『卵が先か、鶏が先か』
最近、ライトノベルを一つ読んでみた。『小説家になろう』内の作品であり、書籍化され、検索してみたらコミカライズもされてるんだから、成功した作品の一つなのだろう。
それを読みながら、なんとなく思ったことがある。
昔。……俺が生まれるより前の話になるけど、作品にはヒーローがあふれていた。
強くて、かっこよくて、弱気を助け強気を挫く無敵のヒーロー。善を勧め悪を懲らしめる存在が世の中の憧れとなって世の中を駆け抜けた。例えヤクザモノでも、その中での仁義と正義を貫くものだった。
正義と悪というものがハッキリしていたのは、初期のRPGでも顕著だったんだから、そういう時代は長いこと続いたと思う。俺が生まれてからも、勇者は16歳になったら王様に呼ばれ、問答無用で魔王征伐を言い渡される時代だった。スライムやバッタみたいなヤツにも苦戦することを考えればとんでもない要求だが、それにめげずに最終的には魔王を打ち負かしてしまうその頃の主人公は、間違いなく英雄だった。
つまりその頃までは、ヒーローは多く、英雄だった。英雄が、自分ではない、何か別のモノのために戦っていた。
それらに陰りが見られ始めたのは、やはりそのパターンが飽きられてきたから……なのか。英雄人気が根強いといったって、何十年と見させられたらそりゃ飽きも来る。やがて時代は、ダークヒーローを生み、バッドエンドな趣向も凝らされて、脇役に焦点を当てたストーリーが増えてくる。
そして、そんなストーリーも飽和状態となり、世の中には『萌え』みたいな要素が跋扈し始め、主人公も等身大、凡人、なんなら卑屈で卑怯なヤツとかも増えた。
自分本位で、欲望に忠実で、善とか悪とか、そんな概念すらあやふやなストーリー。昔に比べれば夢もなく目標も小さく、同時にそれが己の利益であるストーリーが増えた。
それがいけないと言いたいんじゃない。
ヒーローが飽きられて、かっこよさが飽きられて、めぐりめぐって、今はそうなったというだけの話なのだろう。芸術は時代をうつす鏡というが、時代がそのようになれば作品もそのようになっていくのもしかたない。……いや……
本当に、そうだろうか。
昔はみな、なんらかでヒーローを目指したと思う。もちろんすべての人がキャプテンオブアメリカを目指したわけではないけど、なんというか、上を見ていた。
それは高度成長期だったから……なのか? いや、そうだったから、高度成長期になれたんじゃないのか?
そしてその心はもちろん自分の出世欲だったりしたかもしれないが、なんというか、もっと社会貢献だったり、他人に対しての親切があった気がする。
そういえば、昔はよく"一日一善"って言葉を聞いた。今、その言葉が聞かれることはなくなった。
今は、自分自分自分だ。自分が如何に得するかが大事で、自分のために声を上げることばかりに注力する一方で出世欲は減退し、自分の才能を見限って、「楽を探してなにが悪いんですか?」のような世の中になっている。
俺が接したライトノベルもそういう内容であり、なんだか主人公のしょぼさとこすっからさに「今の世代はこれが面白いんだなぁ」と、ラストを読み終わる頃にはすっかりまぶたが老けてしょぼしょぼしていた。
強調したいからもう一度言うけど、思うことがある。
その現象ははたして『卵が先なのか、鶏が先なのか』。
さっきも少し触れたけど、その昔、日本が上向いていたのは、時代がそうだったからなのか、創作物のヒーローが上を向いていたからなのか。
『一日一善』という言葉が消えたのは、時代がそうだったからなのか、メディアがその言葉に飽きたからなのか。
昨今の世の中のしらけムードは、時代がそうだからなのか、ライトノベルの主人公が自分本位で夢も持たなくなったからなのか。
その昔、ヒーローにあこがれて大きな夢を持った少年たちは、皆メディアに影響されて心を膨らませた。幼い頃影響を受けたメディア作品が少年たちの将来を変えたこともきっと少なからずあるんじゃないかと思う。
ライトノベルといえば、多感な十代の連中が読んで影響されるものの一つだろう。漫画化、映像化されればなおさらで、彼らはこれに影響されて、これからの世の中に羽ばたいていくのである。
時代がそう……だからこういう小さくて夢のない自分本意な作品がウケますのでそういう作品作りをしてます。本当にそうか。そんな作品に傾倒しているメディアが、こんなしらけた世の中を作り出している可能性はないか。
別に懐古主義ではない。俺だって「だからいかん!!」と言える作品作りをしているわけではない。しかし、そう思えた時、俺自身、もうちょっと夢のある作品を描いた方がいいんじゃないかと思い始めてきた。
こんなしみったれた現代社会のためにも……だ。




