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「少しは真実を把握できたようですね」
後藤の意識の中に、とつぜん甘い声が響く。力なく見返すと、穏やかな笑みをたずさえた男が近くに浮かんでいた。
どちらかといえば小太りで丸顔。髪は左から七、三に分け、緩やかなウエーブが広い額にかかっていた。また窪んだ目を隠すよう銀縁の眼鏡がかけられていて、そこから耳の所へチェーンが垂れている。鼻も唇も柔和だ。襟の広がった仕立てのよさそうなスーツといい、どこか十九世紀後半、もしくは二十世紀初頭の紳士に見える。
けれど霊である。
「あなたは? また、少しとはどういうことなのか」
抑えつつ、真意をたずねた。
「私が誰であるかはまだ明かせませんし、知る必要もないでしょう。人には知らないほうがよかった、と思えることが往々にしてあるのです。なぜなら、あなたは、まだ完全に死んではいませんから」
「僕が死んでいない? それはおかしい。誰も僕の存在を確認できない」
「魂である以上、それはあたり前のことです。今は離魂しているだけ。肉体はH病院の集中治療室でかろうじて生命をとり止めています。しかし頭蓋底骨折による脳内出血、意識がない状態なので、たとえ心臓が動いていても回復の見込みは少ないでしょう」
「それは、遅かれ早かれ死ぬということ? つまり、このまま……」
「いえ、現在の医療技術であれば死を免れることは可能でしょう。けれども脳の損傷がひどいので後遺症は残るはずです」
「それは思うように喋れなくなるとか、歩行困難になるということ?」
「そうですね。排尿も排便も他人の世話にならざるを得ません」
むごい、むごすぎる。
あまりに残酷な言葉だった。魂の存在やら、死後の世界があるということは知識として認識していたし、実感している。でも後遺症がひどく残れば、それは人工的に生かされている植物人間と何ら変わりがない。人との触れ合いによって生じる喜怒哀楽、思考に基づいた行動も一方通行になってしまう。歯痒く一生をすごすだけ。
いっそ死んだほうがましだ。
そんなもの、ちっとも運命なんかじゃない。運命というのは、字のごとく命を運んでいくものなのだ。切り拓くものであり受け容れるものではない。現実を拒絶している自分がいた。
「ものは考えようですよ。だって生きながらにして、そのぶん他の人よりも魂を鍛えられるのですから」
「鍛える? なら、あなたはまだ死んではいない僕を死後の世界へ連れて行く気なのか」
「そうはしません。まだ肉体に執着があるみたいですし、霊的に純粋とは思えませんからね。なぜなら、自身への愛着は霊的理解を曇らせるのです。そのために成熟の場を設定しました。これは高次の領域の意思でもあるのですが、肉体が眠っているあいだに、ある男に成り代わってほしいのです。つまり、それがカルマの克服に繋がると理解してください」
謎に満ちた霊は表情を変えずに淡々と話していくが、その中に、とてつもなく重要なことが三つ含まれているのに気づいた。でも返す言葉が見つけられない。
まず、成り代わるということは後藤が後藤でなくなってしまうのではないかという危惧。本の中で、肉体は魂の洋服とあっさり断言する人もいたけど、実際そんな単純な問題ではないと思う。身体を大切に思うのは人としてとうぜんのことだ。この人の霊だって過去世の人間の姿を今もしているのだ。愛着とか思い入れ、それがなければ成長しない。肉体と魂はたがいに引き合い調和しているのだから。
また、どうしてそれがカルマの克服に結びつくのだろうか。人間誰しも課題を持って生きている。なのに後藤は、まさに乗り越える前に死のうとしている。克服しなかった。だいいち自分のカルマが何なのか、それ自体がいまだに判然としない。
そして成り代わり、果たして可能なのだろうか。たとえ臓器移植であっても、相手の同意と医師の脳死の判定が不可欠なのだ。陰ながらその人を見守るということであれば別だが、気が進まない。
「仮に僕が承諾したとして、その行為は、その人の未来を変えてしまうことになる。歴史自体が変化する」
「ふふ、大げさですね。いいのですよ、現在とは過去も未来も含んでいますから。それに、そもそも未来とは変えるためにあるのです。ここで切り拓かなければ、それこそ、あなたの言う歴史が歪んでしまいます。魂の上昇のため、高次の領域からは励ましをいただいてきました」
「魂の上昇?」
後藤は、カトリックでもプロテスタントでもないけど聖書を読んだ。四福音書以外の文書も読んだ。その中で『マリアの福音書』に魂の上昇のことが書かれていた。だったら高次の領域というのは、神の子らが住む天の国なのだろうか。
「ちょっと待ってほしい。高次の領域とかカルマの克服。理解はできるのだけれど、ある部分が絵空ごとに感じられて曖昧すぎる。できたら全容とはいわないまでも、少しは教えてもらいたい」
「ほう、不満みたいですね。では、かいつまんで少しだけ言います。私自身、第三の領域までしかいったことがないので詳しくはありませんけど、色に例えれば目映く、そして暖かく、瑞々しい緑に溢れた世界こそが霊界。しかし、問われた神界とも呼称される高次の領域が更なる上に広がっており、多くの聖人がそこで暮らしているようです。また、すべての肉体と魂は高次の本性を持ち、そこを目指していくはずなのですが――」
謎の霊は、そこでいったん話を切ってやるせない表情を見せると、血眼になって現金を追いかける松本たち三人へ目を向けた。
「せっかく進歩の法則である転生を授かったのに、カルマ、それを消化できない者にとっては業でしかなかったようです。というのも彼らは、四百年ほど前の海難事故で火事場泥棒でした。それを悔い改めさせるために、再度同じような課題を持って生まれてきたのです。ところが乗り越えるどころか殺人、さらに凶悪になりました。その代償は厳しい。もはや最下層の地獄へ行くしかないでしょう。そこは闇に閉ざされた不毛の世界、いたずらに身体を引きちぎられて、毎夜毎晩、繰り返し死を体験するのです。でも、とことん堕ちれば、もう目覚めるしかないのも事実。目覚めた者には救いの手が差し伸べられます。あなたは聖書を読み込んでいたので『放蕩息子』の喩え話を知っていると思いますが、心から改悛すれば罪が赦されるという法則です。ぜひ過去世から縁のあるあなたが、手を差し伸べてください」
縁のある過去世?
