余話・其の三 とある靴屋の決断
サブタイトルは間違いではありません。
こちらが、実質上の余話・其の三となります。
「じゃあ、宜しく頼むよ。ケーゼちゃん」
「ん」
馴染みの客から靴の補修を頼まれたケーゼは、いつものように簡素すぎる返事をして、受注内容が書き込まれた木板をカウンターに置いた。
季節の変わり目ということもあってか、ここ一週間ほどはやたらと靴の補修を持ち込んでくる客が多い。
秋の三の月(十月)も、あと数日で終わる。そうすれば、暦の上でも季節は冬に変わる。
王国の半分近くが白く化粧を施す季節の到来である。
国土のほぼ中央に位置する王都アーオノシュや、ここアーセナクトでは、冬の二の月と三の月に数日降雪がある程度だが、氷のように冷たい雨はそれなりに降る。
冬の雨や雪融け水は、通りを歩く者の靴を濡らす。傷んだ靴は、容易に内部まで水の浸透を許し、気温と相俟って履く者の足を容赦なく攻め立てるのだ。
その対策として、靴の補修や新調のために店を訪れる客が、この時季に集中するのは仕方がないのかも知れない。
幼い頃から見知っている犬人族の客が店を出て行くのを、彼女の特徴でもある眠そうな目で見送ると、ケーゼは裏の作業場に篭りきりの父の下へと向かった。
少しばかり前に、これまた馴染みの客である長身黒髪の人間族がレッジオ親娘の下を訪れており、その者がとある品を持ち込んでいたのだ。
「どう?」
「使えるな。面白い」
「そう」
「シュウイチロウだったか」
「ん」
「よし」
娘の日常会話が普通でないのは、どうやら親譲りのようである。第三者が聞けば、何のことやら分からないような会話を交わしたケーゼの父……レッジオは、椅子から立ち上がった。
前掛けに溜まっていた革の切れ端や木屑が床に落ちる。
娘の倍はあろうかという身長と、三倍は優にある横幅の身体が、のそりと動く。
「出かける」
「ん」
短く告げる父を見上げながら、頷くケーゼ。
滅多に作業場から動かないこの男が、作業を中断してまで出かけることは、普段ならば有り得ないことだ。
日中は黙々と仕事に打ち込み、店を閉めた後は一杯のブドウ酒をちびりちびりとやりながら夕食を摂り、大鐘四つに子鐘三つ(午後九時)になる前に早々に寝床へ潜り込む。
小鐘八つ(約八時間)ほどの充分な睡眠をとり、翌朝の大鐘二つ(午前六時)が鳴る前に起きだして朝食を摂った後は、すぐさま作業場に篭り仕事を始める。
その毎日の繰り返しが、レッジオ・チルゼッティの半生であった。
商人組合の会合や市庁舎へ赴くときを除き、食料品や生活必需品の買い物などのための外出は、全て娘に任せている。
同じ衣服通りに軒を連ねる店の中には、レッジオを半年近く目にしていないと言う者すら居る始末であった。
そんな男が、昼間の街中に姿を現した。
そのニュースが、本人の歩みより早く衣服通りに広まるのも無理はない。
客を放り出して店から飛び出してくる店主や、呆気にとられて手に持っていた売り物の商品を地面に落とす店員などが、そこかしこで見受けられ、通りはちょっとした騒ぎに包まれる。
奇異の目を向けられても、レッジオは特段意に介した様子もなく、ゆっくりと中央広場へ向かって歩いて行くのだった。
子鐘一つ(約一時間)経った頃、レッジオは戻ってきた。
「どう?」
「ああ」
何も言わずに仕事場での定位置である椅子に座る父に対し、それまで作業をしていたケーゼが問いを発する。
