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街の事務員の日常  作者: 滝田TE
街の事務員の日常
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第六話 雨の日の拾い物

 十日ぶりの休日に、修一郎は商業地区の通称“衣服通り”を歩いていた。

 この世界の一週間は五日であり、一ヶ月は六週間の三十日、一年は十二ヶ月の三百六十日となる。

 修一郎の世界の一年と殆ど変わらないことに疑問を抱かないわけではないが、この世界に来て九年。

 それに慣れてしまった修一郎は、深く考えないようにしている。


 衣服通りには、その名が示すように服飾品を販売する商店が集中していた。

 それほど大きくもない通りだが、各専門店が軒を並べ、路上にまで販売台を置いて、道行く客の目を惹こうとしている。

 流石に、貴族が身に付けるような服や装飾品を扱う高級店はないが、それ以外であれば、この通りで大抵揃えることができる。

 時刻は、大鐘二つに子鐘五つ(午前十一時)を少し過ぎた頃。

 もうすぐ昼になる時間帯であったが、薄く空を覆う雲に陽光は遮られ、通りを吹き抜ける風は冬の匂いを含んでいた。

 白い長袖の筒型シャツの上に黒い皮のジャケットを羽織り、下は紺色に染められた厚手の麻のズボンといった出で立ちで、修一郎は店先に並ぶ服や髪飾りを眺めながら、のんびりと歩いている。

 久しぶりの休日で、いつもより遅くに目を覚ました修一郎は、そろそろくたびれてきた普段履きの靴を買おうと思い立ち、この通りに足を運んだ。

 修一郎を含め、一般市民が履く靴は、基本的に布と皮を縫い合わせた、修一郎の世界で言うワーカーブーツに近い形をしている。

 編目の細かい麻の生地と木綿の生地の間に、牛に良く似た家畜の皮を挟んだもので作られており、靴底は分厚い獣皮で補強されている。

 表面には樹脂が塗られ、一応の防水加工が施してあるが、この世界では防水性を併せ持つ強力な接着剤が未だ開発されていないらしく、縫い目から水が浸み込むこともしょっちゅうで、気持ち程度の効果しか発揮していない。

 冒険者や探鉱者といった、岩場を歩いたり、野生生物や魔獣と戦ったりする者は、この靴のつま先や踵、脛といった部分に金属板を貼り付けたものを愛用している。

 フォーンロシェが履いていた靴が、それに当たる。

 他に、木製の靴もあるにはあるのだが、木靴は大抵、都市部から離れた農村などでしか使われておらず、石畳が敷かれた街中では、まず見かけることがない。

 木靴は履き慣れるのに多少のコツを要するうえに、石畳の路面を歩くと損耗も激しく、何より滑り易く危険なのだ。

 修一郎が今履いているのは、靴底の獣皮がかなり磨耗してきており、全力で走ろうものなら、振動が直接足に響いて足の関節を痛めかねない。

 靴底だけを交換し補修することもできるのだが、他の部分もいい加減傷んでいたので、どうせなら買い換えようとなった次第である。

 目当ての店に入り、馴染みとなった女主人に声を掛ける。


「こんにちは、ケーゼさん」


 店の奥に据え付けられたカウンターで、暇そうに片肘を突いていた人間族の少女が顔を上げる。


「や」


 頭を包むように巻かれたバンダナから、くすんだ金髪を少しだけ覗かせたケーゼは、どこか呆けたような表情で簡潔過ぎる挨拶を返した。

 濃い眉毛の下にある、琥珀色の瞳をした目は常に半目状態で、頬にはそばかすが浮いている。

 顔立ちだけ見れば、どこにでも居そうな少女であるが、幼い頃から父に仕込まれた製靴技術は相当なもので、十七歳にして腕のいい靴職人と評判だった。

 父親と二人で切り盛りしているこの店は、完全受注生産制で、常連客も少なくない。

 その父親は、作業場に篭りっきりで、滅多に店先に出てくることはなく、店の殆どをケーゼに任せている。


「同じ?」


 主語から何から殆どをすっ飛ばしたような問いに、修一郎は戸惑うことなく答える。


「そうですね。今回も靴底は獣皮二枚でお願いします。

 あと、中敷きに兎の毛皮を追加してもらえますか?

