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「よし、時間だ」
小川純二は煙草の火を消すと、静かに銀行の前へ車を寄せた。
本意ではない。しかし、もうそんなことはどうでもいいと思っていた。
生きる望みを絶たれたのだ。銀行強盗の汚名など屈辱のうちに入らない。
純二はF2ドライバーだった。それなりの成績も残し、将来を嘱望されたレーサーの一人でもあった。けれどレースから離れて三年、小さな自動車工場の整備士の生活に満足していた。結婚を誓った恋人との挙式も控え、地味ながら幸せを満喫していた。
それが、ある男たちの企みですべてを失ってしまった。
すまない、麻美。
純二は悔いるかに呟いた。必ず屈辱を晴らすからと、亡き恋人に詫びた。
辺りを見渡すと、幸か不幸か人通りが少ない。これなら銀行内で何が起きていようとも気づかないだろう。まさか映画じゃあるまいし、朝から銀行強盗があろうなどと誰も思わない。
銃を構えた人間が出てきてもぴんとこないような気がする。平和すぎるのだ。とにかく平和すぎて、すべてに無防備になっている。
と、ドアが乱暴に開き、興奮した三人がいっせいに飛び出してきた。それとともに勢いよく車になだれ込む。小柄で狡賢い池山の手に大きなバッグが抱えられていた。
追いかけてくる者はいない。それだけで行内で起こした残忍な行動が推測できる。こいつらは鬼畜だ。
「早く、車を出せ!」
感傷的に銀行を見つめる純二へ、顔を蒼白にさせたリーダー格の新田が叫ぶ。かすかに硝煙の臭いがする。
賽は投げられたか。なら行動を起こすだけだ。
純二は思いを胸に秘め、車を発進させた。
「じきにパトカーが来る。高速のパーキングまで五分で行け!」
新田が喚く。
そんな緊迫した状況ののとき、池山はバッグに手を突っ込み浮かれている。
「すげえ、大成功だ。こりゃ五千万じゃきかねえぞ」
「いいから、早く三つに分けるんだ」
刑務所から出てきたばかりの松本が、頭を小突いて池山を嗜める。
予定では奪った金を三つに分け、パーキングにあらかじめ置いてあるバイクに乗って、それぞれが別方向に逃げる算段だ。
浮かれるだけ浮かれればいい。純二は醒めていた。渡された札束に触れるわけでもなく運転に集中した。信号のない道を選んで走り、スピードを上げて、前方の車を縫うようにして走行させていく。あまりのスピードのため、池山は体が左右に揺れて奪った現金をうまく三つに分けられない。しかたなく新田が手伝おうとするのだが、頭を松本とぶつけ、揃って顔をしかめ舌打ちをさせる。
「速度を落とそうか」
アクセルを緩め、嫌味っぽく言った。
「別に、そんなことは言ってねえ」
新田から、いかにも不機嫌そうな声が返ってきた。
「だったら、もっと速度を上げる」
純二は無表情でアクセルを踏み込んだ。とたんにエンジンの回転数が上がる。三人の身体が座席に押し付けられた。いよいよ札束の仕分けどころじゃなくなっている。
国道を右に折れ、料金所までもう少しという所にやってくると、遥か先に、痛ましいくらいの小柄なそれでいて痩せ細った、どこから見ても風変わりな老人が立っているのが見えた。
遠いのに、どうしてありありと見えるのか不思議だったが、レンズの分厚い丸いロイド風眼鏡。世俗を避けているかの青白い顔。そのうえ狭めた瞼の隙間から放たれる、針のように鋭い視線までもが純二には確認できた。
しかも時代錯誤もはなはだしく、黒い外套の下にベストを着込み、さらに蝶ネクタイをしている始末だ。これでシルクハットでも被っていれば、昔純二が夢中になって読んだ本の主人公『思考機械』が物語の中から飛び出してきたような錯覚も起きる。
「何だ、あの、ちんどん屋みてえな爺いは?」
三人にも見えていたのか、池山が素っ頓狂な声を上げた。
「どけ、危ねえぞ!」新田も大声で叫ぶ。
