なんとするすると開いてしまう。がらんとした暗い待合室に入るのは気が引けたが、ここまで来たら張り紙を見てから帰りたかった。


 張り紙……その文面は、待合室の雰囲気とはまったく合致しない内容だった。

「診察室に小児科医師がいますので御用の方は声をかけてください」

 ……あれ?じゃあやってんの?

 そう思っても不思議のない内容に、引き返すつもりだった僕は一転、今の自分の腰くらいの身長しかなかった頃、何度も開けていた診察室の扉をノックしてみることにする。

 と、

「どうぞ」

 返ってきた声は、紛れもなく先生のものだった。


 先生は、数十年前と同じ様子で椅子に座り、変わらぬ笑顔で僕を見上げていた。

 診察室内はこうこうと蛍光灯が焚かれ、暗くさびしげだった待合室とはまるで世界が違っている。

「あ、先生。あの……予防接種ってまだやってらっしゃいますか?」

 つい聞いてしまう。しかしその診察室の様子から、「やってない」という言葉は到底信じられない。

 案の定、先生はハッキリした口調で、こともなげに言った。

「予防接種? いいわよ」

「じゃ、じゃあ、今、これからつれてきてもいいですか?」

「わかった」

 ……僕は即嫁に電話した。

「やってくれるって。いつ頃来れそう?」

「11時くらい」

「じゃあそう言っておく」

 少し興奮しながら、先生にそれを告げる。しかしその時、もう一人の若い看護師が奥から出てきた。

 病院内に僕のような異物がいることを驚いていたが、事情を聞き、即座に「今、予防接種の在庫はないです」と先生に耳打ちする。

「え? そうなの? 何の予防接種?」

「○○です」

 僕の言ったその予防接種は先生にとっては朝飯前なのだろう。「あーあー」と言って先生はすぐ近くの冷蔵庫を開けに行く。

 が、アンプルは、ただの一つも入ってはいなかった。


 先生の?マーク。看護師の微妙な表情……。

 ……僕はその時、ようやく察した。反射的に一番差し障りのない言葉を見繕う。

「あ、じゃあまた後日伺いますね」

 すると先生は笑顔で、

「そうね。そうしてくれる? あらかじめ電話してくれるとすぐできるからね」

「はい、ありがとうございます」

「季節が良くなってきたから、みんな元気で、今すいてるからね」

「はい。では後日よろしくお願いいたします」

 そして一礼。僕は診察室を後にすると、若い看護師が追いかけてきた。たぶん、事情を説明してくれるはずだったのだろう。でも、僕は首を振って、

「先生に、いつまでもお元気で……とお伝えください」

 とだけ残して、病院を後にした。


 先生は、今も変わらず、女医を続けておられた。

 恐らく、彼女の意思のないところで、病院はすでに関係者により閉院されたのだろう。あの看護師は、ひょっとしたら介護師だったのかもしれない。

 でも、閉院しても、なにもわからなくなっても、彼女は女医として医院長としてその椅子に座り続け、患者が来るのを、毅然と待っていらっしゃったのだ。

 それを、そのことを、誰が笑えるだろうか。

 人は、老いから逃れられない。徐々に失っていく身体と心の機能を受け入れながら、人間は最期の日までを全うしなければならない。

 彼女はきっと、跡継ぎがいないあの病院を護り続けなければという使命感で、今もあそこに座っていらっしゃるのだろう。その口調はあまりにハッキリされていらしたし、笑顔も、やさしさも、僕が幼かった当時のままだった。僕も予備知識がなければ何も気付かなかったくらい……それくらい、しっかりと、今も女医でいらした。


 ひょっとすれば、この記事は彼女の名誉を傷つけてしまうかもしれないと思い、書いている途中何度も書き進めることをとどまったが、それ以上の感激が、決してこれは不名誉なことではないと、僕に訴えている。


 先生には、死ぬその日まで、名女医であってほしい。

 もう、二度と会うことはなくても、あの方への感謝は、忘れない。

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