 これから寒くなりますからね」


「ん」


 修一郎の注文を、専用の木板に、細く割られた木炭で書き込むケーゼ。

 書き終えると、再び修一郎に顔を向けて僅かに口を開いた。


「代金?」


「ええ。今回も前払いで」


「ん」


 傍から見ると、まともな意思疎通が出来ていないとしか思えない遣り取りであったが、この店の客はこれで通じてしまうのだろう、修一郎も当たり前のように靴の代金を払う。


「四日」


「分かりました。それではお願いします」


 そうして注文を終えた修一郎は、独特の雰囲気を持つ少女と軽く世間話をした後、店を出た。

 尤も、主に話しかけるのは修一郎で、ケーゼは極々短い言葉を返すだけの会話であったが。

 店を出る際に聞こえてきた、裏の作業場に居る父親を呼ぶケーゼの声に、修一郎の口許が微かに綻んだ。






 新しい靴の注文を終えて、アーセナクト中央広場にやってきた修一郎は、昼飯をどうするか軽く悩んでいた。

 たしか、プレルの店は今日は定休日のはずである。

 広場では、もうすぐ始まる昼の休憩時間に合わせるように、軽食を売る露店の店主たちが準備に忙しそうだ。


「適当に見繕って、ベンチで食べるかな……」


 香辛料をまぶした獣肉を串に刺して焼いている露店に向かおうとした修一郎の左手が、突然後ろから何者かに掴まれる。

 驚いて振り向いた先には、絶好の獲物を見つけたように笑うプレルの姿があった。


「シューイチロ~。いいとこで会ったわね~」


 しっかりと腕を掴んだまま、笑顔に凄みを増す猫人族に、ふと、猫に捕らえられたネズミ姿の自分を想像して、修一郎は引き攣った笑みを浮かべた。


「ど、どうも、プレルさん。買い物ですか?」


「買い物じゃないわよ?ちょっと、商館ロントラールに用があってね。

 今はその帰り」


 プレルに限らず、アーセナクトに住む大抵の者にとっては、“商館”イコール“商人組合”である。

 組織上の商人組合は市庁舎を本拠としているのだが、あそこは半ば組合幹部専用の事務所のようなもので、日々の実務処理は殆どが商館で行われていた。


「今日は休みみたいだね?」


 普段とは違う服装の修一郎を見て、プレルが質問というより確認といった口調で問うてくる。


「ええ。ちょっと靴を新調するために、衣服通りまで行ってきたところです。

 で、これから露店で昼飯でも買おうかと……」


 言いかけて、しまった、という顔をした修一郎を見て、プレルが腕を掴んだ手にさらに力を入れる。


「そう!なら丁度良かったわ!

 ウチの店で食べて行きなさい。そうしなさい」


 三角の耳を大きく動かしたプレルは、自分の店に向かって修一郎を引っ張っていく。


「で、でも今日はプレルさんの店もお休みなんじゃ……」


 僅かな抵抗を試みる修一郎に、プレルの陽気な声が、それを無情にも打ち砕いた。


「いいのよ~。シューイチローの分くらい作ってあげるから。

 それに、ちょっと教えて欲しいこともあるしね」


 嫌な予感は、嬉しくないことに見事的中したようで、諦め顔の修一郎はそのまま引き摺られていった。






 修一郎がプレルに拉致されて、食堂に向かっている頃、商館の大会議室に八名の商人が集まっていた。

 アーセナクトでも有数の大店の店主であり、商人組合の要職に就いている者たちである。

 見事な彫刻が施された長テーブルは、イレ・マバル諸島よりさらに南部に位置する国で伐り出されたコクタンで作られており、彼らが座る椅子もテーブルと調和するように設えられたコクタン製だ。

