第九話 見守る者
「よし、引越ししましょう」
帳簿に向かっていた修一郎が、突然決心したように顔を上げた。
地獄のように忙しかった冬の二の月も過ぎ、今は冬の三の月(一月)である。
アルベロテス大陸での暦法も十二ヶ月を一年としているが、数え方は基本的に“季節”の“何番目の月”といった、季節を基準にした数え方をする。
修一郎の世界の一般的な暦法のように、十二月の次は一月となるわけではない。
季節は日本と同様に、四季に分かれていて、春が二ヶ月、夏が三ヶ月、秋が三ヶ月、冬が四ヶ月とされており、呼び名は、春の一の月、春の二の月、その次は夏の一の月……といった具合だ。
このあたりも、向こうの世界と似ているようでどこかずれている感覚があり、当初はとまどっていた修一郎だったが、こちらの世界で生きていかねばならなかった修一郎は、慣れるしかなかったし、事実、慣れてしまった。
案外、自分は適応能力が高いのかも知れないと思いもしたが、大雑把なだけかも知れない。
出納板の確認作業を終えていたソーンリヴが、怪訝な顔で修一郎を見る。
「いきなりなんだ。
何か問題でもおきたのか?」
試作品とは言え、結果的に修一郎が贈ったことになった眼鏡を、ソーンリヴはいたく気に入ったようで、事務室内に居る間は、ずっと掛けている。
それまで悪かった目つきも、心なしか和らいだように思えた。
「いえ、問題というわけでもないのですが……」
修一郎は、ルキドゥに関する一件を説明する。
「なるほどな。先々月だったか?
やけに仕事が終わったら早く帰っていたようなので、引っ掛かっていたんだが、そういうことか」
「まあ、最初は一日だけ面倒看て、後はあの子の好きにさせようと思っていたのですけどね。
何時の間にか、住み着かれてしまいまして」
実際は、修一郎がそうなるように仕向けた面もある。
別に、国中の不幸な子を、どうにかしてやりたいと考えているわけではないし、どうにかできるとも思っていない。
ただ、自分の目の前に現れた、独りの子供を放っておけなかっただけだ。
自分の意思で、こちらの世界にやってきたわけではない修一郎の、面倒を看てくれたコタールの顔が思い出されて、修一郎は少年を拾い上げることにした。
傲慢なのかも知れない。思い上がっているのかも知れない。
この世界の人間でないうえに、世間を知っているわけでもない若造の修一郎に、人一人を救えるかは疑問だ。
それでも、修一郎は虎人族の少年に手を差し出した。
支えるつもりはない。彼を引き起こして立たせ、自分で歩かせる。それを手助けするだけ。
コタール・アペンツェルとハーベラ・アペンツェルが、修一郎にそうしてくれたように。
「物好きというか、お人よしと言うか……。
それはまあいいが、市庁舎へは届け出たのか?」
何やら思案に耽っている修一郎に呆れながら、ソーンリヴが重要な案件を口にした。
「え?市庁舎?」
「知らなかったのか?孤児の保護や、養子を迎えるには、市庁舎の市民登録窓口に申請する必要があるぞ?
それに通らなかったら、引き取ることはできないんだ」
「はい。初めて聞きました。
拙いなあ。まだ、申請していませんよ……」
修一郎は納まりの悪い頭を掻くと、天を仰いだ。
ルキドゥが家に転がり込んだ後は、仕事が忙しくなってしまい、そのあたりのことには全く気を回す余裕がなかったのだ。
「そこまで心配する必要はないさ。犯罪者としての記録さえなければ、許可はおりるだろう。
申請は、市民税納付額確定時期までに行っておけば、罰則や追徴金も発生することはないし、焦ることはない」
「犯罪歴は、おそらくは大丈夫……だといいのですが。
少なくとも何度かは“ああいったこと”をやっていたようですから、もしかしたら他の都市から通知が回っているかも知れませんね」
「話を聞く限りでは、馬鹿ではなさそうだから大丈夫なんじゃないか?
