キセキ、コジツケ、偶然? いや、奇跡
48部分、「見えないものを信じる強さ」の後日談です。
あっち読んで「馬鹿じゃね?」って思う人は読んでもつまんないと思います。
奇跡ってなんだろう。
物語のクライマックスでよく起こる現象だ。様々な力が働いて普段起こりえないことが起きて、乗り越えられるはずのない難題をクリアすることを、物語では奇跡と言ってる気がする。
一方で、偶然と偶然が重なって、ものすごく低確率で起きた事実も、奇跡というだろうか。
恋人が誕生日にくれたシャツに「3」と書いてあって、それにゲンを担いだ男が「3」のつく日に宝くじを一枚買ってみたら「3」がやけに目立つ数字で、後日当選番号を新聞で確かめてみたら、ハズレてはいたのだが、それを探すのに手間取ったせいで家を出発する時間が遅れて、そのおかげで乗るはずの電車に乗り遅れ、交通手段をその日だけタクシーにしたために、乗るはずだった電車の大事故に巻き込まれずにすんだ。その事故の死者は、宝くじの下三桁と同じ人数だった。
・・・と、これは奇跡だろうか。偶然だったと人は笑うだろうか。
これからする話は、ちょっとそんな話だ。
前書きの通り、「見えないものを信じる強さ」の後日談である。
あるはずのない北条家の墓に参った私は、家に帰り、あることに気がついた。
円覚寺は寺に参るのに300円かかる。それを払うと半券をくれるのだが、裏には禅寺らしく、ちょっとした説法がされているのだ。
その見出しに、<あとはおまかせ>と書いてあった。本文を抜粋すれば
『私たちは仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取ります。(略)仏心は大自然と置き換えても結構です。(略)大自然の中で命のある限り、最後まで精一杯努めていく。そうすれば、あとはおまかせであります』
誰におまかせなのだろうか。たぶん、仏=大自然ってことなんだろう。
私はこの説法の、
「努めを果たせば、あとはおまかせだ」
というところに目が行った。つまり、「あとはまかせろ」と、
今回、精一杯の努めを、生まれてくる子に対して行いに行ったつもりだった。
その行いに対して「あとはおまかせ」です。ということは、後は仏様次第。転じて、『オマエ、今回わざわざ俺のところに参りに来て精一杯祈ってったから、後は任せろ』といわれた気になった。
そして、この場合の仏様は北条氏の某なのだろう。
まぁ、コジツケだといわれればそこまでなので、話を続ける。
次の日、宵の口に子は生まれた。母体が世間一般でいう「正常な状態」では生めない身体なので、出産も普通ではなかったが、「任せろ」と言われた私の心中に心配はなかった。矢久に命をくれた人が「任せろ」ってんだから、それ以上の味方はなかろう。……生まれた女の子は普通の子の半分の体重しかなかったが、看護士が驚くほどに元気に泣いていた。
さて、ここからだ。
私はその子に名前をつけた。あたりまえのことだが、いざ子供に名前をつけるとなると難しい。
あんまりありきたりでも、あんまり突飛でも、あんまりキラキラネームでも「なんかなーー」って思ってしまうと、この子の一生が決まる名前を一つだけ!と限定して命名するのはなかなかな作業だ。
幸い?私は物語を描くので、名前を考えることに関しては他の人よりは慣れている。それでも、命名の際には画数だのバランスだのと、いろいろな制約が頭をもたげてくるから、一筋縄ではいかなかった。
矢久の家には古い姓名辞典があって、一人目もそこから名前をあてがった。旧字体が主で、漢字は同じでも今の字と画数が違ったりする。男子と女子で、よい画数とバランスというものは違い、男にとってよい形は女にとっては強すぎるとかあるらしい。
「セツナ」だの「まゆり」だのと案が浮かんでは消える中で、最終的に決まった名前を市役所に届けにいく。苦労しただけあり、女の子にとってはよい名前に仕上がっているのだが、市役所に届けると、その字の画数は現在と違っていた。(役所では届けの際、名前に勘違いがないように、職員が必ず辞典を用いて一字一字確認を取ってくる)
まぁ、こんなもんは「何を信じるか」なので、私には旧字の辞典が正義だ。現在が何画だろうが、うちでは旧字の画数で数えて良い名前だからよし……と思っている。
……とは言いつつ、「現代の画数にしたらあんまり悪い名前なのもいやだな」と思うのが人情というもの?……気にしない人は気にしないのだろうが、一度気にしはじめるとこれほど気になるものもない。何せ一生物である。
そして画数を改めて調べて、驚いた。
……その画数とバランスは、私が生まれる前に母が夢の中で授かったものと、まったく一緒なのだ。
円覚寺の、だれも知ることのない墓に参った母が、その後の夢で授かった名前を私が拝命し、今、私は円覚寺の、元・寺領であった場所に住んでいる。
そんな私が第二子が生まれる前日、本人も見えない先祖の墓に参ったところ、「後は任せろ」という啓示を受けた。
子は無事出産し、旧字で名前を届けてみたら、その名は、母が夢の中で授かった名前と同一の意味が込められていたことを、その後に知った。
……10人中、10人が馬鹿馬鹿しい話だと思うだろう。
だが、これはもはや、わたしにとっては奇跡である。
奇跡というものが、一つ一つはまったくつながっていない偶然の連続によるものであるならば、もともと奇跡というものは他人には理解されないものなのだろう。
他人から見て、こじつけでも偶然でもいいのだ。矢久を取り巻いた一連の事象が、何の迷いもなくそういう発想に結びついたことが、私にとっての安心だったし、喜びに繋がっているのだから。
だから、この子は北条家から授かった姫ということにしておこう。思えば名前の響きも、どこか姫っぽい。
午前四時。
その赤ん坊は今、私の胡坐の上で、静かな寝息を立てている。
布団だと泣き止まないんだもん……。




