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もう後戻りしない。前を向いて歩く。
覆う絶望の中で、すてずにいた希望が着実に広がっていた。金輪際、水商売は嫌。普通に生きる。そんな想いを抱き、ユリは最寄りのN駅へ向かった。
濃紺のスーツに白いブラウス、その上にシンプルなベージュの半コートを着込んだ。スカートの丈もできる限り膝小僧の隠れた、手持ちの服でいちばん地味なのを選んだ。整形外科の面接。欠員ができたことからリハビリ室がてんてこ舞いしているらしい。電話で、ユリが柔整士の資格を持っているといったら好感触を得た。
都心とは逆方向になるけど、今日の地味な服装と同様、慎ましやかに生きようと決めた。格好の再スタート地だと感じられる。面接が通り、採用が決まってくれれば嬉しい。
目の前に懐かしい公園が見えた。両親が離婚して母と二人きりの再出発をはじめたとき、いつも一人で立ち寄った公園だった。
ここ何年かはJRに乗らずメトロを頻繁に利用していた。だからこの場所へ来ることはほとんどなくなっていた。辛い思い出のありすぎる公園、無意識に避けていたのかもしれなかった。
ブランコが見えた。小学校低学年の頃、母の帰りを待つ間に一人でよく乗っていたブランコだった。いくぶんくすんでいるが、当時と変わらぬ佇まいを見せていた。ふっと郷愁に誘われる。腕時計を見た。早めに家を出てきたせいか、まだかなり時間に余裕がある。
乗ろうと思い立ち、踏み板の上へハンカチを敷いた。腰をかけたとたん切ない感情が溢れてくる。あの頃やっと地面にとどいた足も今ではつっかえ、逆に乗りづらくなっている。それでも足を浮かして揺らしてみた。
不意に惨めな思い出が蘇る。頭を左右に振って消した。前を剥こうとしているのに、どうして?
ユリは懸命に映像を振り払う。父のことを考える。
「私、山に登りたい」
十四歳の時だった。父に電話したくとも、辛い最中に連絡することなどできやしない。でも惨めさの中に、やっと圭という光明を見つけた。すぐ電話した。義父のことも圭のことも伏せ、母は元気だよ、とだけ伝えた。
「夏休みになったら、奥多摩へ行こうか」
父は理由を聞こうとしなかった。いつものことだ。そうやって最後にはヒントを与えてくれる。
父の住むT市で一泊して、早朝、車で奥多摩へ向かった。単に奥多摩といっても日本アルプスに連なる山脈の走り、標高千メートル以上の山々がそびえ立っている。ましてユリにとって初めての登山で、すべてが未知の領域。意気込みが空回りして、一時間も登ったらへばってしまった。
「足がぱんぱん」と、泣きごとを言った。
「もう少しだ。あと五分も登れば休憩ポイントがある」
ユリの状態を確認しながら、父が励ましてくる。
山だけじゃなく、すべての事柄に区切りというものがあるからだろう。気の赴くままに休んでしまえば、いつまでたってもゴールに到達しない。それに乗り越えた場所には必ず労いがある。ユリは甘えをすてて、歩いた。
見晴らしのいい地点に着いた。霞んでいるが、遥か先に日本アルプスの尾根が一望できる。壮観だった。ここの景色でこれだけ心を動かされるのなら、あの日本アルプスの頂上へ登ったら、いったいどうなってしまうのだろう。
「ここと、向こうの山では違うのかな」
「そうだね。ユリの世界観が、根こそぎ変わるかもしれない」
「私でも登れる? その感覚を味わってみたい気もする」
父は「登る価値はあるよ」と笑み、水筒を手渡してくる。「人間、いつかは変わらなくてはいけないからね」
父がどう変わったのか知りたく「どうして、山へ登るの」と聞いた。
「どうしてだろうね」
父は言葉を濁してアルプスを見つめている。どこか言葉を選んでいるふうにも思える。
父が好んで登る山は有に二千メートルを超す、三千メートル級の尾根が屹立する北アルプス。想像もつかないほど過酷で、厳しい試練が待ち受けていると聞く。
「贖罪かな」
父がぽつりと言った。「中学へ上がるまで小児喘息だったんだ。その理由が山へ登ることによって、なぜなのかを知った。ユリなら理解してくれると思うから話すけど、じつは過去世で窒息死をしたからなんだ。山は、一種、神の聖域でもあると私は捉えている」