あまり無責任なことを言うつもりはないが、手配板が回っていたら街に入った時点で捕縛されてるだろう」
商業都市であるアーセナクトは、街の境目を示すための形ばかりの市壁が円形に築かれており、東西南北に一応、出入りする者をチェックする審査所が設けられている。
審査所には警護団と数名の騎士が詰めており、街に出入りする人物の目的や荷物の検分、犯罪者の確認等が行われている。
だが、それも極々簡単な審査で終わってしまうので、実際に刑罰を受けた犯罪者や、国内外で指名手配された者でなければ、まず問題なく通過できた。
犯罪者のチェックは、通称『手配板』と呼ばれる魔法を応用した、主に警護団が使用する金属板で行われる。
手配板には、指名手配されている犯罪者用と、犯罪者として既に刑罰を受けた者用の、二種類が用意され、審査の際に、一人一人その手配板に手をかざすように言われる。
該当する者が手をかざすと、手配板に記録された姿形や犯罪歴の情報の照合が自動的に行われ、即座に判明する仕組みである。
それで完璧に犯罪者の通過をチェックできるわけではないが、各都市で採用されていることから、そこそこ効果を発揮しているようだ。
「今日帰ったら、一応本人に確認して、明日にでも市庁舎へ行ってみます」
ここまで来たら、変に焦っても仕方がない。何か問題がおきれば、その時はその時だ。
「ああ、登録は本人立会いじゃないとできないからな?
その子も連れて行くんだぞ?」
珍しく、今日はソーンリヴが茶を淹れる気になったのか、記帳作業を続ける修一郎を横目に、流しへと歩いていく。
「分かりました」
修一郎は羽ペンを動かしながら、答えた。
翌朝、恒例となった朝食時の勉強会で、修一郎から、ルキドゥの保護登録を行う旨の説明がなされた。
ルキドゥは、自慢げに「他所ではヘマなんてやらかしてない」と言い放って、自慢することですか、と修一郎から軽い拳骨をお見舞いされた。
このところ、ルキドゥは徐々に打ち解けてきて、修一郎に素の自分を見せるようになっている。
完全に心を開いた、というわけではないのだろうが、以前のように警戒したり、すぐに攻撃的になったりすることは、殆どない。
修一郎は、昼の休憩時間に市庁舎へ行くことにし、ルキドゥには親鐘三つが鳴る頃に、マリボー商店の裏まで来るように伝えて、一人で家を出た。
昼になって、修一郎が従業員出入口から外に出ると、そこには少年の姿があった。
「では、行きましょうか。
昼飯は登録が済んだ後で、一緒に食べることにしましょう」
そう言って、二人で街の中央にある市庁舎へと向かう。
真冬の空は、小さな雲が視界の隅に見えるものの、快晴と言っていいほど晴れ渡っていた。
アーセナクトの近くを流れるナズ河からの冷たい風が、容易に市壁を乗り越え、東西南北に伸びる大通りを駆け抜けて、道行く人々に容赦なく襲いかかるため、昼時にも拘らず人影はまばらであった。
修一郎は事務員の制服の上に、内張りに毛皮を使った外套を着込み、ルキドゥは冬物の子供用の長袖と長ズボンの上に、同じく子供用の外套を着込んでいる。
南の商業地区から大通りに出て、中央広場へと向かうと、この寒空の中、商魂逞しくいくつかの軽食を扱う露天が並んでいた。
ちょっと腹に何か入れてから行こう、とのルキドゥの提案を「だめです」の一言で斬り捨てて、足を早める修一郎。
市庁舎へ続く広場に並ぶ露店を見て、ルキドゥが実に情けなさそうな表情であったのが印象的であった。
市庁舎内に入ると、修一郎は総合案内所へ近づいて、そこに居た人間族の女性に市民登録窓口の場所を尋ねる。