確かに妙だ。しかし純二は、その老人に対し、なぜかある種畏敬の気持ちを覚えていた。俗界に生きる存在には思えなかったのだ。言い換えれば自分の心の中にある罪悪感が、形を変えて映し出された現象なのかと思った。
「轢け、ぶつけてしまえ」
松本がいきり立つ。純二は即座に反論した。それも、初めてとも思える強い口調で。
「ぶつける? そんなことはしない。ぶつけるのは壁だ! そして、お前ら以外に死の道連れを望まない」
すっと沈黙が生まれた。三人の目が見る間に凍りつく。
「何だと! もう一度言ってみろ」
松本が青ざめた表情そのままに息まく。
「そんなことさせるか」
新田が、後部座席から首を絞めてきた。が、力はそれほど入っていない。あたり前だ。時速にして、有に百八十キロは超えているのだ。運転できなくなれば、それこそ死が現実となる。
見かねて「純二、考え直してくれよ」と、池山が手を合わせてきた。声が裏返るというか震えている。
純二は応じない。「受け入れろ。麻美を死に追い込んだ張本人は、お前らだ」
「出まかせをを言うな」三人が口を揃える。
「出まかせ? まともな人間は、死ぬ間際にそんな嘘をつかない」
「ちっ、生きてたのか」松本が口を歪める。
「やはり、思い当たることがあるんだな」
純二が言いすてると、松本が狂ったかに叫ぶ。「きさま、謀ったな!」
「残念だったな」
純二は、さらにアクセルを踏み込んだ。速度計がどんどん右へ振れていく。二百キロを超した。風切り音とエンジン音が異様に上がる。車体が軋む。配水溝を通過するたびに車が跳ぶかに浮き上がった。身体までもが一緒に浮遊した。景色が一気に飛んでいく。
死へ直結するスピードへの恐怖、風景まで別世界のように見えたのかもしれない。速度計を振り切る頃には、とうとう新田も首から手を離した。少しでも怪我をまぬがれようと座席の下に蹲った。助かりたい一心で泣き喚いている。
首を邪魔する者がいなくなれば、あとは老人だけ。純二は、前方の老人を避けるようにして左車線へ移動した。
標的はこの三人だけなのだ。轢き殺すなんてことはできるはずがなかった。
側道との分離壁。そこへ車をぶつけて復讐するのだ。速度をまして、一気に突っ切ろうとした。
が老人は、そんな純二の気持ちを推し量ろうともせず、空を飛ぶかに左車線へ移動してきた。
「な、なぜ?」
ブレーキを踏む間もない。たまらずハンドルを左に切った。凄まじい衝撃音。車は老人のとった奇妙な行動によって、側壁に激突した。
序 3
船が沈んだ事の発端は、航行中、調理室から火災が起き瞬く間に燃え広がった炎。
同乗していた神父の要請で、怪我人の救助へ向かった親代わりのジュリアの父とはぐれ、逃げ遅れたジョルジュたち四人は救命ボートに乗ることもできずに甲板を右往左往していた。
十五才でありながら、これまでジョルジュは人の醜い本性を何度も見てきたつもりだった。しかしこの地獄の様相と比べれば、たわいのない少年のエゴと思わされた。
いくら船が炎上して沈没寸前とはいえ、殴り合って先を争い、老人と幼女を見殺しにしてまで救命ボートに群がる必要があるのだろうか。ひときわ優雅で、まるで社交界の華にも見えた貴婦人でさえもそうなのだ。髪を振り乱して、長いドレスの裾を下品にたくし上げ、そのうえ下卑た言葉で十一才ぐらいの少女の髪を掴んでは押しのけ、乗り込んでいる。
「私には、生き延びる権利があるの」と焦点の合わない目で、少女の母であろう婦人の哀願を無視した。そして「いいから、早く舟を出しなさい!」と、漕ぎ手の男をせっついている。
とり乱しているせいだけじゃない。本性だ。自分よがりすぎるし、ちっとも貴婦人じゃなかった。いくら見栄えがよくても中身は残虐な殺人鬼と少しも変わらない。どうして潔さが持てないのか。誰だって死にたくない。そこまでして生に執着することはないはずだ。