相変わらず、主語などない短いものだ。答える声も、たった一言。
だが、この親娘に関してはそれで充分通じるのだろう。ケーゼはそのまま作業を再開した。
「話してきた」
「そう」
作業の手を休めずに答える娘に、レッジオは続ける。
「ヤスキも必要だと言っていた」
「ん」
どうやら父の目論見は、あの長身の人間族と合同で依頼を出すということで、上手く纏まったようだ。
「三ヶ月だ」
続けて発された父の言葉に、娘はその眠そうな目を僅かに見開きながら顔を上げる。
普段であれば、先の会話で終わっていたはずだ。さらに言葉を重ねるとは、娘にとっても珍しかったようである。
「三ヶ月だ」
そう繰り返すレッジオの表情は、ケーゼが今まで見たことのないものだった。
例えるなら、玩具を前にした子供のような。
三ヶ月後。
正確には、二ヶ月と十八日後の、冬の三の月二十六日。
季節は未だ冬の真っ只中であったが、アルタスリーアの食料庫とも呼ばれる農業都市ナダルヌでは、東大海を流れる暖流の影響もあり、他地方より一足早く作物の種蒔きを始めたとの報せも入ってくるようになった。
王国南部の港湾都市ダリンや漁業の街スァバーからは、氷漬けにされて送られてくる海産物が、冬のものから徐々に春先のものに変わりつつある。
ケーゼの店がある衣服通りも、気の早い店が春物商品を置き始めている。
そして今、ケーゼの店……組合に登録されている店舗名で言えば、父親の名前である“レッジオ靴店”に、長身黒髪の人間族が訪れていた。
「レッジオさん、長らくお待たせしましたが、グスイーを仕入れて来てもらいました」
そう言って、人間族の男が作業場の床に大きな皮袋を置く。
「おう」
応じるレッジオの視線はその皮袋に釘付けになっている。以前、ケーゼが目撃した“あの目”だ。
「仕入れに係る代金や報酬に関しては、実際に現地へ赴いた冒険者の二人……グラナさんとフォーンロシェさんと言いますが、彼らに直接相談してください。
ああ、でも私との合同依頼でしたから、それなりに安くなるとは思いますよ。品物の購入代金以外は、殆ど出費はなかったと言っていましたし。
ですが、今後も継続的に必要になるなら、信用のおける仲介人を送って交渉させたほうがいいだろう、とも言ってましたね」
「おう」
マリボー商店の事務員、シュウイチロウ・ヤスキの説明を聞いているのかいないのか、レッジオ靴店の主は先ほどと全く同じ返事をするだけである。無論と言うべきか、視線は皮袋に固定されたままだ。
「当人たちは、今は冒険者組合に行っていますが、夕方にはこちらに顔を出すとのことです」
「おう」
「いい」
生返事を繰り返すレッジオを他所に、作業場のさらに奥から姿を現したケーゼが、シュウイチロウに木製のコップを差し出した。
中には、クァステが白い湯気を立てている。
前の年に収穫された柑橘類の果実を干したものに、熱湯と蜂蜜を注いで作る、王国中部から南部にかけて親しまれているソフトドリンクの一種だ。
ケーゼの言った『いい』とは、レッジオのことは放っておいて構わない、ということなのだろう。
「ありがとうございます」
こういった遣り取りも慣れたものなのか、ひょろりと長い身体を僅かに屈めながら、黒髪の人間族がコップを受け取る。
一口飲んで、「美味しいです」とケーゼに向かって告げると、シュウイチロウは再びレッジオに向き直った。
「それで、製作に関してですが、日を改めてこちらに窺わせていただくということで構いませんか?