 入口真正面の奥には、組合旗が三脚式の旗立台に立てかけられており、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められている。

 テーブルを挟んで四人ずつに分かれて座っている彼らの前には、西の大陸ラングナントから持ち込まれた紅茶が、馥郁とした香りと湯気を立ち上らせていた。

 その香気を愉しみながら、八人の商人たちは、最近の市場の動向、ナダルヌから運ばれてくる今年収穫された農作物の質、近々北のバンルーガ王国が公路利用税の引き上げを行うらしいといった、商売に関する話題を交えつつ談笑している。

 そのうち、話に一区切りがついたのか、商人の一人が紅茶の注がれたカップに口を付け、静かに受け皿に戻した。

 それが合図であったかのように、会議室の扉がノックされ、女性の声で来訪者があることが告げられた。

 日本で言うところの、上座に座る商人が入室を許可する旨の言葉を発すると、一呼吸の間をおいて扉が開かれる。


「お待たせして申し訳ありません」


 室内に入って来た男は、テーブルの傍まで歩み寄ると、深々と頭を下げ、良く透る声でそう言った。


「いやいや、私たちもつい先ほど来たばかりですよ」


 入室許可を出した男性商人が、笑顔で応える。

 テーブルに並んだカップを見れば、その言葉は嘘であることが瞭然なのだが、それを口にするほど男は馬鹿ではないし、事実、予定されていた時間より前に訪れているのだ。

 社交辞令であることは百も承知である。


「そうでしたか。

 ですが、この度皆様をお呼び立てしたのは私わたくしです。

 本来であれば、私が皆様をお迎えしなければならない立場であるのですから、お待たせしたことには変わりません」


 普段からは想像できないほど丁寧な口調で、再度男は頭を下げる。


「あまり気にされることはないでしょう。

 そう畏まらないでください」


 別の商人も、笑顔で座を取り成すように、男に声をかけた。


「ありがとうございます」


 頭を下げたまま礼を述べる男の一番近くに座っていた、恰幅の良すぎる商人が、やや棘のある物言いで先を促す。


「そんなことよりも、です。

 今回我々が呼びつけられた理由をお教えいただけませんかな。

 商売上手な貴方のことだ。

 組合に、ひいてはアーセナクトに店を構える商人全体に、良い報せでもあるのではないですかな」


 言外に、自分が男の目的を察していることを匂わせながら、その商人は他の七人に向けて大仰に笑う。

 水を向けられた形の七人も、凡その見当はついているのか、彼の言葉を否定することはなかった。


「まあまあ、マゴールさん。

 さあ、貴方も席に着かれてはいかがですか。

 君、彼にも紅茶を差し上げなさい」


 上座の向かいに座っている商人が、男を揶揄するような発言をした商人の名を呼ぶ。

 最後の台詞は、男を案内した後、入口に待機していた女性組合員に発したものである。

 女性組合員は黙って一礼すると、会議室を出て行った。

 マゴールと呼ばれた男は、表情を消して紅茶のカップに手を伸ばす。

 紅茶は、先ほどまでの香りは失せていたようで、マゴールは僅かに眉を顰めて、すぐにカップを戻した。


「では、失礼して……」


 女性組合員が会議室を出て行くと、男は空いた椅子に座る。

 そこは、この九人の中で最も下座にあたる席だった。


