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午後六時。ラッシュ時の地下鉄は通勤客の流れが逆方向だからか空いていた。後藤は築地市場駅で降りた。ポケットには圭のピアスと指輪を換金した四万円が無雑作に突っ込んである。
一週間前まで毎日通っていた駅だけに、スーツも着ないで改札口を通り抜けることに抵抗感があった。まして似つかわしくない革ジャンパーにジーンズ姿、頭だって長髪だし顔はアウトローそのもの。圭という人間を多少理解できたといえ、魚の臭いもしないし目つきも悪い。市場の人間とだって思ってくれないだろう。だいたいがこの時間、市場は閉まって従業員は帰宅している。
後藤は改札口の時計で時間を確認すると、新橋駅方面へ急いだ。
涼子に電話した。とうぜんのことだが後藤とは言わずに、後藤の友人の佐藤と名乗って。
「後藤君のことで聞きたいことがある」
そうしたら。悪いけど、友人と会う約束をしているんです。とにべもなく断られた。警戒しているようでもあり、周囲を気にしているふうでもあった。
それでも「休みの日に病院へ行きました。だけど面会謝絶で会うことができなかったのです。その足で自宅も訪ねてみましたが、事務的に対応されて容態を聞くことすらできませんでした」と、寂しげに付け加えてきた。
無愛想に応対したのは母に違いない。後藤は苦笑した。しかし涼子が友人と会うと言っていたが、たぶんそれは今井なのだと感じた。声のトーンが、どうかするとよそいきに思えたから。涼子の電話に聞き耳を立てる人間は今井しかいない。
となれば新橋で落ち合うはずと、決めてかかった。後藤が今井とよく立ち寄った居酒屋。リーズナブルでありながら料理が美味く、客質がいい店だ。ターゲットを新橋にしてはめずらしく若年層に絞っているので中高年の酔客が来ない。そのぶん、とかく若い女性が多いのが後藤には難点であったが。
その居酒屋を目指していると、昭和通りを越した辺りから急に空が重たくなった。すでに真っ暗なのに輪をかけて暗さをましている。かなり肌寒い。
十分で目的の店の前に着いた。時間は七時、山小屋風にインテリアされた店内はもう賑わいを見せている。だがこの時間では、涼子も今井もまだ来ていないだろう。後藤は店の前を素通りして、反対側の雑居ビルの壁へ所在投げにもたれた。
寒いせいか足早に駅へ向かう人が多い。たまにゆっくり歩いている人がいても、暖かさに誘われて暖簾の中へ消えていく。後藤のようにぽつねんと立っている男など一人もいない。
急に躊躇いが生まれた。現実が遠い過去になってしまった恋人と会って今さらどうなるというのか。それが未練というものであったら、つくづく情けないと思った。
そんな後藤の前を着飾った和服姿の女性が、ちらちら流し目を送って通りすぎていく。見かけの悪さから危険を感じたのかもしれない。
入れ替わるかに今井が走ってきた。息を切らせて時計に目をやり、店から見えない場所で神経質そうに乱れた髪を直している。同時に呼吸も整えている。
涼子から、息が切れているけど走ってきたの? と言われたくないのだ。計算しつくした冷静さが今井の信条。時間に遅れそうだから走ってきたなどとは絶対に言えない。どこまでもほんとうの自分を知られたくない男なのである。分かる気もするが、素の自分を曝け出せば、もっと好感度がアップするのにと、もったいなく感じた。
今井と目が合った。後藤が一部始終を見ていたのを知って、むっとした顔をさせて店内に入っていく。だが人前に出たとたん、とり澄ますはずだ。
数分後に涼子が現われた。事故現場で見たときとは違いエレガンスに装っている。白と黒のチェックのジャケットに首を覆ったシックなセーター、その首にさり気なく金色のネックレスが飾られている。スカートではなく、しっかり折り目の入った紺色のパンツを穿いていた。
涼子が、懐かしさを全身から漂わせて後藤へ近づいてくる。でも明るく印象的な目が、いつになく寂しく見える。
