第七話 虎人族の少年
少年は、ルキドゥと名乗った。
アーセナクトにやって来たのは六日前。
それだけ言うと口を噤んだ。
どうやらそれ以上、自分のことは話すつもりはないらしい。
あの後修一郎は、台所の収納棚にあった干し肉とタマネギで出汁を取ったスープに、輪切りにしたサツマイモを放り込み、緩く溶いた小麦粉を少量ずつ流し入れて、日本の水団のような汁物を作った。
味付けは干し肉の塩分と少量追加した塩のみだ。
料理に使えそうな食材が、それしかなかったのだ。
決してご馳走と呼べるような代物ではなかったが、そこそこ腹にたまるものであったし、何より温かい汁物が、冬の雨に打たれた二人には充分に満足できるものだった。
その証拠に、ルキドゥはその汁物を食べることに集中し、食事中は一切言葉を発していない。
少年が三杯おかわりをしたところで、修一郎の作った水団もどきは綺麗になくなった。
居間に置かれた卓袱台のような、円形のローテーブルに向かい合って座っている二人は、修一郎が新たに淹れ直した茶を飲んでいる。
これは、修一郎やソーンリヴが職場で飲んでいる、一般的な茶だ。
「それで、ルキドゥ君。
明日からは、どうするつもりなんですか?」
コップの茶を一口啜って、テーブルに置きながら修一郎が尋ねる。
少年が着ていた服の汚れ具合や、修一郎から財布を掏り取ろうとした手口から、この街に来てからまともな生活をしていたとは思えない。それ以前もどうだか怪しい。
だが、修一郎は今は過去を根掘り葉掘り訊くより、これからに目を向けることを選んだ。
こちらから解答を用意するつもりはない。
決めるのは少年自身であるべきだ。
「…………」
虎人族の少年は、両手をコップに添え、中の茶に視線を落としている。
その姿は、必死に考えているようであり、途方に暮れているようでもあった。
時刻は既に大鐘四つの子鐘四つ(午後十時)を過ぎており、一段と冷え込んできている。
この部屋にはストーブのような暖房器具はなく、ソファーや椅子のような家具もない。
床に縦横2メートルほどの正方形の敷物を敷いて、そこに直に座っているだけだ。
修一郎は立ち上がると、再び寝室のクローゼットへ向かった。
そこから、同じような色合いの木綿製の長袖開襟シャツを二着引っ張り出すと、居間に戻って、一着を少年に手渡す。
「冷えてきましたからね。これでも羽織っていてください」
そう言って、自分もシャツに袖を通す。
ルキドゥも素直に着たようだが、なにぶん修一郎の体に合わせたサイズの服である。
下のシャツも開襟シャツも、腕の部分が長すぎて、袖を何重にも捲っているのだが、それでもかなり余る始末で、少年の指先は袖の中に隠れていた。
「…………」
外から聞こえてくる雨音は、一向に弱まることなく、少なくとも明け方までは降り続くと思われた。
修一郎はルキドゥの言葉を待ち、ルキドゥは未だ答えを出せていない。
少年の金色の瞳は伏目がちにコップを見つめたままだ。
「……オレは」
暫くしてから、漸く少年が口を開く。
「オレは、何もしない……」
「何もしないとはどういう意味です?」
虎人族の少年の言葉に、眉を少しだけ動かして、修一郎が問い返す。
俯いていたルキドゥは、やにわに顔を上げて修一郎を睨んだ。
「今までと変わらないってことだよ!
この街で何日か過ごして、危なくなったら他所の街にでも行く。
そうやって生きて行くだけだ!」
予想していた台詞に、修一郎は深いため息を吐いた。
「それで捕まって罰を受けるわけですか……。
最悪、片腕を失って、この国を追放されますよ?」
「ハン!そうなったらオレの運はその程度だったってことだろ」
自嘲気味に笑うルキドゥの姿と、自分がこの世界に来た直後の姿が重なる。
あの頃の自分はこんな表情をしていたのか、と苦笑を浮かべそうになるのを抑え、修一郎は呆れた表情を作る。
「まぁ、自棄にならずにもう一度じっくりと考えてください。
明日の朝まで、考える時間は充分ありますからね」
空になった自分のコップを台所まで持って行き、居間に戻ると告げる。
「では、そろそろ寝ましょうか。明日は仕事なんです。
今日は色々と疲れましたから、早く寝ないと」
その言葉に、一瞬体を強張らせたルキドゥだったが、すぐに挑戦的な笑みを浮かべる。
「お前が寝ている間に、オレが逃げ出さないように縛りでもするかい?」
それが虚勢であると分かっている修一郎は、笑いながら寝室へ向かう。
「ついでに金目の物を盗んで行くかも知れないぜ!?」
相手にされていないと感じたルキドゥは、さらに修一郎を煽るように声を上げた。
だが、寝室へ片足を入れた状態で、居間へと体を向けた修一郎の表情は変わらない。
「出て行くなら、引き止めたりはしませんよ。
それにこの家に金目の物なんて殆どありません。
財布くらいですね」
「い、いいのかよ!
