第八話 勉強の時間
仕事を終えた修一郎は、食事に行こうと誘ってきたゼリガに丁寧に断りを入れ、食料品を扱っている店へ向かった。
そこで豚肉の塊や野菜、果物などを買って、長屋へと戻る。
ルキドゥの服は、昼の休憩時間を使って、庶民の子供が着るような服を上下三着、下着となる短パンを同じく三着購入していた。
子供を連れず、子供用の衣服を買う人間族の男に、衣服店の従業員は怪訝な顔をしていたが、修一郎はそれを見なかったことにした。
それらをそのまま事務室に持って帰るわけにもいかず、衣服を入れるための布袋を一枚買ってそれに入れておく。
それを目にしたソーンリヴが問うてきたが、冬物の部屋着と下着を買ったと誤魔化しておいた。
納得したソーンリヴだったが、「そういう時は、服を買った」とだけ言えばいいんだ、と怒られる修一郎だった。
「帰りましたよ」
向こうの世界でも、親元を離れ一人暮らしをしていた修一郎は、実に久しぶりに帰宅の言葉を口にした。
ふと、距離的ではなく“世界”的に遠く離れすぎてしまった、彼の親のことが思い出される。
こちらの世界に来て、既に九年が過ぎ、向こうの世界に戻ることは完全にと言っていいほど諦めていた修一郎だったが、安否だけでもいいから知ることが出来ればと思っている。
不可能であることは、分かりきったことであったし、故に考えないようにしていたことでもあった。
「ですが、それを未練とは言いたくないですね……」
小さな、ほんの小さな声に出して呟いた修一郎の耳に、少年の声が届く。
「お、おかえり……」
修一郎は、虚を突かれた表情で少年を見る。
少年が、この家から逃げるとは思っていなかった。
返事を期待せずに発した自分の言葉に、照れたような、それでいてどこか拗ねたような声で、ルキドゥが応えたことに驚いたのだった。
だが、すぐに心からの笑顔を浮かべると、改めて告げる。
「はい。ただいま」
少年は、そんな修一郎を見ると、慌てて顔を逸らして居間へと戻った。
「すみません。少し遅くなりました。
早速、夕飯の準備をしますね」
修一郎も居間へと歩きながら、上着を脱ぐ。
先に居間に戻り、テーブルの前にちょこんと座っていた少年に、持っていた袋を渡す。
「君の着替えです。
こういったことに慣れていないので、無難な物しか買っていませんが、我慢してくださいね」
元々、お洒落と言うより服装に無頓着であり、自分が着ている服は、どれもデザインよりも機能性を重視して選んだものが殆どである。
もっと言ってしまえば、温かければ良い、暑くなければ良い、そんな程度だ。
少しでも売れるようにと服のデザインを必死に考えている職人が聞けば、怒り出しそうな基準でしか選んでいない。
そんな修一郎であったため、ルキドゥの服を買うときも変に格好付けることなく、店に入ると店員の下へ直行し、その辺りの十歳くらいの男の子が着ているような服が三着欲しい、と完全に任せてしまったくらいだ。
「くれるのか!?」
手許にある袋と修一郎を交互に見ながら、ルキドゥが声を上げる。
「君が、拒否しなければね。
人から施しを受けるのが嫌なら、後で返してくれてもいいですよ?
勿論、きちんと働いて得たお金で、ならですが」
寝室で着替えるために、扉に手をかけた修一郎は、振り返って笑顔のまま、からかうような口調を極僅かに滲ませた。
「か、返すに決まってんだろ!
