2章 覚醒 1
2章 覚醒
1
空がやけに重たい。
純二は、昨日が夢であればと思わざるを得なかった。
どうしても現実を受け容れられない自分がいる。しでかした事の重大さに、途方に暮れている。
どうして犯罪に加担してしまったのか。なぜ純二だけが死なずに生きているのか。あまりに考えることが多すぎた。ばかりか為すべきことを為せと、謎めいた言葉をかけた老人。いったい何だったのだろう。
昨夜、人通りが完全に途絶えるまで公園にいた。家が警察に包囲されている可能性も否定できなかった。それが心配で、ぶるぶる震えながら日が暮れるまで草むらに隠れていた。決心がつくまで家へ帰るのが恐かった。
でも車は盗難車だったし、深夜のニュースでは運転手の名前はあきらかにされていなかった。けれど松本たちの顔がニュースで公表されれば、いくら交友がないからといっても容疑者としてリストアップされるだろう。
警察はそんなに甘くない。調べていくうちに、すぐ純二の所へ辿り着くはず。やはり自首すべきなのか。
テレビをつけた。
都知事の不祥事を追及するニュースのあとに、銀行強盗の模様が画面に映し出された。死亡者が一名、重傷者が二名、揃って顔写真入りで大写しにされている。
目にした瞬間、純二は画面に釘づけになる。アナウンサーから名前を読み上げられるまでもなかった。浅黒い顔、太い眉、意志の強そうな唇、被害者の一人が中学時代の親友だったからだ。
何ということをしてしまったのだ。
恥知らずな行為。それ以外の言葉は出てこない。どうすればいいのか分からなくなってきた。
「だから、為すべきことをするのだ!」
聞き覚えのある声がした。
純二は振り向いた。あの不思議な老人がいた。黒い外套に蝶ネクタイ、昨日と同じ服装で立っていた。
でもどうして? きちんと鍵を閉めていたのだ、入れるわけがない。それに扉が開いた音もしなかった。
「どうやって部屋に入れたのですか。侵入は不可能なはず?」
「君へ通告しておく。今後、不可能という言葉を、二度と私の前で吐かないことだ。住宅用のシリンダー錠など、原理が分かれば誰でも開けられるのだ。つまり鍵とは閉めることだが、開かなくては意味がないことでもある」
老人が不機嫌そうに反論してくる。
とは言っても、この鍵はピッキングされにくい最新式のシリンダー錠だった。扉自体を壊すか、内側から開けない限り不可能な代物。
となれば、一見、人間の振りをしているが、この老人は人間でないことになる。
そもそも死んでいたはずの純二を生き返らせている。その時点で怪しむべきだった。幽霊か物の怪に違いない。
「何を、ごちゃごちゃ考えているのかね。つまらんことにこだわっていないで、私が出向いてきた用件を聞きたまえ」
老人は、純二の導き出した答えに塵ほどの関心も示さず、無愛想に切りすてる。
純二は言葉をつぐみ、返答しなかった。用件を聞くのは簡単だけど、その前に何者であるか知りたかった。
「用件しだいですが、聞きます。でも、まずは何か飲んでください」
困らせるつもりで言った。九十パーセントの確率で、この老人は人間ではないと確信していたからだ。幽霊がお茶を飲むはずもない。きっと閉口して臍をまげるに違いない。そうしたら人間じゃないと自ら暴露しているようなものだ。
純二は老人の動向を気にとめながら、湯を沸かしに行く。
ところが、ちょうど喉が渇いていたところだと、澄まし顔で返答するばかりか「できたら、お茶よりもコーヒーにしてもらいたい」と悪びれずに言ってきた。
耳を疑った。
「待ってください。あなたは人間でなく幽霊のはずだ。その実体のない幽霊が、どうやってコーヒーを飲めるのか」
