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思い返しても父の言葉は重たかった。ユリは、いつか北アルプスへ挑戦してみる。としか言葉を返せなかった。
さ、もう行こう。頭を現実の面接へ切り換えなくては。
と、ブランコを後にして、公園の入口へ目をやったときだった。侵入柵を塞ぐ形で黒塗りのワンボックスカーが停まっていた。真っ黒なスモークの貼られた車内の見えない車。
ユリは妙に嫌な予感がして、もう一つの出口へ足を向ける。
その出口に、迷彩服の上下を着た大柄な男が立っていた。黒いニット帽を目深に被り、どぎつい金縁のサングラスをかけている。視線が交錯すると舌なめずりをしながら笑った。その口がひどく歪んでいた。テツだ。
思わず後ずさりしたら、後方のワンボックスカーからドアが開く音がした。小柄で剃刀のような男が降りてきた。眉と眉の間にくっきり二本入った剣幕と、いつも何か邪なことを企んでいそうな粘りつく目付き。ノブに間違いなかった。
この男は危険。
本能的にノブを避けて、テツの横を強行突破しようと決めた。炎と氷、無知と狡知、比較するなら高校の同級生、根が単純な男を選別した。
「通して、テツ!」叫んだ。
「素通りさせるわけにはいかねえ。甘いぞ。昔の俺と、今の俺では違うんだ」
テツが腕を掴んできた。冗談じゃない、ユリは振りほどこうとした。
「放しなよ」
「喚くな、殺したりしねえよ。話をするだけだ」
「そうは思えない。これは待ち伏せ、卑怯だわ。こんなことをして、どうなるというの。いつからあなたは、こんなふうに成り下がったの」
ユリは、背後から迫るノブを見た。
「成り下がっただと。見下すのはよせ。俺の気持ちは昔から変わっちゃいねえ」
「だったら、その手を放して。圭と何があったのか知らないけど、あなたはノブに、いいようにまるめ込まれているだけなのよ。ヤクザになるような人間じゃなかった」
「ふ、ふざけるな! 圭なんかしばらく会ってねえ。それにノブはダチだ。兄貴分でも先輩でもない。対等だ。俺は望んでヤクザになった」
テツは息巻くが、あきらかに取り乱している。圭という名前に異常とも思えるぐらい反応させた。またノブに対しての反発を人一倍感じているみたいだ。双方の核心を突かれて動揺を見せた。力が弛む。ユリは掴まれていた指をほどいた。
「テツ、逃がすんじゃねえ。これは、お前のためにやってあげているんだぞ。勘違いするな」
ノブが血相を変えて走ってきた。「俺がテツを言いくるめているだと。言いたいことを言ってくれるじゃねえか。女だからって容赦しねえぞ」
肩を鷲づかみにして、その言葉が脅かしでないことを証明しようとしている。
「やめて、大声出すよ」
しかし通勤路でもないため人通りがなかった。がらんとした建築会社の資材置き場と竹林が見えるだけだった。
「誰も来やしねえ。それに俺たちは、お前を車に乗せて送ってあげるナイトなんだ。指さされたって疚しいことは何一つないぜ」
車に乗せる? それは拉致……?