正面入口から見て、一階の廊下を右に進んだ先にあると教えてくれた、彼女の口調は丁寧であったがどこか機械的で、むこうの世界で言われていた“お役所仕事”という言葉を修一郎に思い出させた。
ルキドゥを連れて、言われた方向へ足を向けた修一郎は、廊下を進みつつも、どこか疑問を覚えたようで、しきりに首を傾げている。
「あれ?こっちは……」
「な、なあ、やっぱりオレたちみたいなのが来ちゃいけない場所なんじゃないか、ここ」
市庁舎に近づくにつれ、表情と声に緊張を高まらせていたルキドゥは、庁舎内に入った時点で、その度合いは最高潮に達したようだ。
今も、右手右足と左手左足を同時に動かして歩いている。
「そんなわけないでしょう」
市庁舎と呼ばれてはいるが、要はこの都市及び周辺地域を治める領主の居館のようなもので、アーセナクト市長も当然爵位持ちの貴族である。
一般市民が立ち入ることができるのは、四階建ての市庁舎の二階部分までだが、それでも、姿が映りこむほどに磨き上げられた一階ロビーの床や、煌びやかな術石製シャンデリア、廊下に敷き詰められた青い絨毯など、市民が利用する公的機関の場とは思えないほどの華やかさがあった。
「第一、私は何度もここを訪れていますよ。
勿論、二階までですが……っと、この先が窓口だったのですか」
修一郎は、二階に上がる階段の下で立ち止まると、階段と廊下の先を見比べて、一人で納得している。
わけが分からず、修一郎の行動を見ていたルキドゥの表情は、更に不安を増したように見えた。
「な、なに……?」
「なんでもありません。
何度か利用している部署の窓口が、この階段を上がったところにあるだけですよ。
この廊下の先は行ったことがなかったので、気付きませんでした」
では行きましょう、と言って修一郎は再び歩き出した。
ルキドゥは、説明されてもまだ理解できなかったが、結局は目の前の人間族に、不安な表情のままついて行くしかなかった。
ルキドゥの市民登録……正確には、ルキドゥの保護市民資格登録と、修一郎の管理保護者登録の申請は、問題なく受理された。
晴れて二人は、被保護者と保護者の関係になった。
今後、ルキドゥが問題を起した場合は、ルキドゥだけでなく修一郎も管理責任を問われる立場となる。
虎人族の少年は、そのあたりの説明を受けても、未だ理解できない単語が半分近くあり、良く分からなかった。
「とりあえずは、今までどおりで居なさいということですよ。
当然、我が家に来てからの、“今までどおり”という意味ですけどね」
笑顔の修一郎に、何か言い返してやろうかと考えたルキドゥだったが、結局は面白くもなさそうに、顔を背けるだけだった。
市庁舎を出て、過度の緊張から漸く開放されて大きく息を吐き出すルキドゥを連れて、修一郎はプレルの食堂へと向かう。
ちょっと遅くなった昼食を摂るためだ。
「君もお腹が減ったでしょう。
これから行くお店の味は、期待していいですよ」
「別に、オレはサンドイッチでいいけど……」
興味なさそうに呟く虎人族の少年だったが、外套の裾から僅かに顔を出した縞模様の尻尾は、小刻みに揺れて、言葉とは裏腹な心情を物語っている。
「こんな寒い日は、暖かいものを食べたほうがいいと思いますよ。
それに、知り合いに君を紹介したいとも思っていましたし」
そんな遣り取りをしながら歩いていると、ほどなく目的の場所に着いた。
「ここです。
パノーバさんという猫人族の方がやっている、プレルの食堂という店です。
プレルという名はパノーバさんの奥さんの名前ですけどね」
「猫人族……」
僅かに表情を動かしたルキドゥだったが、修一郎はそれに気付くことなく店の中に入っていく。
「こんにちは」
「いらっしゃい、シューイチロー。
あら?そっちの子は……?」
