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どんよりした空から白いものが落ちてくる。砂粒ほどの小さなそれは、宙を舞いながら路面を濡らすことなく消える。公園の入り口に佇む山木ユリの長い髪にも、透明に色を変えて滑っていく。
とつぜん呼び出されたのだろう。切れ長の目にも、ほっそりした唇にも化粧が施されていない。濃茶色のハーフコートから覗く、どきりとするほどの白い素足が小刻みに震えていた。
ユリは掌を広げる。
うんと積もればいい。そうしたら、その雪の中で父のように埋もれることができる。
心が俯いていた。置かれる状況と、北アルプスで遭難した父のことが思い出されて無性に哀しくなる。
天候のせいだ。唇を噛んで、父への想いを断ち切る。すると現実だけがクローズアップされて目頭が熱くなる。
「待たせたな」
声がした。ユリは指で涙を拭う。
「なんだ、泣いてるのか」
「ううん、泣いてなんかいない。寝不足だから眠いだけ」
気どられたくない。俯きかげんに笑顔を取り繕う。けどそれが妙なぎこちなさを感じる。もう意味のないことなのだ。
圭は黒い革ジャンパーにブルージーンズ、数年来変わらぬ装いだったが頬はこけ、目は窪んで、あきらかにジャンキーの症状を醸している。手足も胸も、ユリに辛い痛みを感じさせるほど薄っぺらい。
すっかり老けて見えた。
もどかしさ。どこかでこんな結果を予測していたはずなのに、気持ちが鈍る。
「寝不足か。じゃ、男ができたんだな」
うやむやに別れて三ヶ月、悪意こそ感じられないが掠れた声で問いつめてくる。
「店をやめて、まともな仕事を見つけるつもり。圭ともこれっきりにしたい」
「いい覚悟だ。ただし、できるならな」
圭の目が卑屈になる。薬のせいで人格が破綻した。もう消費者金融からだって、お金を借りられないはず。貸してくれるところといえば暴力団の絡んだ闇金融でしかない。
「よこせ、約束の二十万」
圭が形相を威嚇に変える。ユリから封筒を奪いとった。
「終わりね、これで」
「それは、仕返しってことか」
圭の表情が目まぐるしく変わる。いつになく卑屈になったかと思えば開き直って、今また沈痛に思いをぶちまける。
「圭には感謝している。あの悪夢から救ってくれたんだもの。だから仕返しなんて考えたことがない」
「爺さんの言った通りだ。お前、あの爺さんに会ったんだな。そして俺が誰だか、過去で、お前に何をしたのか教えてもらったんだろ。糞喰らえだ。言っとくがな、俺だって知らなければこうはならなかった」
「誰のこと?」
「ならいい。知ろうとするんじゃない」
圭が背を向けた。やむと思っていた雪が激しくなる。
「この女性がジュリアだね」
居たたまれずに聞いた。
「ふむ……」
答える気がないみたいだ。謎の霊は返答を躊躇っている。
彼女がジュリアだとすれば、夢の少女も、きっとこの人だろう。だとしたら、このジャンキーがまさかジョルジュなのか。
「いろいろ名前を浮かび上がらせているようですが、勝手な憶測で物事を判断しないほうがいいと思いますよ。それともう一つ、私が、あなたに介入するのは彼の死を見とどけ、成り代わりを果たすまでです。それ以降は自分の力で打開してください。もし予定通りに彼が死ななかったら、あなたの肉体が永遠の眠りについてしまったら、それは無限の意思であるということ。その時点で、この試練は来世に持越しです」
素っ気ない否定だ。二人三脚で見守ってくれるとは思っていなかったが、明確な指針も示されないうち、すぐにも放り出されてしまうとは考えてもいなかった。
後藤は推し量ることもできずに押し黙った。どうして条件つきの成り代わりなのか、またなぜ、自分の意思と関わりのないところで有無を決定づけられてしまうのか。