ノブの言葉に戦慄が走った。その恐怖から逃げようとしたが、ノブの指がユリの白いブラウスにかかった。反動でボタンが弾ける。胸がはだけて白い下着が露になる。
「これはこれは悩ましい下着を見せて、ユリさまは、俺を誘惑でもする気なのかな」
ノブがわざとらしく声音を変えて、ユリの胸の谷間に指をすべらせてくる。瞬間、甲虫類が胸を這うような薄気味悪い感触に襲われた。
ユリは手を払った。ノブの手が宙に浮く。
「立場、分かってんのか」
威嚇してきた。ユリの顎をぐいぐい押し上げる。
と、テツが目を剥いた。「やめろよノブ! お前にその権利はないはずだぜ」
「だったら、さっさと車に乗せるんだ」
「ああ、分かっているよ。だけどユリの前で命令するな。俺は、お前の子分じゃねえ」
テツがむっとさせながら腕を掴んできた。
「その薄汚い手を、彼女から放すんだ」
とつぜん落ち着き払った声がした。
振り返ると、小柄な老人と長身の青年がすぐそばにいた。おそらく声をかけたのは小柄な老人のほうだろう。懐古的な黒い外套に蝶ネクタイと、違和感を覚える服装をしていたが声質はとても心地よい。
「何だ!」
ノブが剣幕の皺を深くして凄んだ。が、老人はまったく動じない。
「抵抗するなら、公務執行妨害で逮捕してもいいんだぞ」
その言葉と同時に、スエード地のブレザーにジーンズ姿の若者が動いた。手錠をちらつかせて強引にテツをユリから引き離す。
「サツか? いったい何の用だ。俺たちゃ何もしていねえぜ。レディを職場まで送ろうとしていただけだ」
ノブが嘯いた。
「そうかな。ノブこと足立信雄と石田テツ。君らは覚醒剤の売買のみならず、今また女性誘拐、不法監禁の罪を重ねようとしている」
「変な言いがかりをつけないでくれよ。俺たちはまっとうなテキヤだぜ。暴力団でもヤクザでもねえ。そんな大それたことするわけないだろ」
「なら、佐藤圭をどうした」老人がたたみかける。
えっ、圭? 圭がどうしたの。まさか……ユリは固まった。
「知らねえよ! そいつがどうした。それよりも格好からしてサツらしくないし、だいたいが胡散臭い。お前ら、ほんとうに刑事なのかよ」
ひらき直ったのかノブが目を軋ませる。あきらかに狡賢い表情。レイプしても和姦だと言い張る人種だ。
「確かに我々は警察官ではない。が、麻薬取締官だ。だからといって舐めんなよ。証拠も握っているし、お前らに何年も臭い飯を喰わすことができるんだ。何なら今から車の中を調べてもいいぞ」
若者が強気な口調で言った。
「調べたって何にも出やしないが、面倒はごめんだ」
ノブが舌打ちをする。車へ戻ろうとした。
だが、まだ信じきっていないみたいだ。警察機構から外れた麻薬取締官という名称が、一般に浸透していないしぴんとこないからなのだろう。
だから退散しながらも「お前らを逆に調べたっていいんだぜ、捜査官さま」と、嫌味を言うのも忘れない。
「どうやら逮捕されたいらしい。なら車を調べるから、待て」
「ばかか。待てといわれて、どこに待つ人間がいるんだ。俺は、そんな正直者じゃねえ」
ノブが鼻を鳴らした。
「おい、行くぞ」と、テツを促したあと、顔を歪めてユリに毒づいてくる。「仮に本物だとしても、あいつらにゃ麻薬以外に逮捕権はないんだ。せっかく極楽を味合わせて、圭と同じ廃人にさせてあげようと思ったが残念だったな。だけど、これで終わったと勘違いすんなよ」
「しつこいぞ足立。さっさと消えるんだ」
若者がノブの背中を突いた。
車が去ったのを見とどけると、ユリは二人の捜査官へ振り向いた。礼を言いたい。助けてもらわなかったら、どうなっていたか分からない。
しかし二人の印象が一変していた。特に若者。さきほどの肝の据わった態度とは打って変わって、へなへな気抜けさせている。
老捜査官が、ユリの視線に気づいた。
「ほれ、情けないぞ。演じた以上、最後までやり抜きなさい」と、青年をたしなめる。
演技? やはり麻薬捜査官ではないの。
ノブも言っていたし、確かに服装とか雰囲気はユリの描く捜査官像とずれている。だからといって一般人がそこまで演じきるには相当の覚悟が必要だと思う。相手は見るからに凶暴な人種、剃刀と鉞みたいなノブとテツなのだから。
「危ないところを助けていただき、ほんとうにありがとうございました」
ユリは心から礼を言った。
「あくまでも職務だな、純二くん」
言い張る老人は、多少とも恥じらいを見せると、若者に念を押した。どうにも労われるのが苦手なようだった。
一方、返答を委ねられた若者は「今後も、彼らの動向には注意をしますが気をつけてください。彼らに怨念じみたものを感じてならないのです」と、生真面目な顔で注意を促してくる。
怨念……?
