夜空の琥珀~名前は○○の代名詞~
白のアクリル絵の具を重ねたような入道雲。鮮やかな空色のキャンバスの中央には、さんさんと輝く太陽。
「ねぇ、名前ってなんだと思う?」
中庭でのランチタイム。いきなり脈絡のない質問をしてきたのだから、若葉くんがぎょっとして箸を動かす手を止めたのは当然の結果だと思う。
「どうしたの? やぶから棒に」
「いやね、さっきの日本史、途中から先生の言葉が呪文にしか聞こえなくなっちゃって」
「あらら……」
「英語ならわかるんだよっ! でも漢字が並んでると頭痛がするというか……ほら、さっきやった坂……さか……えーと……」
「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」
「そうそれ! 坂の上にいる田村の麻呂さん」
「ではなく平安初期の征夷大将軍」
「と、とにかく! ろくに人名も覚えられないのに明日小テストがあるなんて言われた瞬間、岸辺に綺麗な花の咲いた川が見えたわけよ!」
もし追試になれば、十中八九、放課後が潰されるだろう。部活に行けない……あぁ、なんて恐ろしいの!
「暗記のコツを訊きに行ったら、先生が『あらゆるものには名前があり、名前には意味がある。
ことに人名にはどんな神話をも凌駕する願いが込められている。その神秘的背景を理解すれば、おのずと道は見えてくるであろう』……って」
まずこれを誰かに訳してもらいたいと切に願った。
「澤山先生って、言いたいことは何となく伝わってくるんだけど、独特すぎる言い回しをするのが玉にキズだよね」
「えっ、若葉くん意味がわかるの?」
お弁当箱のフタを閉めながら、「何となくだけど」と前置きした上で、口を開く若葉くん。
「名前は、単に人を区別するためだけのものじゃないと僕は思うんだ」
「たとえば?」
「説明しようとすると理屈っぽくなるからな。……ちょっと待っててね」
若葉くんはおもむろにメモ用のちいさなノートを取り出すと、胸ポケットに入れてあったシャーペンをさらさらと走らせる。
「はい」
見やすいように向きを変えて差し出されたページには、「瀬良」と私の名前が記されていた。
「『瀬』は水が激しく砕けて流れる様。『良』は人格的に優れた人のこと。
旧約聖書にもたびたび登場するね。『Selah』――これは『日常のちょっとした一休み』みたいな意味なんだって。
『人生の荒波に負けない強い子、そして誰かの拠り所になれるような、良い子に育ってほしい』
セラちゃんの名前には、こんな意味があるんだよ」
驚きの眼差しを向ける私に、若葉くんはどこか優しげな声音で言う。
「名前に込められた願いはその人だけのものでしょう? 人の子として生まれたからには、偉人も僕たちも全然変わらない。
澤山先生はそういうことを言いたかったんじゃないかな」
たとえ生きる時代や国が違っても、かけがえのない存在であることはみんな同じ。
偉人だからと構える前に、ひとりの人間として、その人を知ろうとしなさい。
不思議なことに澤山先生の声が聞こえた。一見大げさな気もしたけど、妙な納得感もあった。
「なるほど。それで、どうして若葉くんが私の名前の由来を知ってるの?」
「昔、セラちゃんのお父さんが自慢げに教えてくれた」
「実の娘そっちのけで!?」
天狗になってふんぞり返っているお父さんの姿が嫌でも想像できたから、頭を抱えた。
「うわぁ! どうしよう恥ずかしすぎる……そ、そうだ! 若葉くんの名前の由来は?」
「……さぁ? 忘れちゃった」
「なにその間。絶対ウソだ!」
「うん。だって言いたくないもん」
「ひどい! 若葉くんだけ言わないなんて不公平だよ!」
抗議の意味を込めてずいっと身を乗り出すと、若葉くんが気圧されたようにうろたえる。
「そんなに気になるの?」
「もちろん!」
困ったように首の後ろを撫でる若葉くん。視線は俯き気味、ちょっと赤くなりながらこう切り出した。
「……僕の名前はさ、歴史上の人物から来てるんだよ」
「あ、私もちょっと気になってたんだよね。もしかして、新撰組の沖田総司?」
「……うん。『壬生狼』も元々は新撰組の古称なんだ。『壬生の街を徘徊する狼』って意味合いの、あまり褒められた言葉ではないけど」
「そうなんだ……。でも私はステキだと思うけどな。若葉くんの名前」
ノートとシャーペンを貸してもらい、お返しとばかりに「聡士」と書く。
「だってこれは、『聡明な武士』って意味でしょう?」
「……誰に教えてもらったの?」
「話の流れから推測したの。そんなに言いにくいこと?」
