Fallen angel
花束を抱えて病室に入った夏紀は足を止めた。背後が引き戸が滑って閉じる。
綺麗だ、と思った。
「……誰だ」
不機嫌な低い声に我に返る。無理矢理足を進め、花束をサイドテーブルに置き、丁寧に頭を下げた。今の夏紀にはそれだけの動作に非常に集中力が必要だった。
感嘆する不躾な視線を引きはがすには。
「失礼しました、是枝夏紀と申します」
「……そんな知り合い俺にはいない」
「階段から落ちられたところに居合わせた者です」
な、と目を剥いたその青年は俯せから身を起こしかけ、顔を歪めて再び横たわった。
背に負うのは堂々たる翼。ぴくりとも動かないそれは、覇気のない青年とも相まってピンで留められた昆虫標本のようでもあった。
そう思ってようやく気づいた違和感の原因に、夏紀は息を詰まらせた。
金属のピンが幾本も翼に突き刺さっていた。
刹那息を吹き返した標本は、けれど生気を手放してしまった。名乗った途端猛禽の瞳に閃いた強い光がすぐに陰りに食い尽くされる。
「それで、恩人様が何のご用ですか」
「お願いがあって来ました」
青年は倦怠を淀ませた目を細めた。
「お願い? 俺に?」
「はい」
「どんな」
緊張を隠せないまま、夏紀は申し出た。
「あなたを描かせてください」
「……へえ。あんたも物好きだな」
自虐的な笑みの形に唇が歪む。
「こんな醜い生き物を描いてどうするつもりだよ」
「醜いなんてことはありません。……あなた方はとても綺麗だと思います」
「ただの好奇心で好き勝手言うな人間の分際で」
裂けた瞳孔の奥に獰猛な光を垣間見る。獣の威嚇を思わせるそれは人間がもはや持ち得ない鋭利さで、どうしようもなく惹かれた。
「……ええ、私はただの人間でしかありません。だからこそ描きたいんです」
「無様な《鷹》を描きたいんなら勝手にしろ」
最高に不機嫌な顔でそっぽを向いてしまった青年の背に、夏紀は背筋を伸ばした。
「それではまずお名前を教えていただけませんか」
「……嫌だっつってんだけど」
「描きたいんです。醜くても無様でも、あなたを」
青年はしばらく背を向けたまま黙っていた。
「…………唐澤。唐澤悠だ」
「唐澤さん、よろしくお願いします」
それが、年末のことだった。
「お前も物好きだよな」
「そうですか?」
「そんなに毎週毎週来て楽しいのかよ」
「仕方ないじゃないですか」
時折顔を上げ、唐澤を一瞬見つめてからまた視線を落とす。ざかざかと鉛筆を紙に走らせる。
「納得のいく一枚が描けないんですから」
「そういえばまだ是枝の絵見たことないんだけど」
「描けたらちゃんとお見せします」
「絶対見せろよ」
手荒なデッサンを終えてページをめくり、そろりと翼を広げる唐澤のシルエットを新たに紙に写し取る。恐る恐るゆっくりと羽ばたく動きは雛鳥のようなぎこちなさだ。
翼からはいまだにピンが突き出していて痛々しい。
「動かしちゃいけないんじゃないんですか」
「今日ピン抜くんだから問題ないだろ」
あのピンはばらばらに砕けた骨をつなぎ止めているものだそうだ。
それに、と唐澤は忌ま忌ましげに顔を歪めた。
「治らなくていい」
「唐澤さん」
「わざわざ自分で壊したのに」
「ああもう暴れないでくださいよ」
乱暴に羽ばたく唐澤に堪りかね、風に翻弄されるポニーテールを押さえた夏紀は声を大きくする。
「その翼捨てるのはもったいないですよ!?」
「勝手なことぬかすな何もわかっちゃいねぇ人間のくせに!」
怒鳴り返した唐澤は、不意に呻いて動きを止めた。翼を畳みうずくまる。
「ほら、だから長引くんですって」
「……こんなもんいらないんだっつの……」
「捨てるならまた飛べるようになってからにしてください」
「……なんで」
「唐澤さんが飛ぶのを見たいからです」
「どこまでも勝手なやつだなおい」
ベッドに胡座をかき、唐澤は半眼で夏紀を睨んだ。赤みの強い琥珀の瞳に射抜かれる。
「俺じゃなくても知り合いに鳥くらいいるだろ」
怯みそうになる背筋を叱咤し、夏紀はあえて胸を張る。
ここ一ヶ月でわかったことがある。
少しくらい自分勝手な理由を押し通さないと彼は本当に翼を捨てかねない。
「唐澤さんがいいんです」
「はあ?」
「落ちるのを目の前で見て、それから唐澤さんは私の特別なんです」
「……是枝、お前思いっ切り失礼なこと言ってないか」
