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1章 暗転 1

この作品を書くきっかけとなったのが、映画『タイタニック』でした。

映画の主人公はジャックですが、水没した実際のタイタニック号にもジャックがいました。

小説家ジャック・フットレル。

彼は妻の命を助けるために救命艇に乗らず船に残ります。海に飛び込んでも凍死、残っても溺死。選択は限られていたからでしょう。

本作も物語はそこから始まります。

 1章 暗転

 

 序 1

 

 どうしようもなく唇の震えがとまらない。

 冷たくなりすぎて感覚の消えた指先、麻痺してもう自分のものとは思えなくなった下肢。悪寒と共に心臓の鼓動も弱まり出している。

 船が沈んだ。ギリシャとスペインを結ぶ地中海の航路、陸地も島影もいっさい見えない場所で。

 破片であろう板ぎれのほかにしがみつくものはなく、強いと思っていた意志も砕け散りはじめている。煽るかに波の飛沫が顔にかかり、それが身体から熱を奪い去る。

 死が、確実に迫っているのだろう。ゴードンは生きているのか死んでいるのかそれすらも無痛になっていた。波の音がまるで亡霊たちの呻き声にも聞こえてくる。

 ――脆く細い声がした。

 ゴードン、ごめんね。私、もうだめみたい。力が入らないの。

 同じ板切れで漂流する、幼馴染のジュリアだった。言うなり板ぎれから離れていく。髪を花のように水面に浮かべ、身体を沈ませる。

 だめだ! ゴードンはとっさに左手でジュリアの腕を掴んだ。とうに指の感覚はなくなっていたが死なせるわけにいかない。板の上へ引き上げた。

 まだ、完全に望みが絶たれたわけじゃないんだ。

 自身に言い聞かせるように言った。

 だけど、ジョルジュとヨシュアは死んでしまった、のよね。

 ジュリアが切なそうに言う。

 ジョルジュはゴードンの弟であり、ヨシュアはジュリアの兄である。船から飛び込むまでは一緒だったが、その後二人の姿は忽然と消えた。気配すら感じられない。だからといって肯定すれば死を認めることになる。ゴードンは声を張り上げた。絶対に生きていてほしい。

 ジョルジュ、ヨシュア、生きているのなら返事をしろ!

 すると、じきに声が返る。

 心配すんな、近くにいるからさ。それよりも腹がへったぜ。

 すぐそこに死の影が迫っているというのに、皮下脂肪の厚いヨシュアが、いかにも大食漢らしい応答をしてくる。でも本心がそこにないことをゴードンは見抜いていた。大声は体力消耗させる、衰弱を加速させるだけなのだ。安心させようとする思いだけが伝わってくる。過酷な条件は太っていようが痩せていようが同じなのである。

 得てして、そういう一つの気配りが奇跡にも似た幸運を呼びよせる。ジョルジュが声を弾ませた。

 ゴードン、ランプが見えるぞ! もしかして救助に来てくれたのかもしれない。

 え、助かるの?

 ジュリアの青白い顔に紅が差す。愛らしい瞳をゴードンへ向けてきた。

 ああ、助かるさ。きっと。

 

       1

 

 後藤俊一は、このところ妙に同じ夢を見続けていた。

 はじまりは、夜の暗がりで途方に暮れる少女の悲鳴。それが雪山へ場所を移しての滑落。何かの予兆なのだろうか。頭の中の糸が縺れに縺れて表現の仕方が分からなくなっていた。

 一度だけ同僚に聞いてみたことがある。

 同僚は「俺にもそんな経験がある」と言って続けた。「一度や、二度じゃないよ。悲惨な事件の後は何度も見る。要は入眠時幻覚なのさ。疲労から、自律神経が一時的に乱れただけだよ」

「でも、夢にしては現実味がありすぎる。少女が、呼びかけているような気がしてならないんだ」

 後藤は納得できなかった。

「錯覚だと思う。たとえ、その夢の少女に出会ったとしても偶然だよ。だって夢なんだから、因果関係なんてないだろう。ストレスさ、そんなもの肩の力を抜いて忘れてしまえば消えてしまうよ。少し休暇をとったら……」

 同僚なりの優しさなのであろうが、何も言えなかった。

 A新聞社に入社して五年、ようやく念願の社会部に配属された。しかしながら配属されたとたん嫌な事件が頻発した。OL殺害事件からはじまり、幼児虐待事件。みな良心を疑うような事件だった。記事を書いていても気が滅入ってくる。