「さて、それではお話を伺いましょうか、マリボーさん。

 商人にとって、時間は金と等しく尊いと申しますからな」


 上座に座る商人が男の名前を呼んだ。


「はい。お話というのは…………」


 マリボーは、大きな商談に臨む際に作る真剣な表情で口を開いた。






 修一郎がプレルから開放されたのは、大鐘四つが鳴ってしばらく経ってからのことだった。

 店の外に出て空を見上げると、薄く広がっていた雲は黒さを増して低く垂れ込めており、夜中のように暗い。

 このまま行けば、もう間もなく雨が降り始めるだろう。


「参ったな。ここまで時間が掛かるとは……」


 周囲に漂う雨の気配に、収まりの悪くなった頭を掻きながら、これからどうするか思案する。

 長屋まで走って帰り、自炊することも考えたが、買い置きの食材が殆どないことに思い当たる。

 加えて、長屋にある単炉の竈では一度に一種類しか調理することができないため、手間が掛かるのであまり使いたくないという気持ちもある。

 元の世界では、趣味を兼ねて普段の食事の大半を自炊していた修一郎だったが、仕事で疲れて帰ってきた時や、風邪気味の時などは、コンビニや深夜営業のスーパーの惣菜、デリバリーで済ますこともあったのだ。

 この時間でこの空模様である。

今から食材を買いに行き、長屋で料理するのは、流石に面倒くさい。

 となれば、露店かどこかの食堂しか選択肢は残されていないのだが、広場の露店が今もやっているとは思えない。

 すると必然的に食堂で晩飯を食べることになるが、馴染みと言えるほど通っている店はプレルの食堂しかない。

 この街に来て、一番最初に入った店がプレルの食堂で、出された料理の出来に満足してしまった修一郎は、他の店を開拓することを半ば放棄していた。


「仕方ない。

 適当な店に入ってみよう」


 そう決めた修一郎の鼻に、水滴が当たる。


「降りだしたかぁ」


 あっと言う間に土砂降りとなった雨に、ため息を吐きつつ修一郎は駆け出した。




 全身ずぶ濡れになりながら、宣言どおり適当に見つけた店で食事を終えた修一郎は、彼にしては珍しく機嫌が悪かった。


 修一郎の入った店は、プレルの食堂よりも広く、それなりに客も居て、従業員の態度も悪くなかった。

 だが、出てきた料理は修一郎にとって不満だらけだった。

 ある料理は味付けが薄すぎ、別の料理は間違えたのではないかと思えるほど塩が効き過ぎている。

 火の通し方も雑で、野菜の炒め物は火の通しすぎで歯ごたえなど皆無であったし、鹿肉の串焼きはレアどころの話ではなく殆ど生に近い状態だった。

 この世界の病原菌や寄生虫がどの様なものか分からない修一郎は、この世界に来てから魚肉や獣肉は生で口にしたことはない。

 生野菜や果物に関しては、綺麗な水で洗ったものしか食べない。

 それでも安心できないのが現状なのだが、ここまで気をつけて、それでも感染若しくは発症するなら、それまでだと諦めることにしている。

 食べなければ生きていけないのだし、いざとなればこの世界の薬でなんとかなるのではないかと高を括っている面もある。

 治療用の魔法もあるだろうが、こちらはあまり当てにしていない。

 ともかく、そういった理由から鹿肉の串焼きは、一口齧って気付いた修一郎が、周囲の者に気付かれないように、素早く吐き出した肉の欠片をポケットに隠した後は、手を付けられることはなかった。