「そうですか?」
「落ちるのが不名誉だってことくらいわかるだろ」
「自分から落ちたのに、ですか?」
「俺は不名誉とかは別にわかっててやったからいいけどな、他の鳥にそういうこと言うなよ」
「言いませんよ、唐澤さんだから言うんです」
ますます仏頂面になった唐澤はそれでもおとなしくなった。そうしてデッサンに戻る夏紀を僅かに首を傾けてじっと見つめる。
「……なんで描くんだ」
「その答え何回確認したいんですか」
「……そういうわけじゃないけどな」
「綺麗だからです」
「……なんでそういうこと言えるんだよ人間のくせに」
夏紀の返答にふて腐れたように吐き捨て、唐澤は背中を向けた。乱れた羽毛には艶がない。手入れができないのか、しないのかは夏紀にはわからない。
「人間だからです。私には唐澤さんが持っている美しさは持てない」
「お前が言うその美しさのせいで俺は死にたくなるんだけどな」
間断なく紙に踊っていた鉛筆が止まる。もう先が丸い。無造作な描線は柔らかくなっていた。
雰囲気も掬い取ろうと没頭していた時に突き付けられた乖離。
頑なな背中の纏う空気が尖っていく。
「人間のせいだ」
負い目を突かれた夏紀は息を詰まらせた。
「余計なものがあるってだけで忌避されるのはうんざりなんだよ」
唐澤は翼を捨てようとした。
人間社会で生きるために。
「数が多いからって踏ん反り返りやがって、生身じゃ何もできない弱い奴らのくせに」
唐澤は先天性の《鷹》だと夏紀は以前聞いたことがあった。
一世代前には後天性の方が多く、彼らは変化後も自らを人間と呼称していたという。
「余計な」部分を持って生まれた者はもはや人間とは呼ばれない。
今はそんな時代だ。
隠せる者はまだいい。だが唐澤のような鳥は隠すことができない。
「どれだけ息苦しいと思う。どれだけ生き辛いと思う。努力以前の問題でずっと後ろ指さされ続けることがどんなことかお前にわかるのか」
冷ややかな声に紛れたノックに夏紀は気づけなかった。
引き戸が滑る低い音に唐澤は振り返り夏紀の背後を見た。
「……灰崎」
「何を当たり散らしてる」
その男性の声を聞いて、初めて夏紀もぎこちなく訪問者を見上げた。
夏紀や唐澤よりも年上のように見える、唐澤に灰崎と呼ばれた男性の頭には一対の耳があった。灰色の、イヌ科の動物の耳だ。
「どっから聞いてたんだよ」
「お前が罵り始めたところからだ」
「《狼》には盗み聞きも簡単みたいだな」
「聞こえてしまうんだから仕方ないだろうが。……まったく、彼女もしょげてしまっているじゃないか」
唸った灰崎は座ったままうなだれている夏紀に視線を走らせた。そして獰猛な響きを帯びていた声を和らげる。
「……お嬢さん、少しこいつから離れて外で話しませんか」
「灰崎お前ガキな彼女いるくせにそいつにまで手ぇ出すのかよこのロリコンが」
「彼女のことを子供扱いするな鳥頭」
「女子高生手なずけといて馬鹿言ってんじゃねぇよ狂犬」
「食い殺されたいか唐澤」
「紐なしバンジーしたいか灰崎」
急速に険悪になっていく空気にうろたえ、夏紀は椅子から立ち上がった。
「あの、灰崎さん私行きます」
ぎ、と眉間にシワを寄せた唐澤をよそに灰崎は夏紀を振り返り苦笑する。手に持っていた帽子を目深にかぶり出ていく彼を、クロッキー帳を抱えた夏紀は慌てて追った。
唐澤と目を合わせることができないままに。
ぼんやりと宙を見つめていた夏紀の鼻先を焦げくさい臭いがかすめた。木べらを取り落としかけながら悲鳴を上げる。
「しまった焦げたっ……」
火にかけていた生クリームは既に沸点に到達し縁が茶色くなっていた。何とか使えはしまいかと舐め、顔をしかめる。焦げくささが回ってしまっていた。
何故生クリームを温めるだけのことができないのか、情けなくなった夏紀は鍋を下ろしてがっくりとうなだれた。ちなみにこれで二度目である。作り慣れていないにしてもひどい。
再び思い返すのは灰崎との会話。
唐澤はやはり、人間が嫌いだった。
それを聞いて自己嫌悪に首まで浸かった夏紀に、けれど灰崎はこうも言った。
是枝さんのことは嫌いではないはずです。
そんなことがあるはずがない、と思う裏に、そうであればいいのにと呟く気持ちを見つけて狼狽した夏紀の鼓動は跳ねた。そしてしつこく尾を引いている。