この服も!このコップも!あの鍋も!皿も!全部持って行っちまうぞ!」
「服は着古したものですし、他もがらくたみたいなものです。
全て売り払ったところで、一日分の食費にもなりませんよ」
この人間族の男は頭がおかしいのか、それとも余程のお人よしなのか、はたまた世間慣れしていない田舎者なのか。
判断がつかない虎人族の少年は、混乱しつつも犯行を予告してみたのだが、それすら軽くあしらわれてしまった。
「さあ、寝室はこっちです。うちで一晩過ごすつもりなら、入ってください」
修一郎が借りている長屋は、玄関、便所、居間、寝室、それぞれが扉で仕切られているだけで、廊下はない。
台所にいたっては、居間の床から一段低くなっているだけで、扉すらなかった。
風呂は、それ自体がこの世界に存在せず、体の汚れや垢を落としたいなら、水か湯で濡らしたタオルで体を拭くか、水浴びするか、大きなタライに湯を張り湯浴みするか、王族や貴族のみが利用していると言われるサウナに入るか、である。
寝室の扉は、先ほどから修一郎が何度か行き来しているので、開けられたままだ。
「……なんでそっちに行かないといけないんだ」
体と表情と声を硬くして、警戒の色を露にしたルキドゥに、当たり前のような口調で修一郎が答える。
「何故って、ベッドが寝室にあるからですよ」
「ベッドで寝るのか!」
「そうですよ?生憎、ベッドは一つしかありませんからね」
「オレに、一緒に“寝ろ”と言うつもりなんだな!?」
修一郎とルキドゥの会話は、その言葉の意味する内容が食い違っていた。
修一郎は、単純に一つのベッドで二人が眠るという意味で言っていたのだが、ルキドゥは修一郎を“そういう趣味”の奴だと思い込み、その相手に自分を選ぶのかという意味で言っている。
スリを働こうとした自分を、態々介抱し、着替えさせ、食事まで与えたのは、何か裏があるに違いないと思っていたのだ。
無論、修一郎に“そういう趣味”はない。
「当たり前でしょう。
こんな寒い夜に、大人である私がぬくぬくとベッドで眠って、子供の君を床に寝かせるなんて非常識な真似はできませんよ。
かと言って、ここは私の家ですから、主の私が床で寝るのもおかしな話です。
だったら、一緒に寝るしかないじゃないですか。
第一、来客用の布団など家にはありませんしね」
やっぱりコイツはどこかおかしい。
修一郎の言わんとすることを理解して、安堵しつつも、ルキドゥはそう思った。
眠っている間に殺されるかも知れないとは考えないのだろうか。
ルキドゥが子供とはいえ、無防備に寝ている人間族の成人男性を殺すくらいはできる。
台所に行けば包丁くらいあるだろう。
だが、差し当たっては大人しくしていよう、と心に決めると、ルキドゥは寝室に向かうべく立ち上がった。
腹がふくれたことと、体が温まったことで、少年に眠気が訪れており、さらに、久々にまともな寝床で眠ることが出来るという誘惑が、虎人族の少年の警戒心を簡単に打ち砕いてしまったのだ。
立ち上がると、着替えた短パンが膝下あたりまで届いているのに気付いて、ルキドゥは微妙な表情になる。
人間族の大人で、しかも長身の修一郎の丈に合わせたサイズであるため、仕方がないのだが、これでは少し短いだけのズボンに見える。
「まあ、いいや」
修一郎に聞こえないように小さく呟くと、ルキドゥは寝室へと入っていった。
清潔なシーツに、ふわふわとは言えないまでも柔らかな布団、頭が半分くらい埋まってしまいそうな枕。
昨日までは、硬い石畳の上か、どこかの家の納屋といった場所で寝ていたルキドゥにとって、修一郎のベッドは天国とも言えた。
「お前、本当は金持ちなんじゃないか?」
隣で横になっている、修一郎の体に触れないようにしながら、ルキドゥは思ったことを口にした。
「なんで、そう思うんです?」
布団の中で、修一郎が僅かに動く。
返ってきた声は、静かで、そして優しかった。