何しろ、今日と明日は色々と立て込んでいるもので……」
「結婚?」
父に向けられた話を奪うように、ケーゼが短く訊ねる。
「ええ。式が明日なんですよ。今日は、まだ仕事中ですし、夜は式の最後の打ち合わせや準備が残っていまして」
「……ん」
極々僅かな沈黙の後、ケーゼは眠そうな表情のまま頷いた。
「ああ、もちろん、明日はこの店で作っていただいた靴を履かせていただきますからね」
それに気付いていないのか、シュウイチロウはにこやかにレッジオとケーゼの二人を交互に見遣る。
「式は昼間なので無理でしょうが、夜にささやかな宴席を用意していますので、宜しければお二人もいらしてください。
場所は、プレルさんの食堂を貸し切ることになっています。レベックさんやバランダさんといった職人の方々もお呼びしていますから、気軽に参加いただけると思いますよ」
この店の常連となったシュウイチロウが、同じ職場の女性と結婚するという話は、ケーゼも聞き及んでいる。
と言うよりも、シュウイチロウが口にしたように、結婚式用の特別誂えの靴を作ったのは、他ならぬケーゼなのだ。
「行けたら」
「はい。それで構いません。お待ちしています」
やや俯き加減で答えるバンダナ頭の少女に、黒髪の中年男は普段と変わらぬ丁寧な口調で応じる。
中年と言っても、レッジオに比べれば遥かに若く見えるシュウイチロウは、店に初めて訪れた時からこの喋り方のままだ。
少なくともケーゼよりは年上であるのは間違いないのに、彼女に対してもその物言いは柔らかかった。
「行けたら」
「ええ」
繰り返すケーゼに、笑みを一層深いものにしてシュウイチロウは頷く。
父とはまた違った意味で、この男も人の言うことを聞いているのかいないのか判断がつかない。
そうするうちに、大鐘三つに続き子鐘一つが聞こえてきて、シュウイチロウは仕事に戻るために店を後にした。
「閉めた」
父の言いつけに従って、普段の閉店時間よりも子鐘一つ分ほど早く閉めたケーゼが、作業場にやってきて口を開く。
「おう」
「ごめんねー」
「手間をかける」
作業場には、二人の冒険者と父が向き合うように、椅子に座っていた。
冒険者の一人は逞しい体つきの狼人族、もう一人は綺麗な長い黒髪と美しい顔立ちの人間族の少女だ。
作業場の奥にある台所から持ってきた、簡素な椅子に腰掛けている。
「ん」
三者三様の労いの言葉に短く頷いたケーゼも、店の椅子を持ってきてそこに加わった。
あの長身黒髪の男が言ったとおり、夕方……大鐘三つに子鐘五つ(午後五時)少し前に、今回の依頼相手である冒険者たちはやってきた。
報酬は既に支払われ、今はレッジオが現地の状況についてあれこれ訊ねているところである。
流石に、普段のような会話になっていない会話をするわけにもいかず、ケーゼからすれば饒舌に過ぎるとも思えるほどに、父の口数は多くなっていた。
「続きだ。こいつは、どのくらい買い付け可能なんだ?」
「正確な量は、俺たちも確認していない。ただ、今のところ主な卸先はディムエール王国しかないと言っていたから、余程大量でない限りは気にする必要はないと思う。
修一郎の店でも、いくらかまた買い付けるようだから、その辺りは調節してもらうとして、交渉は仲介人に任せるべきだと思うが」
「向こうでも、このグスイーってのは結構重宝されてるみたいよ。あたしにはまだピンと来ないんだけど」
レッジオの問いに、狼人族のグラナはイレ・マバル諸島の大規模農園で知り得た内容を、己の考えを交えながら説明する。
相方のフォーンロシェは、昼に修一郎が持ってきた現物を皮袋から取り出して、そのぷるぷるとした感触を楽しむように両手で弄んでいる。
どうやら、細かい説明に関しては生真面目な狼人族に全て任せるつもりのようだ。
「分かった。こちらで考える。加工が難しいというのは?」
「それも農園主に聞いただけなので、詳しくは知らん。だが、グスイーはこの状態で完成ではないらしい。
修一郎も言っていたが、こいつは使い方によっては従来の樹脂や獣脂などとは比較にならないほどの、防水性や接着性、柔軟性を持たせることも可能だそうだ」