 そして極めつけなのが、料理の量と値段だった。

 はっきり言えば、少なくて高い。

 よくこれで客が入るものだと思い、ホールを見渡した修一郎はあることに気付く。

 客の殆どが男性であった。

 違和感を覚えて、さらに良く見てみると、接客している三人の従業員は全て若い女性で統一されている。

 ご丁寧に、人間族、エルフ族、ハーフリング族と一人一人違う種族を揃えており、どの娘もそれなりに美しく、体つきも世の大抵の男性が喜ぶであろうレベルを保っている。

 成人しても人間族の子供くらいの身長にしかならないハーフリング族に関しては、多少嗜好の異なる者のために雇っているのかも知れないが。

 獣人族を雇っていないのは、獣人族は基本的に一途だからであろう。

 独身であれば従業員目当てで通う者も居るだろうが、恋人が居る者や妻帯者はまず来ることはない。

 独身者が一人の従業員を巡って、店内で騒ぎでも起されたら堪らない。

 異種族間での恋愛や結婚の例はなくはないのだが、稀であることは確かだ。

 その辺りまで考えての人選なのかは不明だが、男性客に獣人族が居ないことから、当たらずとも遠からずといったところだろう。

 なるほど“そういう店”か、と得心のいった修一郎は、憮然として店を出たのだった。




 そして、店を出た今も雨は降り続いていた。

 もう半月もすれば、雪になっているだろう、氷のように冷たい雨は、相変わらず石畳を激しく打っている。

 ここから長屋までは結構距離があるうえに、傷んでいる靴は既に水を大量に吸い込んで歩くたびに不快な音をたてる有様だ。

 店に入った時点で、文字どおり頭から水を被った状態であったため、これ以上濡れても何ら変わらない。

 ただ、この冷たい雨にあたり続けて風邪でもひいたら馬鹿らしいので、脱いだジャケットを傘代わりにして走って帰ることに決めた。

 通常であれば近寄ることのない、娼館が立ち並ぶ通りを、修一郎は雨で転倒しないように注意しながら走る。

 普段だと、一度中央広場に出てから、居住地区へ向かうのが一番安全なルートだ。

 しかし、今は一刻も早く家に戻りたかった修一郎は、近道を選んだ。

 雨で出歩く者が少ないためか、客引きの姿も通りにはなく、営業中の娼館の明かりが淡く石畳を照らしている。

 時折り娼館から、娼婦らしき者の笑い声が聞こえてくるが、それを除けば、雨音と自分の履く靴が濡れた音をたてるだけだ。

 あと少しで通りを抜けるという所で、突然脇の路地から小さな影が飛び出して来て、修一郎にぶつかった。


「ごめんなさい!」


 小さな影は慌てて謝ると、急いでその場を離れようとする。


「あ、ちょっと待って」


 修一郎の手が、ぶつかってきた相手の腕を咄嗟に掴んだ。


「それは困るんですよ」


 掴まれた腕の先には、ぶつかった際に掏り取ったのだろう、修一郎の財布があった。


「明日から暮らしていけなくなります」


 しっかりと掴んだ修一郎の手を、なんとか振り解こうともがきながら、その影は声を荒げる。


「離せよ!」


「貴方が、それを返してくれれば離しますよ」


 小さなスリを捕らえたために、手から落ちた傘代わりのジャケットが、石畳の上で水気を含んだ重い音をたてた。


「くそっ……!」


 声変わりに至っていないと思われる少年が、小さく悪態をついた次の瞬間、軽い衝撃波が修一郎を襲う。


「うん?」


 その衝撃波は修一郎を弾き飛ばしたりするどころか、よろけさせることもなかったが、一瞬何か違和感を覚えたように、怪訝な表情を浮かべる修一郎。


「嘘だろ……」


 自分が予想していた結果と違う事態に、少年が呆然として呟く。

 衝撃波を放ったのは、他ならぬ自分なのだ。

 それは少年が持つ固有能力の一つで、呼気として放たれる衝撃波と共に、相手の精神に恐怖や混乱をもたらすものだった。

 しかし、人間族の男は表情を変えはしたものの、平然として立っている。

 混乱して少年の腕を離したりもしていない。

 いくら空腹と疲労で万全の体調ではないとは言え、人間族に限らず大抵の種族ならば、この能力で少なくとも怯ませることができていたのに。

 全く効いていない相手に混乱しそうになりながらも、それでも何とかして目の前の男から逃げようとする少年は、再度、その能力を使うべく口を開いた。

 その様子を見て取った修一郎が、少年の腕を掴んだ手に力を込めようとしたが、それは未然に終わる。