後藤のせいかもしれない。
ふっと、この場を立ち去りたくなった。なぜなら目的は逆取材なんかじゃなく、涼子に会いたかっただけ。
目を背けた。どうすることもできない歯痒さ、不幸を呪うことしかできない。
店の前で涼子が立ちどまる。店へ入らずに後藤を見つめた。圭の姿から後藤を映しとったわけでもないのだろうが、じっと見ていた。どうかすると、後藤の気持ちが涼子に伝わったかに感じられる。
「見てるんじゃない」後藤は声を張り上げた。
一種の反動形成。思いを抑圧すると、その反動として正反対の心理が生まれることがある。それは相手を気づかっているのではなくて自分が可愛いからこそ生まれる心理なのだ。
気まずい空気が流れる。涼子は店の中へ入った。
後藤は帰ろうと思った。しかし帰るつもりが店に足を向ける。そればかりか扉に手をかけている。
圭か――君が、そうさせるのか。なら、大事なのだな。後藤は意を決して入り込んだ。
と通路で、若い店員に呼びとめられた。
「お客さま。申しわけないのですが、当店は一応会員制になっていて、一見のお客さまはお断りすることになっているのですが」
丁寧な言い回しだが、言葉の端々に棘を含んでいる。
初めて聞く話だった。仕方なく「一見ではないんだ。店長はいますか」と、伝えた。むろん圭だと認識したうえで。
ここは山小屋風のテーブル席が主体なのだが、十人ほど座れるカウンターもある。そのカウンターで飲んでいるとき度々店長とたわいのない会話をした。後藤はよく知っているのだ。
「店長をお呼びすれば、納得していただけるでしょうか」
店員がやわらかく凄む。
気がつかなかったけど、店が客質を保っているのはこのせいだと今さらながらに知った。こうして客から見えないところで、雰囲気を壊す輩を玄関払いをしていたのだ。
そういえば店長と話をしているとき「酒場とは癒しの空間です。だから安くて美味しい料理で、精一杯のもてなしを心がけています。それを守るため稀にですが、著しく粗暴なお客様にはお引きとりを願うこともあるのですよ」と言っていた。
「なかには冗談じゃないと、納得しない客もいるのでは」
「そのときも、納得いくよう誠意をこめます」
「恐くはないの」と後藤が聞くと、店長は言った。「どちらがでしょうか」
悠然としていた。ときにそれは力による自信とも窺えたし、言葉通りの誠意ともとれた。
料理人にしては見るからに精悍な店長がやってきた。店のロゴの入った黒いTシャツに黒い調理ズボン、そのズボンを黒い前かけで隠し、頭に黒いバンダナを巻いている。背が高く、顔は浅黒くて全体的に彫が深い。年令は二十代後半ぐらいだろう。
後藤は、この店長が穏やかだが意志の強いことを知っている。だから、やんわり追い出されてしまう可能性もある。圭の見た目は著しく粗暴なのだから。
が、あにはからんや店長は、後藤を見るなり「こちらへどうぞ、お客さま」と、慇懃にカウンター席へ案内する。
知らせに行った店員が呆気にとられている。後藤自身も、考えても見なかった対応に驚きを隠せない。
「いいんですか」店員が、店長を呼びとめる。
「いいも何も、お前は、どうしてこの人を案内しているのか気がつかないのか」
店長が叱咤する感じで言った。「この人が、お前の命の恩人だよ」
「えっ――?」店員の表情が一変した。後藤にはまったく事情が掴めない。
「私は、お前が十六才のときに、忘れてはならない人の名前を教えている」
「覚えているとも。圭さん、佐藤圭さん。兄さんの親友であり、事故を起こして瀕死の俺に輸血して、血を分けてくれた人。だったら、この人がそうなのか……」
店員の視線が目まぐるしく動く。すっと後藤に向けられた。「片時も忘れたことはない。だって治療費も払えない俺のために、二百万円もの大金をかき集めてくれた人なんだ。どれだけ逢いたかったことか……」
店長の弟は、見る見る瞼を腫らす。