「でも、その方法は教えてもらえなかったのよ。と言うか、それなりに知識のある職人じゃないと理解できないだろうって。
まあ、確かにあたしたちが聞いても分かるとは思えないしね」
「俺が行けば?」
「それは問題ない。向こうも、取引相手が増えることを望んでいるようだった。
貴方が加工技術を習得して、この国で広めれば、それだけグスイーの需要も高まるのではないかな?まあ、これは修一郎の受け売りだが。
イレ・マバルでは技術の囲い込みより、交易で利益を上げる方を推奨しているとも聞いている。供給先が増えるのは歓迎だろう」
「実際のところ、ディムエールからは既に職人を何度も寄越してるみたいよ。
グスイーの元になる原木の持ち出しは厳しく取り締まってるようだけど、グスイー自体は商品として購入すれば、今回みたいに問題なく出国も出来たし」
グラナとフォーンロシェは、現地での遣り取りを思い出しながら、レッジオの問いに答えてゆく。
異世界人と噂されているシュウイチロウ・ヤスキは、三ヶ月前にこの靴職人にサンプルを見せた時点で、こうなることを見越していたのかも知れない。
二人組みの冒険者たちは、レッジオが欲するであろう情報を、可能な限り掻き集めてきているようであった。
「分かった。……まだ、居るのか?」
一通り質問を終えたケーゼの父は、軽く頷くと、狼人族と黒髪の女冒険者を交互に見遣る。
「ええと……。それは、この街に、ってこと?」
「ああ」
「そうだな。明日は、修一郎たちの結婚式に出席する予定だし、二週間程はアーセナクトに滞在するつもりだ。
その後のことは、まだ決めていない」
グラナたちは、事前に修一郎からレッジオ父娘の性格を知らされていたので、何とか彼の言わんとしている内容を察することができた。
でなければ、「まだ居るのか」との発言を、用件が済んだのならさっさと帰れという意味だと受け取っていた可能性もあっただろう。
「分かった。宿を教えてくれ」
「明日は貴方たちも招待されてるんでしょ?プレルの食堂で会えるじゃない」
「そうか」
得心したように再び頷いたレッジオは、皮袋に詰め込まれたグスイーに視線を移した。
訊くべきことを訊き終えた彼は、どうやらいつもの寡黙で仕事一筋の靴職人に戻ってしまったようである。
「では、俺たちはそろそろ帰らせてもらう」
「仕事の依頼があるなら、明日にでも話しましょ」
そういって椅子から立ち上がった二人を、それまで黙って聞き役に徹していたケーゼが店先まで送っていく。
「じゃ」
「ああ」
「じゃあねー」
狼人族の男性と人間族の女という、珍しい組み合わせの冒険者たちを見送ったケーゼは、作業場のレッジオの下へと足を向けた。
その父はと言えば、既にグスイーを小刀で靴型に切り出しており、自分なりにこの新しい素材を使いこなそうと手を動かし始めている。
黙々と作業を続ける父を見つめていたケーゼは、その眠そうな目に決意の光を宿らせて、口を開いた。
「お願いがある」
翌日。
大鐘四つが疾うの昔に鳴り終え、じきに子鐘一つが経とうという頃、レッジオとケーゼはプレルの食堂にやってきた。
木屑や埃は払い落としてはいるものの、普段の店着のままで来るあたり、職人気質の父娘はきっちりと定時まで仕事をしていたのだろう。
そもそも、お世辞にも社交的とは言えない二人であったので、仮に定休日であってもめかしこんで来るかどうかは、怪しいところではあるが。
「ああ、ようこそいらっしゃいました。レッジオさん、ケーゼさん」
食堂の入口に、二人の姿を見つけた長身の人間族の男が、柔和な笑みを浮かべながら近づいてくる。
今日の主賓の修一郎であった。
「おめでとう」
「おめでと」
畏まった宴席ではないにしても、二人の挨拶は簡潔に過ぎると思われたが、祝いの言葉を述べられた側は気にしなかったようだ。
笑顔のままで「ありがとうございます」と応じると、父娘を店の中へと案内する。
店内には、マリボー商店の従業員をはじめ、妖精族の職人連中、二人の冒険者、修一郎の養子となった虎人族の少女、そして今日のもう一人の主賓であるソーンリヴが待っていた。