「……何となく」
あまりにベッドの寝心地がいいから、とは言えず、言葉を濁す。
「見てのとおりですよ」
「分かんねぇよ」
既に寝室の明かりは消されて、部屋には闇の幕が下ろされていた。
日付が変わったことを知らせる、市庁舎の大鐘一つがつい先ほど鳴ったばかりだ。
雨足は少しだけ弱まったように思える。
「普通、ですよ。
普通に働いて、普通にお金を稼いで、普通に食べていける、その程度です」
「…………」
それは、自分の両親が生きていた頃と同じなのだろうか。
父が猟で仕留めた獲物を持ち帰り、母と自分がそんな父を笑顔で出迎える、そんな昔。
三人で暮らしていた頃は、それがルキドゥにとっての“普通”だった。
ルキドゥの父は腕のいい猟師だった。と思う。
まだ外の世界を良く知らないルキドゥには、父が基準だったから。
母も、父のことを誇らしげに語っていた記憶がある。お父さんはこの辺りで一番の猟師なんだから、と。
そんな父が、猟の最中に命を落とした。
教えてくれたのは、家に何度か来たことのある、近所の猟師仲間だった。
狩りの最中に、魔獣に襲われたらしい。
普段であれば、一人で狩りを行っている父だったが、その日は二人で狩りをしていた。
それが、この猟師仲間だった。
父の腕であれば、大抵の魔獣なら退けることができたが、運悪く仲間が魔獣によって怪我を負った。
五匹で群れを成していた魔獣から、仲間を逃がすために、父が囮になったとのことだった。
父の働きで、その仲間はなんとか集落まで辿り着いて事情を説明し、周囲の者に父の救助を頼んだ。
集落の者が、二人が魔獣に襲われた場所に行ってみると、五匹の魔獣の死骸と、木の根元で座るように息絶えた父の体があったと聞いている。
すまない、とその猟師仲間は何度も母に謝っていた。
母は、何か言っていたように思う。何を言っていたのかは覚えていない。
それからは母とルキドゥ、二人で暮らしていくことになった。
猟師仲間は、傷が癒えてない体で、度々家にやって来ては、二人のことを気にかけてくれた。
でも、その猟師仲間も、魔獣に襲われた際の傷が原因で死んでしまった。
そうして、ルキドゥの家を訪れる者は、殆ど居なくなった。
集落の長が、時たま顔を現しては、二言三言、母と言葉を交わして帰っていくだけだった。
二人の生活は、父が生きていた頃に比べ、苦しかったが、それでも母はルキドゥに笑顔を向けてくれた。
お父さんの分まで、頑張って生きていきましょう。そんなことを言っていた気がする。
だが、その言葉は母自身によって裏切られた。
ルキドゥの父が死んで、三年が経ったある朝、目を覚ますと母の姿がなかった。
集落の者に訊いても、誰も母の行方を知らなかった。
ルキドゥは、一人になった。
それから後のことは、思い出したくない。
「なあ、お前、家族とか居ないのか?」
そう言って、修一郎を伺うと、人間族の男性は静かな寝息を立てていた。
財布を掏ろうとした自分よりも先に寝るとは。この男には警戒心というものはないのだろうか。
「……やっぱり、おかしな奴だ」
昔のことを考えていたせいか、眠気の靄が少しだけ晴れていたが、虎人族の少年はそのまま眠ることにした。
修一郎の背中に、軽く触れるように体の位置をずらしたルキドゥは、目を瞑る。
暫くすると、小さな寝息が聞こえてきた。
その横で寝ている修一郎の口は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
翌朝、久しぶりのまともな寝床で無防備に眠りを貪ってしまったルキドゥが目を覚ますと、隣に寝ているはずの修一郎の姿がなかった。
その瞬間、母が居なくなった朝が思い出され、自分でもよく分からない焦燥感に駆られて、慌てて飛び起きると、少年は居間へ向かった。
「おはようございます。
雨も上がって、今日はいい天気になりそうですよ」
