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午前十時。歩道上にせわしい通勤客の姿はもうない。駅近くへやってきても、開店の準備をする商店街の人らとパチンコ店の前へ並ぶ人の姿が見えるだけだった。
新装オープンなのだろう。学生もいれば見るからに働き盛りの若者も主婦も混じっていた。それぞれが仏頂面を決め込み、隣の人間にさえ関心を持たないが、あわよくば一攫千金を目論んでいるに違いない。ときおり覗かせる表情に淀んだ澱が垣間見える。切ない現実だ。
現実といえば三日前にアパートを決め、もうすぐ一人暮らしをはじめる。そのため銀行へ行って振込手続きをする。兄夫婦が子供を授かったため実家で同居することになったのだ。
兄は区役所の職員。後藤とは違って時間から時間の典型的なサラリーマン。義姉とも職場結婚だ。父も母もそうであり、我が家は後藤を除いて完全な区役所一家。後藤一人がその歯車から弾け飛んだ。
銀行内に入ると手短に手続きをすませ、貯蓄のカウンターへ進んだ。なぜか定期預金の必要性を感じたからだ。結婚する頃にはマイホームを手に入れたい。ささやかな夢である。
考え方は父や母から譲り受けたもので兄ともよく似ていた。結局弾け飛んだといっても、職種と時間的なずれが生じただけで、考え方はしっかりと歯車の中に組み込まれていたようだ。
番号を呼ばれカウンターの前に向かうと、女子行員がにこやかな笑顔で出迎えた。
気分がいい。つくり笑顔だと分かっていても嬉しい。笑顔というのは、人をふっと和やかにさせる。自分でそれができないぶん無性に爽快さを感じる。
一種の職業病なのかもしれない。平和な記事を書く暇がないほど嫌な事件が次から次へと起こる。それはすでに一人の人間としてのキャパを超えていた。こんなにも荒んだ人間が氾濫しているのか。記事に触れるたびに気力が低下していく。そんなとき思いがけずに出会う微笑みは、後藤に活力を与え、心地よい充実感でいっぱいにしてくれる。
「定期預金でございますか」
行員の少しハスキーがかった高質の声が、笑顔とともに響く。いかにも訓練された営業言葉のようではあるが、リズミカルに迫ってくる。
「マイホーム資金のために、今から準備をしようと思って」
後藤が言うと「ご結婚が近いのですね。それでしたら、こちらのプランはいかがでしょうか」
女子行員はこぼれんばかりに白い歯を覗かせ、いく通りもあるプランを提示してきた。
少し照れた。恋人はいるがそこまで煮詰まってはいない。気づくと、人さし指で眉の辺りをぽりぽり掻いていた。いつも恋人から指摘される癖だった。
面映ゆく入口へ目を向ける。
そのとき、後藤のほんわかとした気分はすぐに打ち消された。
すーっと行内へ入ってきた、顔を深いフードで覆う三人の若者にある種特有の匂いを感じたのだ。それはパチンコ店の前で見た人種とも違う異質なものだった。強いて言うなら、先日傍聴した裁判の加害者たちと似通っている。
社会部に配属され九ヶ月、匂いを嗅ぎわけるのにはまだまだ未熟なはず。杞憂であればいいと願った。
だが、思いは無残にも打ち砕かれた。彼らは持っていた拳銃を取り出し、いきなり天井へ向かって発砲したのだ。
衝撃音とともに割れた蛍光灯の破片が辺りに飛び散り散乱した。女性客の甲高い悲鳴が上がる。たちまち周囲が騒然となった。が彼らは、容赦なく二発目をやはり天井へ発砲させた。騒然となっていた行内が、一瞬にして恐怖に静まり返る。
「動くんじゃねえ、殺すぞ!」
大きな声で威嚇し一人がカウンターへ飛び乗った。他の二人は行員と客に銃を向けている。
カウンターに乗った男が、目の前の女子行員の頭へ拳銃を突きつけた。女子行員の髪が逆立つ。声も出せずに怯えた。
「これはゲームじゃないんだぜ、姉ちゃんよ――」
男が目を吊り上げる。
後藤に応対していた女子行員も見るまに顔を青ざめさせる。拳銃が本物であったし、男たちの目が飛んでいたからだ。
おそらく警察へのホットラインを繋げようとしたのだろう。わなわなとカウンターから身体を遠ざける。が、銃口もそれに続いて移動する。
よせ、撃つな!