店と同じ名前を持つ猫人族のプレルは、厨房とホールを忙しそうに行き来して、料理の載った皿や飲み物などを運んでいる。
プレルの夫パノーバと給仕係兼料理人見習いのラローズは、厨房に篭って調理に付きっ切りであり、猫人族夫婦の愛娘クリュは、母親と一緒に厨房とホールをちょこちょこと往復していた。
「よう、おやっさんにケーゼ。遅かったな」
ケーゼたちに気付いた犬人族の一人が、陽気な声を上げる。修一郎の同僚のゼリガだ。
アーセナクトで生まれ育ったゼリガは、レッジオが店を開いた頃からの常連であった。
「ほ!レッジオがこんな場所に姿を現すとは珍しいの」
既に酒精で赤くなった顔を向けたのは、ノーム族のレベックである。
同じ職人仲間であるためか、はたまたこの老人の性格からか、その口調に遠慮や気遣いなどは感じられない。
「おう」
この場に集まった面々は、靴屋父娘の性格を多少の差こそあれ、一応は理解している者ばかりであったため、二人が遅れてやってきたことにとやかく言うつもりはないようであった。
また、レッジオも一向に悪びれる様子もない。良し悪しは別として、普段どおりの態度である。
ホールのほぼ中央に置かれた一際大きな円テーブルに近づくと、薄紅色の衣装に身を包んだ人間族の女性が椅子から立ち上がって、二人を出迎えた。
「レッジオさん、ケーゼさん。忙しい中、お越しいただき感謝します」
花嫁衣裳からは既に着替えてはいるものの、今日この日にしか着ることの出来ない特別な服を身に纏っているのは、修一郎の妻となったソーンリヴであった。
アルタスリーア王国では、結婚した二人はその日一日、決まった色の衣服を身に付けることが古くからの慣習である。
新郎は純白、新婦は薄紅。
素材やデザインは様々あるが、王族や貴族、一般市民にいたるまで、衣装の色は変わらない。
二人を案内した修一郎も、普段着とは違って、上下とも真っ白な服を着ている。
「おめでとう」
「綺麗」
「ありがとうございます」
レッジオの祝いの言葉とケーゼの素直な感想に対して、礼の言葉を返しながら、ソーンリヴが軽くお辞儀する。
ゆったりとした上着に、丈の長いスカートをはいた新婦は、ケーゼが呟いたように、確かに美しかった。
淡い紅色の衣装に、彼女の深い藍色の髪が映え、薄く化粧をした顔も服と同様にほんのりと赤く染まっている。
普段は男言葉で通しているソーンリヴの物言いも、流石に今日は淑やかな女性のそれになっていた。
「これ」
「ありがとう」
テーブルを回り込むようにして歩み寄ったケーゼが、持ってきていた小さな鉢植えと空の植木鉢をソーンリヴへと手渡す。
鉢植えは、アルタスリーア王国で広く親しまれている、白い花を咲かせた多年草だ。
これも、この国における新郎新婦に対する祝いの慣習の一つであった。
新婦には、アルタスリーアを表す色……所謂ナショナルカラーと同じ花を咲かせる植物を渡す。
最もポピュラーなのが、ケーゼが贈ったこの多年草であった。
この植物は、純白の花をつけることはもちろん、一年で枯れることなく数年に亘り花を咲かせ、尚且つ繁殖力が高いことでも知られており、二人の仲が永く続くことと子宝に恵まれることを願うに相応しいものだと言われている。
空の植木鉢を添えて渡すのも、この鉢植えがつけた種を新たに植えるためのもので、即ち子宝祈願を意味していた。
ちなみに、新郎には淡紅色に染められた布地が贈られる。生地のまま渡す者も居れば、何かに加工して渡す者も居る。
贈られた新郎は、どのような形であれ、それを身に着けねばならず、しかも色落ちさせてはならないと言われていた。
その意味するところは、新郎が新婦に対して結婚当時と変わらぬ愛情を持ち続け、常に共に在るようにとのことらしい。
祝う側は、男性は新郎に、女性は新婦に、それらを贈るのが一般的だ。
見れば、テーブルを挟んだ向こう側では、レッジオが懐から取り出した薄紅色のタオルを修一郎に手渡すところであった。
一同が集まっている近くの別のテーブルには、同様に他の参加者たちから贈られた白い花の鉢植えと植木鉢、淡紅色の買い物袋や未加工の生地などが積まれている。