お前に恵んで貰おうなんて思ってない!」
寝室に消えた修一郎に向けて、ルキドゥは叫ぶが、応えは返ってこない。
きっと“あの笑顔”で居るのだろう、と思ったルキドゥは更に言い募る。
「家中を空っぽにされてなかっただけ、ありがたいと思え!」
それでも何も言わない、よく分からない性格をした人間族の男に、これ以上言っても反応はないと感じたのか、虎人族の少年は口を閉じた。
暫くして、部屋着に着替えて寝室から出てきた修一郎は、居間がやけにさっぱりしていることに気付いた。
家財が消えているというわけではない。今朝方、慌てて家を出た際は、テーブルの上に食器やらパン籠やらが、朝食後そのままの状態で置かれていたはずなのに、それらは台所へ運ばれていた。
それだけではなく、ここ十日ばかり忙しかったので掃除を怠っており、部屋の隅には薄っすらと埃が溜まっていたりしたのだが、今はそうは見えない。
必要最低限にしか物が置いてない居間は、それでも整理されているように感じられた。
台所と居間の続きに張られた、室内干し用の物干し紐には、少年の着ていたシャツと短パン、それに少年が体を拭いたタオルが干してあった。
感心したように部屋を見回している修一郎の態度に気付いたのか、ルキドゥが言い訳するように訥々と言う。
「せ、世話になったことは事実だから、ちょっと掃除しただけだ。
それにオレは虎人族だ。虎人族は他人から施しも受けないし、お、恩知らずでもない。
だ、大体この部屋は汚いんだよ!お前は掃除もできないのか!」
最後は、照れ隠しのためか声のトーンが上がってしまったが、確かに掃除する暇がなく汚れていたのは事実である。
修一郎は素直に感謝の意を述べた。
「ありがとうございます。
ここ数日忙しくて、掃除していなかったので助かりました」
買ってきた食材を手に、台所に向かった修一郎の背中に、少年が「ふん……」と鼻を鳴らした。
夕食を終え、のんびりと茶を啜っている修一郎に、彼が今日買ってきた服に着替えてきたルキドゥが声をかける。
「なあ。お前、本当に貴族とかじゃないのか?」
自分の向かいに座りながら発せられた、ルキドゥの突然の質問に、目を瞬かせた修一郎は問い返した。
「どうして、そう思うんです?」
昨夜、同じような遣り取りをしたことを思い出したのか、小さな笑いが修一郎の口に浮かぶ。
それを見て、ルキドゥは少しムッとしたようだが、言葉を続けた。
「昼間、ちょっと太ったおばちゃんがお茶を持ってきた。
いつも世話になってるから、そのお礼だって言ってた。
あと、騎士みたいな鎧を着た犬人族のじいさんも来た。
困ったことがあったら、また声をかけろと伝えてくれって言われた」
修一郎には、その二人に心当たりがあった。
太ったおばちゃんとは、修一郎が懇意にしている調薬士の人間族だ。
家で飲んでいるハーブティーを調合してくれたのも、その女性である。
犬人族のじいさんとは、修一郎がこの街で長屋を借りる際に口を利いてくれた老人で、コタールと共に行商人生活を送っていた頃に知り合った、旧知とまでは行かないが、それなりに長い付き合いの引退した騎士であった。
「二人とも、お前に好意を持ってるように見えた。
他人から良くされるから、貴族か金持ちかと思っただけだ」
投げ遣り気味に、だがきちんと説明する少年に更に感心した修一郎は、二人との関係を説明した。
この少年は、それなりに人を見る眼もあり頭も回るようだ。ならば、自分の素性を多少なりと明かしても大丈夫だろう。
「そういったわけで、世話になっているのは私のほうです。
それから、私はシュウイチロウ・ヤスキといいます」
年上の相手に対して、いつまでもお前などと呼んでいてはいけませんよ、と付け加える。
「今まで名乗らなかったお前……シュ、シュウイチ、ローが悪い!」
どうやらこの世界では“しゅういちろう”という名前は発音し辛いのだろう。少なくとも獣人族には。
出会った獣人族の中で、まともに彼の名前を呼んでくれるのはフォーンロシェとグラナくらいだ。
他は何れも、どこかイントネーションがおかしかったり、まともに言えてなかったりで、修一郎は様々な呼ばれ方をしていた。
ゼリガにいたっては、面倒臭いからシューでいいだろ、とまで言いだす始末である。
クリュについては、まだ幼いため舌が回っていないということにしておこう。
自分で口にして気付いたのか、ルキドゥが窺うような目つきで質す。
「シュ、シュウイチローはこの国の人間族じゃないのか?」
「はい。
もっと正確に言うなら、“この世界”の人間族ではありません。
私は、異世界人です」
「異世界人!?」
「ええ」
人間族とは多少表情が異なるが、目をと口を大きく開けて驚いている虎人族に、修一郎はあっさりと認めた。
空になったポットを確認すると、もう少し話が長くなりそうだと判断した修一郎は、再び茶を淹れなおすために、立ち上がる。
「昔、父さ……親父から聞いたことはあったけど、異世界人なんて初めて見た……」
「そうですか。
私が聞いたところだと、数十年前にも異世界人が一人居たそうですけどね。
“大戦”以降、少なくとも私を除いて五人の異世界人が、この大陸に居たようですよ」
過去形なのは、既に五人の異世界人はこの世に居ないからだ。
彼らの中に元の世界に戻った者が居たという記録はなく、何れも病に倒れたか事故による死亡であったとされている。
ルキドゥのように驚いたり、珍しがられたりはするものの、異世界人である修一郎が自分の素性を明かしても、普通に暮らせているのは、姿形がこの世界の人間族と見分けが付かないことと、この大陸において過去に何度か例があるからなのだろう。
噂では、アルベロテス以外の大陸にも異世界人は居た、或いは居るらしいのだが、はっきりとしたことは分かっていない。
ひょっとしたら、同郷若しくは同じ世界の人間が居るかも知れず、修一郎も探して会ってみたいとは思っていたが、コタールはこの大陸から出ることはなかったし、自分も既にアーセナクトで仕事を見つけ、半ば定住してしまった状態だ。
余程のことがない限り、人探しの旅に出ることはないだろう。
ライターで竈に火を入れて、やかんをかけた修一郎は、ルキドゥに向き直る。
「それより、ルキドゥ君。今は君のことです。
猶予は明日の朝ですよ?
