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「年末の仕事も頼まれたが、どうだね。やる気があるなら返事をしてくるが」
あれから一週間、老紳士は未だ純二の部屋に居座り続けている。だいぶ人間界にも慣れてきたのだろう。どこで調達してきたのか、四六時中、古いスウェット上下でソファーに寝転んでいる。シルクハットもニット帽に変わったし、もう、どこから見ても隠居老人の体でしかない。
ただ、この隠居老人は殊のほか人使いが荒い。自分はごろごろするのが好きなくせに純二にはさせない。罪滅ぼしだ、と強制的にガテン系のアルバイトをさせる。ばかりか身の回りの世話を強要してくる。立場が立場だけに仕方がないが、疲れる。
テレビで、年末の特別番組『タイタニック』が放映されていた。ちょうど船が出航した場面だった。老紳士は純二に投げかけた言葉も忘れたかに観ている。いい気なもんだ。
「勘弁してください。慣れない重労働で身体がくたくたです」
純二は耳に口を近づけて断った。
「根性のない奴だ」
老紳士が顔を見ようともせず悪態をつく。「なら、頭を使う仕事でもしてみるか。これまで、さほど脳を使ってきたとは思えないし、いい機会だ」
「NOです。それより一人でソファーを占領しないで、俺にも座らせてください」
「ほう。君もジョークを飛ばすようになったようだ。似合わんがな」
老紳士が、ようやく身体を起こして純二の座る場所を作った。「ジョークに免じて、許す。ここへ座りなさい」
と、思ったのも束の間「座る前に、例のコーヒーを淹れてくれないか」
「やれやれ」
純二はコーヒーを淹れにキッチンへ向かう。
「ところで、本気だったのかね」
得意の謎かけをしてきた。一言では絶対に意味を探れない。
「何の話です?」やかんに火を当てながら聞き返す。
「相変わらず鈍い男だ。今まで本気になったことなど、数えるしかないくせに。もう少し、打てば響く返答を心がけなければ、見通しは暗いぞ」
着る服は変わったのに、口の悪さは変わらない。
「それだけじゃ分かりませんよ。元々あなたの話は意味不明、説明不足なんだから」
「君に脳のトレーニングをさせているつもりだったが、ま、その域に達してないということだな。それにだ、私には少々こっ恥ずかしいことでもあった」
老紳士が照れながら小指を立てる。「これだよ」
「女性? だったら麻美のことですか」
「ほかにいないだろう。いい年してチェリーだったくせに」
「よけいなお世話です。俺は運命の人以外、必要ないんですから」
「では、その女性が運命の人だったのかね」
純二は答えられなかった。たぶん違うと思うからだ。
麻美が過去、新田と繋がりを持っていたことは知っていた。アルバイトの話を持ちかけられた時点で気がついた。別れることも考えたけど尊い生命を授かった。見すてるわけにはいかない。それに母親になれば変わるかもしれなかった。
「生まれてくる子供のことを考えたら、運命の人だと思います」
コーヒーの入ったカップにお湯を注ぐ。
「君の子かね」
「失礼な。彼女が妊娠を知ったとき、真っ先に俺へ報告してきました。こぼれんばかりの笑顔でね」
「まったく女性経験の乏しい男は、女の笑顔に弱くて困る。涙にはもっと脆いはずだ。しかしその笑顔や涙の裏にこそ、隠された企みがあることを気づくべきだった」
「知ったような口を聞かないでください。例えそうだったとしても、死ぬ間際心から改心したんです。結婚できなくてごめんね、と」
「最後の言葉は真実だったかもしれん。だが、宿った生命は君の子ではない」
「そんな……」
まともな返事ができなかった。危惧はしていた。心の片隅にそんな不安もあった。だけどこうも見事に覆されると、ほんとうに言葉を失う。あの死を覚悟した怒りは、いったい何だったのだろう。
純二は、コーヒーを持っていくのも失念して考え込んだ。
「あほな人間だ」
老紳士がテレビを見ながら言った。画面は、豪華なドレスに身を着飾った貴婦人たちがダンスに興じる場面が映し出されていた。コーヒーは、すで飲み干されている。
「あほって、映画のことですか」
「君のことだ」
なぜか悲しい目を純二へ向けてくる。
「どうして断言できるのですか。それに前から聞きたかったのですが、あなたは何者なんです」