「結構ためらうよ。親の趣味とか遊び心がふんだんに取り入れられてるから。名前負けしたらシャレになんないし」
「負けてないからいいんじゃないの? 沖田総司は京都が誇るヒーローで、若葉聡士くんは私にとって最高のヒーローだよ」
「……セラちゃん、言ってる意味わかってる?」
「え?」
「……無自覚もここまでくると恐ろしいな」
「あっ、またボソボソ言ってる!」
若葉くんに詰め寄ろうとした、ちょうどそのとき。
「ややっ、あれはもしやセラちゃんでは!」
「朝桐くん! それに日野くんと和久井くんも!」
いつも仲良しな3人。今日もみんなそろって私たちの座るベンチまで歩み寄ってきた。
「ちわーす」
「ずいぶん会話が弾んでいたようだが、なにを話していたんだ?」
「ああ、ちょっと名前のことでね……」
「名前、というと?」
首を傾げる3人に、かくかくしかじかと事情を説明。
「……名前の意味? そういや考えたこともなかったな。つーか俺ら、まともに名乗った記憶ねぇんだけど」
「確かに日野の言う通りだ。ならまずコレを」
「朝桐くん、どさくさに紛れてどうしてスマホを取り出しているのかな?」
懐からスマホを取り出した朝桐くんの手を差し戻して、若葉くんがにっこり。
その瞬間、真夏だというのに冷たい風が背中を吹き抜けた。
「――通行の邪魔だ」
静寂を破ったのは、不機嫌な声。
「あ、城ヶ崎! こんにちは……って、おーい?」
城ヶ崎は朝桐くんの譲った道を、いつもの仏頂面でさっさと通ろうとする。
「城ヶ崎ってば!」
ギンッ! いつかのように睨みつけられ、思わず首を縮めた。城ヶ崎はその一瞥をしただけで、何も言わず行ってしまう。
「……なんかすごく怒ってなかった?」
「今日だけじゃないぜ。最近ずっとこの調子だ」
「どうして?」
「親父の再婚相手が気に食わないんだとよ。せっかく美人なのになー」
「……朝桐、あんまペラペラしゃべんなよ」
いさめるような日野くんの言葉に、朝桐くんは大儀そうな嘆息をする。そこにいつものおちゃらけた光景なんてなかった。
「複雑みたいだぜ、アイツんち。人嫌いになったのもそれが原因だって。極端な話、名前呼ばれるのもシャクに障るって言ってたときもあったし」
「朝桐」
「へいへい。そういうことだから、当分話しかけないほうがいい。だいじょーぶ、下手に刺激しなきゃ、やつあたりなんてしないヤツだからさ」
じゃ、と手を上げて、朝桐くんたちも行ってしまった。
「セラちゃん」
「え? あっ」
いつの間にか目の前にあった黒曜石の瞳が、私を捉えて逃さない。
顔を突き合わせるみたいになってドキッとしたのは私だけだな、きっと。
「また落ち込んでるでしょ」
「そ、そうでもないよ?」
「ウソだね」
「うー……!」
頭を抱えて悶々と唸ってみたけど、結局、なす術もなく脱力した。
「彼のことで君が悩みすぎる必要はないんじゃないかな」
「でも、友達だから心配になるわ。名前を呼ばれるのが嫌だなんて……」
生まれたときの喜びとか、願い。
城ヶ崎の名前にも、ちゃんと込められているはずなのにな。
――彼の両親は、何を思って、彼に名前を贈ったのだろう。
しばらく沈黙が流れ、先に口を開いたのは若葉くんだった。
「ねぇセラちゃん、名前が持つもうひとつの意味、知ってる? 持ち主じゃなくて、周りの人にとっての」
「え?」
「僕もよく考えるんだよ。そもそも人はどうして、親しくなると名前を呼ぼうとするんだろうね?」
人が、お互いを名前で呼ぶ理由。
「僕が思うに、それは名前が――――の代わりだからじゃないかな」
若葉くんの言葉を、チャイムが遮る。
我に返ったときには、若葉くんは「さて」とベンチから立ち上がっていた。
慌ててお弁当箱をしまい、歩き出した若葉くんと肩を並べる。
「若葉くん、さっきなんて言ったのか、聞こえなかったよ」
「それは残念」
「教えてくれないの?」
「1回しか言いたくないから」
「そんな! ねぇ教えて?」
「セラちゃんは賢いから、よく考えたらわかるかもよ?」
「……ケチ」
「ふくれたってダーメ」
むすっと見上げても、若葉くんは余裕の笑顔。これはなにを言っても到底教えてくれなさそうだ。
「さ、授業に遅れちゃうから行こっか」
「……うん」
とはいえ、そのうち時が解決してくれるだろうと安易に考えていた。
――とても大きな出来事が、近々起こることになろうとも知らず。
☆ ★ ☆ ★
……いつまで経っても雨が落ちてこない。
不思議に思い振り仰げば、よく晴れた夜空があった。ねずみ色の空が広がっていたのは、自分の心の中だけだったのだ。
「んだとガキがぁ、もっぺん言ってみろ!」