「肉体は死滅すると、過去自分が傷つけた人、憎んだ人、また助けた人や愛した人、そのすべての人々の気持ちを一瞬にして味わいます。けれどあなたは、一部分の記憶だけを閉ざして隠蔽しているのです。はっきり言うと顧みているようで、まったく顧みていない。記憶の流れを都合よく遮断しているだけなのです。無意識のうちに真実への接触を避けています。だから私が四百年前、人間として船上にいたことさえ思い出していない」
「え、あなたが、船にいた……」
どういうことだ? ほんとうに思い出すのを怖れているのか。胸が震え出す。肉体があるかに息苦しさを覚えた。
ならば後藤がジョルジュなのか。あくまでも推論だが、圭がジョルジュでない以上、どうもそんなような気がする。
「そのうち理解できるようになるでしょう。まずは成り代われることを謙虚に願ってジュリアに接触することです。そうすれば、しだいに記憶が覚醒されていくはず。それによって暴かれた真実を受け入れるのも放棄するのも自由です。何も悔い改めは地上でしか為せないわけではありませんから。ただ、これからのあなたしだいで、あなただけでなく今地上で生かされている人の運命が変わります」
謎の霊が諭すように言う。「もう時間がありません。急ぎましょう」
閉ざしていた記憶の一部が弾けたような気がした。自分が創り上げた妄想の中にこそ真実が隠されているのは事実なのだから。
謎の霊は笑みを消すと動く。後藤は追いかけた。激しさをました雪の中、一人で立ちつくすユリを置いて公園沿いの寂しい間道へ移動した。
「いいですか、あそこに二人の若者がいますね。あの二人が、先ほどの青年を殺します」
「できるなら見たくない」
「人間であれば正常な感覚でしょう。ですが私たちは傍観することを許されないのです。ましてあの青年は、罪を償うと自ら宣言し望んで生まれてきたのに、償いきれなかった。そればかりか自棄になって境涯を堕としたのです。この後下層界の果て、麻薬中毒者の群れの中で何世紀も過ごすことになるでしょう」
最下層ではなくて下層界? 漠然とだが、まぎれもなく死後の世界があって、幾層にも存在しているのだと思った。そしてどこへ行くかは、この地上での今が肝心なのだとも気づいた。
後藤は待ち伏せする二人を観察した。
一人が車のドアに寄りかかり、もう一人はボンネットの前にしゃがみ込んでいる。おそらく服装や雰囲気から見て暴力団の構成員なのだろう。それも青年がジャンキーであることからして、薬と資金の供給源でもあるはずだ。殺す理由が組織的なのか、私怨なのかは分からないが、どちらにせよ短絡的であることは間違いなさそうだ。
しかし同じ波長を放つ松本たちと比べ、どこか趣が違う。それが何なのかと言われても答を見つけられそうにないが、ともに貪欲なハイエナと見て間違いないだろう。
「背が低く、短い髪に稲妻状に剃り込みを入れているのがノブです。その横で、手持ち無沙汰に拳をまるめた大柄な男がテツ。あなたが想像した通り、暴力団の構成員に間違いありません。けれども彼らの本性は、厄介なことに真性のハイエナです。しかも淫執。組織の中の、ただの使い走りではありません」
謎の霊が、溜息混じりに言った。暗に注意しろとの警告にも聞こえた。
「のこのこ来やがったぜ。圭の野郎――」
ノブが狐目を吊り上げて立ち上がる。
「金を払わなかったら、圭を殺してもいいか。恨みもあるし、ユリを俺の女にしたい」
後藤の不安をますます増幅させるかに、テツも前へ大きな身体を押し出す。指をぽきぽき鳴らして野太い声で吠えた。
「ばか、か。俺たちの仕事は金を回収することだ。あいつを殺すことなんかじゃねえ」
「だけど、圭の野郎がいる限り、ユリは俺に振り向かないんだ」
「そう熱くなるなって。そのうち願いを叶えてやるからよ」
「そのうちって、いつだ。いつまでユリを我慢すればいい。とっくに我慢の限界を超しているんだぞ」