 突然、糸が切れた操り人形のように、少年がその場にへたり込んだ。

 腕を掴んだままなので、片腕だけ上に伸ばした奇妙な姿勢で、足元に寄りかかってきた相手に驚きながら、修一郎はその顔を覗き込む。

 ぼろぼろのフード付きの貫頭衣で顔が殆ど隠れていたことと、周囲に明かりがない暗がりであったため、表情までは分からなかったが、どうやら気を失っているらしい。


「猫人族……?」


 ちらりと見えた顔には、茶色と黒の縞模様があった。


「君。しっかりしなさい」


 声をかけてみるが、当然返事はない。

 周囲を見回すが、他に家族や仲間のような影も見当たらない。


「困ったな」


 ふと、警護団の詰め所に運び込もうかとの考えが頭を過ぎるが、修一郎はすぐにそれを却下した。

 この国では、子供であろうが窃盗を犯した者には、厳罰が処される。

 良くて重労働刑か、下手をすれば片腕を切り落とされ、国外追放となる。

 修一郎の故国の刑法から考えれば、厳し過ぎるのではないかと思わなくもないが、それがこの国の法律で定められたことなので、仕方がない。

 子供にそこまでの罰を与えることにひと役買う立場になるのは、躊躇われたのだ。

 そして何より、ここから警護団詰め所までは遠い。

 正直なところ、この雨の中、長い時間歩きたくない。

 この場に置いて立ち去ろうかとも考えたが、この時季のこの雨に加えて、辺りの“まともな”店は皆閉じており、人通りもない。

 子供の獣人族の体力がどれほどあるのか分からないが、気を失ったまま一晩屋外に放置されれば、おそらく死に至るのではないか。

 日中でも肌寒かったのに、夜になったことに加え、大雨で気温がさらに下がったため、修一郎の吐く息は白い。

 流石にそれはしのびない、と修一郎は思う。

 さしあたって、一晩だけでも自分が面倒見るしかないか、と決めた修一郎は、気を失っても財布を離さない逞しさに苦笑しながら、少年を片腕で抱え上げた。

 修一郎の腰あたりまでしかない身長の獣人族は軽かった。

 次いで、落としたジャケットを少年の上に被せる。

 本当は背負えばまだ楽なのだろうが、少年は気絶しているし、手伝ってくれるような人も周囲に居ない。


「困ったなあ……」


 再度そう呟く修一郎は、これ以上濡れようがない長身を、さらに雨に打たせながら、自らの住む長屋へとゆっくりと歩いていった。






 長屋に戻った修一郎は、取り敢えず少年を居間に寝かせ、自らは濡れた衣服を脱ぎ捨て、体をタオルで拭くと、手早く部屋着に着替えた。

 新しいタオルを持ってくると、小さな獣人族の貫頭衣を脱がせる。

 少年は、貫頭衣の下には、長いこと洗っていないのが一目で分かるような汚れたシャツと、短パンを身に着けただけだった。

 どちらも酷い悪臭を放っており、全部着替えさせるしかないと判断した修一郎は、寝室にある簡素なクローゼットへ自分の下着を取りに向かう。

 当然、少年の体に合うサイズのものなど持っていないため、適当に着古したシャツとパンツを見繕い、居間に戻った。

 できるだけ小さめなサイズのものを、とクローゼットの中を引っ繰り返していたため、居間で寝かせていた少年は、その間に目を覚ましていた。

 何時の間にか知らない場所に寝かせられていた少年は、探るように辺りを見回している。


「気が付きましたか」


 その声にびくりと体を震わせた少年は、警戒心の篭った目で修一郎を睨む。


「……オレをどうしようってんだよ」


「そうですね、取り敢えずは、その汚れた服を着替えてもらいます」


 言いながら、手に持っていた着替えを少年に向かって放る。

 下手に近寄って、少年を刺激しないためだ。


「タオルはそこにあります。

 まずは、雨で濡れた体を拭いたほうがいいと思いますよ?」


 目の前に放られた衣服と、頭の横に置いてあった綺麗なタオルを見た獣人族の少年は、何故か更に警戒心を深めたようだ。


「なんでそんなことをしなくちゃいけないんだよ。

 お前、何考えてんだ」


「なんでって、私のような人間族と違って、君の体は毛に包まれていますからね。

 自然に乾くのを待っていると、風邪をひくのではないかと思ったんですよ。

 だからタオルで拭きなさいと言ったまでです」


 いつもの笑顔を浮かべて、修一郎は答えた。


「それに。君、臭います」


 付け加えた言葉に、獣人族は恥ずかしさを覚えたようだ。


「よ、余計なお世話だ!