そういえば「これで終わったと思うなよ」ノブの残した捨て台詞が引っかかる。
「心配だろうが、まずはブラウスを着替えなさい。その姿では面接を落ちてしまうだろうし、ほれ、この若者も目のやり場に困っている」
老捜査官が、ユリのはだけた胸を指す。
ユリはコートを合わせ、胸を押えた。それでも羞恥心は消えない。あとからあとから恥辱がぶり返してくる。とうとう二人の顔を、見ることもできなくなって俯いてしまった。
見かねたのか老捜査官が言う。「では、私らは行くが一言だけ忠告しておく。この先、自分の身にどんな災難が降りかかろうと決して自棄になってはいけない。まずは風の匂いを知ることだ。風は仲間からのメッセージ、君を絶えず見守っている」
「風……? 私に仲間がいるの。そして自棄になるほどの問題が私の身に起こるの」
「心配は無用だ。この若者が目を光らせている。きっと力になってくれるだろう」
「どうしたら、知らせることができるの」
「難しい質問だ。強いて言えば偶然かな。単なる偶然ではなく意味のある偶然。共時的現象ともいう」
共時性のこと? シンクロニシティと称される。でも、はぐらかされている気がする。
「なら、その意味のある偶然が起こらない限り、こちらから連絡することは無理なのね」
「偶然とはそんなものだ。だが匂いのする風は君を含めて四人いる。しかも、その四人のために十人が召喚された。すべては曇った過去を清算するために」
どこか父の言葉に似ていた。そう思い、質問をぶつけようとしたら、二人は背を向けて去ろうとしていた。老捜査官が、労うかに若者の肩に手を置いている。
「なかなか大したものだったぞ。妙に堂々としていた」
「それは、あなたに催眠術をかけられて、麻薬取締官に成りきっていたからです」
どういうこと? 言葉の意味を探っていたら、老捜査官が飄々と言い返す。
「催眠術などかけておらんよ。勘違いではないのかな」
「かけられましたよ。部屋を出るとき、何やら念じて俺の額に指を当てたではないですか」
「ああ、あれか。あれは唾を付けただけだ」
老捜査官が噴き出す。若者の顔を覗き込んで面白がっている。
「もう勘弁してくださいよ。あいつらは凶悪犯なんでしょ。だったら死ぬ可能性だってあったじゃないですか」
若者が頭を抱える。その言動は、自ら麻薬取締官ではないと明言しているようなものだった。
ユリは戸惑う。この二人は何者なのか。
「いいではないか。尊い行為に死はつきものだ。そんなことよりも、もう一杯コーヒーを飲ませてくれまいか。あの味がどうしても忘れられん」
老人が、決まり悪そうに話の矛先を変える。でも声は笑いを含んでいる。
「いいですけど、あれ、ほんとうに飲んだんですか」
「飲まなくては、味が分からんだろう」
「でも、どうやって。俺には疑問です」
「私の辞書に、疑問という言葉はないのだ。不可能もな」
老人が高笑いをする。つられて若者も苦笑する。
その心地よい声を残して、二人の言葉が聞きとれなくなった。
そういえば、老人はなぜ、今日が面接だと知っていたのだろう。まさか、この人が圭の言っていた爺さんなの。その圭は、ノブとテツにどうかされてしまったのだろうか。
ユリは呆然と二人の姿を見送った。