時間を守れないヤツラへ
小学校の運動会の通知が謎かけめいていて思わず苦笑いだ。
『登校時間7:50。ただし7:50以前には正門は開いておりません。開門時間は8:00です』
どういうこと?
ここは『小説家になろう』という、たぶん読解力の鬼が集まる場所なので、分かる人は説明してほしい。
コレ、みんなが7:50に間に合うように登校してしまったら、正門前はデモ活動中かというほどに、人で湧き返ることになる。てか、結局門が開くのは7:50なのか8:00なのか。
昨日は嫁と二人で、ずっと首をかしげていた。
「何かのミスだろ? 揚げ足取るな」ってことかもしれないが、そもそもミスかもわからない。
万一、『これは登校時間を7:50と定めても、みんな来るのは8:00くらいだろうとタカをくくっている』のだとすれば、これは大きな問題だと思う。
最近、『時間を守る』という概念が忘れ去られている気がしてならない。
娘たちの幼稚園、小学校への人間の集まり具合を見ててもそう思うし、他に聞いた話でも、矢久が主催する集まりを考えてもそう思うことは多い。
あたかも、「十分ルール(十分程度なら遅れても遅刻とは言わない)」というものが存在するかのように、当たり前のように"少しの"遅刻をしてくる。それが人によっては「三十分ルール」だったりもする。オッサンの場合は、『時間守れないヤツ=ちょっと駄目なヤツ』も多いんだが、若いヤツになると付き合っていて信用に値する、かなりしっかりしたヤツですら、時間がどうも守れない・・・場合も多い。
ちなみに知り合いが職場で、無断で遅刻をした部下を叱ったら、知り合いの方が「パワハラだ」と、もっと上司から叱責を受けたそうだ。
遅刻をすることよりも、遅刻をなじる方が糾弾される世界。今の人間の、時間に対する考え方が垣間見れる話である。
そういえば、今から十八年前くらいに起きたJR福知山線の脱線事故の原因が、矢久の記憶では、
『到着が時間よりも遅れそうだったから、巻き返すために速度を出した』
だった気がするんだったがどうだっただろうか。おかげで悲惨な事故はおきた。
この辺りから安全意識が見直され、……たのかは知らないが、矢久の地元を走る小田急線も、昔に比べて、胸張って「遅れてマース」と通知し、当然のように遅れるようになった。(昔は時間を取り戻すため、急いでた気はする)
時間よりも安全を優先する。そのことが間違っているとは絶対に言えない。
ただ、そのように、時間の観念が、いつの頃からか非常にアバウトになってしまった気がするし、そういう交通機関の安全概念と、最近の人間たちが時間にルーズになっていることは、一緒くたにしてはならないことだと思うがどうか。
『時間に縛られていた日本人が、ようやくその束縛から解放されておおらかな時間管理に馴染んでまいりました。世界各国を御覧なさい。思えばこれほどに時間を守る民族もいないものでした。ようやく日本もグローバルスタンダードに一つ近づきましたね』
……ということならしゃらくさい。世界がどうあろうが、決められた時間を守るというのは、人間としての大基本ではないのか。
たとえば人と待ち合わせをするということを想定した場合、時間を守れることが相手への信用だし、相手への礼儀だし、その相手を軽んじていないと示すことのできる一つの指針ではないか。
俺の尺度で申し訳ないが、肩書きがどうでも、服装がどうでも、知能や能力がどうでも、そんなことよりもよほど大切な要素だと考えている。
だってね? 偉けりゃ時間を守らなくていいわけじゃない。服装などはポリシーや個性があればいろんな格好があるだろう。能力も知能も関係ない。『時間を守る』ということは、能力云々に関わらず、万人に達成可能な、最低限の心構えだから……これが人間というものを測る尺度となる。
時間に気をつけさえすれば誰にだって『時間を守る』ことはできる。逆に言えば、時間に間に合うということすら気をつけないその態度が『当たり前』だと思ってるのなら、それがなぜ『当たり前』なのかを、俺にわかるように説明してほしい。
それが相手への失礼を超える、自分に対する甘え以外の理由であるならば、是非聞いてみたい。
実際、一分二分の遅刻も絶対に許さない!……ということではない。
そうではなく、時間に間に合おうとする心構えが大切なんだ。違うか?
あぁ、いるよ? いつも言い訳して、「遅れてごめんなさい」みたいなのも。
だけど、そういう人間は時間をいつに設定しても、遅れてくる。言い訳がどうでも、結局どの時間にも間に合うことができない。
「たまたま遅れました!」なのか「え、遅れちゃいけないものですか?」なのか。こんなの普段からその人見てれば分かることだし、人間の品位と信用に関わることだから、後者側の考え方を若者たちの間で『当たり前』にしてはいけないと思うんだけど……。
そういえば、2ちゃんねるの元代表ひろゆき(敬称略)は「有能な人間は遅刻するのが当たり前。遅刻をしないのは無能の証左」と言っているが、これが現在の風潮なのだろうか。てかこれ、どういう意味?
『有能な人間は忙しいから、スケジュールが押してしまって遅刻がやむをえない』ということなのか。『遅刻というものをうまく利用するのも能力のうち』ということなのか……。
前者も要するには自己管理だとは思うし、その結果遅れてしまうことが「え、遅れちゃいけないものですか?」になるのはおかしい、と思うし。
後者の場合、昔宮本武蔵はわざと佐々木小次郎との勝負の時間に遅刻し、ゆえに勝利を収めたってエピソードがあるけど、そういう意味で『有能』と言っているのなら、少なくとも俺とは相容れない。
確かにそういう部分も駆け引きの一つであることはあるとは思う。だけど、野放図に実践する話じゃないだろうし、そもそもその"駆け引き"は相手に対して失礼であることを前提にせねばならないことを置き去りにしているからだ。
ともあれ、遅刻をすることが有能であることの最低条件であるなら俺は無能で結構だし、そのような"有能な人間"と付き合いたいとは思わない。
コノヒト、頭いいし嫌いじゃないんだけどな……。
ぶっちゃけた話、『時間を守る』ことに関して"得をする"ことは一つもないのだろう。間に合うから褒められるとか、そういう類のものではない。
昨今の効率至高主義が『武士は食わねど高楊枝』的な"自分を立てる"というプライドをすべて捨て去って、『誇りじゃ飯は食えないな』って世の中にしちゃってるんだろうけど、人間の品位に関わる部分は損得ではない。自分という人間を貶めないためにも、自分に負い目を見せない生き方を、もうちょっと心がけた方がいいんじゃないかと思う。
『時間を守る』ってことは、ある意味で『自分を守る』ってことだと思う。
……時間のことに限らず、一事が万事、そう思うけど。