店に入った修一郎の目を前を通り過ぎようとしていたプレルが、修一郎を見つけて笑顔を向ける。
その彼の後ろに隠れるようにして、店に入ってきた小さな影にも気付いたプレルは、視線で修一郎に問い掛けた。
「ほら、何を隠れているんですか。挨拶しなさい」
「……ルキドゥだ」
言われて、渋々ながら少年が名乗る。
「虎人族なのねぇ。はじめまして。プレルよ。
ルキドゥ……ちゃん?」
「オレは男だ!」
最近はみせたことのないような剣幕で、声を荒げる虎人族の少年に修一郎は驚いたが、猫人族の女性は笑顔のまま穏やかな声で訂正した。
「あら、ごめんなさい。……ルキドゥくんね。
ようこそ、うちの食堂へ。
これから宜しくね?」
その言葉にルキドゥは応えることなく、修一郎と共に案内されてテーブルについた。
時間があまりないので、手早く食べられて温かいものを、と注文する修一郎に、プレルは今日のお奨めを二つでいいわね?と苦笑しながら応じていた。
そんな二人を黙って見遣りながら、ルキドゥは相変わらず不機嫌そうな表情を崩さない。
「どうかしたのですか?さっきから、君、様子がおかしいですよ?」
ルキドゥの様子に気付いた修一郎が問い掛ける。
勝手に注文を決めてしまったことに腹を立てているのかとも思ったが、少年はそれ以前からどこかおかしかった気もする。
「オレは、水だけでいい」
ぽつりと呟いた言葉に、修一郎が怪訝な表情を浮かべた。
「何故です?お腹の調子でもおかしいのですか?」
「…………」
「ルキドゥ君?」
重ねて訊ねる修一郎に、ルキドゥが口を開いた。
「虎人族であるオレが、猫人族の作った料理なんか食えない」
ルキドゥの言葉に、思い当たった修一郎は、僅かに眉根を寄せる。
獣人族における上下関係。
一般的に、虎人族は猫人族の直系上位種族と言われている。
以前、この店でグラナに対してゼリガが見せた反応が思い起こされた。
「なるほど。分かりました。
それが、この世界での慣習なら仕方ないことですからね。
では、君はそこで水を飲んでいてください。プレルさんには悪いですが、注文を一人分取り消すことにしましょう」
修一郎はため息を吐きながら、席を立ってカウンターへと歩く。
その背中に何か言いかけたプレルであったが、結局言葉を発することはなかった。
本来ならば、叱るべきであるのかも知れないが、ことはこの世界の慣習に関するものだ。
どんなにおかしいと感じても、修一郎が口を出すべきではないと思われた。
グラナの場合は、本人がそう言うように、特別なのだ。
自分でも簡単に整理を付けられそうもない感情を持て余しながら、修一郎は注文の取り消しを告げた。
ある程度は予想していたのだろう、プレルはそれに怒ることもなく、了解の言葉を返した。
食堂から出た二人は、お互いに黙ったままで、中央広場へと向かっていた。
もうじき、昼の休憩時間が終わる。
「では、ルキドゥ君。これを渡しておきます。
適当に、何か買って食べてください」
修一郎は、財布から数枚の硬貨を取り出すと、虎人族の少年に手渡した。
「でも、オレは……」
言い淀むルキドゥに対し、修一郎は何も言わず、その手に硬貨を握らせる。
「君のとった行動について、私は何も言える立場ではありません。
言いたいことはあります。ですが、それを口にしていいとも思っていません。
後は、君が考えてください。
勿論、助言が必要ならいつでも言ってきてくれて構いませんが」
少しだけ苦笑の成分を含んだ笑顔で、ルキドゥに告げると、修一郎はマリボー商店へ向かって去っていった。
露店が並ぶ広場に、硬貨を握り締めたまま立ち尽くす小さな虎人族の姿が残された。