鉢植えよりも布地のほうが多いのは、参加者の大半が男性だからであろう。女性が多ければ、この逆になっていたはずだ。
「こりゃ、明日からシューは紅色一色に染まっちまいそうだな!」
レッジオに向かって礼を述べている修一郎を見ながら、ゼリガが笑う。
「ふむ……。では、メルレアは少なくとも五人以上の子を産まねばならんということか」
同僚の犬人族の言葉を受けて、生真面目な性格である鳥人族のイルーが、鉢植えの置かれたテーブルを見遣りつつ真剣な表情で一人頷いている。
「兄さんも大変だねぇ」
そう言って意味ありげな笑顔を修一郎に向けたのは、ブラウニー族の職人クータンである。レベック同様に、既に出来上がっているらしく、その顔は赤い。
「…………」
つい先月、夫となったラローズと共に同じようなネタでからかわれたエルフ族のクローフルテは、頬を染めて黙り込んだままだ。
「まったく……。オトコってのは、どの種族でも変わらないモンだね!」
やや下品になりかけた場の雰囲気を正すような発言をしたのは、厨房から料理を運んできたプレルであった。
「さぁさ、これでやっとこ面子が揃ったんだろう?改めて乾杯でもしちゃあどうだい?」
言いながらテーブルに料理を並べていくその横では、娘のクリュがレッジオとケーゼに新しいコップを渡している。
「それもそうね。じゃ、もう一度乾杯しましょ」
全員が席に着いてコップを手にしたのを確認したフォーンロシェが、声を上げる。
この世界における、披露宴とも呼べる宴が漸く本当の意味で始まろうとしていた。
「……なるほど。では、ケーゼさんが現地に赴いて、加工技術を学んでくると?」
「ん」
「ああ」
ささやかな仲間内の宴も終盤に差し掛かろうとする頃、修一郎とレッジオ、ケーゼ、そして冒険者の二人は、その席を個室へと移していた。
個室の鍵を開けたプレルからは、何もこんな日に仕事の話などしなくとも、と呆れられたが、レッジオは何ら言い返すことはなかった。
アーセナクトは商人の街である。
主賓である修一郎夫婦をはじめ、出席者の大半が客商売関係の職に就いているこの宴席で、仕事の話になるのは仕方のないことなのかも知れない。
「ですが、片道の旅程だけでも軽く半月はかかります。しかも、ダリンからイレ・マバルまでは海路です。決して安全な旅とは言い切れません。
また、向こうに着いてからも、ゴム……っとこちらではグスイーでしたね……グスイーの加工に関する知識や技術を学ぶとなれば、何ヶ月も要するでしょう。
下手をすれば、一年以上アーセナクトを離れることになりますが、それでも良いのですか?」
「ん」
「ああ」
念を押す修一郎の問いに、ケーゼとレッジオが頷く。
レッジオは宴席でそれなりに酒精を摂っていたはずだが、今は完全に素面に戻っているようだ。
当のケーゼは、修一郎が今まで見たことのないほどの真剣な眼差しを彼に向けている。
「そうですか…………。
では、次にお会いするときに、ケーゼさん特製の靴を注文できることを楽しみにしていますね」
暫し考えた後、長身の異世界人はにこりと微笑んで、そう告げた。
次に、二人の冒険者へと顔を向けて口を開こうとしたが、それは相手の言葉によって遮られる。
「で、修一郎は自分のお店のためにグスイーが必要だから、またあたしたちにイレ・マバルまで行って欲しいと。
そうでしょ?」
「物事には“ついで”というものがあるからな。目的地が同じであるならば、旅仲間が増えることは何ら問題ない」
長年の付き合い故か、フォーンロシェとグラナは修一郎の性格を理解しており、彼が言わんとした台詞を取り上げてしまった。
「お願いしますね。ロシェ、グラナ」
「でも、依頼料……」
何やら外野で勝手に話が進んでいることに不安を覚えたケーゼが、これまた珍しく慌てたように口を挟む。
「あー、いいっていいって。依頼料は修一郎から貰うんだし。それに……」
「元はと言えば、私が持ち込んだ話です。これくらいは出させていただきますよ。