活気づいた街で、人目を引いていることくらいわかっていた。
コイツみたいに目障りなネオンに毒された連中に構われるのは、ウザくて仕方がない。
だから軽くあしらってやったのだが、単細胞にはよろしくない手法だったようだ。
「だから、道のド真ん中で騒がれると迷惑なんです。そんなこともわからないんですか。一体何年人間やってんです?」
「クソガキっ!!」
強引に肩を掴まれた。
ああ、やだな。
金切り声上げるなよ。
ウザくてたまんねぇから。
そう――何もかもが憎らしくてしょうがない。
「黙れよ……っ!!」
ゴロツキが拳を握った。
コイツらみたいなのは、どうせ何にも考えてないんだろうな。
人を傷つける意味とか、責任とか。
――だから嫌なんだよ、人間って。
ガッと強い衝撃を感じ、身体が投げ出された。
しかし、痛みはやってこなかった。
顔を上げる。ゴロツキはいつの間にか、うめき声を上げながらアスファルトの上に転がっていた。
衝撃を感じたのは、殴られたからじゃない。ゴロツキの束縛から解放されたからなのだ。そして――
「あ、ヤベ、やりすぎちった。おーい、生きてるかー?」
突然目の前に現れた、謎の男。
「テメ、いきなり何しやがる……!」
「お、生きてた。いやぁよかったよかった! わりーな、オレもとっさで手加減できなくてさ」
目を疑った。一体どこに、殴ったゴロツキに笑いかけるヤツがいるというのか。
……いや、実際目の前にいるが。
「何サマのつもりだ!」
「おっと」
ゴロツキが繰り出した拳を、そいつはいとも簡単に受け止める。
「若者よ、威勢がいいのはおおいに結構だが、乱暴はよくないぞ?」
男は笑みを浮かべているが、拳を掴んでいる手が、ぎしりと軋んでいる。
「っ! コイツッ!!」
血相を変えたゴロツキは、男の手を振り払う。
そうしてギロリとねめつけてきた後、舌打ちを置き土産に、きびすを返して走り去った。
「ケガはないか?」
問いかけられて我に返る。男の顔は帽子の影に隠れてよく見えない。
ただそいつがすらりとした長身であること。
どこに向かうつもりなのかめかしこんでいること。
しかもそれが嫌味に思えないくらい似合っているということが、わずかな街灯でも知ることができた。
悪い人間ではないように思う。が、素直に差し出された手を取ろうとも思わない。
「……結構です。助けてもらわなくても平気でしたし」
「おせっかいだったか? そりゃあすまんな。これがオレの性分でね」
生意気なことを言った。それなのに、彼は笑うだけ。
堅く閉ざしていたものが揺れ動いて、つい視線を向けてしまった。
「人通りが多いっつっても、こんな時間に子供1人で出歩くもんじゃないぞ…………って、今何時!?」
懐から取り出した携帯で時刻を確認したらしい男は、サッと顔色を青くする。
「うわああ、ヤベェヤベェヤベェ! フライト間に合わねぇかも! ったく愛梨のヤツがあんなことしなきゃ……!」
「あの……」
「悪い! ちょっと急ぎの用事があるんでな。気をつけて帰れよ、少年!」
そう言うなり、男は夜の人ごみに消えてしまった……。
「……なんだ、アイツ」
走り去る際、キザっぽくポーズを決めた男の指に、街灯に反射して銀色に光るものがあった。
あれは指輪。そしてそれがはめてあった場所は……。
「……いや、俺には関係ないことだ」
思考を中断し、ひとつ息を吐く。
気にしたってしょうがない。どうせもう会うこともないのだから。
……そう思っていたけれど。
運命の歯車は、音を立てて回り始めていた。
突然ですが、今日4月30日は若葉くんの誕生日です! せっかくなので個人情報を漏洩……ではなくプロフィールを掲載しておきますね↓
若葉聡士
17歳 4月30日生まれ
183㎝ A型 おうし座
家族構成:両親、妹、弟
得意科目:数学、化学
苦手科目:英語
好きな食べ物:手作り料理
嫌いな食べ物:味の濃いもの
特技:剣道、料理(和食が得意)
備考:飼い犬と仲がいいようです
ちなみに私は、キャラの誕生日を決めるときに星座と誕生花を参考にします。おうし座は普段温和でも、怒らせると怖いらしいです。
若葉くんの誕生花はモッコウバラ。花言葉は「幼い頃の幸せな時間」。セラちゃんとの思い出を大切にする彼にピッタリかなと。
読んでくださるとわかったと思いますが、この短編は2巻へとつながるお話になっています。今、四苦八苦しながら修正していますので、もう少しお時間をいただければと思います。
長々とすみませんでした。これからも、セラちゃんや若葉くんたちを何卒よろしくお願いいたします!