目を血走らせるテツの顔から、強い憎悪が剥き出しになっている。
「ああ、分かっているよ。昔ならいざ知らず、俺だって、いつまでも落ち目になったジャンキーを威張らせとくつもりはねえ。けど金を回収しなきゃ、俺ら二人の立場もなくなる」
ノブが説得する。テツが黙った。直情型みたいだが、言い含められると案外素直だ。
「心配するな。ユリが二十万渡すというのは確かな情報だ。金さえ回収すれば望み通りにしてもいい」
ノブが冷淡に言った。残忍な本性の一面を、後藤に垣間見せてほくそ笑んでいる。
「こんなところで何してる」
圭も彼らを見つけたのか、言葉に力をこめた。
いくぶん足の踵が浮いている。空手に例えるなら猫足というやつだ。これだと、とっさの攻撃にも機敏に対応できる。だが、ことのほか上半身は隙だらけである。狙いは威嚇だからだろう。
「ハイエナめ、金の匂いを嗅ぎつけたのか」ために圭は、口汚く続けて機先を制した。
「そうかもしれない。圭さんがユリから金を貰ってくんの、分かってたからね」
ノブが舌打ちをしながら、定石通り狡賢く対応する。
だが、感情を鎮めたかと思ったテツが「いいから、早く残りの二十万円払えや!」と、焦れったそうに声を荒げた。
「ほう、ヤクザになったとたん豹変か。小僧のとき、面倒見てやったのを忘れたようだな」
「昔の話をするな。今のてめえは総長じゃねえ。道端にすてられた犬の糞だ。みすぼらしくて誰も近づこうともしねえ。さんざ守ってくれた親衛隊もな」
「驚いたな。人の女に横恋慕すると、こうまで性根が腐るのか。言っとくが、お前みたいなパシリとは疎遠だが、スコ―ピオンの仲間とは今でも交友があるぜ。みんないっぱしの堅気だ。三下ヤクザなんかになっちゃいねえぜ」
スコ―ピオン? スコ―ピオンと言えば、向かうところ敵なしのまま解散した伝説の暴走族。総長のカリスマ性に対抗勢力が次々と伏したらしい。解散を惜しむ声が強かったが、屋台骨を支える親衛隊が時代を読み、総長とともに去ったため存続しなかった。
その伝説の総長が、圭なのか? 後藤は愕然とした。
「そんなに怒んないで下さいよ。俺たちはただの使いですから。テツも俺も、今日中に二十万持って行かないと不味いんですよ」
「そうだな。でも、金はない」
「ないだと!」
いきり立つテツをノブが制す。「ユリから貰ってるはずだけど」
「貰った。だが、お前らに渡す金は一銭もない!」
「圭さん、それはないぜ。俺たちは餓鬼の使いじゃないんだから」
「餓鬼だよ。いつまでたってもな」
「どういう意味だ!」
ノブの語気が荒くなる。それでも圭は何ごともなかったように平然と言い続ける。
「パシリしかできないのに、ヤクザなんかになるからだ」
ノブの顔が怒りにふくれ上がる。とうとう我慢しきれなくなったのか、顎をしゃくってテツを圭の背後に回らせた。
「図にのりやがって! テツ、かまわねえから殺っちまえ」
ノブが声を張り上げた。
肯いたテツが胸からナイフを取り出し、突進した。予測はしていても楽観しすぎたのか、圭は振り向いてテツの顔を指で押え付けるのが精一杯。ずぶずぶと刃先が見えなくなるまで胸を突き刺された。
くすり漬けにされた身体では思うように反応することしかできなかったみたいだ。圭の胸からじわじわと血が滲み出し、皮ジャンパーの下の白いTシャツが、たちまち真っ赤に染まる。
「あわわ、ほんとうに殺っちまった!」
圭だけでなく、テツの顔からも血の気が引いていく。いくら喧嘩が強いといっても、人を殺したことなど一度もなかったのだろう。きっと今だって、感情にまかせゲーム感覚で心臓を刺しただけなのだ。