まあ、それでも納得が行かないようでしたら、ケーゼさんの旅立ちに対する“餞別”とでも思ってください。
ささやかに過ぎるかも知れませんがね」
先のお返しとばかりに、修一郎がフォーンロシェの言葉を継いだ。
「……センベツ?」
聞き慣れない言葉に、ケーゼが問い返す。
「ああ、すみません。私の国で、『旅立つヒトに対して渡す、道中の安全を祈る意味を込めた金品』を意味する言葉です。
早い話が、旅の支度金といったところでしょうか」
「ん……」
修一郎の答えに、一応納得した様子で頷くケーゼ。
「ふーん。何度も何度も修一郎のお願いでイレ・マバルまで旅をしてるあたしたちには、くれたことないのに……。
あたしたちにも、そのセンベツってのがあってもいいと思わない、グラナ?」
「馬鹿者。俺たちはその代わりに、依頼料を貰っているだろうが」
混血者の少女の言葉に、相方の狼人族は呆れた口調と共に拳骨で応じた。
「いったぁーい!ちょっとした冗談じゃないの!」
話し合うべき案件が一応片付いたことを悟ったフォーンロシェがふざけ始めるのを見て、修一郎は席を立った。
「では、出立の日取りといった細かいことは、明日にでもまたお話しましょう。
そろそろ向こうに戻らないと、皆さんから叱られてしまいそうです。あと、私の妻にも」
そう言って、おどけたような笑顔を浮かべつつ、冒険者二人と連れ立って個室を出て行く修一郎の背中を、一組の親娘が見送る。
異世界人の姿が消えた扉を見つめていたレッジオが、そのままの姿勢で口を開いた。
「面白い男だ」
「ん」
「気に入っていたのか」
「……ん」
「そうか」
「兄」
「そうか……」
ケーゼはチルゼッティ家の一人娘である。兄弟姉妹はいない。
レッジオは、娘が修一郎に異性としての興味を持っていると見当をつけていたのだが、どうもそうではないようであった。
とは言え、兄にしては歳が離れすぎてはいるが。
「話してると楽しい」
父に倣うように、ケーゼも個室の扉を見遣る。当然、そこに修一郎の姿はない。
やたら丁寧な喋りの中年男と、コミュニケーション能力に極端な偏りのある少女。
彼らの会話を他の者が聞いたところで、とても“会話を楽しんでいる”ようには見えないかも知れない。
しかしケーゼにとって、修一郎と交わす言葉の遣り取りは嫌いではなかった。
大抵は注文の受け答えで終わるのだが、時間があるときは短いながら世間話をすることもある。
八割方は修一郎が話しかけて、ケーゼが短く応じるといったものであったが、彼女はその時間を気にっていた。
「そうか」
何度目かの同じ台詞を口にして、レッジオが立ち上がる。
「戻るぞ」
「ん」
イレ・マバル諸島へと旅立てば、当分の間は修一郎との会話も出来なくなる。
とりあえず、今夜はあの成り立て夫婦を祝おう。そう考えながら、ケーゼも席を立った。
冬の四の月になったばかりの、とある日。
ケーゼたちの姿は、アーセナクト市壁南門近くの路線馬車停留所にあった。
見るからに旅慣れていないと分かる出で立ちのケーゼと、一年の生活の大半を旅で占めるフォーンロシェとグラナの装いは、実に対照的である。
そんな三人を見送るべく、レッジオと修一郎もそこにいた。
「それではケーゼさん、くれぐれもお気をつけて。
ロシェ、グラナ、後は宜しくお願いしますね」
「ん」
「ああ。依頼はきっちりとこなすさ」
「まーかせてよ!初めて行く場所じゃないんだし、心配いらないって」
「その油断が危険だと言うんですよ。まあ、冒険者の貴女たちに私が言うのもおかしな話だとは思いますが」
「う、うるさいなぁ!大丈夫だって言ってるでしょ!」
「こいつよりも、ケーゼ嬢のほうが余程しっかりしてるようだな。まあ、俺のほうでも注意はしておく」
「頼みます」
旅立つ者と見送る者の取り交わす、他愛のない会話。
こういった場所では良く見られる光景を目にしながら、レッジオは未だ一言も発していない。
娘との別れは今朝方済ませてあるし、そもそもここに来て何か気の利いた台詞が吐けるほど、この男は口が上手くない。
また、先日修一郎が言ったように、一年前後で戻ってくるのだ。何も今生の別れというわけでもない。