「過去世って、父さんは自分の過去が分かるの」
「例えるならジグソーパズルのようなもの。一つ、難しいピースが埋め込まれると、次々と謎が解明されていく。そうすれば絵によってだが、全体像を通して個々のピースの意味づけも理解できる。だからといって、すべてが分かるわけじゃない。人のために生きて初めて意思の疎通が量れる。たぶん山で遭難者を救助したことが起因しているのだと思う」
父は淡々と話す。「ユリとは前世でも親子だったよ。そして四百年前、今のユリと同じで、娘ジュリアが十三才のときに海難事故が起きた。火災だ。それまでの私は強欲で、神を信じていながら無慈悲なユダヤ商人だった。とりまく環境のせいにはしたくないが、ユダヤ人というのはそうでもしなければ生きられない人種でもあったからね。でも死ぬと分かったとき、初めて今までの傲慢さが消えた。自分でも驚いていたが、一人でも助けようという気持ちが心の底から突き上げてきた。私は、隣にいた神父と火の海へ飛び込んだ。その救出した人たちが生き延びたか、途中で命が尽きたかは知らない。たぶん知る必要もなかったと思う。私のすべきことは船底にいる人を一人でも救い出すことだったからね。それに窮地を脱しても、救助艇に人が群がるだろうし、乗れるとは限らないから。結果的にそれが自己満足でも、最後の最後で私は罪を贖うことができたと信じている。気がかりは、ジョルジュに託したジュリアだけ」
「なら、そのジュリアという娘が私なのね。じゃ、ジョルジュって誰? もしかして佐藤圭って人がジョルジュなのかな。運命的な出会いをしたんだ、私」
「違う。じつは、圭君とは話をしたことがあるんだ。彼の魂は私と同じで苦しんでいた。また記憶を閉ざしている部分も多すぎて、今のままでは容易に道を探しあてられないと思う」
父はきっぱり言った。ユリの視線を避けるようにして、遠く日本アルプスを見つめた。
少し落胆した。だったら苦しむ圭って誰なんだろう。素っ気なく否定されたにも関わらず、強い絆が感じられてならない。
「問題は圭くんではなくて、ジョルジュのほうかもしれない」
ユリの顔を見ずに父は言う。「ジョルジュはイタリア人だった。でも四百年前といえば、日本では関が原の戦いが終わり、ようやく混乱が収まろうというとき。あまつさえ前世で私たちが暮らしていたイタリアは、幾つもの小国に区分され疲弊していた。ローマ法王領、ジェノバ共和国にベネチア共和国、あとトスカーナ大公国とかミラノ、シチリア、ナポリなど、じつに日本の戦国時代並みに群雄割拠されていた。私は、そのベネチア共和国で細々と商売をしていたのだが、ユダヤ人は狡猾だと常に白眼視され続けてきた。耐えられなかった。そのため思いきって地中海を渡り、ギリシャへ行こうと決意した。家族四人と、両親を事故で亡くして浮浪者になったジョルジュ兄弟を連れて」
そこまで話すと、いきなり父は振り向きユリの髪に触れてきた。目が赤く潤んでいる。
「しかし託すということは責任を持つということなんだ。ジョルジュは親なし子。私の言葉を真剣に受けとめた。そのことによって新たな悲劇が生まれたのだ。罪を贖うどころか苛まされてしまった。私がジョルジュを死に追いやったのと同じだ――」
「そう、ジョルジュは死んじゃったのね。でも新たな悲劇って、そのときの火災だけじゃなかったの」
「まったく違う。けれど、それが何であるかは言えない。自分たちで探し、求めなくてはいけないからだ。昨日が過去と思ってしまったら答は見つからない。探し求める未来も永遠に訪れない」
「それは、過去を思い出せということなのね」
「消せといっている。私もそうだったが無意識の内に影をつくり、そこへ悔いを隠している者たちがいる。それは自ら創造した地獄に埋没しているようなもの。真実をとり戻すどころか過ちを繰り返してしまう」
「私も、そのうちの一人なの」
問いかけに父は目を逸らした。唇を噛みしめ、天候の崩れはじめた空を見ている。黒い雲の流れは速い、たちまち青空を覆った。