我慢がならなかった。それが事態の解決にならないことを知っていたが、気がつくと胸の底から溢れ出た憤りが行動になっていた。定員まで、あと一人になってしまっていたからだ。ジョルジュは順番を待ち、まさに乗り込もうとしていた紳士を制した。
「乗らないでください!」
意を汲み、すかさず反応した力持ちのヨシュアが、泣き叫ぶ少女を抱えると救命ボートへ投げ込んだ。
「こうしたかったんだろ、ジョルジュ――」
「ああ、そうだとも」
だが一人助かれば、一人死ぬ。神でもあるまいに勝手に人の命を選択した。それが正しい行為とはいえなかった。
「私は割り込みもしないで、きちんと順番を待っていたのだ。それなのに、もう乗れなくなってしまったじゃないか。君らは、私に死ねというのか!」
ジョルジュは紳士から胸ぐらを掴まれ、さらに「鬼畜め!」と押し倒された。
紳士は、ジョルジュを罵りながら列から遠ざかる。
「あの紳士は割り込みをしなかったが、傍観者として、何人もの割り込みを許している。これだって罪と言えば、立派な罪だ」
ゴードンが紳士の背中を見ながら言った。「それよりも、早く飛べそうな場所を探さないと手遅れになるぞ」
すでに船室は火の海で、甲板にまで勢いよく炎を噴き上げている。ジュリアの父に、娘を頼むと託されていたし、燃えさかる炎をとめるには浸水して船が沈没するしかなくなっていた。
ジョルジュは起き上がり、辺りを見渡した。
甲板に残された人たちは言葉を失っていた。まさしく修羅場、地獄絵図さながらに暴行略奪が行われている。ジョルジュの目の前でも、五人組の無頼漢が、次々と老人たちを狙って身につける金品を強奪していた。助かる当てもないのにやけくそなのだろうか。
沸々としたものが堰を切ったように押しよせてくる。それはこの状況と照らし合わせた自分の生ばかりではなかった。胸中を量りかねる大人への理不尽さだ。失望させられた。
そうしていくうち元気のある者たちが次々と飛び降りてしまうので、ジョルジュたちと希望を失くした十数人の老人だけが甲板に置き去りになった。その中にヨシュアが投げ込んだ、少女の母親の姿を見た。足が不自由なのか杖を付いていた。
「船は、じきに沈没します。一緒に脱出しましょう」
堪えきれず声をかけた。
けれど、彼女は力なく首を横に振る。胸の前で十字を切り、祈るだけだった。なぜなら甲板から海面までは、平屋建ての家三戸ぶんの高さがあるのだ。まして地獄を連想させるかに昏い。そんな真っ暗な海へ、ジョルジュたちだって飛び込む勇気が湧かないのに、下肢に傷を負っている。仮に飛ぶ勇気はあっても、泳ぎきる体力はないだろう。哀愁のみが漂っていた。
「娘を助けてくれてありがとう。さ、私にかまわず早く飛び降りなさい。命を無駄にしてはなりません。勇気のある者だけにしか、希望は灯らないのです」
見透かされていた。二の足を踏んでいたとは言えなくなった。逆に励まされ、無言で別れを告げた。ジョルジュは皆と顔を見合わせると、救命ボートを追いかけるようにして飛んだ。
まるで視界がなく、いつまでたっても海面に到達しそうもない。かと思えば、いきなり分厚いガラス板を錯覚させる水面の衝撃。痛さに思わず目を瞑った。
その後は上下左右が判断できずにどこまでも沈んでいく。目を開け、舞い上がる気泡だけを頼りに足を蹴った。
それらがすべて一瞬のはずなのに、気の遠くなるような長いときを感じて浮かび上がった。必死に皆を捜したが、ヨシュアだけしか見つからない。
その直後だった。船が火柱を上げて傾いていったのは――。
炎の中で祈る、夫人の面影を胸中に疼かせる。どのように偲んでいいのか答を探せないまま、浮遊する角材と板ぎれを見つけて必死に泳いだ。
しかし炎が消えたら漆黒の闇。婦人のしわがれた思いやりも、視界に捉えていた救命ボートの影も消えた。目にできるのは、憐れにも溺れた死体と、ここで生き延びるのに価値のなくなった紙幣が浮いているだけだった。