後藤は心の内で感情をほとばしらせる。それほど男の常軌は逸していた。
しかし思いに反して男の指に力が込められていく。なら威嚇じゃない、本気だ。
後藤はズボンの中の携帯をまさぐった。防ぐ勇気がないのなら、せめて警察に連絡するしかない。
そうして後藤が携帯を掴んだときだった。無慈悲にも男が引き金を弾く。
女性行員の頭が、ふわっと後ろへ揺れた。血に混じって見たこともない肉塊が辺りに吹き飛んだ。悲鳴が場に渦巻いた。
なぜ、なぜ撃った? どうして人を殺せるのだ。
後藤は激しく首を振った。
「非常ベルを押してみろ、この女みたいに――殺す!」
なおも低いだみ声が響く。
と、別の男がカウンターを飛び越える。上司であろう男性へ向かって「きさまの教育が悪いんだよ」と、狙いすませて拳銃を撃った。
男性は胸を押さえる間もなく、床に倒れ込む。
恐怖のため、もう誰一人としてベルを押そうとする者がいなくなった。銀行内に張りつめた緊張が強まる。それを見て、後藤の隣にいた客が、恐怖のあまり無謀にも逃げ出そうとした。錯乱状態に陥ると突拍子もない行動に出る人間が稀にいる。
危険だ! 殺されてしまう。
後藤は男性の腕を掴む。落ち着くんだ、と目で諭した。しかし近くにいた一味の一人が気づき、拳銃を構えたまま近づいてきた。
まずい……。
そう思った後藤は、半ば無意識に侵入者へ立ちはだかった。
いきり立っていた男が、一瞬、後藤の顔を見て驚いた表情を見せる。それでもすぐに側頭部めがけ、ヒステリックに拳銃を振り下ろしてきた。脳への強烈な衝撃とともに目の前が暗くなる。
意識が消えた。
序 2
ランプは救命ボートだった。かなりの人数が乗っている、しかしそれは、一人でも多くの人間を助けようとやってきたからだ。つくづくあきらめずに、板ぎれにしがみ付いていてよかったと、ゴードンは神に感謝した。
だが、かけられた言葉は耳を疑うばかりの残酷なものだった。
神は人に乗り越えられる試練しか与えないと、親代わりのジュリアの父から絶えず聞かされていた。でも違う、淘汰された。いや、ゴードンがしなくてはならなかった。
「すまん。見ての通り、救助は二人が限度だ。四人も乗せるわけにはいかない」
耐え難いほど、冷たい空気が流れる。
ボートを見ると避難客に混じって、救助されたばかりなのだろうか、衣服をずぶ濡れにした男女が数人介抱されていた。空席もわずかしかない。
「君が、いちばんしっかりしていそうだ。なら選んでくれないか」
統率者であろう紳士が、窪んだ目をさらに窪ませて、すまなそうな眼差しをゴードンに向けてくる。ジュリアも、ヨシュアも、ジョルジュも、皆ゴードンに熱い視線を当ててきた。
それだけに胸が激しく痛む。できることなら四人全員が助かりたい。けれどもそれが許される状況でないことを把握できた。残酷な言葉だけど、善意から生まれた哀しい通達でもあるのだから。
だったら弟のジョルジュには悪いが、ジュリアと、ヨシュアを船に乗せるしかない。
二人を助けて、死のう。ゴードンはジョルジュを見返した。
ジョルジュが、ふっと寂しい目を見せる。ゴードンの気持ちが伝わったのだ。弱々しく肯いた。勇気があるほうではないが人一倍優しい男なのだ。そしてジョルジュが、秘かにジュリアに想いを寄せていることもゴードンは知っていた。
「では少女と、その兄を助けてください」
心が挫けないうちに言った。
返答はない、重い沈黙があった。だが、その沈黙は掻き消される。無情ともいえる現実によって儚くも打ち破られた。
「私は医者だ、その少女は衰弱しすぎている。みすみす死ぬと分かっている者を乗せるわけにはいかない。救出する以上、生還させたい私の気持ちも理解してほしい。それと、もう一人もだめだ。命が一つなのに、彼は二人ぶんの重さを背負っている。我々は、どうせ救うなら一人より二人、救いたいと願っている」
医者が拒絶した。
なおも横から棘のある言葉が飛んでくる。「わしは知っているぞ。二人の父親は狡猾なユダヤ商人。その非道な商売の陰で、泣かされた人間をずいぶん見てきた。こいつの贅肉は、弱者の涙で呪われた肉だ。乗せるなんてとんでもない」
正義は差別の力を借りて下された。ヨシュアとジュリアが置き去りにされた。押し黙り、ゴードンを見送る二人の姿が小さくなっていく。