これからどうするつもりか考えていますか?」
言われて、それまで呆けた表情だったルキドゥは、触れて欲しくなかったことのように、僅かに顔を顰めた。
「…………それは……」
「王都かダリンなら知り合いが居ます。
君さえその気なら、紹介してあげますよ?
アーセナクトにも数人居ますから、この街で暮らしたいなら、その人を教えてあげることもできますけどね」
ルキドゥからやかんに視線を戻すと、湯が沸くのを待つ。
同時に、その背中は、ルキドゥの答えを待っているかのようにも見えた。
「………………」
ルキドゥの中に、一つの答えがあるのだが、彼はそれを言葉にすることに躊躇いを感じている。恐怖と言ってもいい。
竈のやかんの蓋が、小さな音を刻み始める。
それを黙って見つめていた修一郎が、ため息交じりに助け舟を出した。
「それとも、もう一日、猶予が必要ですか?」
月が替わり、冬の二の月(十二月)となった。
この月は、修一郎たち事務員にとって最も忙しい時期である。
公平に言うならば、仕入れも流通も販売も在庫管理も、店全体が忙しいのだが、特に忙しいのが事務員であるということだ。
王国内各地で催される年越し祭に加え、現国王即位記念日も冬の二の月であり、それぞれが国民にとって一大行事だった。
商品の割引きや、特別な品物・食べ物の販売。通常より数も種類も多くなる商品の仕入れや在庫管理、そしてそれに伴う事務処理の増加。
マリボー商店も他に漏れず、目の回るような忙しさであった。
仕入れ担当のマリボーとブルソーは、二日店に居ればいい方で、それ以外は王都やアーラドルへ出掛けており、殆ど店で見かけることがない。
流通部門では、ひっきりなしに出入りする馬車に荷を積み込み、或いは降ろし、在庫管理部門へと走る。
在庫管理部門はそれを受け、数量や商品を確認し、店頭に運び入れたり、事務室へと報告に向かう。
店頭では販売部門の三人全員が駆り出され、表面上はいつもの笑顔で接客しながら、内実疲労困憊である。
各部門から寄越される出納板の確認と調整、売上金の管理、臨時に雇った人足への日当の支払い、それらを記録する記帳業務などが、一気に事務部門担当であるソーンリヴと修一郎に押し寄せて、二人は日付が変わる直前まで店で仕事をしていることがざらであった。
他の部門に関しては、店が閉まればとりあえず忙しさからは開放されるのだが、事務は閉店後に業務量が減るどころか増えるのだ。
そんな忙しさにかまけてか、ルキドゥの今後のことは有耶無耶になり、未だに少年は修一郎の家に居る。
毎朝、朝食と併せて少年の昼食を用意し、夕食には露店で買い食いできるほどの小銭を渡し、帰宅するのは少年が眠ってしまった後である。
この月に入ってからの修一郎の一日は、その繰り返しであった。
ルキドゥは、相変わらず頑なに「人の施しは受けない。食事や寝床は仕事の報酬」などと言いつつ、居間や寝室の掃除をしたり、布団を干したり、二人の汚れ物を洗濯したりと、ヤスキ家における家事の大半を引き受けるようになっている。
炊事に関してだけは、部屋の主である修一郎が危険であるからと言い張って、触らせないようにしていたが。
「シュウイチロー、金を貸してくれ」
ある朝、突然ルキドゥが切り出した。
「なんです?いきなり」
ルキドゥのお気に入りとなった、昼食用のサンドイッチを作る手を止めずに、修一郎は訊ねた。
「本が欲しい」
「本?どうしてまた」
居間に座っているルキドゥに顔だけ向けながら、少年の意図を探るように見つめる。
「文字を覚えたい」
小さな虎人族は、真剣な目で修一郎を見ていた。
いつかの会話で、自分は文字を読むことが出来ない、とルキドゥが悔しそうに呟いていたのを思い出す。
仕事に忙殺されて買い物もままならない修一郎は、食料品などの買い出しもルキドゥに任せるようになっていた。
修一郎がよく利用する商店の名前と場所を教え、その店以外では買わないようにと釘を刺している。
別に、無駄遣いをさせないようにといった理由ではない。
この街の数ある店の中で、品質が一定しており、価格も適正で、何より店主が信用できることが、その理由だ。
同様の店の中には、品質が悪いものが高値で売られていたり、一見の客相手に値段を吹っ掛けるようなところもあるのだ。