往々にして、現実と非現実の区別のつかない若者がいる。彼らは小学生の頃から、バーチャルにおいて幾度となく人を殺している。彼らは主人公なのだ。そして立ちはだかる者はモンスター。それゆえ殺さないと先に進めない。殺すことが勇者であり、殺すことのみが主人公に義務づけられた任務なのだ。そこには罪の意識など存在しない。
その世界に慣れきってしまった少年たちは、現実の殺人もゲームの延長でしかない。傍聴した裁判の加害者同様、残虐な殺人をあっけらかんと侵す心理の要因はここにある。ふっと現実に気づき、多少の動揺を覚える者もいるが、多くの犯罪者たちはバーチャルの世界に心を置き去りにさせている。
ノブがその典型だろう。彼こそがゲームを支配する主人公。テツというキャラを操って、どんなボタンでも押せるようになってしまっている。自らが望んで、歪んだ性格を形成させていた。
言い換えればテツなど、画面に登場してくる手先なのだ。ましてや圭に至っては、レベルが低いときに設定された、単なるボスキャラの一人だった。行き詰ったらリセットボタンを押してやり直せばいい。ゲーム上では安易に冒険をやり直すことができる。現実の人生においての出直しが、いかに大変ということも知らずにだ。あまつさえ死後、ほんとうに地獄へ行かされるとは思ってもいない。
「落ち着けテツ。誰も来やしねえよこんなところ。それよりも金だ」
ノブは動揺するテツを尻目に、圭のポケットをまさぐる。ユリから手渡された封筒を覗き、中身の札を数えている。人が死んでいるというのに、その行為は大胆なのか、冷血なのか計り知れない。
「よし、ずらかるぞ!」
「なんて、奴らだ……」
怒りを顕にする後藤を、謎の霊がなだめてくる。
「心配ありません。彼は生き返るのですから。ただし魂は因果を含めて封印させます。だから肉体が復活すると、あなたの行ないによって、彼の脳に逐一生きざまが記憶される。行動はきわめて重要ですよ。では心の準備ができたら、私の横に来てください」
謎の霊は圭に近より、胸の上に手をかざす。瞬く間に流れる血が止まり、再び心臓が鼓動をはじめたのだろうか、圭の顔に生気が戻っていく。
映画でイエス・キリストが死んだ人間を生き返らせるシーンを見たが、目の当たりにすると、やはり奇跡だ。
「さあ、今です。集中して、彼の肉体の中に飛び込んでください」
後藤はどぎまぎしながら言う通りに気を集中する。勢いよく圭の肉体へもぐり込んだ。
数秒がすぎ、立ち上がるが……感覚はおかしい。思い通りに身体を動かせても、他人の肉体。実感が湧かなかった。試しに両拳を握って力を溜めてみる。どうにも慣れ親しんだ身体と違ってジャンキーの圭は脆弱だった。懐かしい心に触れたような気もするが、奇妙な感覚のほうが先立つ。
「どうですか、気分は」
「しっくりこない。意識的には今までと、まるっきり一緒なんだけど」
「じきに慣れるはずです。でもその前に、覚醒剤による禁断症状との戦いが待っています」
禁断症状? 考えてもみなかったが不条理とも思わなかった。人間に備わっているすべての感覚は脳に刻まれている。だから克服するには、身を持って新しいプログラムを脳に書き込まなくてはいけないのだ。とうぜんの事と受けとめた。
「ジーンズのポケットに、アパートの鍵が入っています。触れれば部屋の場所が分かるようにしておきました」
後藤は、言われるままポケットに手を突っ込んだ。鍵があった。触ると頭の中に映像が現われた。
のっぺりとした住宅街で、駐車場と空き地、独身向けのアパートが数軒あるだけだった。音声こそないが、カーナビみたいに案内されて目的地の鉄骨二階建てのアパートへ導かれた。一階の角部屋、南側の窓には大きな杉の木が二本そびえている。
「これは、透視?」
頭の中の映像を消して振り向くと、謎の霊はもういなかった。紳士然とした残像も、耳に語りかけてきたソフトな声も、痕跡は跡形もなく消えていた。ただ、降りしきる雪の冷たさだけが現実を知覚させる。