焦げ付いた鍋に水を張る。振り向いた室内には描きかけの絵が置きっぱなしだった。
彼の気性の荒さにしては優しすぎる、白が基調の薄茶をした翼は途中までしか塗られていない。
傷ついた彼に、足掻く彼の姿に、惹かれて入れ込んで魅せられて、何枚描いただろう。荒っぽいデッサンに過ぎない線画を幾枚も、それは魅力的な表情を次々と見せつけられて手が追いつかなかった証拠。
けれど見舞えなくなり描けなくなった。
翼の色は目に焼き付いているというのに。
冷蔵庫を開ける。まだ生クリームが残っていたことに安堵してさっきとは別の鍋に入れる。
描きたい。――違う、
会いたい。
絵などとっくの昔にただの口実と化していた。
綺麗だと言った時に不服そうな表情をする彼が何故か嬉しそうに見えて、自嘲や悪態の裏に矜持がまだ残っていて。
鬱屈してしまった誇り高い《鷹》。
我が身を堕とそうとして堕ちきれなかった残念な鳥。
そんなかっこ悪い彼のことが、どうしてこんなにも思い出されるのかがわからない。
火にかける。沸騰したらすぐに火から下ろし、刻んでおいたチョコレートを入れて溶かす。
昨日の留守番電話に残っていた声がふと甦る。
知らない番号からかかってきていて、あれは病院の公衆電話なのだろうか。だから不意打ちだった。まさか彼からの電話だとは思いもしなかった。
『…………描けたんなら、見せに来いよ』
録音された声を聞くだけで急加速した鼓動に動転し、さらに拍車がかかる。気づいてしまった想いに息が詰まった。
クッキングシートを敷いたバットに流し込み、冷蔵庫に入れて固まるのを待つ。これだけのためにバットを買うなんて、と思わず苦笑する。きっともう使うことはないというのに。
いいのだろうか、これで。
普段通りの自分が戒める。《鷹》に受け入れてもらうなんて無理な話だと。それでも少し浮き足だっている自分がいる。灰崎の言葉に縋りたいと。
賭けようと思ったのは、今日が特別な日だからだ。
何と言って渡そうか。ご賞味ください、今までのお礼です、つまらないものですが――思い浮かべる中に本当に言いたいことは見つからず、想いを持てあます。
制限時間は一時間。チョコレートが固まるまではひどく長く、けれど短い。言葉が見つかる気がしない。
彼に伝えたいことは――
夏紀は目を閉じた。
「もう一度描かせてください。あなたの傍で」
だったっけ、などとのたまう唐澤に、夏紀は駅前だというのに悲鳴を上げた。《鷹》との二人連れということで目立っていたが更に視線が集まる。
「やめてもう言わないでー!」
「なんで?」
「だって、そんなっ、自分が告白したときの台詞聞かされるなんてもうやだイタいし恥ずかしいし思い出したくないのに!」
「生チョコ小さく切るの忘れてたしな。手で持って丸かじりとか後にも先にもあれだけだわ」
「お願い突っ込まないでお菓子作るの慣れてなかったんだから」
顔を真っ赤にして俯いたまま言葉を並べたてる夏紀に小さく笑い、唐澤は彼女の肩を抱き寄せた。心持ち開いた翼の片側が夏紀の背を覆う。
「あの時は、もうお前が来てくれないんじゃないかと思ってた」
「だって、悠、に、絶対嫌われたと思ったし」
つい最近、意識して名字呼びから名前呼びに変えたため夏紀の口調はぎこちない。以前丁寧語から今の話し方に変えるときも一悶着あった。
唐澤はそっぽを向いて顔をしかめる。
「悪かった、八つ当たりして」
「私こそ押しかけて描いたりしてごめん」
「あ、いや、その件については謝らなくていいから」
歯切れ悪く言い、周囲を見回した唐澤は心持ち身を屈めて夏紀の耳元に囁くように告げた。
「俺が落ちたとき、そこにいたのがお前でよかった」
その距離の近さに動転しかけた夏紀は、急接近の理由が改札から姿を現した灰崎だということに気付いて苦笑した。彼は耳がいい。きっと唐澤は台詞を聞かれたくなかったのだろう。
いつかのように帽子をかぶり、目立つ耳を隠している灰崎の隣にはブラウンのマフラーを巻いた人間の女性がいた。
「出た、女子高生の彼女」
「え、もう卒業したんじゃないの」
「したけど。去年」
その彼女がぺこりと頭を下げた。灰崎は軽く片手を上げる。
《狼》と付き合うには、《鷹》とは違った気苦労があるだろう。けれど共通点もあるにちがいない。
唐澤よりも先に、夏紀は二人に歩み寄っていた。