台所に立っていた修一郎が、居間へ駆け込んできたルキドゥに向き直り、柔らかい笑顔を浮かべる。
台所からは、いい匂いが漂ってきており、彼が朝食の支度をしていたことが分かる。
「早朝からやっている露店で、適当に買ってきたんです。
簡単なものしかありませんが、朝食にしましょう。
顔を洗ってきたらどうですか」
焼きたてのパンが盛られた皿と、ハーブティーの入ったポットを持って、修一郎がテーブルへ歩いてきた。
あれ?獣人族には朝顔を洗う習慣はないんでしたっけ?と首を傾げて、寝室の扉を背に立ち尽くしていルキドゥに目を遣る。
「あ……。うん……」
思わず、素の口調で返してしまったことにも気付かず、虎人族の少年は修一郎を見つめている。
「そうでしたか。じゃあ座ってください。
スープを持ってきます」
修一郎の言葉に素直に従いながらも、ルキドゥの視線は彼の姿を追っていた。
修一郎の言葉通り、パンと野菜のスープという、実に簡単な朝食を済ませると、部屋の主である人間族の男が表情を真剣なものにして、少年に問うた。
「では、改めて訊きましょう。
君は、今日からどうするつもりなんですか?」
「………………」
昨夜と同じ質問に、やはりすぐさま答えることが出来ない。
朝になったら、訊かれることは分かっていたのに、これからどうすればいいのか分からない。
昨日、少年が捨て鉢に答えたように、今までと同じ荒んだ生活を送ればいいのか、それとも別の生き方があるのか。
「………………」
「申し訳ないのですが、私はこれから仕事に行かなければなりません。
出来れば、そろそろ君の答えを聞かせてくれませんか」
事実、もうあまり時間がないのだろう、目の前に座る人間族の男は、先ほどよりも落ち着きなく体を小さく揺らしている。
その姿は尿意を我慢しているようにも見えたが、本人としては、それなりに深刻な事態であった。
これから着替えて、店まで走ってなんとか間に合うかどうかという状況なのだ。
「……も…………」
「も?」
ルキドゥが発した一言を、繰り返す修一郎。
「もう一日、ここに居させてください……」
消え入るような声で発せられた言葉に、修一郎は満足げな笑顔を浮かべると、立ち上がった。
「分かりました。
それでは、もう一日猶予をあげましょう」
着替えのため、寝室に向かいながら修一郎は続ける。
「すみませんが、お昼は今朝のパンが残っていますので、それで我慢してください。
夕食は、ちゃんと作りますから。
あと、ずっとその服というわけにもいかないでしょうから、服も適当に買ってきますね」
思いもよらない修一郎の台詞に、驚きの声を上げるルキドゥ。
「その代わり、君は、昨日まで着ていた服を洗濯しておいてください。
貫頭衣はもう使い物にならないくらいぼろぼろでしたから、下の服だけでも。
いいですね?」
何故、そこまでしてくれるのか分からないルキドゥだったが、その考えを推し量ろうにも、修一郎は寝室で仕事着である店の制服に着替えている最中であり、表情を見ることは叶わなかった。
慌しく修一郎が出掛けていくと、部屋にはルキドゥだけが残された。
出掛ける間際、修一郎は「火は使わないでくださいね」とだけ言い残していった。
本来であれば、玄関の扉には、専用の『施錠』の魔法が掛けられた鍵で、戸締りをするはずであるのに、修一郎は、何もせずに出て行ったことにルキドゥは気付いていた。
今なら、部屋中の物を持ち出して逃げることも出来る。
昨日までの彼なら、間違いなくそうしていただろう。
だが、今はそれが躊躇われた。理由は自分でもよく分からない。
とりあえず、ルキドゥは行動することにした。
立ち上がって、気持ちを切り替えるように、だぶだぶの袖を捲ると、台所の隅に置いてある洗濯桶に歩いていく。
「ゆっくり考えよっと。
一日猶予ができたんだし」
そう言った虎人族の少年の目は、活き活きとした光を湛えていた。