 いくら血が繋がっていないとはいえ、縁あって結ばれた幼女を折檻死させる。母親も庇うどころか、恋人のいいなりになって一緒に責め立てる始末だ。いったいどういう神経をしているのだろうか。

 少女が可哀そうでならなかった。小学四年生であるのに体重は五才児のものだったし、きっと満足に食事もさせてもらえなかったに違いない。

 つい先日、東京高裁で判決が下されたが、OL事件も残虐きわまりないものだった。

 後藤は傍聴して愕然とした。

 犯人の供述調書というものは非公開で読むことはできなかったが、裁判所の判決は公開されているので写しをとってきた。その内容は驚くべきものだ。

 

 女性拉致殺害事件控訴審判決

 被告人ら不良グループ

  A(男十九歳)B(男十八歳)C(男十八歳)

 被害者の女性会社員

  D子(女二十三歳)

 

 1 遊興費に因窮した被告人らは、七月二十五日午後十一時半ごろ、Aが運転する普通乗用車で、渋谷区内を走行中、帰宅途中の会社員D子を認め、

 犯行目的で同D子の横に車を寄せ、まず後部座席にいたBが、車外へ飛び出し、いきなり手拳で同D子の腹部を殴打して、車へ拉致。

「騒ぐと殺すぞ!」と、威嚇した後、Bが、D子の頭髪をつかんで同女の抵抗を抑圧し、衣服を引き千切ったところ、助手席からCが、ハンドバッグを強取。財布から現金三万五千円及び、銀行カードを抜き取る。

 Bが、同女を後部座席に倒して殴りつけ、衣服を脱がして車中で強姦。Cも助手席から移動、順次強姦する。

 2 翌、午前一時ごろ、Aが、大田区の多摩川河川敷に車を乗り入れ、すでに全裸の同女を強姦。さらに行為終了後、預金残高と暗証番号を聞き出し、預金強奪を計画。

 またAが、犯行の発覚を免れるため、殺害し土中で生めることを図り、B、Cも、順次、これに賛同し、三名共謀のうえ、同日午前二時半ごろ、河川緑地、車内において、Bが、D子の頸部に手を当て、同女が「助けてください」と哀願するのを無視し、約十分間絞め続け、同女を窒息死させて殺害する。

 3 同日午前十時三十分頃、強手した銀行カードで現金を強奪、埼玉県内の山林私道付近に掘っておいた穴に、A、B及びCが、D子の死体を投げ入れ、土中に埋めて遺棄したものである。

 

 以上が裁判所の事実認定の抜粋だ。もちろん彼らは実刑判決を受ける。

 しかしAは少年のため、少年刑務所に収監されただけだ。おとなしくしていれば確実に二十代前半で出所する。BとCなどは高校生で、事件当時、精神が錯乱していたと受けとめられた。つまり医療少年院で短期間矯正させられるだけなのだ。

 判決を聞き終えると、後藤は怒りに震えた。被害者の哀しみを理解しない判事を睨み付け、いたずらにほくそ笑む加害者たちを射すくめた。

「まだまだ青いな、後藤君」

 隣にすわるベテラン上司に、ぽんと肩を叩かれたのを思い出す。

 諭すような目をしていた。だがその上司も、判事が加害者に判決を言い渡した瞬間、長い溜息を吐き、残念そうに被害者の両親を見つめていた。

「こんな判決、納得がいきません。何の罪もない人間が無残に殺されたんですよ。」

「そうだな。彼らは一定の時間を過ごせば自由に生きることができるが、殺された女性は無念のまま墓に入るだけ。もし発見されなければ、弔ってもらうこともできずに土の中で朽ち果てていたかもしれない。不条理といえば不条理だろう」

 上司は、後藤の肩に手を置いたまま続けた。「だが、それが現実だ。私らは、読者に事実を正確に伝えることしかできない。たとえ判決が不条理であろうと、あくまでも判断するのは読者なのだよ。まして誘引などしてはいけない」

「それは単に情報を提供すればよいということですか。だったらこの先、弱者側に立って記事を書きます」

 後藤は退廷する判事の後ろ姿を目で追い、椅子から立ち上がると決意した。

「でも真実を見誤ってはいけない。娯楽雑誌と違って私らが中立で公平でなければ、書き上げた記事が歪んでしまう危険性がある。どうしてもというなら、問いかけにとどめておくべきだ。それか、社説を書ける地位まで上りつめることかな」

 上司は目を細めた。「経験だよ、後藤君。今に君にも分かるときが必ずくる。私たちはね、風になればいいのだ」

「……風?」

 


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