店主には自分からルキドゥのことを伝えておくから、何も心配せずに買って良いと言って、修一郎は必要な分だけ財布から渡していた。
ルキドゥはその言いつけを守って、修一郎が教えた店で買い物をしていたが、ある日、偶々店主が留守にしている時に店に行ってしまい、少年のことを知らない店員は、普通の客と同じように接してしまった。
即ち、店のお奨め品以外は、客の判断に任せたのだ。
その時、ルキドゥが買おうとしていたのは、残り少なくなった塩と小麦粉だった。
店頭に並べられた白い粉末が入った袋の前には、文字の書かれた木板が刺してあったが、少年はそれを読むことが出来なかった。
仕方なく店員に、塩はどれかと訊ねると、目の前にあるのがそれだと笑われた。
店員は単に少年が見落としたのだろうと思い、軽い気持ちで笑ったのだが、ルキドゥは違う意味で受け取った。
文字を読めない自分を嗤ったのだろうと。
王都や、商業で成り立つアーセナクトの住人の識字率はかなり高い。
街路で遊ぶ七~八歳くらいの子供ですら、簡単な読み書きは出来る。
それが当たり前と思っていたその店員は、ルキドゥが文字を読めないとは思わなかった。それだけだ。
しかし、ルキドゥはそうは思わず、この一件以来、文字を読めない自分を恥じるようになっていた。
「なるほど。分かりました」
答えて、ですが、と付け加える。
「本の値段は、結構馬鹿にならないものなんです」
やはり無理か、と肩を落とすルキドゥに、修一郎は更に付け加えた。
「ただ、私がこちらの言葉を覚えるために使った本があります。
それを貸してあげますから、取り敢えずは我慢してくれませんか」
言われてみれば、確かに異世界人の修一郎も、こちらの世界に来たばかりの頃は、文字を読めなかったはずだ。
言葉が通じない相手と会話ができるようになる魔法もあるにはあるが、それは飽くまでも会話だけであって、文字の読解も可能になるわけではない。
今のルキドゥと同じような境遇を経験しているに違いないのだ。
「ちょっと待ってくださいね」
作り終えたサンドイッチを皿に乗せると、修一郎は寝室へと消えていった。
ルキドゥが後を追うと、ベッドの横に置いてある木箱を漁っている修一郎の姿があった。
「たしか、ここに入れたと思うのですが……」
木箱の底を引っ繰り返しながら、何やらぶつぶつと呟いていた修一郎が声を上げる。
「ああ、あったあった!これです。
いやあ、懐かしい」
彼の手には、それほど厚くない羊皮紙製の本があった。
それは、この国に伝わる御伽噺や、どこかの誰かが創作した子供向けの童話が綴られた本で、一般市民に広く親しまれているものだ。
いつもの柔和な笑顔で、その本をルキドゥに渡しながら、修一郎が提案する。
「今日はもう時間がありませんし、夜はいつものように帰りが遅くなるでしょう。
ですから、明日から朝食の時間を使って、私が君に教えてあげる、ということでどうでしょう?」
「いいの……か?」
手渡された本に、目が釘付けになりながらも、少年が訊いてくる。
「ええ。ちょっとお行儀が悪くなってしまいますけどね。
まあ、そこは勘弁してもらうことにして、それで構いませんか?」
笑いかけた修一郎に、ルキドゥも笑顔で返す。
「ありがとう!」
「良かった。では、私はそろそろ出掛けますね。
昼飯は台所に置いてあります。
それで、これはいつもの晩飯代」
そう言って、財布から幾らかの硬貨をルキドゥに握らせると、修一郎は玄関へと向かった。
「ああ。しっかり働いて来いよな!」
上機嫌で、それでいて悪戯小僧のような顔をしてルキドゥが見送る。
「まるで、亭主を送り出す主婦のようですね……」
長屋の前の通りを歩きながら、修一郎は苦笑した。
次の日から、異世界から来た人間族の男と、虎人族の少年の勉強会が始まった。
修一郎の言ったとおり、食事をしながら、この文字は何て読むのかだの、この言葉はどういう意味かだのと、傍から見れば行儀が悪いことこの上なかったが、ルキドゥは毎日確実に覚えていった。
六日も経つ頃には、所々で詰まりはするものの、ルキドゥは修一郎から渡された本を読めるようになっていた。
自分よりも遥かに早いペースで知識を吸収する虎人族の少年に驚きながらも、これが若いってことなのかなあ……とぼやかずには居られない修一郎だった。