 第一、オレは臭くなんかない!」


 大きな声を張り上げる少年に背を向け、修一郎は台所に向かう。


「大声を出さなくても聞こえています。

 今、お茶を淹れますから、その間に着替えてください」


 竈に火を付け、水を注いだやかんを置く。


「生憎、君の体に合うような大きさの服はありません。

 少しばかり大きいでしょうが、我慢してくださいね」


「………………」


 何かお茶請けになるようなものはあっただろうか、と食器棚を兼ねた小さな収納棚を漁ってみるが、あったのは酒のアテに買っていたビーフジャーキーに似た干し肉だけ。

 我ながら色のない生活を送っていることに苦笑しつつ、茶を淹れるだけにした修一郎に、少年が再び問いを発する。


「警護団に突き出さないのかよ」


 幾らかは警戒心を解いた声音に振り向くと、獣人族の少年は素直にも渡された服に着替えて、床に胡坐を組んで座っていた。

 傍にあるタオルは、黒く汚れていて、体もちゃんと拭いたようだ。

 そんな少年に、気付かれないように小さく笑うと、修一郎は告げた。


「突き出して欲しいのなら、そうしますよ?

 今からだと、また雨に濡れてしまいますから、明日の朝にでも一緒に行きましょうか」


「ぐっ……」


 言葉に詰まる少年を見て、今度は笑い声を上げて続ける。


「安心してください。

 結果的に君はスリに失敗して、財布は私の元に戻ってきたのですから、そんなことはしませんよ」


 からかわれたことに気付いた少年が、鼻の頭に皺を寄せながら、最初に口にした質問を繰り返した。


「じゃあ、オレをどうするつもりなんだ!」


 興奮しているのか、少年の声は高い。

 もう夜なのですから少し静かにしてください、と少年に注意してから修一郎は答えた。


「どうもしません。

 あのままあそこで君を放っておいたら、君は死んでいたでしょうから連れて来ただけです。

 一晩だけ、ここに置いてあげます。

 後は君が決めるといいでしょう」


 笑いを収めて、真面目な表情になった修一郎がそう言うと、少年は黙り込んでしまった。


「まあ、まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい。

 色々と訊きたいこともありますし。

 それから考えても、別に問題はないでしょう」


 沸いた湯をポットに注いで、修一郎は居間へと移動する。


「……別に言うことなんてねぇよ」


 不貞腐れたような表情で、木のコップに茶を注ぐ修一郎を見る少年の瞳は、金色だった。


「もしかして、虎人族……ですか」


「虎人族で悪いかよ!」


 思わず口に出して呟いた修一郎に、語勢を荒げる少年。


「すみません。虎人族に出会ったのは初めてだったので。

 他意はありませんよ」


 素直に謝る修一郎を見て、虎人族の少年は戸惑った。

 自身の然して長くはない、これまでの生の中で、こういった反応をされたことはなかった。


「な、ならいいんだ……」


「では、許してもらえたところで、お茶を飲みましょうか。

 これで冷えた身体も温まることでしょう」


 他人事のような口調で、柔和な笑みを浮かべる修一郎に毒気を抜かれたのか、少年は言われるままに茶を口にした。

 確かに、修一郎の言うように熱い茶が胃に収まると、身体中が温かくなるのを感じる。

 修一郎の淹れた茶は、知り合いの調薬士に頼んで調合してもらったハーブティーだ。

 胸のすく香りと、ほんの僅かな渋みがあるそのハーブティーは、精神を落ち着かせる作用と温熱作用がある。

 そしてもう一つ、消化器系を刺激する作用があった。

 それが確りと働いたようで、暫くすると虎人族の少年の腹が小さな可愛らしい音をたてる。


「何か作りましょうか。

 実は、私も晩飯をまともに食べてないんです」


 そう言って、修一郎は再び台所へ向かった。



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