その言葉によって記憶の一部が覚醒する。「では彼らは、あの強欲な火事場泥棒だった五人組?」
「そう、五マイナス三は二。二人足りませんが、どうやらおぼろげながらも前世の一場面を思い出したみたいですね。そうです、あなたは確かにそこにいました。ジョルジュとヨシュアという名の少年もいたはずです」
「ジョルジュ? ヨシュア?」
しだいに覚醒されていく記憶に胸が熱くなる。漂流を甦らせるかに、鉛色の空から粉雪がちらついてきた。
どうして、死ねなかったのだ。
まだ夢を見ている、と純二は思いたかった。
車は大破して、松本たちは息絶えていた。とうぜんのごとく純二も死んでいるはずだった。頭上から、自身の姿がはっきり見えたから。
ただ、おかしなことが一つだけあった。それは道路の真ん中に立っていた奇妙な老人だ。
警察官が純二たちの死を確認し、走行不能になった道路の交通整理をするため、事故車から離れたときだ。あの老人が、なぜか気難しそうな顔して車の中へ入り込み、やおら純二の身体に手をかざしていたのだ。何をしているのだろうと気になり、覗くと、老人が振り向いた。にやっと、どうかすると不快な笑みを返された。
ばかりか「処置は済んだ。十数秒後には血もとまるだろう。さ、ぼさっとしていないで肉体に戻りたまえ」と、一方的に強要させられたのだ。
何が何だか分からないでいると、強引に身体へ戻された。そして車から押し出される。足もとには血、地面にぽたぽた滴り落ちていた。
「血は止まる。すぐ走りなさい。為すべきことを見つけ、為すがよい」
命令口調で言いすてると、老人とは思えぬ敏捷な身のこなしでそそくさと去っていく。
「待って! 逃亡しろと?」
もののけに取り憑かれた感じで、意味が分からないまま老人を追った。匂いだけを唯一の手がかりとして。気がつけば捜せず、ぜいぜいと息を切らして公園の草むらに座り込んでいた。結果的に、警察官の一瞬の隙をついて現場から逃走したことになった。
いったい……あの老人は何者だったのか。
自首しなければという気持ちが輪をかけて、純二の思考を迷走させていた。
H病院の集中治療室は戦場の様相を映し出していた。薄いカーテンを隔て、後藤と男の銀行員が同時に運ばれていたからだ。
外傷度としては、大量出血をしている銀行員が優先だったが、緊急度は後藤のほうがより高かった。なにせ意識のある銀行員と違って完全に昏睡状態、脈拍も消え入るように弱い。
すでに衣服は鋏みで切り裂かれて、口に人工呼吸用のチューブが差し込まれていた。医師が後藤の閉じた瞼を指で押しひらき、瞳孔にペンライトを当てている。
「だめだ、まったく対光反射がない」
医師が声を荒げたとたん治療室に緊張が走る。もはや一刻の猶予もないようだった。慌しくCT室へ後藤を移す。判定結果いかんで、頭部を半円形に切開する緊急手術の可能性がある。頭蓋底骨折、謎の霊の言った通りに事が運ばれていく。
「僕は、死んでしまうのではないでしょうか」
治療室の片隅で、壁にもたれかかり聞いた。
「人間は誰でも死にます。そこには早いか遅いかの違いしかありません。でも魂の状態になって気づいたはず、生命は永遠だと。だから惑わされてはいけないのです。あなたには、するべきことがあるのですから。さ、急ぎましょう。なり代わりに危機が迫っています」
肉体に心残りがあったけど、ここで立ちどまってしまっていてはいけないと魂が触発する。この、いまだ謎に包まれた霊が何者か分からないが、その通り為すべきことをしようと決めた。
というのも、一見ばらばらで無作為に繋がって見えた不確定の要因が、過去に端を発して一本に繋がる気がしたからだ。だったら、乗り越える意義を見つけられない人たちに伝えなくてはいけない。
「まだ、ヨシュアのふっくらとした顔しか思い出せないけど、その他に何人ぐらいが、この一連の共時を受けているのでしょうか」
「ほう、ヨシュアを。ま、いいでしょう。それはさて置き、夢を受けとったのはあなただけです。しかし前後して、ほぼ同時に事象が起きています。そしてそのことを、今現在知覚しているのは一人だけでしょう。それが誰かは言えませんが、今回、目的を持って転生してきたのは十四人。すでに五人が死にました」
「五人って、三人のはず。僕はまだ完全に死んでいないし、運転手も生きていた」
「すべてを教えることはできませんが、すでに死んだ人ならいいでしょう。あのとき救命ボートの中で、あからさまに差別をした男性がいましたね。彼は、今世で差別を受ける側にまわったのです。あなたの同級生の、吉井君として」
「え、吉井が……」
まだ記憶が曖昧だ。てっきり吉井がヨシュアだとばかり思い込んでいた。
「もう一人、ジュリアの父親が現世でも父親として生まれ、見守りながら召されましたよ」
「ジュリア、だって?」