頭がいいほうではないが、あほだとも思っていない。実際、こうして生かされている自体が薄々宿命なのだと理解している。だったら膨らんだ疑問を聞かなくてはならない。なぜなら贖罪以外、何の説明もされていないからだ。
「じきに分かるときがくる」
「なぜ隠すのですか」
「別に隠しているわけじゃない。話したくないだけだ」
「でも、そこまで教えてくれたのなら、すべてを話してくれてもいいはずです」
「見るがいい。貴婦人と、その貴婦人を陶酔した目で見つめる男たち、どこかの誰かと似ているとは思わんかね」
老紳士は矛先を変えるかにテレビを指さした。ダンスシーンが最高潮に達している。ヨーロッパの社交界を、そのまま船に場所を移し変えたかのような有り様だ。二等船室から潜り込んだ青年が圧倒されているし、給仕の若者も見とれていた。
ならそれは矛先を変えたのではなくて、遠まわしに純二のことを指しているのか。事実、麻美の官能的な魅力に狂って、ずるずる事件に導かれていった。
「美しい女性に心を惹かれるのは罪じゃない。だが人は、着飾ったままで一生を過ごせない。くつろいで楽なスウェットを着るときもあるだろうし、すべて脱ぎ去るときもあるのだ。なのに見栄がそうさせるのか、貴婦人のように、心を覆う衣服を、脱げない女性たちがいる」
老紳士の言う通り、見栄を張っている人間は多い。だからといって非難の対象になるべきものではない。見栄を張る人間の根底にあるのは、対等に接してもらいたいという心の裏側でもあると純二は思っている。
「あの、言いたいことはもっともなのですが、少し話が脱線しているのではないでしょうか」
平行線を辿りそうだった。
「そうとは限らんよ。愚者は結果的に、心ではなく容姿に夢中になる。夢中とは読んで字のごとく夢の中と書くのだ。夢は覚めるもの、ひとたび夢から覚めたら現実は残酷だ。横たわるのは厳しい現実だけ。そもそも私がじき分かると伝えたら、君は隠すのですかと、自ら求めようともせずあほまるだしの答を返してきた。これが脱線ではなくて、何を脱線とする」
不本意だが軽率すぎた。
答えようがなくなり黙っていたら「一つだけ真実を話そう」と、老紳士は口もとを引き締めた。眼差しも冗談を言っているときとは変わって段違いに真剣になっている。
「この映画『タイタニック』と同じで、四百年前に海難事故が起きた。そこでの麻美くんは貴婦人だった」
そうなのかもしれない。ここまで現実と過去を符合させられれば否が応でも信じる。
「……分かるような気がします。彼女、とても艶やかでしたから」
「艶やかだと? もう少し違う返答を期待していたが、残念だ。なぜなら、君もそこにいたのだから」
「俺が、四百年前のそこへいたのですか?」
「因縁とも因果とも言うが、その通りだ」
老紳士は静かに肯いた。が、単純な問題ではない。純二は、次の言葉を待った。
「ふむ、その偶然は意味のある偶然ではあるが枝葉でしかない」
「では、幹とは?」
ユリという女性に対して初めて会った気がしなかった。また親友の後藤にも同じような意識を今感じている。
「教えてください。四百年前に何があったのですか。俺は何をしてしまったのですか。また、何をやり残したのでしょうか」
「簡単に教えるわけにはいかない。君は銀行強盗という大罪を犯したのだ。、君とその仲間がしでかした事件によって、一般の人が二人巻き添えを受けて死傷し、後藤くんも重傷を負って昏睡状態が続いている。今また新田くんたちと同じ波長を持つ、ノブとテツの二人組みがユリという女性を執拗に追いかけている。この一見なんの繋がりも持たないと思われる連鎖的な事象は、ある意味、再現なのだ」
「再現? それはいい意味、それとも悪意味ですか」
「殺人なのだから、いいはずがなかろう。先日の拉致未遂も同様だ」
「では、贖罪をさせてください」
犯罪者なのだ。過去をどうのこうのいうより、罪を贖う必要があった。目的を見つけるのは、そのあとだっていい。
「やれやれ、ようやくそこへ辿り着いたか。では電車に乗りなさい。I駅へ行くのだ」
「今からですか」
「あたり前だ。贖罪に休みなどない。危険は待ってくれないのだ」
「でも、I駅のどこへ行けばいいのでしょう」
「詳しいことはテレパシーで伝える」
テレパシー?