推測で、圭がした善行なのだと理解できたが、後藤にはまったく実感がない。
「悪いが、今は事情があって、過去の記憶が消えている」
そう投げかけると、弟はオウンゴールをしてしまったサッカー選手のように呆然とした。店長は冷静だ。後藤の目を凝視して、言葉の意味を探っている。
「あそこの席へ、座らせてくれないか」
後藤は、カウンターではなくテーブル席を指差した。涼子と今井の隣の小じんまりとした席。
「事情? 私のことも思い出せないほどの深い事情が、お前にはあるんだな」
ようやく店長が口をひらいた。「そしてあの席に、それを思い出すヒントが隠されているのか」
「ああ、そうだ。四百年という長いヒントがな」
「案内しよう。しかしトラブルは起こさぬことだ。彼らは新聞記者だから」
「僕も、そうさ」
後藤は言った。「半分だけだけど」
「なるほど、長くて深そうだ」
店長は驚かない。その後の言葉を呑み込み、後藤を涼子と今井の隣りに平然と案内した。
「お飲み物だけを、ご注文してください。できしだい、随時料理を運ばせていただきます」
口調は元に戻っていた。
「じゃ、コーラをもらいたい」真顔で言った。「ストローはいらない」
「承知しました。そういえば今思い出しましたが、お客さまは確か下戸でしたね。それは賢明な注文です。では、ごゆるりと――ヘッド」
店長が厨房の中に消えると、今井が小声で言う。「酒も飲めない男が、一人で居酒屋に来る心境が分からない」
「そんなことを言ってはいけないわ。だって待ち合わせかもしれないのよ。それに、外で誰かをずっと待っていたみたいだから」
涼子も小声で言い返す。さっき怒鳴ったことを、もう気にしていない。むしろ、それよりも……と今井に話しかけ、懸命に話題を変えようとしている。
涼子は、以前から人の中傷が嫌いな女だった。特に推測でものごとを決め付けることに強いアレルギーに似た想いを抱いていた。邪推という言葉と行為に、ひどく嫌悪感を持っていたのだ。
「それよりもって?」
今井がハイボールに口をつけてから、言葉のトーンを優しく変えた。顔を近づけて涼子の心を読もうとしている。「心配いらないよ、僕は記者だ。自分からトラブルを作ろうなどと思っていない」
「そうじゃないわ。私が言いたいのは、後藤くんのこと」
涼子は身体をずらすようにして、今井から近づきすぎている顔を遠ざけた。伏目がちにサワーグラスへ手を伸ばした。
僕のこと? 涼子を思わず見つめた。しかし軽率すぎた。気配を感じられたのか、もろに涼子と目が合ってしまった。今井の視線も刺さる。まずい。
「お待たせしました」
そこへタイミングよく、店長の弟がドリンクと料理を運んできた。救われた気がして、ふっと胸を撫で下ろした。
並べられていくのはLサイズのグラスに入ったコーラと、マリネ風サラダ、それとトマトをベースにした牛肉のシチュー。肉厚の串焼きも三本、別の皿に添えられている。これでは随時じゃなくて、一挙だ。後藤は苦笑した。
「これは当店特性のシチューです。温まりますから、ぜひ御賞味ください。失った記憶が戻るかもしれません」
「四百年前の記憶も?」後藤は訊いた。
「必要ならば」弟が答える。
「助かる」
「こちらのほうこそ助かりました。試食して、記憶が蘇りました」
弟は並べ終えると、涼子と今井のテーブルに目を向け空き皿を片づける。
「僕たちにも、その特性シチューをもらえるかな。でもメニューに載っていないのは、どうしてなのだろう」
今井が、メニューを広げながら弟に尋ねる。
「店長が言うには、一週間前に急にひらめいたみたいです。ほんとうは明日からの新メニューとして出そうと思っていました。当店は串焼きが売り、場違いな味かもしれませんが自慢の品です」
弟が黒い前掛けから伝票を取り出した。「一人前七百円になりますが、お二つでよろしいですね」
「それを食べると、ほんとうに記憶が甦るの?」
涼子が真顔で尋ねる。
「はい。願えば、幸せだった頃の懐かしい記憶が」