「ほう幽霊とな。君に幽と霊の違いが分かるとは思えんが、答えよう。確かに私は幽界に住んでいないため物質性は薄れ、空腹感も、痛みも感じない。が、霊体という本質的な実体を備えているのだ」
老人が不満そうに睨み返してくる。「聖書を読めば、少しは理解できるはずなのだが」
聖書なら読んだことがある。純二は肯いた。
「ふむ、読んだのだな。だったら天使がエデンの東で人間とともに暮らし、物質的な肉体を持つことも、たびたび地上の食物を口にするのも知っているはずだ。人間の娘と結婚した天使だって数多くいる。つまり、たがいに神から賜れた生命だということ。然るにそれぞれの本質である炎も土も、物質でしかない。つまり私は実体を持った有限の霊なのである」
やはり人間じゃなかった。でも内容は理解しがたいほど難しい。
「有限、の霊ですか?」
「うむ、無限には神しか存在しない。すなわち有限のものは無限には行けないということだ。逆を言えば、神はこの有限の世界には来れない」
「なら、この世に神がいないことになってしまう」
「たわけ、君は聖書を読んだといったはずだ。三位一体とは何だ、どういう仕組みになっている。無限の神が地上において、有限の聖霊として存在しているのを忘れたか。ぐだぐだ言わずに、早くコーヒーを飲ませなさい。砂糖はスプーン一杯でいいぞ。甘すぎると苦味が消えて、どうも好かない」
一喝された。だからといって納得したわけではないが、要望通りにコーヒーを沸かした。飲めるわけがないのだ。鼻をあかせてやりたかった。
「インスタントですが、どうぞ」
老人はカップを受け取らず、香りを嗅いでいる。その仕草は品定めをして、これから飲もうとする所作にも見える。けど臭い演技だ。
案の定、なかなか美味いと、さも飲んだかに言葉を洩らす。
「沈没前の船で飲んで以来、じつに百年ぶりのコーヒーだ」とも、満足げに付け足してきた。
沈没? 百年ぶり?
純二はそれが気になり、こぼさぬようカップを食卓の上へ置いた。が中を覗くと、どうしたわけかコーヒーが飲み干されていた。
はっとして老人を見ると、屈託なく笑っている。それが大人気ないとでも思ったのか、慌てて咳払いをした。
霊というにはあまりに人間ぽかったが、もはや疑うこと自体意味のないことだと気づかされた。老人の漏らした沈没船へ思考を傾けた。
百年前に沈没した船といえば、映画でも大ヒットしたけどタイタニックが有名だ。確か千九百十二年の四月だったはず。多くの著名人が乗船していたが、中でも妻の命を助けたジャック・フットレルに純二は強い感銘を受けた。彼は妻を救命艇に押しやったあと、飛び降りることもせず船にとどまって海へ沈んだのだ。
そういえば偶然だと思うが、この老人は彼の作品に出てくる『思考機械』とよく似ている。しかし『思考機械』は実在しない。単に作者によって創られた主人公でしかない。
でも科学者然とした言動、風貌、とっつきづらいと思っていたのに人間臭いし、もしかして実体は心優しい紳士なのかもと思わされる。それも痩せ細った外見とは正反対の、ふくよかさを秘めたジャック・フットレル自身のような。
「よけいなことは考えないほうがいい。用件を伝えるから聞きたまえ」
老人は純二の心を見透かすかに、君に贖罪の道を用意した、と一方的に言った。
「分かっています。自首して、刑に服すということですね。じつは、そうしよう思っていたところなんです。俺の身勝手な行動によって、一人の女性が死にました。二人の男性も死の淵を彷徨っています。このままのうのうと生きるわけにはいきません」
「残念だが、君を自首させるつもりはない。刑に服すことも大切だが、その前に心を洗濯させる。自首するのは、それからでも充分だろう」
「自首しない? では、何をさせようと」
「そうだな」老人は得意満面の笑みを浮かべ、すーと顔を寄せてきた。