そうするうちに、路線馬車の御者が出発の時刻が迫ったことを告げる。
もうじき大鐘三つに小鐘一つが鳴る時間である。
馬車は王国南部へと伸びる公路を走り、三日後には港湾都市ダリンへと到着するだろう。そこから船に乗り換えて、凡そ十日。
「じゃ」
「お元気で」
「…………」
このような時でも、いつもと変わらぬ短すぎる挨拶を残して馬車に乗り込むケーゼに、修一郎は笑顔で、レッジオは無言で頷いて応えた。
「じゃあ行ってくるね、修一郎!」
「では、な」
ケーゼに続いて、フォーンロシェとグラナも馬車へと乗り込んでゆく。
「レッジオさん、ケーゼさんには」
「済ませた」
「そうですか」
停留所にやってきてから、殆ど言葉を発していないレッジオを気にかけた修一郎が話を振るが、一言であっさりと終わってしまう。
だが、予想していたことだったのか、修一郎はそれ以上何も言わず、馬車へ視線を転じる。
程なく、御者が出発する旨声を張り上げ、四頭引きの路線馬車は車輪を鳴らしながら動き出した。
南門を潜り、公路を走り去っていく路線馬車を、中年の人間族二人が見送る。
修一郎が眩しそうな目で公路を眺めていると、不意に隣に立つレッジオから声をかけられた。
「ヤスキ」
「はい、何でしょう?」
「今晩、来い」
「レッジオさんのお宅にですか?」
「ああ」
修一郎はレッジオの表情を窺おうとするが、中年の大男のそれはいつもと変わらぬものである。
つまりは、感情を殆ど表していない。
「妻とうちの子を連れて行っても構いませんか?」
ここで修一郎の言う、“子”とはルキーテのことである。一年前に、養子として正式に安来家の一員となった虎人族の少女を、修一郎は最近では“うちの子”と言うようになっていた。
「ああ」
「分かりました。では、大鐘四つ頃に伺います」
「ああ」
答えるレッジオは、馬車の消えたダリンへと続く公路を見つめたままだ。
世間的には風変わりな男と言われていても、矢張り我が子を想う気持ちは他の親と変わらないのだろう。
そう思った修一郎であったが、口にしたのは違う言葉であった。
「結婚して分かったんですけど、妻の作るクヴェットレットは結構いけるんですよ。
今晩、お持ちしますね」
「ブドウ酒しかない」
「それは好都合です」
クヴェットレットとは、近くのナズ河で獲れる川エビを粗く潰して油で揚げた、所謂エビ団子のことだ。ナズ河周辺に自生するハーブのいくつかも練りこんであり、酒の肴としても供されることの多い地元料理で、ソーンリヴの得意料理の一つでもあった。
「行く」
「はい。では、大鐘四つに」
相も変わらず、必要最小限と言えるかも怪しい会話をそこで切り上げ、レッジオは踵を返した。
仕事一筋のこの男のことだ。
心中は別にして、これから夕刻まで、また仕事に打ち込むに違いない。
そんな靴職人の背中を見送りながら、修一郎は今後のことに思いを巡らせた。
ケーゼがゴム……グスイーの加工技術を習得すれば、アルタスリーア国内に流通している靴にちょっとした変化をもたらすことが出来るはずだ。
また、マリボー商店でも、レベックやバランダ、クータンといった職人連中に、グスイーを使ったいくつかの新商品や機巧のアイデアを打診してある。
「これからが、楽しみですね」
そう呟いた異世界人の男は、新妻と我が子の待つ家へと足を向けた。
レッジオ靴店。
商業都市アーセナクトでも、マリボー商店と並び、わずか一代で家名を看板に刻むことを許されることになる店。
ケーゼ・チルゼッティの持ち帰った技術が、それに多いに貢献したのは、アーセナクト市民ならば大抵の者が知るところである。
だが、それはもう暫く先の話であって、今はいつもと変わらぬ日々を、それぞれが懸命に生きているに過ぎない。
このお話で、『街の事務員の日常』は正真正銘の完結となります。
超がつくほどの不定期更新で、楽しみにされていた方にはご迷惑をおかけしたかも知れませんが、ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。